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Soog 悲嘆

イラン映画 (2011)

カームラン、シャロレ、アーシャの3人だけで話が進行する不思議なロードムービー。第24回東京国際映画祭で上映されたが、公開はされていない〔原題は『سوگ』。上映時の題名は『嘆き』〕。カームランとシャロレは夫婦。2人とも聴覚障害者で、発音障害もあり、程度は夫の方がひどい。2人に子供はいない〔シャロレが望んだが、子供にも障害が出る恐れが高いと判断したカームランが反対した→シャロレの心に大きなわだかまりとなって残る→これが映画全体を支配する〕。アーシャは、シャロレの妹ナーヒードのただ一人の子供で〔妹の性分を嫌っていたシャロレにとって、自分には許されなかった子供が持てたことを、許し難いと思っている〕、シャロレには甥にあたる。アーシャに障害はない。アーシャの両親は、伯母の家に用事で来た際、真夜中の激しい夫婦喧嘩の後、一緒に車で出かけて事故に遭い、2人とも死亡する。アーシャは、テヘランで行われる葬儀のため、両親が死んだことは内緒にして、伯母夫婦の車に乗せられる。これが映画のシチュエーション。夫婦の会話は、読唇に身振りを加えて行われる。そして、アーシャは無口。従って、映画のほとんどは無音の状態で進行する。非常に珍しいスタイルの映画だ。3人が出発する場所はどこなのかも全く分からない。おおよそのヒントは、2つある。1つは、道路の沿線に木はなく、一面の草原になっている。下の写真は、私が、以前、テヘランからずっと南に車で移動した時に、荒涼とした原野に果てしなく伸びる1本道に感嘆して車を停め、撮影したもの。周囲は完全な乾燥地帯だ。ということは、あらすじの緑の丘陵地帯はテヘランの北部、カスピ海との間である可能性が高い。
  
そのことは、映画の最後の方で一瞬だけ映る大きな鉄道橋が、Veresk 橋という有名な橋であると分かったことからも裏付けられる。この橋の位置はテヘランの東北東約150キロ。3人はテヘランに向かっているので、この橋の脇を通る国道79号線を南下して来たものと思われる。アーシャの顔立ちはペルシャ人の中では非常にヨーロッパ的な顔立ちだが、カスピ海の沿岸ならそうした人々の割合が多いのかもしれない〔全くの推測〕。さて、この映画のポイントは、運転席に座ったカームランと、助手席に座ったシャロレが絶え間なく交わす無音の会話。シャロレは、アーシャが常にイヤホンで音楽を聴いているので、自分の世界に引きこもっていると勝手に思っている〔アーシャの母ナーヒードは、いつも夫と罵りあいながら運転していたので、アーシャは防衛策として音楽を聴いていた〕。しかし、実際は、音楽のスイッチは切られていることが後になって観客に分かる。そして、アーシャはいつも後部座席の中央に座っているが、それは、2人の「会話」を読唇でフォローするためだ〔2人が互いに読唇するには、横を向く必要があり、アーシャには唇の動きが分かる〕。シャロレは、アーシャは普通の環境で育ったため読唇などできないと思い込んでいるが、実は、2人の話はことごとく読まれている。だから、アーシャは、自分の両親が事故死したことも知っている。そして、2人の間で交わされる、「誰がアーシャを引き取るか」という内輪話から、伯母シャロレの心の闇〔子供を持てなかった恨みから、アーシャに対して抱いている愛情と嫉妬と憎しみの交じり合った複雑な感情〕に至るまでの「なまなましい話」をすべて聞かされる。題名の『悲嘆』とは、両親の死という危機的状況にあって、そうした話を延々と聞かされるアーシャの心を表現したものである。IMDbは7.2。評価は高い。非常に厳しい映画でもある。なお、この映画の唯一のDVDの字幕は「内蔵」ではなく、直接画像に焼き付けられている。だから、画像の選定にあたっては、字幕のない部分を選らばざるをえなかった。また、デジタル化されていないため、全字幕をWordで手打ちする必要があり、さらに、英語そのものも往々にして間違いがあったため〔ネイティヴの翻訳ではない〕、作業は困難を極めた。

ここで、同じような聴覚障害者を扱い、独自の表現で多くの賞を得たウクライナ映画『ザ・トライブ』(2014)について、比較・言及しておきたい。私は、『ザ・トライブ』という映画を憎悪・軽蔑する。聴覚障害者だけの登場する映画を、字幕なしで描いたということで、高い評価を得ているのだが、それは、聴覚障害者の社会を「外から」眺めているだけ、つまり、差別していることと何ら変わりはない。聴覚障害者同士は、手話で完全な意思の疎通ができているのに、その内容を敢えて隠して何も表示しないのは、可聴者の視点で、聴覚障害者を描いているに過ぎない。聴覚障害者にも多彩な会話の世界があるのに、それを「沈黙の世界」として示すのは、差別的表現の極致だ。おまけに、登場する聴覚障害者の若者たちは、集団で暴力に及ぶ。くり返し、執拗に。いったい、製作者や監督は何を考えているのだろう。なぜ、聴覚障害者をもっと優しい目で描こうとせず、このような激しく、えげつなく、吐き気をもよおさせるような内容にしたのだろう? それに比べ、『悲嘆』は、とても静かで、聴覚障害者の悩みを見事に捉え、字幕だけで物語を進行させる単調なスタイルでありながら、練られた脚本で、謎解きと心理的サスペンスを徐々に盛り上げていく。あまりにも「格」が違い過ぎる。最後に、映画祭や評論家は、うわっつらの奇抜さだけに惹かれ、映画の本質、人間の本質を忘れている。2つの映画を比較した、私の正直な感想だ。

