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Tystnaden 沈黙

スウェーデン映画 (1963)

ヨルゲン・リンドストロム(Jörgen Lindström)が、スウェーデンの名匠イングマール・ベルイマンの作品で重要な役を演じる。『沈黙』は、原題の直訳。一般には、「神の沈黙」三部作の3番目の作品と解釈されているが、後年、ベルイマン自身が、「三部作などない」と述べて評論家たちを驚かせた(「メディアがそのように解釈しただけで、3つの作品は、それぞれレゾンデートル(存在意義)を有している」)。映画の舞台は、戦争が間近に迫った架空の国とされ、そこでは、スウェーデン語はもちろん、立派なホテルのコンシェルジュですら、英語、フランス語、ドイツ語の何れも通じない〔あり得ない〕。主人公3人が立ち寄る町の名前はTimoka(ティモカ)とされている。この名前は、妻〔ベルイマンの丈母(妻の母)はエストニア人〕の持っていたエストニアの詩人の本を見ていたら、たまたま見に入ったと監督本人が述べている。エストニア語の意味は、「死刑執行人に属する」という意味だそうだが、それに深い意味はないとか。また、ベルイマンは、この映画に先立ち、第二次世界大戦の終末期のドイツを舞台とした軽業師の映画の構想を抱いていたが、それが、この映画に、戦争のモチーフと小人の一座となって反映されているという指摘もある。映画の本論に入る前に、もう1つ重要なポイントをあげておこう。それは、映画の最後にヨハンが言う言葉、「Hadjek(ハジェック)」。昭和53年に日本でノーカット版が公開された時のパンフレットを見ても、日本人の書いたネット上の感想を見ても、ヨハンは「魂」と言った、と書いてある。しかし、オリジナル版を見ている限り、ヨハンは、架空の国の言葉で「Hadjek」と言うだけだ。そして、Hadjekの意味は明らかにされない。この謎は、イタリア語のサイトを読んでようやく理解できた(http://cinetecadicaino.blogspot.jp/2013/12/il-silenzio-1963.html)。半世紀前に、フランスやイタリアで公開された時、翻訳者が勝手に「魂」と解釈したと書いてあった。その方が、観客に希望を与えるという意味で。しかし、こうした行為は、「物語の結末は 観客が自由に判断すべき」とする監督の意向で、「わざと意味不明の言葉を言わせた」演出に、反する行為である〔と、糾弾されていた〕。このことは、あまり知られていないようなので、ここで明言しておこう。伯母がヨハンに形見のように渡した 「架空の国の言葉の短いリスト」は、伯母とコンシェルジュとの間の身振り手振りで理解できた「顔」とか「手」というような単純な単語の集積だ。それなのに、「魂」などという抽象的な言葉が出てくること自体変だと思っていた。さて、映画の本題に戻ろう。この映画はどのように観ることもできる。登場人物は3人。姉のエステル、妹のアナ、妹の子供のヨハンだ。姉は、翻訳家で、喀血(肺癌、結核)or吐血(胃癌)で苦しみ、それを酒とタバコで紛らわせている。厳格で、支配的な態度の裏には、妹に対する不純な想いと、妹の男好きに対する苛立ちが交錯する。妹は、何事も仕切ろうとする姉に反撥して育ち、姉と違って結婚して子供をもうけている。しかし、姉の病状悪化のために途中下車した言葉の全く通じない町で、姉だけでなく息子も放っておいて男狩りに出かけるほど奔放なのは、姉に対する一種の反抗なのであろうか? ヨハンは、「常に離れていようとする2人」の間を行き交う媒介者であり、母には甘え(エディプスコンプレックスを指摘する人もいる)、伯母のことは好きなのに体は触らせない。ヨハンがホテルの中を徘徊し、コンシェルジュや小人たちと交わす体験は、姉と妹の軋轢だけの映画ではあり得ない温かみを与えている。なお、常に反目する姉と妹の心が「通い合う場面」が一箇所だけある。その時流れるのはバッハのゴルトベルク変奏曲。映画制作の半年前に、コンサート・ピアニストでもある監督の奥さんからバッハについて教えてもらった成果だという話だ。最後になるが、この映画に神はいるのか、いないのか? 教会内での男との性行為を示唆する言葉や、死の床にある姉を見捨てるような妹の態度に、神の不在をほのめかすとの指摘は多い。一方、映画の最後に妹が汽車の窓を開け、雨を浴びてびしょ濡れになるのは、「洗礼の象徴」との指摘もある。私は、どちらにも組しない。要は、監督が期待するように、感じたいように観ればよい作品である。

