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Rapito エドガルド・モルターラ誘拐事件

イタリア映画 (2023)

この映画は、日本でも出版されている『エドガルド・モルターラ誘拐事件―少年の数奇な運命とイタリア統一』(デヴィッド・I・カーツァー著、漆原敦子訳、早川書房、2018、p.568)を元に、イタリアの名匠マルコ・ベロッキオ監督が、自由な発想で映画化した作品で、2023年のカンヌ・パルムドールにノミネートされた。原作者のデヴィッド・I・カーツァーはユダヤ系アメリカ人だが、同じユダヤ系のスティーヴン・スピルバーグが、この原作を気に入って2017年の劇場公開を目指していた。しかし、2つの理由で断念したとされる。表向きは、タイトルロールのエドガルド・モルターラに適した6歳の子役が見つからなかったこと。根本的な理由は、ユダヤとカトリックの関係に否定的な見方をするような映画を作ることがアメリカ社会に与える影響を心配したこと。原作者が「SCJR 14、2019」に投稿した『The Enduring Controversy over the Mortara Case(モルターラ事件をめぐる尽きることのない論争)』の中には、次のような、「A Blog for Dallas Area Catholics」(2016)の批判が紹介されている。「モルターラ事件は、ユダヤ人社会ではよく知られていたが、それ以外では、当初の騒動が終わると、すぐに下火になった。反カトリックのユダヤ人歴史家デイヴィッド・カーツァーが、このテーマについて1997年に、多くの人がひどい偏見だと感じる本を出版するまではそうだった。カーツァーは他にも、19世紀から20世紀にかけてヨーロッパで反ユダヤ主義が台頭し、20年代から30年代にかけてファシズムが台頭した際に、カトリックの教皇が重要な役割を果たしたと主張する憎悪に満ちた論文も書いている」。この批判は、原作が、1858年6月24日、6歳のユダヤの少年エドガルド・モルターラを、彼が赤ちゃんの時に、召使いのカトリックの未成年の女性が洗礼を施したというだけの理由で両親の元から強制的に連れ去り、教皇庁の所管する “求道者の家” に移したことに対し、中央ヨーロッパとアメリカのユダヤ人コミュニティーが結束して強い批判を行い、結果的に教皇を破綻に追いやった歴史的事実を、カトリック擁護の観点から記述していると主張しているが、実際には、あくまで歴史に忠実に、膨大な当時の資料を集めて中立的な立場から記述している。しかし、マルコ・ベロッキオ監督は、それを、やや反カトリック的な立場、エドガルド・モルターラが犠牲者であるかのように描くことで、結果的に上記の「A Blog for Dallas Area Catholics」の批判にある程度応えた形になっている。最近のイスラエル/パレスチナの戦争、その原因となったパレスチナ自治区ヨルダン川西岸でのユダヤ人入植地拡大を見ていると、映画では小さく扱われ、原作では大きく扱われている、当時の、ユーロッパ中に広がったユダヤ人コミュニティーの過激とも言える反応、財力を駆使して強引に政府をも巻き込み、教皇体制を滅ぼそうとする強硬な姿勢が、ネタニヤフ政権の “ユダヤは常に正しい” と主張する、ある意味恍惚状態にある自己中心的な姿勢と100%重なって見えてくる〔ハマスを擁護している訳では決してないが、その原因となったネタニヤフによる野放図な入植拡大を忘れてはならない〕。なお、あらすじの中には、冒頭に記載した翻訳本からの引用が多数見られるが、それは、映画の内容と比較するためである。