アーシャとその両親、マスードとナーヒードの3人は、ある問題を解決するため田舎に住む伯母の家を訪れていた。しかし、伯母の妹にあたるナーヒードは、利己的かつ攻撃的な性格で、来てまだ1日しか経っていないのに、夫と会話中に突然怒り出し、真夜中だというのに、1人でテヘランに帰ろうとする。夫のマスードは、追いかけて車に飛び乗り、ナーヒードはすぐに車を出す。2人は、伯母夫婦に事情を話さなかったどころか、自分達の一人息子のアーシャすら置き忘れていく。そして、途中でひどい事故を起こし、2人は帰らぬ人となる。翌朝になって、そのことを知らされた伯母夫婦は、両親が死んだことは内緒にして、アーシャをテヘランに連れて行き、葬儀を行うとともに、アーシャの今後をどうするかを親戚一同と話し合うことになる。映画は、その道中を描いている。伯母夫婦は、共に聴覚障害者。伯母のシャロレはたどたどしく話すことはできるが、伯父にあたるカームランは話すこともままならない。2人同士は、唇を読むことで意思の疎通は100%できるが、かつて、マスードとナーヒードとは ほとんど意思疎通ができなかった。まして、その子供のアーシャには何も通じないだろうと伯母夫婦は思い込んでいる。しかし、アーシャは読唇がすらすらでき、伯母夫婦の会話は筒抜けだった。こうした複雑な状況下で、テヘランまでのドライブは延々と続く。途中での出来事は決して多くない。トンネル内での大事故〔恐らく、両親の死亡事故〕で道路が封鎖され、伯父が裏道を抜けている間に、燃料漏れでエンストする。修理屋が呼ばれ、故障車を牽引してガレージに運んで修理する。応急修理が済み、伯父が再度運転を始めると、エンジンオイルの異常で再度停止する。そしてアーシャが姿を消すという筋書きだ。映画の面白みというかポイントは、アーシャには理解できないと思って2人が交わす会話。そこでは、伯母シャロレの屈折した、あるいは、妹のナーヒードに似て利己的かつ攻撃的な本音が、次第に明らかになっていく。アーシャは、最初から自分の両親の死は知っているが、自分に対する伯母の深い嫌悪までは知らない。その事実を徐々に思い知らされていく過程で、アーシャの心は悲嘆にくれる。彼は、それを決して表には出さないが、悲嘆が限界を超えた時、カタストロフィーが起きる。

アーシャを演じるのは、アミル・ホセィン・マレキ(Amir Hossein Maleki, امير حسین ملکی)。情報は一切ない。10歳前後であろう。手持ちのイラン映画の子役の中で、唯一、ペルシャ系でない顔立ちだ〔北欧以外なら、どこのヨーロッパの国の子供だといっても通用する〕。映画への出演は、この1本のみ。


あらすじ

映画の冒頭から意表を突かれる。最初の2分間、画面はほぼ真っ暗で〔照明の消えた真夜中室内〕、男女の声のみが聴こえる。焼付け字幕なので、常に何らかの字幕だけが見える状況だ。会話は、夫のマスードの「夕食の時、なぜ笑った?」から始まる。これに対し妻のナーヒードは、「関係ないでしょ」と冷たく応じる。「にやにやしながら見てたろ。俺をバカにした真似はよせと言ったじゃないか」。「あんたがカームランと話そうと四苦八苦だったのが、可笑しかったの」。「バカ言うなナーヒード、俺たちは、問題を解決しにここに来たんだろ?」。「そんな話、聞いてない」。「そんな態度だと、アーシャを起こして今すぐ戻るぞ!」。ここまで来て、まともな会話は途絶え、「何する気だ?!」。「車のキーはどこ?」と喧嘩が始まる。ナーヒードは、すぐにキレる感情的な女性。ここから一方的に怒鳴り始める。マスードが、「こんな真夜中に、いったいどこに行くつもりだ?」と諌めても、「どいて! 私に触らないでよ!」。「何で大声で叫ぶ? ここに来て1日しか経ってないのに、出て行くのか?」。「ここに来たのが間違いだった。何も変わらない。だから、出てくのよ!!」。「じゃあ、朝出よう。黙って出て行くのは良くない」。「どうだっていい。下らないわね。そうよ、私は身勝手な女なの。自分の好きなようにする」。「ナーヒード、待て!」。ここで、エンジンのかかる音がし、車のライトで部屋の中が明るく照らし出される(1枚目の写真)。寝ているのはアーシャ。怒鳴り声が大きかったので目が覚めている〔ここは、ナーヒードの義理の兄に当たるカームランの家だが、妻のシャロレ(ナーヒードの姉)の2人とも聴覚障害者のため、怒鳴り声は聞こえず、就眠中〕。足音が聞こえ、マスードの「待て!」という声がし、ドアの閉まる音、次いで、車が動き出す音が聞こえる。そして、部屋の中がまた真っ暗になる。ここで、タイトルが表示される。かくして、アーシャの父母は、息子のことなど眼中になく、真夜中に車で去って行った〔すぐに分かることなので、追加の説明を加えておこう。2人が向かった先は自宅のある首都テヘラン。運転しているのはナーヒード。どうせ、運転の途中でも口論になり、一方的にまくし立てたに違いない。それが事故に直結する。2人は途中で大事故を起こして死亡。アーシャは置き去りにされたお陰で死を免れるが、孤児になる。そして、朝になり、事故の連絡を受けたカームランとシャロレが、アーシャを連れて葬儀の行われるテヘランに向かって出発する。その道中での出来事が本編の内容となる〕
  

カームランの家から国道に出るまでは、細い山道を延々と走ることになる。一番最初に登場するのが1枚目の写真の場所。大きく「く」の字型に曲がった狭く未舗装の道だ。会話は、車が「く」の字の屈曲点〔写真の一番左端〕に達した時に始まる。カームラン:「静かな子だな」。シャロレ:「ええ、この子、いつもほとんど話さないの」。「利口なのか?」。「とっても」。「この子ぐらいの年だと、みんなそう言われるぞ。本当に利口なのか?」。これで、車は画面の右端に到達する。普通の会話に比べ、読唇なのでテンポは遅い。「4歳でピアノを始めたのよ。お利口でしょ」。「もし、利口な子なら、何か感づいてもいいんじゃないか?」。「どうやったら、感づくの? あの子の前では いつも微笑でたのよ」。「君は偉かったよ」。「偉い?」。「ああ。妹があんな事故に遭ったのに、何もなかったように振舞った。あの子は、イヤホンで音楽を聴いているのか?」。「そう思うわ」。アーシャは、ここまでの話は全部理解している。そして、イヤホンから音楽は流れていない。ここで、シャロレが、「足を震わせてるわ。おしっこがしたいのね。木のそばで停めて」と要求する。「30分前にしたばかりじゃないか」。草原に1本だけ生えている木のそばで車が止まり、アーシャが木に向かう(2枚目の写真、矢印)〔アーシャが、木があるごとにトイレに行きたがるという話は後にも出てくる。それが、本当に用を足すためなのか、最後のシーンのように泣くために行くのかは分からない〕。アーシャが降りている間の会話。「朝、誰から聞いたの」。「マスードの弟から連絡があった」。「正確には、どんな内容?」。「ナーヒードとマスードが事故に遭った」。「正確にって言ったのよ。逐語的に」。「最初は、ひどい事故だとだけ。ちゃんと話すまで、何度も訊き直した」。そして、アーシャが戻って来る。車は急斜面を下る(3枚目の写真)。前よりも「道路らしさ」が減り、わだちの跡のようなラフロードになっている。会話は続く。「何をためらったの?」。「誰が?」。「マスードの弟よ。『死んだ』って書いてくるまで、何をためらっていたの?」。この会話も、当然筒抜けだ。その後、しばらく会話が続き、ようやく国道に出る。
  