夏の初めに外国に遊びに行った帰りの3人が、汽車に乗っている。30代の姉妹と、妹の10歳になる息子だ。姉の病状が悪化し、急きょティモカという町で下車してホテルのスィート・ルームに入る。暑いので風呂に入って昼寝をした妹は、外に出かけて、欲望を満たす。姉は、コンシェルジュを部屋に呼ぶが、翻訳家でも、全く言葉が通じない。ヨハンは、暇を持て余して廊下を歩き回る。事態が変化するのは、妹が服を汚して部屋に帰って来た時から。姉は、何が起こったかを悟り、妹の「善悪の判断力」のなさに怒りと嫉妬を覚える。そして、再び逢瀬を楽しみに出かけようとする妹に、部屋から出ないよう説得すが、逆に妹の反撥を買ってしまう。妹は、息子の見ている前で(それと知らずに)、相手の男と熱烈なキスを交し、空き部屋に入ってセックスを楽しむ。甥から事情を聞いた姉は、問題の部屋に行き、妹と対峙し、結果、2人の訣別は決定的なものとなる。そして、翌日、妹は姉の病状などにお構いなしに、息子を連れて部屋を出、中断した旅を続けていく。息子の手には、伯母が書いてくれた、異国の言葉の数少ないリストが一種の形見として残された。

ヨルゲン・リンドストロムは、撮影時11歳。映画の中では、ほとんど笑わず、感情を表に出さない。『沈黙』という題にぴったりの静かな役だ。もう1本の出演作は、3年後の『夜のたわむれ』。ここでも、エステル役のイングリッド・チューリンと共演しているが、ここでのチューリンの役回りは、この映画のアナそっくり。ヨルゲンのエディプスコンプレックスは、もっと過激だ。


あらすじ

エステル、アナの姉妹と、アナの息子ヨハンが汽車に乗っている。旅行に行って、スウェーデンに帰る途中という設定だと思われる。説明は一切ない。3人がいるのは、ヨーロッパの鉄道で定番のコンパートメント。隣に座っている母のアンは、肌の露出した服を着ているのに、暑さで汗まみれ。その横に座っている姉のエステルは、ワンピースを着て汗もかかずにむっつりした顔で座っている。眠たくて立ち上がったヨハンは、コンパートメントから通路に出て、もう一度戻ろうとした時、開けっ放しのドアに貼られた注意書きに目を留める。そして、翻訳家の伯母に、「これ、どういう意味?」と尋ねる(1枚目の写真)。「分からないわ」〔ということは、3人の乗っているのは国際列車ではなく、ローカル列車ということになる。つまり、たまたまこの国を通過しているのではなく、この国で、この列車に乗ったことを意味する。なのに、翻訳家で、言語に敏感な姉が、一言も分からないのは腑に落ちない~誰も指摘はしていないが…〕。ヨハンは、今度は、母と伯母の間に座る。割り込む形になるので(2枚目の写真)、母は嫌がって立ち上がり、反対側の座席に1人で座る。ヨハンも立ち上がると、母の横に座り、甘えるように肩に頭を乗せる(3枚目の写真)。ここまで、会話は、先の2つのみ。この後、汽車を降りるまで会話は全くない。まさに、『沈黙』のスタートに相応しい。
  
  
  

母は、暑苦しいので、ヨハンをイスの脇に横にさせる。母が姉をじっと見ていると、少し咳いてハンカチを口に当てると、血がついている。あまり吐血という感じはしないので、喀血のような気がする〔私は医者ではないので自信はない〕。その後、姉の病状が急に悪くなり、妹が心配そうに寄っていくが、姉は邪険に払いのけて通路に出て行く。ヨハンも立ち上がって通路に出るが、姉は妹に寄り添われてすぐにコンパートメントに戻り、座席に寝かせられる。そして、ドアを閉めてしまうので、ヨハンは1人通路に取り残される。理由は分からない。恐らく、この時、2人のうちどちらかが、次の町で降りることを決めたのであろう。ヨハンは通路から窓の外を見ているが、単調な山並みしか見えないので眠くなって、通路に座ったままウトウトする。その時、車掌がやってきて、各コンパートメントのドアを開けては、「次はティモカです」〔推定〕と声をかけるので、ヨハンも起こされる。ヨハンは、通路の補助イスに座り、窓の外を眺める(1・2枚目の写真)。窓から見えるのは、専用の台車に載せられた戦車の列(3枚目の写真)。このことから、この国が、戦争に直面しているらしいことが分かる〔戦争中なら、姉妹はこの国に入らなかったと思うし、この先降りた町にも、戦争中というイメージはない〕。汽車のシーンは、この後、母がヨハンの背後に立ったところで突然終わる。
  