この物語が始まる僅か26年前の1827年、ボローニャ大学の教授は、「ユダヤ人に市民権があることを否定し、ユダヤ教は不道徳な宗教であり、ユダヤ教徒は神の与えた罰として家もなく地上をさまよい、敬虔な人々の間では軽蔑の対象なのだ」と切り捨てた。そのような時代背景が、映画の近い過去にあったことを踏まえて、あらすじを読んでいかないといけない。そうでないと、ヴァチカンの行動を誤解する恐れがある。この映画の主人公のエドガルドの一家は、ボローニャで細々と商売を営むユダヤ人。彼らは、99%を占めるカトリックの中で小さなコミュニティーを作り、偏見に遭いながら暮らしてきた。そして、1852年、エドガルドが赤ちゃんの時、召使いのカトリックの少女が、エドガルドの病気を死の病だと誤解して洗礼を施す。そのことが、6年後の1858年に異端審問官に伝わると、「カトリック教徒の少年をユダヤ人の家庭には置いておけない」という原則から、すぐに警官によって連れ去られ、ローマの そうした少年を教育する “求道者の家” に収容される。そこは、映画によくあるような残酷な少年院のような場所ではなく、きちんとした施設で、異教徒の少年にラテン語で正しい教育をし、敬虔なカトリックとして世に送り出すための学校だった。当時のユダヤ人の社会的地位から考えると、場合によっては感謝してもよい状況だったにもかかわらず、エドガルドの父とその仲間は激しい反撃を開始する。彼らは、ボローニャのコミュニティーを通じて、最初はボローニャ周辺、次いで、イタリアの各王国・公国のすべて、次いで、フランスとイギリス、さらには、アメリカのユヤダ人コミュニティーにまで手紙を出す。それぞれのコミュニティーは、ユダヤ系の新聞に働きかけてそれを記事にし、「教皇による誘拐事件」として批判の矛先を教皇に向ける。カトリック系の新聞はそれに対し、反対のキャンペーンを繰り広げ、論争は西欧社会全体に広がって行く。それに加え、ユダヤ人の大金融家ロスチャイルド家は、その財力で教皇に脅しをかける。こうした行為には、観ていて恐怖感と嫌悪感すら覚える。この騒動がきっかけとなって、当時の教皇領の半分を占めるボローニャ地区は、サルデーニャ王国に乗っ取られ、さらに、ローマを守っていたフランス軍が引き上げたことで、サルデーニャ王国が盟主となったイタリア軍によってローマそのものが制圧される。それでも、カトリックに宗旨替えしたエドガルドは、敬虔なカトリックの神学生から、教皇の愛寵を得て21歳で司祭になり、布教活動に専念していったというのが実際にあった話。この中で、映画がかなりの時間を割くのは、ボローニャが教皇領でなくなったあとで、エドガルドを連れ去った異端審問官の行為が、違法だったかどうかを問われた裁判。エドガルドの父は、判決が「違法」となり、エドガルドが戻されることを願うが、判決は、異端審問官の行為は前の体制下での行為であり、それを今の法律で是非を問うことはできないとし、これで両親の望みは絶たれる。

エドガルド・モルターラ役は、エネア・サラ(Enea Sala)。詳しいことは何も分からないが、監督は、インタビューの中で、「エネアは洗礼すら受けておらず、教会に行ったこともなく、ユダヤ人でもない。彼はエドガルドの役に信じられないほどの深みをもたらし、それは映画にとって非常に有益だった」と述べている。