  
  

会話が長く続くシーンだが、ほとんどがカームランとシャロレの顔だけの単調な映像だ。第1群の会話は、昨夜の出来事の解釈にある。2人は映画冒頭の喧嘩のことは知らないので、「なぜいなくなったか?」を議論する。「彼らはなぜ真夜中に出て行った? ナーヒードは何か話してなかったか?」。「ナーヒードはテヘランに戻るなんて言ってなかったし、アーシャを置いて行くとも言ってなかった。私、何か知ってれば、あなたに話してる。突然だと思うわ」。「口論したのかな?」。ここまでは正しい。「なぜ、何も言わなかったのかな?」。「私達を起こしたくなかったんじゃない?」。ここは違っている。怒りに任せて飛び出て行っただけだ。「アーシャをなぜ連れて行かなかったんだろう? 置き去りにしたのに、なぜ服を持って行ったんだろう?」。「スーツケースに入ってることを忘れたのよ」。実際には、アーシャのことなど念頭になかっただけだ。ただし、アーシャの服がないというのはここで初めて分かる。第2群の会話は、「アーシャには、何て話した?」から始まる。「両親は、昨夜、用事で先に出かけたから、私たちがテヘランで合流するって」。この嘘は最初からバレている。その後は、とりとめのない会話が続く。第3群の会話は、もう一度、最初の疑問に戻る。「昨夜の喧嘩のことを考えてるの。きっとナーヒードがマスードに頭ごなしに言い、マスードが諌めたんだと思うわ。ナーヒードは、こう言ったに違いない。『ここを出て、最初からやり直すべきよ』」。さすが姉だけあって、よく理解している。「『この子、どうしよう?』」。夫が推測して 会話を再現する。「『連れて行こう』『でも、できない』」。そこで妻が、「どうして?」と突っ込みを入れる。「さあ、眠ってたからだろ」。「忘れただけなのかも」。最後の推測も正しい。1枚目の写真は、2人の「会話」の雰囲気を示している。矢印のように、アーシャは口を動かしている方の人物をじっと見て、会話を把握しようとしている。最後の第4群の会話。後部座席の真ん中に座っていたサーシャがいないので、「アーシャはどこだ?」と訊く。「横になってるわ」。「眠ってるのか?」。「天井を見上げてる」(2枚目の写真)。カームランはサンルーフを開け、シャロレはクッションを渡す。「あと何時間かかるかしら?」。「4・5時間かな」。「この子がすごく心配なの。着いたらどうなると思う?」。「我々が目配りしよう」。
  
  

第一の山場となるトンネルのシーン。車が異様に渋滞している。カームランは、予想していたかのように、並んでいる車の脇を通って、警察の遮断線の脇の空き地に車を停める(1枚目の写真、矢印はカームランの車)。そして、「ここで待ってるんだ」と言う。「私も行くわ」。「ダメだ。子供が怖がる」。そう言い置くと、一人でトンネルの入口に向かう。トンネルの坑口に立っていた警官に阻止されるが、何事か身振りを交えて話し、中に入って行く。待ちくたびれたシャロレが車を降りて見に行くと、トンネルから出てきた夫が戻れと手で合図する(2枚目の写真、中央は妻、矢印は夫)。事故はトンネルの中で起きている。車に戻った夫は、難しい顔をして何も語らず、人差し指を口にあてて「黙っていろ」のサインを出す。そして、車を発進させ、トンネルの脇にある旧道に入って行く。夫が、トンネルの坑口に現れてから車に戻るまでには、かなりの時間がかかったに違いない。というのは、トンネルの脇を通る時、車の窓から、トンネル内から運び出された事故車がクレーンで吊り上げられているからだ(3枚目の写真)。この吊り上げられた自動車は、後のシーンでの、①「トンネルの後、彼らの車を見て、自制心を総動員しなければならなかったわ」というシャロレの言葉と、②「数時間前、彼らの遺体はテヘランに送られた」というカームランの言葉から、ナーヒードとマスードの乗っていた車だったと思われる。予め、そのことを聞いたので、2人はトンネルの中に行こうとしたのであろう。
  
  
  

旧道は、トンネル封鎖を避けてテヘランに向かおうとする車でノロノロ運転を強いられている(1枚目の写真)。この部分での会話はない。途中で、道路にできた窪みにタイヤがはまり、車が大きく揺れる(2枚目の写真)。結局、車は脱出できなくなり、後ろの車から3人が降りてきて、押すのを手伝ってくれる。アーシャは、後ろから押してるからアクセルを踏むよう、手で促す(3枚目の写真、矢印は後ろから押してくれる人)。この後の短い会話の先頭で、先ほどあげた「数時間前、彼らの遺体はテヘランに送られた。今ではもう着いている。ナーヒードは、実の妹のようだった」というカームランの言葉がある。「そんなこと言わないで」。「どうして?」。「慰めようと言ってることは分かるけど、今さらどうでもいいの。あなた、ナーヒードと簡単な会話だってできなかったでしょ」。夫の方がおおらかで、妻は細部に拘り、一見優しそうに見えて、芯は冷たくて頑固な人間であることが次第に明らかになる。そういう意味では、ナーヒードと似ている。ナーヒードの最後の言葉を借りれば、「私は身勝手な女なの。自分の好きなようにする」。
  
  
  