  
  

次のシーンは、2階から下の通りを俯瞰している。どこの国か服装では全く分からないが、母が、暑がっているほどの酷暑地帯には見えない。すると、画面は、その通りを窓から覗いているヨハンに変わる(1枚目の写真)。次は、角度を変えた通りの風景(2枚目の写真)。正面には教会の扉と、そこに入って行く2人の神父が見える。撮影は、ストックホルムのRåsunda撮影所内に作られた架空の国にある架空の町ティモカのセット。ヨハンがずっと見ていると、暑さに耐えかねた母が、窓を開けようとするが開かない。そこで、日光を遮るためにブラインドを降ろす(3枚目の写真)。クラシックな作りのホテルなのに、木の遮光窓とか分厚いカーテンがなく、1960年代の初めというのにブラインドがついているのは意外〔私の経験から〕。母は、一面に敷かれたペルシャ絨毯の上を素足で歩き回っている。靴を履いたままのヨハンは、それを珍しそうに見ている。3人が泊まっているのは、寝室が2つあるスウィート。母は、姉の寝ているツイン・ベッドの脇に行くと、「医者を呼んだ方が良くないの?」と訊くが、姉はうるさそうに首を振っただけ。「寒い?」。「少し」。「くそ暑いわ」。姉は、ここで休めば、明日にはまた帰国の旅を続けられると言うが、妹は、こんな暑い町に一泊させられることが気に入らない。
  
  
  

母は、汗まみれの体をすっきりさせようと風呂に入る。ヨハンに声がかかる。「こっちに来て、背中をこすってちょうだい」。「いま行く」。ヨハンは、さっそく背中に石鹸をこすり付け、手で撫でる。しかし、すぐに、母の首に額をつけて甘える(1枚目の写真)〔ヨハンのエディプスコンプレックス?〕。母は、ヨハンの頬をさすって、「もう いいわ」と言い、「向こうで待ってなさい」と出て行かせる。そして、「一緒に昼寝しましょ」。風呂から出てきた母は、「シャツとズボンを脱ぎなさい」と言うと、パンツ1枚だけになったヨハンを呼び、両方の頬にキスし、ローションを付けた手でヨハンの体を触り、ヨハンを抱き締める(2枚目の写真)。ヨハンがそのままツイン・ベッドの左側中央寄りに横になると、母は、全裸で右側にうつ伏せになって横になる。タバコを吸いながら本を訳していた姉のエステルは、咳をアルコールで抑える不摂生ぶり。翻訳に疲れ、タバコをくわえながら妹アナの部屋に入って行く。妹のベッドのヘッドボードにもたれた姉は、妹の髪に手を伸ばす(3枚目の写真)〔妹に対する不純な想い?〕。自分の部屋に戻った姉は、酒のボトルが空になったので、呼び紐のボタンを押して コンシェルジュを呼ぶ。部屋に入って来た男に、姉は、「Parlerez-vous français?」「Do you speak English?」「Sprechen Sie Deutsch?」と立て続けに話しかけるが、何れも通じない。そこで、酒のビンが空だと身振りで示し、男も身振りで新しいのを持ってくると示して出て行く。酒を持ってきた男との間で、身振り語で応対するうち、「手」が「kasi」だと分かる。姉は、ボトルから酒を飲みベッドに横になると、自慰行為を始める。
  
  
  

ヨハンは、ジェット機が飛んでいくような変な音で目が覚める。しかし、母は、眠いので起きようとしない。そこで、ヨハンは、玩具の拳銃をズボンに挟むと、廊下に出て行く。ヨハンにとっては一種の探検だ。突然、ハシゴを担いだ営繕係が現れる。ヨハンはドアに隠れて男が近づくのを待つ(1枚目の写真)。男が角を曲がってシャンデリアの下にハシゴを立て、切れた電球の交換を始めると、ヨハンはハシゴの下に行き、拳銃を男に向けて引き金を引く(2枚目の写真)。バンと大きな音がする。男は驚いて下を見るが、宿泊客なので怒らない。ヨハンが口を膨らまして唸りながらバックして廊下の十字路まで後退すると、待機場所に座っているコンシェルジュと目が合った。ヨハンは慌ててコーナーのイスの裏に隠れ、目だけ出して様子を覗う(3枚目の写真)。コンシェルジュは、ヨハンを見つめている(4枚目の写真)。お互い、初対面だ。その時、壁のベルが鳴り、コンシェルジュは出かけようとするが、その前にヨハンに笑顔で話しかける〔恐らく、同国人だと思ったのであろう〕。しかし、何を言われたか分からないヨハンは、走って逃げ出す。
  