あらすじ

映画が始まる前に、「この物語は、1852 年 3 月、モルターラ家が住んでいたボローニャで始まる。6番目の子供であるエドガルドは生後6か月。ボローニャは教皇領に属し、ピウス九世が教皇だった」と表示される〔ローマより南部のナポリは両シチリア王国、ルネサンスの発祥地フィレンツェはトスカーナ大公国、それより北部はモデナ王国とパルマ王国、さらに北のミラノやヴェネツィアなどはオートストリア領、北西のトリノ、ジェノヴァとサルデーニャ島はサルデーニャ王国。従って、教皇領の主要都市は、ローマとボローニャの2都市しかなかった〕。そして、両親がベッドに置いた籠の中の赤ちゃんにむかって、頭を下げてヘブライ語で『旧訳聖書』の「詩編121」の前半を読み上げている。「私は山に向かって目を上げる。我が助けは、どこから来るであろうか。我が助けは、天と地を造られた主から来る。 主はあなたの足の動かされるのを許されない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。 主はあなたを守る者、主はあなたの右の手を覆う陰である〔祈っているのは、父モモロと母マリアンナ。赤ちゃんはエドガルド〕。それを開いたドアから、若い召使いアンナが見ている〔アンナはキリスト教徒なので、2人が何を言っているかは分からない〕。翌日、アンナは陶器の瓶を持つと、油を買いに、レポリが経営する食料雑貨店に入って行く。ここで、映画のタイトル『Rapito(拉致)』が表示される。そして、「6年後」。1858年6月23日の夜、男の子達が、アパート内で隠れん坊をして遊んでいる。母は、男の子5人をベッドに座らせると、頭にキッパを被らせ、『旧訳聖書』の「申命記6」の途中の一部をヘブライ語で唱えさせる。「イスラエルよ聞け。我々の神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さなければならない」。全員が眠った頃、アパートの一階にあるモルターラ家の部屋の呼び鈴を鳴らす取っ手を、男が引く。6年前とは違う召使いが降りて行き、ドアを開けると、警官を3名連れた男が立っていて、「ここは、モルターラさんのお宅ですか?」と尋ねる〔男は、教皇の保安警察のルチーディ准尉〕。准尉と警官達は階段を上がってモルターラのアパートまで行き、母に自己紹介する(1枚目の写真)。そこに夫が帰ってきたので、准尉は、自分がモルターラ家の家族構成を確認する任務を与えられていることを話す【原作と同じ〔翻訳本の文章を借用〕。そして、紙を見ながら、まだ起きていた長男と双子の姉妹、赤ちゃんの名前を言って確認すると、そこにいない男の子5人も確認したいと言う。母が 「眠っています」と言うが、准尉は起こすように丁寧に頼む。不安になった父は、長男のリカルドに、近所の金持ちのサンギネッティと叔父を呼びに行かせる。眠っていた子供たちは母によって准尉の前に連れて来られ、准尉は順番に名前を読み上げ、最後に、「彼がエドガルドですか?」と指差す(2枚目の写真)。エドガルドは、「はい、ぼくです」と返事する(3枚目の写真)。准尉は、「モルターラさん、お気の毒ですが、あなた方が背信行為の被害者であることをお伝えしなくてはなりません。息子さんのエドガルドは洗礼を受けているのです。私は息子さんを連れて行くように命じられています」と告げる【原作と同じ】。父が 「誰が連れて来いと言っているんです?」と訊くと、准尉は、「異端審問所の審問官」と答える。母は、いきなり 「まず、私を殺しなさいよ」と過激な発言をし、父は 「何かの間違いでしょう」と穏便に言う。准尉が 「いいえ」と答えると、「誰がこの子に洗礼を授けたことになっているんですか?」と問うが、准尉は 「知りません」としか言わない。「この子を、どこに連れていくのですか?」。「私には、あなたに話す権限がありません」。その時、1階のドアには、リカルドが連れて来た2人とその他のユダヤ人が着くが、警官により中に入るのを阻止される。父は、やおらエドガルドを掴むと、窓から外に出し、外の連中に 「警察は、この子を連れ去ろうとしてる!」と叫んで、エドガルドを怖がらせる〔このような過激なシーンは原作にはない〕。准尉は、その気違いじみた行為を止めさせる。アパートに入ることを許されたサンギネッティは、「延期をお願いしたい」と依頼し、同情した准尉は3人を審問官の元に交渉に行かせることに合意する【原作(第7章)には、モモロ家の名前の付け方について、面白いコメントが書かれている。「モモロとマリアンナが自分の子供たちにつけた名前、リカルド、エルミニア、エルネスタ、アウグスト、アルノルド、アリスティーデ、エドガルド、エルコレ、イメルダ、これらの名前は、9つの名前のうち一つとして聖書からとったものはなく、いずれもイタリアのユダヤ人の伝統的な名前ではなかった」】
  
  
  