次のシーンも会話がほとんどない。カームランは、バスの後ろをノロノロと着いて行くのが嫌になり、裏道への分岐点に来ると、裏道の方に入って行く(1枚目の写真、左の矢印が裏道、右の矢印が他の車すべてが選択する旧道)。裏道は、最初に国道まで走った道ほどひどくはないが、狭くて埃が立ち上がる(2枚目の写真)。この部分の会話は、「なぜ手を引っ込めた?」〔仲良く手を握ろうとした〕。「アーシャの前じゃ気まずくて」。「手を取っただけだ」。「そうだけど… 気まずいの」。その後、しばらく会話は途絶える。車が丘の中腹に差し掛かった時、シャロレが、「適当な場所で路肩に寄せて。アーシャがまた漏れそうなの」と言う。木のある場所を探して走っていると、燃料がゼロに近くなった警告音が連続するが、耳の聴こえない2人は気付かない(3枚目の写真、♪印付き)。
  
  
  

アーシャが木の下まで行っている間に、2人が会話をする。「あの子、よくおしっこに行くだろ?」(1枚目の写真)「それで考えてみたんだが、アーシャの立場になってみるんだ。2人の人間が泣いているのに、なぜ泣いているか分からない。それが、あの子を怯えさせてるんじゃないか?」。「私は泣いてないわよ」。「そりゃ 良かった」。「『良い』って?」。「ちゃんと自制できてる」。この後、先ほどあげた2つ目の言葉が入る。「トンネルの後、彼らの車を見て、自制心を 総動員したわ。何とか 我慢できた。ただ、自分が怖かった。思ったほど 動転しなかったから」〔シャロレの「冷酷さ」が分かる最初の台詞〕。ここで、カームランはエンジンをかけようとする。しかし、空回りして かからない。カームランは車を降り、ボンネットを開けて点検する。そして、シャロレの側の窓を叩き、「ガス・タンクが漏れてる。どうしよう?」と伝える。シャロレは窓を下げる。ちょうどアーシャが車に戻って来たところだ(2枚目の写真)。カームランはシャロレに携帯を渡す。シャロレの方が、カームランよりも、「話す」ことができるからだ。彼女がどこに電話したのかは分からない〔プッシュ音が6回聞こえるので、いわゆる110番ではなさそう〕。彼女は、「ハロー」と言うが、相手が何を言っているかは、聞こえない。携帯に向かって、「私はカームラン、車が壊れました」と代理で話しかけるが、半分も言わないうちにツーツー音〔電話が切られた〕に変わる。それもシャロレには分からない。彼女は、カード・ナンバーを言い始めるが、日本のJAFの会員番号のようなものだろうか? 言い終わり、携帯を耳に近づけ、あきらめて置く。そして、車から出る。これで3人とも車外にいることになる。
  
  

カームランは、何とかならないかと、ボンネットの中を覗いている。その時、シャロレの「アーシャ、どこに行くの?」という声が聞こえる〔観客には〕。聴覚ゼロの世界は怖い。カームランがボンネットを元に戻して、辺りを見回す。いつの間にか誰もいなくなっている(1枚目の写真)。カームランが捜しに行ったのは、下。これは明らかに間違いだ。下なら、見下ろせば、「いない」ことが一目で分かる。彼は「上」に行くべきだった。カームランは、「アー… シャ!」と、精一杯 声をはり上げて呼ぶが返事はない。彼は そのまま 名前を叫びながら、下に向かって走る。かなり下っていくと、そこには国道が通っていた(2枚目の写真)。結構車通りは多いのだがなかなか停まってくれない。次のシーンでは、やっと停まってくれた車にカームランが乗っている。相手は、唇読も手話もできないので、意思の疎通は大変だ。それでも、カームランは、何とか、丘の上から降りて来たこと、車の燃料が漏れていること、車は丘の上にあることを、相手に分からせる。カームランは、分かりにくい片言を並べ、相手が確認のために訊いてくることは唇読で理解しようとする。しかし、相手は慣れていないので、じっとしゃべってくれない。よくまあ話が通じたものだと感心する。その後の会話の様子〔「」内は、すべて運転手の言葉〕。「上にある車には、誰かいるのか?」「車には誰かいる?」「あんたの奥さん?」「そうか、奥さんがいる。で、子供は?」「子供もいるのか?」「携帯は持ってるのか?」「持ってないのか?」「分かった。奥さんは耳が聞こえるのか?」「子供は聞こえるのか?」「子供も聞こえないのか?」「何てこった」。かくして、運転手は、3人とも聴覚障害者だと思い込む。
  
  

親切な運転手は、丘の上でエンコした車のところまで連れて行ってくれた。ところが、そこには既に小型トラックが着いていて、修理屋がボンネットを開けて見ている(1枚目の写真)。車を出たカームランは、妻の元に直行する。「シャロレ、どこにいたんだ?」。「ここにいたわ」。「突然いなくなったろ」。「ちょっとあっちに行ったの」。「なぜ、行くって言わなかった」。「アーシャを追って行ったの。あの子は、耳にはめてるから聞こえないでしょ」〔いつもイヤホンをはめている〕。その後、2人は、木の方に移動して話を続ける。カメラの視点は、開いたボンネット越しに変わる。カームランを乗せてきた男が、修理屋に尋ねる。「ここまでどうやって来たんだ?」。「子供が電話してきた」。「子供は話せるのか? 3人とも口がきけないって聞いてた」。そこまで言うと、今度は、直接アーシャに呼びかける。「おい、君、名前は?」。「アーシャ」。「君ら、お互い どうやって話すんだ?」。「唇を読むんだ」。「2人の会話が分かるのか?」。アーシャは頷く。「今、ママとパパは何て言ってる?」。カームランの言葉が字幕で表示され、それと全く同じ内容の字幕が、アーシャの言葉でも表示される。「車は、テヘランで修理に出そう。あの男はインチキするかもしれない」。修理屋を侮辱する内容だが、アーシャは、聞いた通りに伝える。次がシャロレ。「ダメよ。ここで直してもらいましょ。アーシャに、どのくらい時間がかかるか訊いてもらったら?」。次のカームランの言葉を、アーシャは伝えなかった(2枚目の写真)。「自分で訊くよ。あの子はぼうっとしてるから」。自分のことを悪く言われ、しゃくに障ったのだろう。「なぜ続けない?」と催促され、「分かったって。こっちへ来るよ」と誤魔化す。カームランの「ぼうっとしてる」というのは、「バカ」という意味ではなく、「イヤホンをはめているから、『心ここにあらず』だ」という意味で言ったのだが、アーシャは侮辱と受け取った。相互理解はなかなか難しい。
  