  
  
  

ヨハンが階段の所まで逃げて行くと、ちょうど、1人の小人が廊下を通りかかる。その後、ヨハンが廊下を歩いていると、ドアが少し開いている。中を覗くと、部屋の中には一杯小人たちがいる。入口脇に積んであるケースには、「エドゥアード一座/マドリード」と書いてあるので、スペインの小人軽業師の一座だ〔後で、母が観に行く〕。ヨハンは、物珍しげに中を見て(1枚目の写真)、拳銃を取り出してバンと撃つ。小人たちは怒るどころか、笑顔でヨハンを歓迎する。そして、舞台衣装の女性服(小人に合わせて小さいので、ヨハンにぴったり)を着せられる(2枚目の写真)。そして、ベッドの前に連れて行かれるが、ベッドの上では、猿の面を付けた小人がぴょんぴょん跳ねてヨハンを喜ばせる(3枚目の写真)。そこに団長の小人が帰って来て、大騒ぎは中断、ヨハンは慇懃(いんぎん)に部屋を追い出される。一方、部屋では、母が、露出度の一番高い服を着て、外出の用意をしている。
  
  
  

ここで、順序は入れ替わるが、写真の整理上、ヨハンが最初に小人を見てから、小人の部屋に入るまでのシーンを交えて、残りのホテル探検のシーンを紹介する。まずは、階段の上から、シルエットを楽しみながら降りてくるシーン(1枚目の写真)。これは、同じ年に公開されたイタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』を思わせる(2枚目の写真)。一世代前のフランスの監督ジャック・タチの影響だと指摘する人もある。その後、ヨハンは階段の脇に架けられている大きな絵に見とれる。ヨハンが女性の裸に興味があるかどうかは分からないが、この絵は、巨匠ルーベンスの『ネッソスにさらわれるディアネイラ』だ(3枚目に、映画の場面と原画の両方を示す)。ここまでが、小人の部屋に入るまでのシーン。小人の部屋を出てからのヨハンは、何を思ったのか、廊下の壁に向かって小便をする(4枚目の写真、矢印は流れた小便)。これについて、一種の欲求不満の現われと見たり、ヨハンには、純真さと不遜さが入り混じっていると指摘する人もいるが、私には、このシーンの意味がよく分からない。ただ、普通なら絶対にしない行為なので、ヨハンは何らかのメッセージを発しているのであろう。
  
  
  
  

姉と妹の会話。妹:「出かけてくるわ」。姉:「待って」。「何なの?」。「別に」。妹が出て行くと、姉は発作を起こして苦しむ。「何て屈辱的なの。もう我慢できない」。そして、ベッドの下に転落して、恐らく吐く〔不明確〕。「落ち着かないと。私は分別ある人間なのよ」。そして、「神様、どうか家で死なせて」と叫ぶ。これで何とか立ち直る〔このシーンに限れば、神の存在を否定してはいない〕。「何か食べないと。お腹が空いた。すきっ腹に酒を飲むなんて、何てバカなんでしょう」と言いながら、コンシェルジュを呼ぶ。男は、非常に丁寧かつ心から心配するように、姉をベッドに寝かせ、鏡と櫛を渡し、水を飲ませる。姉が、お腹が空いたと身振りで伝えると、男は床に落ちた寝具を含め、汚れたもの全てをきれいに持ち去る〔「吐いた」と推定した根拠〕。ここで挿入される妹のシーンは、後述することにして、次のシーンではヨハンが戻って来て、伯母の部屋の入口にもたれている(1枚目の写真、左の鏡には伯母が映っている)。「お腹空いてる?」と声をかけられたヨハンは、頷く。「こっちに来て、一緒に食べましょ」。その言葉で、ヨハンはベッドの上に置かれた食事台の前に座り、スプーンをもらって食べ始める。「ホームシックなの? 月曜にはおウチに着いてるわ」。「僕、お祖母ちゃんのトコに行くの?」(2枚目の写真)。「着いたらすぐ」。「どのくらいの間?」。「夏中ずっと。それに、冬の間もよ。学校もそこから通うの」〔この意味がよく分からない。夏休みと冬休みを祖母の家で暮らし、学校もそこから通うということは、ずっと祖母の家にいるということか?→父母は何をやっているのだろう?〕。「ママは来てくれるかな?」。「もちろん」。「パパも?」。「時間があればね。忙しい人だから」。「そうだね」。「だけど、楽しいじゃない。馬もいるし…」。「馬は怖いよ」。「それなら、ウサギがいるわ。それに、パーション叔父さんとヨットだって乗れる。水はきれいで青くて、すごく澄んでるから、底まで見えるわよ」。そこまで言うと、伯母はヨハンの頬を撫でようと手を伸ばすが、ヨハンを顔を逸らせて触らせない(3枚目の写真)。以上のことから、①ヨハンは、(母と違って)伯母ときちんと会話ができること〔2人の間の介在者となっている〕、②ヨハンは、母より伯母の方を尊敬している可能があること〔そう指摘されているので…〕、③しかし、自分に触れることは許さないこと〔理由は不明/伯母の母に対する「愛」に気付いている?〕、などが分かる。
  