3人のユダヤ人〔サンギネッティと叔父と義弟〕を前にして、審問官のフェレッティ神父は、准尉への命令書をしたためる。「一瞬たりとも少年を見失わないこと。ユダヤ人には生贄の迷信があるので、彼が連れ去られたり生贄にされたりしないよう注意すること。最大限の警戒を。そして、二十四時間の経過後、つまり明日の夕方、彼を延期することなく連れて行くこと」(1枚目の写真)【原作(第1章)には、“ユダヤ人に染みついた迷信” として、「“子供がこっそり移動させられる可能性” に加えて、もしかしたら “生贄” にされるかもしれない、ということを恐れたのだ」という神父の考えは、当時のイタリアで広く共有されていた。なぜなら、ユダヤ人は子供がカトリック教徒として育つのを見るくらいなら、むしろ自分の子を殺すだろうと考えられていたからだ。神父は危険を冒したくなかった」と書かれている】。3人は、モモロのアパートに戻ると、話し合う。「嘆願、延期」。「こんなのは時間の無駄だ」。「異端審問に巻き込まれる。ファラオ〔古代エジプトの王: ユダヤ人にとっては、民を虐げる圧政者〕よりひどい」。「不平を並べるのは止めよう」。「誰が、あの子を異教徒にしたんだ?」。「エドガルドは1851年8月27日に生まれた」(2枚目の写真)。「今、働いている召使いは、カトリックか?」〔原作にはこれらの会話はないし、最後の質問はあり得ない。それは、【原作(第7章)に書かれているように、「カトリック教徒の召使いを使う理由は、安息日にユダヤ人が禁じられた仕事を代理で行わせるため」】だから。つまり、商売をしている普通のユダヤ人が雇っている召使いは、すべてカトリック教徒〕。「ああ、だが彼女は最近来たんだ。その前はアンナだった。アンナ・モリージ。私は彼女がこそ泥だったから暇を出した」。母は、エドガルドをベッドに寝かせると、一緒に「申命記6」を唱える(3枚目の写真)。フェレッティの命令書を受け取った准尉は、ベッドの横に2人の警官を一晩中待機させる。母は、部屋の外にいるように頼むが、警官は、「私たちがここにいないと思って」と言うだけ【原作(第1章)では、母は夫に2時間説得されて、泣きながらアパートを出て友人の家に連れて行かされた】
  
  
  