  

次の画面。今まで通り、カームランがハンドルに手を置き、時折横を向いてシャロレと話すので、車が直って旅を続けているかと思ってしまう。しかし、一連の会話の最後に、①車は牽引されている、②アーシャは同乗していない、ことが分かる。少し ずるい。ここで話される内容は、アーシャを誰が引き取るか。カームランは、候補の6人をあげる。最初は祖母のファッフリ。目の手術をして退院したばかりなので、アーシャの世話は不可能。次にあげた2人、モルテザー夫婦の続き柄は不明だが、4人の子持ちなので5人目の子は無理。母ナーヒードの友人のティナはリューマチで動けない。ここで、シャロレが、優先順位の1と2をなぜ、最後に回すのかと批判する。それは、マスードの弟と姉。前者について、カームランは、「ナーデルは 子供みたいなもので、まだ23歳、結婚したばかりだ。どうやってアーシャを育てられる?」「ナスリンと夫は、イランを離れるんじゃなかったか?」と否定的だ。シャロレは、2人にも資格があると言うが、カームランは懐疑的なまま。そして、「ナーヒードの側では、我々だけが適格で、他にはいない」と言う。さらに、「他の全員もそう考えるのでは」、とも。それに対し、シャロレは笑って批判する。「他のみんなも言ってるでしょう。『モルテザーにとって5人目の子、ファッフリは目が見えない、ティナは動けない、シャロレとカームランは耳が聞こえない。みんな失格だ』って」。カームランは、それでも、「彼らだって、我々が、他の誰よりもアーシャの面倒を見るに相応しいって知ってるはずだ。アーシャを引き取っても、悪くないんじゃないか? 君は子供好きだからな」と言う。シャロレ:「私の言いたいこと、分からないのね」。以上の会話から、カームランはアーシャを引き取ることに前向き、シャロレは、常に否定的であることが分かる。ここで、カメラは初めて車が牽引されている状態を映す(写真)。
  

そして、会話も、小型トラックの修理屋とアーシャに切り替わる。修理屋はすごくにこやかで、感じがいい。修理屋は、CDでトルクメンの音楽を流している〔トルクメン人は、トルクメニスタン以外にも、少数がイランに住んでいる〕。「音楽を聴いてると気が休まるぞ。音楽がなけりゃ、運転なんてすごく味気ないもんだ」とアーシャに言い、トルクメン語で歌詞を口ずさむ。それを聞いて、アーシャが微笑む。アーシャが初めて見せる笑顔だ(1枚目の写真)。その後で、修理屋は、歌詞をペルシャ語に訳して聞かせる(2枚目の写真)。アーシャは、「僕んちじゃ 車の中で音楽はかけない。親はいつも話してるかケンカしてる。だから、僕はこれで音楽を聴いてるんだ」と、今は外しているイヤホンを見せる。しかし、その直前に修理屋の携帯に電話が入る。話を最後まで聞いてもらえなかったアーシャは寂しそうだ。そして、イヤホンを丸めて下に置く。電話の途中で修理屋が、「女房の話じゃ、事故があったんだって?」とアーシャに訊く。「そうだよ」。「道路が 閉鎖されてる?」。頷く。「そうか。何が起きたんだ?」。「何人かが死んだって」〔この時点で、アーシャは両親が死んだことは知っているはずだが、こんなに「客観的」かつ「平然」と、両親の死が話せるとは思えない。トンネルでの事故死と両親の死を結び付けてはいないのだろう〕。修理屋は、「こっちは平穏無事だ。ありがたいことに」と言って電話を切る。この先の会話の中で、修理屋が重要なことを話す。「この道が俺の仕事場だ。誰かが動けなくなれば、俺が儲かる。昔、ある奴のエンジンをイカレさせるようと、コークを1本入れたことがある」。「エンジンオイルに?」。「そうだ、エンジンを壊そうと入れたんだ」。この言葉は、アーシャにとって重大なヒントとなる。会話はさらに続く。「女房のせいさ。一日中わめいてる。俺を苦しめるんだ。もう慣れたがな。それに、心配事ができると、『帰って来て』って電話をくれる。もっとも、『愛しいイシャン』なんて、一度だって言ってくれたことはないがな」。こう言うと、「悪いが、言ってみてくれないか」とアーシャに頼む。アーシャは「愛しいイシャン」と言う。「ほら、幸せになった。一度もそう呼んでくれなくてもな」。「奥さんが死んだら、不幸になるんじゃない?」。「何だって?」。「こう言ったんだよ。奥さんが死んだら、不幸になるんじゃない?」。「そんなこと、冗談でも言っちゃダメだ」。「冗談じゃないよ。もし奥さんが死んだら、もう誰もわめいてくれなくなるよ」。この部分は、いつも「わめいて」いた母が死んだことを受けての発言と見るのが至当であろう。ここで、牽引ロープが切れるか外れるかする。修理屋は車を止めて様子を見に行く。後ろの車からカームランも出てくる。その時、後ろから来たダンプがクラクションを鳴らしながら追い抜いて行くが、中央の車線近くに立っていたカームランはクラクションが聞こえないので、ダンプの風圧を感じるまで逃げない(3枚目の写真、矢印はカームラン、その右が修理屋)。聴覚障害の怖さが最も感じられるシーンだ。
  
  
  