  
  

一方、外出した母。シーンは相前後するが、最初に立ち寄ったカフェでウェイターに高額紙幣で支払いをし、お釣を持ってきたウェイターは、テーブルに置いたコインの1枚をわざと落とし(1枚目の写真、矢印はコイン)、顔をスカートの下の脚に近づけ、意思表示して去って行く。この先、伯母とヨハンとのシーンを挟み、母が次に訪れたのは劇場。そこでは、先にヨハンが会ったスペインから来た小人の巡業一座がアクロバット・ショーをやっている(2枚目の写真、少し分かりにくいが、中央の2人と、両脇の2人の間を、別の2人がつないでいる)。母が入ったのは、階下の一般席ではなく、上部の仕切り席。その狭い空間には、先客2人がいて、母にはお構いなく激しいセックスを楽しんでいる。母は、それにうんざりして、もしくは、欲情して部屋を出て行く(3枚目の写真)。そして、向かったのは先ほどのカフェ。店の外のテーブルに出ていたウェイターのそばに寄ると、逢瀬の場所を知らせる(4枚目の写真、矢印はウェイター)。
  
  
  
  

一方、ホテルでは、ヨハンがまた廊下をウロついている。先ほどは逃げてしまったが、今度はコンシェルジュの前で立ち止まる。彼が、お昼を食べるのに専念している姿が面白かったからであろう。男は、鞄に隠し持った強いアルコールをちょっぴり煽っては、ソーセージやサラダ菜をつまんでいる。そして、突然、見られていることに気付く。ヨハンは男に笑顔を見せる(1枚目の写真)。男は、ソーセージをサラダ菜で包むと、指を動かしてソーセージがお辞儀しているように見せ、いきなりソーセージにかぶりつく。子供相手の冗談だったのだが、ヨハンは気に入らない。そこで、男は鞄から板チョコを出してヨハンに見せる。さっそくヨハンは寄って行き、折り取った半分をもらう(2枚目の写真)。男は、さらに何かを言いながら財布を取り出すと、大切に持っている写真を取り出してヨハンに見せる(3枚目の写真)。そこに映っていたのは、老夫婦(一方は男)、棺桶に納まった母、祖父母のどちらかの棺桶の前の幼い頃の男だった。男にとって貴重な写真だと思うが、その時、廊下を歩いてきた母を見つけたヨハンは写真を持ったまま母に駆け寄る。母は、何ごとかをヨハンに言うと1人で部屋に入ってしまい、廊下に残されたヨハンは写真を絨毯の下にそっと隠す〔なぜ、ヨハンは写真を男に返さず、廊下の絨毯の下に入れたのだろう? 隠したのは、「写真に映っている死」を嫌ったとの解釈もされているが、隠すより返す方が筋だと思うのだが…〕
  
  
  

妹は、部屋に戻ると、姉との間のドアを閉める。そして、洗面兼バスルームに入って行くが、白っぽいワンピースの背中があちこち黒く汚れているのが分かる。妹は、すぐに服を脱ぎ捨てて部屋着に替えるが、何故か、姉はベッドから降り、自分の部屋を出て、妹に近付いて行く。そして、脱ぎ捨てられたワンピースを見て、汚れに目を留めると、また自分の部屋に戻る。2人の境界線を遵守してきた姉としては、思い切った行為だ。恐らく姉は、妹の外出目的に感付いていて、その証拠を探しに行ったのであろう。次のシーンでは、先ほど部屋に入れてもらえなかったヨハンが、母に「いつここを出るの?」と訊いている。「今夜よ、多分」(1枚目の写真)。「エステル伯母さんも一緒に行くの?」。「知らない」。そして、ヨハンはまた母に抱きつく。「この町、なんて名前?」。「ティモカよ」。そう言うと、母は、ヨハンの顔中にキスする(2枚目の写真)。そこに、コンシェルジュが姉にコーヒーを持って来る。姉は、ラジオから流れる音楽に、「これ何て言うの、音楽のこと」と男に訊く。「音楽」のスウェーデン語「musik(ムシーク)」は、この架空の国でも「ムーシック」なので、男にも通じた〔架空の国の言葉が、また1つ判明〕。姉は、「セバスチャン・バッハ」と言い、これも通じた。偉大な音楽に国境はない。そして、2人の間の「境界」を取り除く。妹は、姉に向かって「タバコが切れちゃった」と言うと、姉は「机の上にあるわよ」と答える。「2本いい?」。「どうぞ」。さっそくヨハンが取りに行って、母に渡す。「ありがとう」。これは、姉にではなく、ヨハンへの言葉。「2人とも、夜行で帰るといいわ」。「姉さんを放っておけないわ」。「数日休まないと旅行は無理みたい」。この間、ヨハンは2人の「境界」上に座っている(3枚目の写真)。「この音楽、何?」。「バッハよ」。「素敵ね」。
  