翌6月24日、モモロは、フェレッティ神父がミサを終えた所に入って行き、エドガルドの父親だと名乗る。フェレッティは、既に24時間の猶予を特例として与えたので、それ以上は何もできないと言い、「洗礼を取り消すことはできない。あなたの息子は永久にクリスチャンです」と、宣告する。モモロが、「洗礼はいつされましたか? 誰がやったのですか?」と訊くと、「機密事項なので言えませんが、それがなされたことは確かです」と、教えてもらえない【原作(第1章)では、神父は 「宗教裁判所の規定を厳正に守っています」と言うが、それ以外は、ほぼ原作に近い】。「私はすべて誤解だと信じています。少し時間を下さい、真相を探りたいと思います」。「それは不可能です」。「息子を連れ去るおつもりですか?」。「ええ」。「どこに連れて行くのです」。「この町に留まると信じています」【これは明らかな嘘だが、神父が嘘をつくという設定自体がおかしい。原作(第1章)では、「あなたの息子は手厚い扱いを受ける。それどころか、幼いエドガルドは教皇その人の庇護の下に置かれるはずだ」〔つまり、ローマに連れて行く〕と述べている】。息子との別れにあたり、父は金属製の何かを渡す〔アパートの鍵?〕【原作にないので不明】。馬車に乗せられたエドガルドは、町の中に入り込んだ水路で目立たぬように町を出て行くため、舟に乗せられる(2枚目の写真)。舟はそのままアドリア海まで行く。そこの砂浜で舟を降りたエドガルドは、一緒に同行した2人の女性と一緒に歩きながら、「ぼくたち、どこに行くの?」と訊く。女性は、「ローマに行くのよ。教皇様があなたを待っておられるわ」と言う(3枚目の写真)。「教皇様って誰ですか?」。「とっても大切な方、クリスチャンの王様なのよ」【原作は、映画と違い、エドガルドを追っているわけではないので、第2・3章は当時の社会情勢の記述に割かれている。しかも、ボローニャからローマまでの旅は舟ではなく馬車。そして、旅の途中の出来事についての直接の記載は全くない】【原作(第4章)には、逆にモモロたちの対応について書かれている、「エドガルドがいなくなって数日のうちに、ボローニャの小さなユダヤ人コミュニティーが動員され、そのネットワークを通して、事件の情報がイタリア中のユダヤ人コミュニティーに拡散し始めた」「モルターラ夫妻は、エドガルドがはるばるローマまで連れて行かれたという噂を人づてに耳にした。ローマのゲットーのリーダーたちに協力を求める時が来た。なぜなら、彼らはエドガルドの最も近くにいるだけでなく、イタリアのユダヤ人の中で唯一、教皇本人に接近できる人々だったからだ」「モモロの親戚と支援者は、まず、息子を家族の元に返して欲しい、というモモロ自身の正式な嘆願書を作成する手伝いをした… エドガルドの連れ去りから10日後の7月4日、フェレッティ神父とヴァチカンの国務省長官であるアントネッリ枢機卿に宛て、そして、アントネッリ枢機卿を通じて教皇ピウス九世本人に宛てて手紙が送られた」。神父への手紙が効果ゼロだったとは書かれているが、他のより2通がどうなったかは書かれていない】【さらに、原作(第5章)には、「この種の危機は初めてではなかったので、イタリアのユダヤ人は悪い知らせを広める名人だった。あちこちのゲットーのユダヤ人を結びつける婚姻関係、ひとつのゲットーから別のゲットーへの家族単位の移動、商売に励むユダヤ人同士の絆の巧みな利用… こういった要素が結びついて広くまんべんなく成長したコミュニティーを作り上げている」「モルターラ家の不幸のニュースは、古くからあるイタリアのユダヤ人ゲットーを経由し、教皇の統治下にあるフェラーラ、アンコーナ、チェント、ローマへ、そして、モデナ公が統治しているモデナとレッジョ・エミリアへと急速に広がっていった」(さらに、フィレンツェ、トリノまで)「16世紀から古いユダヤ人コミュニティーが入っているテベレ川河畔のゲットーにあるローマの中心的なシナゴーグで、正式には『イスラエルの大学』で知られる4千人のメンバーを持つコミュニティーの若い事務局長、サバティーノ・スカッツォッキオは、たちまちイタリア中の同じような立場の人々から、すぐに行動を起こすことを促す手紙を浴びせられるようになった」】
  
  
  