画面は、再び、カームランとシャロレだけの車内。リア・ウィンドウに、外で遊んでいるアーシャや、国道を走る車が映ることから(写真、赤の矢印はアーシャの頭、黄色の矢印は車)、ガレージ(修理工場)に入っていることが分かる。会話は、過去の話になっている。「あの時は、最も論理的な判断を下したんだ」。「耳が聞こえない子でも、私は子供が欲しかった。でも、あなたは望まなかった。要らなかったのよ。だからできなかった。それで一貫の終わり」。「一貫の終わりだと? 私が恐れたと言いたいのか? 違う。私はよく考えて決断し、君も同意した。だから、今さら、欲しかったなんて言う権利はない」。「カームラン、それは完全な誤解よ」。「そうじゃない。あの時点で子供をつくることは利己的な行為だった。そうでなければ、私も欲しかった。そう思って決めたんだ」。「そうよ、決めたのは あなた」。「なあ、いいか…」。「私が、難聴じゃない子の生まれる可能性は25%だって話したの、覚えてる?」。「だから?」。「その時あなたは、25%なんて問題外だ、子供はつくるべきじゃないって言ったのよ」。ここで、シャロレが抱いている「怨念」が明らかになる。彼女は、自分の子供が欲しかった。しかし、子供にも障害が発生する可能性があるということで、夫が強く反対したので断念せざるをえなかった。これは、すごく根が深い。この話が正しいかどうか、チェックしてみた。親の難聴は子供に遺伝するか? ①親が難聴の遺伝子を持っていて、②それが顕性遺伝の場合、難聴の子供の生まれる可能性は75%。シャロレの発言はこのケースに相当する。しかし、この状況は、片親が難聴でも、両親が難聴でもほとんど変わらないとされる〔両親が全く同じ難聴の遺伝子を持っていることは稀〕。しかも、③潜性遺伝の場合は、難聴の子供の生まれる可能性は25%に低下する。さらに、④そもそも、先天性難聴のうち、遺伝子が関与するものは50%。ということは、遺伝子検査を受けていない場合、難聴の子供の生まれる可能性は、(75+25)÷2÷2=25%となる。だから、シャロレの発言は間違い。彼女の発言を訂正すれば、「難聴じゃない子の生まれる可能性は75%」となる。これなら、カームランも反対はしなかったであろう。どこで聞き間違えたのであろう? 因みに、日本で「先天性難聴の遺伝子診断」が先進医療として承認されたのは2008年7月。この映画は、2010年当時のイランを描いているが、この両親が遺伝子診断を受けたとは信じ難い。
  

車の下で作業をしていた工員が、アーシャに、「パパに、エンジンをかけるよう言ってくれ」と声をかける。アーシャは、シャロレ側の窓を叩き、窓が開くと、手を突っ込んで、キーを回す真似をしながら、「エンジンをかけて… エンジンだよ」と言う。アーシャが去ると、カームランは、「あの子は、私が脳たりんだと思ってる」と不満を漏らす。シャロレは、アーシャがずぶ濡れであることに気付き〔修理を始めた時は、雨が降っていなかった〕、車を出るとアーシャを呼んで、「戻るまでここにいて」と言い、ハッチバックを開けて夫のレインコートを取り出す。工員が「エンジンを切るように言って」と声をかけ、アーシャは、開いているドアから、「エンジンをとめて… とめて」と仕草で示し、くどいと感じたカームランは、怒ったように「OK」と言ったので、アーシャは戸惑う。嫌われていると感じたのであろう。そこに、シャロレが戻って来て、レインコートを着せてくれる(1枚目の写真)。アーシャは、2人だけの会話を長い間聞いてきなかったので、シャロレには好かれていると感じたに違いない。その後、シャロレは車内に戻り、アーシャは、置いてあったドラム缶の上に座って作業の終わるのをじっと待っている(2枚目の写真)。恐らく、雨の中で遊ぶなとでも言われたのであろう。時々、工員に言われ、工具を手渡したりする。質問も受けたりする。「これからどこに行くんだ?」。「家」。「家はどこだ?」。「テヘラン」。「車の状態は最悪だ。家に着いたら点検に出すよう、親に言うんだぞ」。頷く。「子供は一人か?」。「うん」。「兄貴や妹もいないのか?」。「いない」。「じゃあ、両親は、君のためなら死ぬ気だな」。アーシャは、寂しい笑いを浮かべる。車の中では、再び会話が始まっている。「以前、アーシャも入れて3人で遊園地に行った。ナーヒードは、考え事にふけってて、隣に座っても一言も話さなかった。携帯が鳴って、口論を始めたけど、相手が誰だったかは知らない。アーシャは遊んでたけど、立ち上がるとママの手をつかんで何か言おうとした。でも、彼女は無視した。そして、『シャロレ伯母さんに言いなさい』って。それから、また、電話で口論を始めた。アーシャは、隣に座ると、私をじっと見始めた」。「それで?」。「何も。私達は、ただ黙って座っていた」。「それから、どうなった?」。「ナーヒードは、ありきたりのことを言っただけなのに、無理難題を言ったような結果になってしまった。ナーヒードに注意したかったけど、私に何が言える? アーシャは、なぜゲームに負けたか言いたかっただけ〔しかし、伯母には何も言わなかった〕」。要点をつかむのが難しい会話だが、シャロレの不満は、この時、アーシャが自分を無視したこと。妻が何が言いたいのか分からないカームランは、「それと、赤ん坊をつくることと、どういう関係があるんだ?」と訊く。「あなたは正しかったわ。25%の可能性で耳の聞こえる子〔アーシャのような子〕が生まれたら、最悪だった。それは、今でも変わらない」。これは、非常に重要な言葉。先の会話では、「難聴じゃない子〔耳の聞こえる子〕の生まれる可能性は25%」。つまり、難聴になる危険性が高いので子供をつくらないことにした、というものだった。それに対し、ここでは、運よく「25%の可能性で耳の聞こえる子が生まれ」ても、アーシャと同じ=ロクなことにはならない、夫婦と子供の間には溝ができると主張している。
  
  

ここまでアーシャを乗せてきた陽気な修理屋が、妻を乗せて戻ってくる。これから、身内か知人の結婚式に出かけるのだ。修理屋は、アーシャに、「これ、車に忘れてあった」とイヤホン付きの装置を返す。そして、「音楽は聞こえなかったぞ」と言う。これも重要な言葉だ。アーシャはどんな装置にイヤホンを付けていたのかは分からないが、その装置には音楽が入っていなかった。アーシャは音楽を聴いている振りをするために、イヤホンをはめていたことになる。修理屋は、アーシャに、「おいで、君にあげるものがある」と、小型トラックに連れて行く。そして、助手席の窓を妻に開けさせると、プレイヤーからCDを取り出す。「これを持ってけ。君にやる。楽しめよ」と笑顔で渡す(1枚目の写真)。この時のアーシャの笑顔が純粋で一番いい(2枚目の写真)。悲しみの中にあっても、真の好意には、真の喜びがある。車の修理が終わり、アーシャは国道に出て、車が来ない時に出庫できるよう誘導する(3枚目の写真)。
  