  
  

休戦はここまで。妹は、「ちょっと出かけてくるわ。ここは暑すぎる」と部屋を出て行こうとする。この時、姉が鋭い言葉を投げつける。「“samvete” がないなら 出かけなさい」。この “samvete” というのは、「善悪の判断力」というような意味のスウェーデン語だ。それを聞いたヨハンは何事かと戸惑うし(1枚目の写真)、妹も、開きかけたドアを閉める。姉は、「ヨハン、2人だけにしてちょうだい。アナと話があるの」と、部屋から出るよう促す(2枚目の写真)。ヨハンは、「ママ、僕、廊下にいるよ」と言って(3枚目の写真)、悲しげに出て行く。姉は、さっき、どこに行っていたかと尋ねる。妹は、最初は、散歩と答え、嘘だと指摘されると、映画館に行ってボックスに入ったら、男女が愛し合っていたと述べる。ここまでは事実。その後は、①終わって2人は出て行き、②バーで会った男が入って来たので、③男と床で性交し、④服が汚れた、と嘘を付く。「本当なの?」。「なぜ嘘をつくの?」。「そうね」。「でも、たまたま嘘だったの」。そして、話した内容は、映画館でセックスを見た後、①バーに戻り、②2人で教会に行き、③柱の陰の暗がりで性交した、というもの。②と③は映画の場面にはないが、服の背中が汚れていたことは確かなので、事実なのであろう。姉は、「これから彼に会いに行くの?」と訊き、「今夜はやめてちょうだい。とても辛いから」と頼む。「なぜ?」。「屈辱的だから」。姉は、そう言うと、妹の頬に激しくキスする〔妹に対する不純な想いの明白な吐露〕。妹は、如何にも嫌そうにそれを振り切り、「行かないと」と言って出て行く。茫然とした姉の表情が悲しい。
  
  
  

廊下に出て行った妹は、すぐに男と出会う。母の手には、逢引をする部屋の鍵が握られている(1枚目の写真、矢印は鍵)。男は、鍵を受け取り、2人は激しくキスを交わす。そして、鍵を開けて部屋の中へ。しかし、ヨハンは、それを廊下の片隅で見ていた(2枚目の写真)。ヨハンはドアに顔を寄せ、中の物音を聞こうと耳を寄せる(3枚目の写真)。その後、ヨハンは顔をドアに向けるが、よく書いてあるように、鍵穴から覘いたわけではない。悲しいので、ドアに頭を付けただけだ。写真の右端にドアノブがあるが、鍵穴は、その真下にある。ヨハンが頭を付ける場所は、耳のある辺り。だから、鍵穴はない。しかも、中は、母が照明を消して真っ暗にしたので何も見えない。
  
  
  

この後、ヨハンはドアの前を立ち去り、廊下を頼りなげに歩くシーンが結構長く映される。そのバックにはサイレンのような音が流れる。実は、これを指摘したサイトは見たことがないのだが、この音は、映画の最後の方で、死にかけたエステルのシーンで、鳴り響く音と、大きさは違うが内容は同じなのだ。これは、外からの何らかの警報音と解釈するよりは、主人公の不安さを表す効果音だとみなすのが適切であろう。つまり、ヨハンの心は、不安に揺れ動いている。母が知らない男と、熱烈なキスを交わすのを目撃した直後なのだから。部屋に辿り着いたヨハンは、所在なげに本を読もうとして集中できず、床の上を跳ねるように歩いて気を紛らわせている。そして、ノックして〔OKの返事はない〕伯母の部屋に入って行く(涙を拭ってから)。伯母は苦しそうに息をしながら眠っている。その時、カタカタとテーブルの上のものが揺れ始める。窓の外からは何かの動く音が。ヨハンが窓に行って外を覘くと(1枚目の写真)、狭い街路に戦車が1台現れる(2枚目の写真)。その騒音で、伯母が目を覚ます。「何か読んでちょうだい」。ヨハンは、「代わりに、パンチとジュディを見せてあげる」〔人形劇〕と言う。ヨハンは、わざと意味不明の言葉でパペットを扱う。「何て言ってるの?」。「怯えてるから、こっけいな言葉をしゃべるんだ」。「代わりに歌ったら?」。「怒ってて歌えない」〔これはヨハンの本心〕。そして、ベッドの陰で伯母に見えないように再び涙を拭う(3枚目の写真)。母の行為が、これほど強い衝撃をヨハンに与えたのだ。涙をふいたヨハンは、一気に走って伯母に抱き付く(4枚目の写真)。母以外との接触を嫌うヨハンとしては異例な行動だ。伯母によってヨハンの心は癒される。ホテルの前で停まっていた戦車が、エンジンをかけて動き出す。ひょっとしたら、戦車は、不幸な行為のもたらす不安や悲しみの象徴なのかもしれない。
  