こうした状況下で、教会は、反論するため、「子供が喜んで教皇警察について行き、ローマへの旅の途中で神によって啓発された」という嘘の回答を公開し、それに対し、モモロは、警察から聞いた話と、8月にローマで息子と再会した時に聞いた話に基づいて作成した文書を、アントネッリ枢機卿に送る。【原作(第5章)には、「モモロ・モルターラの全く異なる説明を受け取ったアントネッリ枢機卿は、それがヨーロッパ中の同情的な新聞社に配布されようとしていることを知り、アゴスティーニ伍長〔エドガルドをボローニャからローマまで連れて行った警察官〕に書面の報告書を作成するように求めた」と書かれている】。これで、ようやく、映画の場面との違いを語ることができる。【「アゴスティーニの報告書には、エドガルドとの旅の5日目まで空白と、その翌日、フォッソンブローネ〔ボローニャの南東約150キロ〕という小さな町で、朝早く服を着替えた少年に、審問官から渡されたメダイ〔カトリックの聖品である祈りの道具〕を初めて見せた(首にかけてキスするように言ったが、最初は嫌がり、説得して、嫌々キスをして首にかけた)」。「アゴスティーニは… 少年を大聖堂に連れて行き、聖堂の中に入るよう優しく促した。『最初、エドガルドは頑として拒んだ。だが、他の警官たちがミサに入って行くのを見ると、エドガルドも入って行った』。奇跡が起こったのはその時だ。子供が聖堂に入ったかと思うと、『神の奇跡のおかげでたちまち変化が起こった。エドガルドは跪き、興味深く耳を傾けながら、静かに神の贖いの儀式に参加したのだ』…」「スポレート〔フォッソンブローネの南約105キロ〕に着くと、アゴスティーニはエドガルドを教会に連れて行き… 主の祈りを唱えさせた…」と書いてある】〔職務上、嘘を並べたのだろうか?〕。映画では、先ほどの海岸のあと、セニガッリア大聖堂〔フォッソンブローネの東約30キロ〕に行き、エドガルドは2人の女性と一緒に何の抵抗もなく中に入って行く。そこで、女性は、教皇が洗礼を受けた洗礼盤を見せ、壁に掛けられたイエスの洗礼の絵を見せる。また、十字架に掛けられたイエス像について、女性は、「イエス様はユダヤ人によって殺されたのよ」と教える。エドガルドは、磔にされた手に打ち込まれた釘と血を恐ろしそうに見る〔伏線〕。最後に、女性は、「あなたに贈り物があるの」と言うと、十字架のついた金のネックレスを取り出し、エドガルドの首に掛ける。そして、「絶対に外さないで。あなたを守ってくれる。悲しい時にはキスすると悲しみが消えるわ」と言う(1枚目の写真、矢印)【原作にはない〔このあとの母との面会シーンで利用するためか?〕。このあと、映画では、モモロ達がアンナを探し出し、本当に洗礼を授けたのか訊こうとするシーンがあり、アンナは教会に逃げ込んで話そうとしない【原作(第4章)には、モモロの義兄がアンナを見つけ、アンナは ①エドガルドが1歳だった頃病気になり、②そのことを食料雑貨商のレポリに話したら、③洗礼を受けるよう勧められ、④やり方を教えてくれた、⑤その時、自分は14歳くらいで深い意味なんかなかった、と打ち明ける。しかし、法的に有効な文書を作るため、地元の公証人を連れて会いにいったら、アンナは町を出ていなかったと書かれており、状況がかなり違っている】。映画では、「ローマ、1858年6月28 日」と表示され【原作より、かなり早い】、ローマの中心を流れるテヴェレ川の船着き場に舟が向かう(2枚目の写真)〔遠くに見える橋は、1479年に架けられたSisto橋、その向こうにサン・ピエトロ大聖堂が見える〕。岸に着くと、エドガルドは、待っていた馬車で、“求道者の家” に連れて行かれる。夜遅くだが、待っていた院長が、「ようこそ。我々は君を心待ちにしていた。エドガルド、ここは、これから君の新しい家になる」と言って出迎える。そして、すぐに多くのベッドが並ぶ大部屋に連れて行かれ、「お休み。主とともにあらんことを」と言われ、修道女が上着だけ脱がせ、ベッドに入らされる。修道女はランタンを持って去って行く(3枚目の写真)【原作には書かれていない〔入所時の状況が資料として残っていないため〕
  
  
  

翌朝は全員6時起床。大部屋にいたエドガルド以外の全員が制服に着替え、エドガルドだけはここに来た時の服のまま大部屋の中央に集まる(1枚目の写真)。1人だけ寝たままの子がいたので、エドガルドが  「あの子、誰?」と訊くと、隣に立っていた子〔エリア〕は 「シモーネだよ」と教える。「どこか悪いの?」。「心臓」〔伏線〕【すべて原作にはない】。エドガルドだけは、別の部屋に連れて行かれ、イスの上に立たされて靴を用意するため、足の輪郭を紙に書き取られる。その間、院長は、「ミサは、毎朝、同じ時間に行われる。最初は、何も分からないだろうが、そのうち学んでいく。ラテン語はそんなに難しくない。イタリア語ととてもよく似ている」と話す。エドガルドは、その後、制服を用意するため 身長を測られる(2枚目の写真)【すべて原作にはない】。エドガルドは、すでにミサが始まっている聖堂に連れて行かれ、院長は自分の隣の席に着かせるが(3枚目の写真)、ラテン語が分からないエドガルドは寂しいので、さっき話したエリアの隣に座ってもいいかと尋ね、「もちろん」と言われる。そこでは、「世の罪を除き給う天主の子羊、われらをあわれみ給え」から始まる「神の子羊の祈祷文」が読み上げられている。エリアは、「全部暗記しないといけない」と小声で教える【すべて原作にはない】。映画では、このあとも強烈な印象は皆無だが、原作ではこの “求道者の家” について次のように書かれている【原作(第6章): 「キリスト教徒にとっても、ユダヤ教徒にとっても、『求道者の家』はきわめて重要な意味を持つ場所だった。それは二つの世界の境界にまたがり、その移行段階には凄まじい力がある… キリスト教徒にとって、『求道者の家』で行われていることは神の働きであり、最も崇高な聖なる贈り物を与えることであり、罪を宣告された人々に神の祝福を授けることだ。それにひきかえ、ユダヤ教徒にとっては、『求道者の家』は何より恐ろしい場所だった」】
  