  
  

車が動き出すと、アーシャはさっそくもらったCDをセットし、音量を最大限に上げる(1枚目の写真)。シャロレが家から持ってきたイラン風のサンドイッチを3人で食べる。気ぜわしい食事が終わり、アーシャはCDを止める。ここからが、この映画の最大の山場。会話がこの映画の生命なので、無関係な部分は削除するが、できるだけそのまま紹介しよう。「私の言いたいのは、あの子のことが心配だってこと。私の甥っ子だから」。しかし、その「大事な甥」に対するシャロレの意向は、先の会話の最後を受けたものだった。「私が言いたいのは、私達はあの子に相応しくないってこと。それを、あなたは、利己的だって責める」。心配だが、面倒は見ない。これ以上利己的な態度はない。「君が何を考えているにせよ、これだけは分かって欲しい。私は、君の助けになりたいんだ。いったい誰が 君の妹とその子のことを気にかける? 君の知り合いの中で、私ほど成功した人物がいるか?」。カームランは本気で心配している。「その意味では、一番ね。でも、考えるべき他の問題があるでしょ。私達は、身の回りで起きる出来事の半分も理解できない。あの子は預かれない。私が子供をつくろうとした時、あなたはそれを禁じた」。ここで、シャロレは昔の恨みを持ち出す。そして、夫を攻撃する。「今 あなたが気にしているのは、私のことじゃない。別の何かよ」。「別の何か?」。「あの子に少しでも愛情を感じる?」。「感じるとも」。「あなたは、他の人達に、自分が如何に自己犠牲的な人間かを示したいだけなの。あの子と、親子の関係を築こうなんて思ってない」。これは、あまらさまな揶揄だ。「私には出来るし、あの子を愛してる。『関係』には、言葉の形でのコミュニケーションが必要だなんて、誰が言った? それに、あの子の両親との関係は、そんなに良かったか?」〔事実、最悪だった。しかし、それに対しても、シャロレは嘘を付く〕。「知らないけど、少なくとも正常だった」。「口論ばかりしてるのが正常か? 置き去りにするのが正常なのか? シャロレ、君はどうかしてる。問題は他にあるんだ」。「私の問題について、指摘してもらう必要などないわ」。「君は、最初から、あの子を敬遠してた」。「敬遠ですって?」。「アーシャが産まれた時のことを覚えてるか? 君は、いつ病院に来た?」。「あの子が産まれた日よ」。「彼は朝 産まれた。君が来たのはいつだ?」。「美術教室に行ってたから、それが終わってからね」。「違うな。君は教室に行った。それが終わって何時間もして、午後の6時か7時に渋々やって来た」。「何が言いたいの? 雪が降っていて渋滞したのよ」。「何時間も渋滞するか? シャロレ、君はただ、赤ん坊を見たくなかったんだ」。「何をバカなことを」。「君は、いつもナーヒードが赤ん坊を産むことを嫌っていた」。「嫌うですって?」。「ナーヒードのことも嫌っていた。だから、涙ひとつ流さなかった」。「私は、あの子の前で泣きたくないから、涙をこらえたのよ。よくもまあ、ナーヒードとの関係を批判してくれたわね」。「ナーヒードにはキャリアがあり、子供もあった。君は… それが我慢できなかった。だから、彼女の子を一生かけて育てることが嫌でたまらないんだ」。夫は、ずばり切り込んだ。「私は、何が何でも阻止するわよ」。あまりに強い言葉に、夫は思わず「しーっ!」と制止する。「私達が何を話してるなんて、誰が分かるの? 私は、この子の前で恥ずかしい。まともに目が見られないわ」。甥を裏切る伯母だから、見られるわけはない。「今日、丘の上で、アーシャと2人きりになった時、あの子に 声をかけることができなかった。2人だけでいるのは、耐え難かった。あなたに、いて欲しかった」。伯母には、最初から引き取るつもりなど毛頭なく、それが「恥ずかしい行為」だという認識もあった。そして、会話の最後を締めくくる。「私達に、あの子は引き取れない。間違ってるかもしれないけど、自分達のことを優先すべきだわ」(2枚目の写真、矢印:アーシャの顔は険しい)「さもないと、なぜこんなことをしたんだろうと後悔しながら、あの子と日々を送ることになる」。ここまで言われたアーシャ。長いトンネルを抜けた後、再び映された顔は、悲しさで虚脱状態だ(3枚目の写真)。悲嘆の極み。
  
  
  

ワイパーの洗浄液が空になっているので、雨が止んだ後のフロントグラスがとても見にくくなった。そこで、カームランは、最初に見つけた小さな店に寄る。車を停めると、何も言わずに車を降りて店に行き、ミネラルウォーターを買ってくる。シャロレは、アーシャに「トイレに行ってくる」と言って出て行くが、その顔が今では鬼の顔に見える。カームランは、ミネラルウォーターをかけて運転席のガラスを手で洗う。そして、ボンネットを開ける。アーシャは、車を降りると店まで行くと、コーラを探し(1枚目の写真)、カウンターに置く。「いくら?」。「300トマン」〔イランの公式通貨はリヤルだが、1932年に廃止されたトマンが今でも流通している。300トマン=3000リアル≒25円(映画制作時点)〕。アーシャは、コーラを買うと、店と車の中間点で立ち止まり、靴ヒモを結び直す。立ち止まった理由はカームランがまだ車のところにいたから。やがて、カームランが汚れた手を洗いにトイレ〔店の横にある〕に歩いていく(2枚目の写真、矢印はコーラ)。すると、アーシャは、車に行き、後ろを振り返ってカームランの姿がないことを確かめると、エンジンオイルにコーラを入れる。その行為が画面に映されることはないが、一瞬、手に持ったコーラのボトルが映る(3枚目の写真)。普通に映画を観ていれば、恐らく気付かないであろう。アーシャは、修理屋の言った「エンジンをイカレさせるようと、コークを1本入れたことがある」という言葉を覚えていて、「今がその時だ」と感じて実行したのだ。
  
  
  