  
  
  

妹は、男とセックスを楽しんでいるが、その時に口走る印象的な言葉が2つある。「お互い理解できないって、何て素敵なの」「エステルが死んでいればよかった」だ。前者は、言葉の通じない男との行為に関するもので、無言の世界、何をしゃべっても気にしなくていい世界への憧憬。これは、いつも、姉に監視されて生きてきた妹の真の願いであろう。そしてその願いが、2番目のもっと個人的で恐ろしい言葉を引き出した。後で、妹が、瀕死の姉を見捨てるように去って行く背景には、こうした思いがあるのであろう。一方、ヨハンは、伯母に、「なぜ、翻訳者になったの?」と訊く。「外国語で書かれた本が読めるでしょ」。「ここの言葉、分かるの?」。「いいえ。でも、2・3個は学んだわ」。「僕のために、書きとめておいてね」(1枚目の写真)〔映画の最後のメモにつながる重要な伏線〕。次も重要な会話。「なぜ、ママは、僕たちと一緒にいたくないの?」。事情を知っている伯母には、答えるのが難しい質問だ。「そんなことないわよ」。「違うよ。ママは、いつも勝手に出てっちゃう」。「散歩に出かけただけよ」。「違うよ。誰かと一緒にいて、何度もキスしてた。それから部屋に入ってった」(2枚目の写真)。「それ確かなの?」。「見たんだ」。因みに、ヨハンの読んでいる本は、日本にも訳本のあるミハイル・レールモントフの『現代の英雄』。10歳の子供が読むにしては難しい内容だ。さて、伯母はヨハンに同情する。そして、すぐ横に座ると、「楽しい旅になると思ってた。だけど…」と打ち明ける。しかし、ヨハンは、「ずっと楽しいよ」と、母を守ろうとする。そして、その健気な態度にホロリとした伯母が笑顔で頬を撫でようとすると、以前のように顔を逸らす。「触っていいのはママだけなのね?」(3枚目の写真)「私達、2人ともママが好きよね?」。今度は、ヨハンも頷く。
  
  
  

セックスが終わり、妹は、言葉の通じない相手に、グチをこぼしている。姉は、病気になって以来、アラばかり探してきたと。その時、妹は、突然、気配を感じる。姉は、ヨハンから部屋の場所を聞き出し、ドアの外で様子を窺っていたのだ。「そこにいるの? 何が望み?」。姉の、「話があるの」言う声が聞こえ、泣き声も漏れる。妹の顔が豹変し、「いつも つきまとうのね」「泣いてるわ」と自分に言い聞かせる(1枚目の写真)。勝ったと感じた妹は、照明を消して、ドアの鍵を開ける。姉が部屋に入ってくると、突然 照明が点き、妹が男と熱烈にキスしている。姉に見せつけるためだ。姉は、「私が何をしたというの?」と悲しむ。「別に、何も。いつも くどくどと御託(ごたく)を並べ、何もかもが大事だとダラダラ話しただけ」(2枚目の写真)「だけど、そんなのは唯の見せかけ。ホントのこと知りたい? 教えてあげる」「すべてが、あんたを中心にまわってるの。あんたは、優越感がないと生きていけない。どんなことでも、価値や意味がないと、我慢できないのよ」。ここまでは、ある程度正しい指摘。しかし、その後、どんどん感情的になる。「私は、あんたが正しいと信じてきた。あんたみたいになろうと務めた。でも、愛されてないとは気付かなかった」。「そんなこと…」。「一度も愛されたことはない。それが今分かったの。それどころか、あんたは私を怖がってる」。「怖がってなんかいない、愛してるの」。「私に言わせたいの? エステルにあるのは憎しみ。それは、私がバカだから。あんたは、自分を憎むのと同じように、私を憎んでる。あんたにあるのは憎しみだけ」。姉を部屋から追い出した妹は、男とセックスに狂いながら、悲しみのあまり泣き叫ぶ(3枚目の写真)。2人の間の亀裂は決定的なものとなった。
  