  
  

ボローニャにはユダヤ人コミュニティーの人々が集まり、1通の手紙を出すことにし、その内容を代表が読み上げている。「ロマーニャ〔ボーロニャを含む地方名〕のイスラエル人の管理委員会より。この訴えは、フランスとイギリスのイスラエル人評議会宛てられたものです。モルターラ一家の出来事の深刻さは誰の目にも明らかです。このような虐待を受け入れることはもはや不可能です。今後このようなことが起こらぬよう、フランスとイギリスのイスラエル人評議会の一員として、皆さんが、それぞれの政府に訴えることを神聖な義務として考えて下さるものと確信しています(1枚目の写真)【原作(第9章)には、こう書かれている。「エドガルドの連れ去りから数週間も経たないうちに、ボローニャのユダヤ人によって組織された運動が、イタリアの狭くて隔離されたユダヤ人コミュニティーの枠を越えて理解を示す共鳴者に広がり始めた。かつては、各国政府やユダヤ人以外の人々は、他国のユダヤ人が教会権力と交渉して直面する問題に興味を示さなかった。だが、1858年には、国際的な情勢が劇的に変わっていた」。「代表団は、イギリスとフランスのユダヤ人コミュニティーに手紙を送る… この手紙を受け取ると、ユダヤ系フランス人のコミュニティーは皇帝ナポレオン三世に宛てた嘆願書を作成した… 教皇庁の時代錯誤的な体質に強い嫌悪感を抱いていたナポレオン三世は、領地を近代化するよう教皇を説得したことがあったが成功しなかった。ユダヤ人の子供が拘束され、その子がローマで監禁されているというボローニャからの情報は、皇帝を激怒させた。特に腹立たしかったのは、教皇がローマで子供を監禁できるのも、フランスの部隊が提供する保護のお陰だったからだ」。「イタリアのユダヤ人は、教皇との仲介を必要とする時、ロスチャイルド家に頼る習慣があった… 財政的な問題にずっと苦しんでいるヴァチカンは、財政を維持するために、あるいは新しい計画に着手するために、長年にわたって度々ユダヤ人の金融業者に借金を頼んできた… モルターラ家は、ロスチャイルド家が仲介に入ってくれるのを切実に願った… 7月17日、エドガルドが連れ去られてから3週間も経たないうちに、ジェームズ・ロチルドがパリから国務省長官〔アントネッリ枢機卿〕に宛てて手紙を出した。『ローマ滞在の折りには、猊下の正義感と思いやりに度々感謝しておりました。つきましては、ボローニャに住むユダヤ人商店主モルターラ氏のため、その正義感と思いやりを発揮していただきたく、お願い申し上げます』」。「1ヶ月後の8月24日、イギリスのロスチャイルド家が介入し、その年、イギリス議会初のユダヤ人議員となったライオネル・ロスチャイルドがアントネッリ枢機卿に宛てて独自の嘆願書を書いた」。「エドガルド連れ去りの噂がヨーロッパ全土から海を渡って合衆国まで伝わると、西洋全体のユダヤ人委員会が抗議運動を組織して募金を集めるようになり、ますます多くの外国政府が非難を表明した」〔現在のイスラエル~パレスチナ情勢と、何とよく似ていることか!〕。2枚目の写真は、立派な執務室にいる教皇。机の上には、教皇を風刺した絵が数多く並べられている。教皇は、そこに入って来たアントネッリ枢機卿に、「私は犯罪者、暗殺者になってしまった。愛国派どもは私を断首台に送り、吊るすつもりだ」と言う。