再び車は走り出す。アーシャは、後部全席の中央に座るのはやめ、窓辺に座ると、悲しさを湛えた顔で空を眺めている(1枚目の写真)。そして、カームランの体に触れ、「トイレに行きたい」と伝える。それから、車が停まるまでの間、アーシャの顔がどんどん悲しそうになる。停車後、アーシャは急いで外に出ると、木に向かって歩いて行く。今度は、カメラがその後姿を追う(2枚目の写真)。木に近付くと、アーシャはフードを外し、こらえ切れずに泣き出す。そして、木の後ろに隠れるようにして嗚咽をもらす(3枚目の写真)。これまでも、トイレと言っては、こうやって木の下で泣いていたのであろう。あるいは、今回が初めてなのかもしれない。あれほどまでに伯母に言われた後、鬱積を晴らす機会は一度もなかった。何れにせよ、とても悲しいシーンだ。アーシャがなかなか帰ってこないので、何度もクラクションが鳴らされる。
  
  
  

アーシャが窓に頭を付けて寝ていると、運転席のランプが点滅しているのが映る(1枚目の写真、矢印はエンジンオイルの警告灯)。コーラを入れた効果が出始めたのだ。シャロレ:「今度は何?」。カームラン:「分からん。オイルのランプが点いた」。「そこを右に出て。自動車整備工の看板を見たわ」。車は、橋を渡った所で右に曲がり、奥にある店の前で停車する。「閉まってるわ」。「ちょっと行って訊いてくる」。カームランは降りて隣の店に行く。やがて、店員が出てきて、「あっちにいる」というように、腕で指し示す(2枚目の写真、矢印、助手席のドアはシャロレが開けたもの)。カームランは、車に戻ってくると、「整備工はあっちにいる。呼んでくる」と行って、写真の右手に歩いて行く。カームランの姿が画面から消える頃、後部座席のドアが開き、アーシャが外に出る(3枚目の写真、矢印)。一方、カームランが教わった場所に行って訊くと、「彼なら、ここを上がっていった工事現場で働いてる。歩いて5分だ」と言われる。カームランは、停めた車から見える場所まで行くと、身振りで、「修理工を連れて20分で戻る」という内容のことを伝える。
  
  
  

アーシャをそれを見ていて(1枚目の写真)、カームランの姿が消えると、車の横にある斜面〔上の「全景写真」で、最下部に線路が写っているが、その線路敷きの土手〕に付けられた階段〔正式なものではなく、踏み跡が階段状になったもの〕を登っていく(2枚目の写真、矢印)。シャロレも車から出ると、ドアをロックし、アーシャの後を追って階段を登る。3枚目の写真は、シャロレが線路まで登ってきたところ(矢印がシャロレ、お互いに顔が合っている)。シャロレはアーシャの姿を確認すると、近くを歩いていたアバヤを着た女性に手洗いの場所を尋ね、アーシャとは反対方向に歩いていく。
  
  
  

線路は、下を通る国道を跨いでいる。アーシャは橋の真ん中まで来ると、コーラのボトルを持ったまま 下を覗く(1枚目の写真)。国道を、重量物を積んだトラックがノロノロと走っていく(2枚目の写真、矢印は下を覗いているアーシャ)。一方、カームランは工事現場まで行くが、整備工は作業の真っ最中なので、相手にされない。画面は再びアーシャに戻る。アーシャは、コーラのボトルを欄干から出してブラブラさせる。そして、道路に落とす。しばらくして走ってきた大型トラックで、跡形もなくなる。それを見ているアーシャ(3枚目の写真)。表情の意味は分からない。自分も、あのように姿を消したいと思ってでもいるのか?
  
  
  

しばらくすると、トンネルとは反対側から、ディーゼル機関車の警笛が聞こえる。線路の上をいっぱい人が歩いているからだろう。その音に、アーシャも振り返る(1枚目の写真)。アーシャはすぐに反対側のトンネルに目をやる。そして、もう一度、警笛の聞こえてくる方を見ると、線路の上を歩いてトンネルの方に向かう(2枚目の写真)。中に入ったかどうかは分からない。画面はすぐに切り替わり、シャロレが入ったトイレの窓から、解説のところで書いたVeresk 橋が見える(3枚目の写真)。シャロレは何度も手を洗う。そして、その場に手を付き、うつむいて何かを考えている。この鬼のような女性のことだから、ロクなことは考えていないのだろうが、少しは自分の無慈悲さを反省しているのだろうか? シャロレが外に出て、アーシャがいるはずの方向に向かって歩く。しかし、行く手にはトンネルがあるだけでアーシャの姿はどこにもない。シャロレは、「アーシャ」と何度も呼ぶ。背後から警笛を鳴らしながら機関車が近付いてくる。音は聞こえないかもしれないが、振動は感じられたのであろう。シャロレは脇に寄る。シャロレが振り返ると、貨物を牽いた機関車が通り過ぎて行く(4枚目の写真)。私は、このシーンを見た時、アーシャの命に危機感を覚えた。イランは標準軌で、日本は狭軌で単純に比較はできないが、明治期の煉瓦トンネルの軌道敷きでの幅を調べたら、だいたい3.3メートル。それに対して有名なD51機関車の幅は約3メートルなので、両側に15センチの隙間しかない。いくら足元とはいえ〔トンネルの断面は馬蹄形をしている〕、これでは命がない。しかし、イランのトンネルはもっと余裕をもって作られていたようだ。
  
  
  
  

機関車の牽いている貨物車がまだ残っているうちにカームランが戻って来て、橋の上にいるシャロレを見つける(1枚目の写真、右端の矢印がシャロレ、左の矢印がカームラン)。「そんなところで何してる?」。「アーシャがいなくなった。どこにもいないの!」。「『いなくなった』って、どういうことだ?」。「さっきは、ここに立っていたの。それからどこに行ったのか分からない」。その頃、アーシャはトンネル内にうずくまっていた(2枚目の写真)。シャロレの呼び声が何度も聞こえる。しかし、アーシャは動こうとしない。一度は、トンネルの入口にチラと姿が見えるが、すぐに引っ込んでしまう。カメラは、アーシャの視点から、誰もいない坑口(3枚目の写真)を映し続け、そこで映画は終る。この先、アーシャはどうなるのだろう? シャロレから拒否されたアーシャは、テヘランに着いてから それを「宣告」される前に、自分からシャロレに「見切り」をつけた。でも、その代償は?
  
  
  

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