  
  

翌日、姉がコンシェルジュの世話を受けていると、妹がきちんとした服装で現れ、「これからヨハンと食事に出かけるわ。午後2時の汽車に乗るの」と話しかける(1枚目の写真)。次にヨハンがやって来て、「じゃあね。すぐ戻るから」と声をかける(2枚目の写真)。2人が出かけた後で、姉は、コンシェルジュに頼んで〔もちろん、身振りで〕書く紙を持って来てもらう。先にヨハンに頼まれたように、この国の単語のリストを作るためだ(3枚目の写真)。妹が食事に出かけて1時間、姉は、突然、「まだ帰って来ない」と怒鳴るように言う。それが、発作の始まりだった。妄想状態になって色々なことを口走った後、息ができなくなって苦しみもだえる。幸い発作は収まる。「嫌よ、こんな風に死になくない。窒息死なんて。ああ、恐ろしかった。怖かったわ。ほんとに。あんなの、二度とごめんよ」。そこで、また息が詰まる。「医者はどこ? 一人で死んじゃうの?」。ここで、2度目の、そして、より大きなサイレンの音が流れる。姉エステルの死の恐怖を表現したものだ。姉はシーツを頭から被り、音は消える。
  
  
  

ヨハンが伯母の部屋に入ってくる。シーツをめくって顔を見る(1枚目の写真)。ヨハンを見た伯母は、「心配しないで。まだ 死なないから」と話しかける。ヨハンは、安心させるように何度も頷く。伯母は、顔を寄せたヨハンに、「手紙を書いたわ。約束したでしょ」と言う(2枚目の写真)。ヨハンが床に落ちていた紙を拾う。「大切なものよ」。その時、母の無情な声が聞こえる。「急ぎなさい。あと1時間で汽車が出るわ」。伯母は、「心配しないで」と二度くり返す。母:「急いで、ヨハン、聞いてるの?」。ヨハンは、伯母に抱き付く。これで2回目だ(3枚目の写真)。母がやってきて、引き離す。伯母:「もう 行きなさい」。これはヨハンに言ったものだが、母は、「誰も訊いてないでしょ」と素っ気ない。そして、さよならも言わず、無言でヨハンを連れ去る。それを、コンシェルジュが呆れて見ている。
  
  
  

母とヨハンは再び汽車に乗っている。外はかなりの雨だ。コンパートメントの対角線上に座っているヨハンは、母から意図的に距離を置いているようにみえる。そして、ポケットから伯母にもらった紙を取り出す。母が隣に座ると、ヨハンは紙をたたむ。これも警戒心の現われだ。「それ何なの?」。「エステル伯母さんが書いてくれたの」。「見せなさい」(1枚目の写真、矢印は折った紙)。そこには、「ヨハンへ。異国の単語」と標題が書いてある。母は、「姉さんらしいわ」と鼻で笑ってヨハンに返す。ヨハンは、紙を開いて最初の単語を読む。「ハジェック」。解説で述べたように、この言葉には何の意味もない。字幕サイトにあがっている17の言語の中で、フランス語字幕にだけは、「Hadjek = âme〔魂〕」とのコメントが付いている。恐らく、1964に公開された際に、「勝手」に付けられた時のものがそのまま残っているのであろう。当初は付いていたイタリア語字幕では「Hadjek」そのものが削除されている。英語やドイツ語など ほとんどの字幕でも、「Hadjek」は存在していない。これらの国の人々には、ヨハンが何か口にした、だけで終わっている。それが監督の意向である以上、「魂」などと勝手にコメントを付けるなどもっての他だ。さて、その直後、母は窓を開ける。かなりの雨なので、すぐに車内にも雨粒が入ってくるだけでなく、母は顔を外に出して雨にひたる。操車場の上を高架で渡る時、隣の高架を同じ方向に機関車が追い抜いて行く(2枚目の写真、矢印は機関車)。意味は分からないが印象的。母の「雨浴び」シーンも、本当に「洗礼」的な意味があるかは不明。姉に対しあれだけ不誠実だった妹が、少しくらい雨を浴びたくらいで救済されるとは思えない。ヨハンと食事に行く前に「暑い」と言っていたので、単に涼を取っただけなのかもしれない。そして、ヨハンは、そんな母を、「許さない」といった顔で見ると(3枚目の写真)、再び紙をじっと見つめる。
  
  
  

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