枢機卿は 「聖下、私は 銀行家のロスチャイルドから、2度請願の手紙を受け取っております。借金は100万ポンド以上にのぼります。ロスチャイルドが ある朝目を覚まして借金の返済を要求すれば、私どもは破産するでしょう」と、窮状を伝える。教皇は 「世界中のカトリック教徒が蜂起するであろう」と 危機感に乏しい。枢機卿は 「もちろんです。しかし、モルターラの一件は、カトリック教徒の間でも私たちに悪い印象を与えています。リベラル派の新聞は、フランス、ベルギー、ロシアなど、あらゆるところでこの件について記事を書いております。ロンドンのタイムズ紙ですら取り上げています。フリーメーソンが背後にいます。そして世界中のユダヤ人たちも。ボストンでは、ある俳優が舞台で、教皇公邸に同胞と押し入り、聖下の寝室に入り、あなたを拘束し、割礼する様子を演じました〔伏線〕。ユダヤ人ならではの冒涜です」と、世界情勢を憂慮する。教皇は 「フランス、ドイツ、アメリカ、ロシアのすべてのラビを合わせても、私は微動だにしない。あの者たちが私を反動的だと言おうが、それは真実ではない、私はしっかりと立っており、崖っぷちに向かっているのは世界の方で、このままでは完全に破綻してしまう」と強気の姿勢を崩さない。枢機卿は 最も憂慮する事態として、「私はフランス大使のグラモンから何度も接触を受けております。ナポレオン三世も不快に思われているそうです」と言うが、教皇は、「不快だと? 教皇の決定を喜ばせる必要が、いつから生じたのだ?!!」と怒鳴る。そして、「国王、王子、皇帝に対し、教皇の返答はただ一つ、“(ローマ教会の権威に基づく)不認可〔non possumus〕” だ。我らが信仰の原則に則り、少年を手放すことはできぬ。すべてを失うかもしれぬが、キリストがその血で得た魂を失うことはない。私は教皇だ! 私は神にのみ答えるだけでよい」と、会見を終わる。【原作には、こうしたシーンはない。原作(第13章)には、国際情勢について、いろいろな記載がある。「ヨーロッパ中の自由主義や反教権主義の新聞が、モルターラ事件に関してヴァチカンへの痛烈な批判を繰り返し、ローマ駐在のフランス大使が抗議を再開すると、大陸全土のローマ教皇大使から反教皇の新たなうねりという厄介な兆候を知らせる最新の情報で、アントネッリ枢機卿の郵便袋は一杯になった」。「1858年のアメリカでは、ローマカトリックを快く思わない者が多かった。アイルランドなどからやって来たカトリック教徒の移民は中傷や愚弄に遭い、教皇は悪魔の化身として描かれた。9月中旬から、アメリカの主なユダヤ系の新聞が、モルターラ事件の記事を次々と掲載し始めた」。「モルターラ事件は、ユダヤ人はもちろん非ユダヤ人の間でも大きな反響を呼ぶ事件になっていた。1858年の12月だけで、『ニューヨーク・タイムズ』紙は事件に関する記事を20件以上掲載している」】
  
  
  

教皇は、ベッドでユダヤ人4人に襲われ、割礼される悪夢を見る(1枚目の写真)。朝、汗まみれになって起きた教皇は、「彼にすぐ洗礼を施さないと」と決める。この決定はすぐ実行に移され、エドガルドは教皇の前で洗礼を受け(2枚目の写真)、式典が終わると、教皇はエドガルドを抱き、「我が子、エドガルド、ようこそ」と笑顔で話しかける(3枚目の写真)。カトリックでは、「洗礼は二度受ける必要はないし、二度受けるべきでもない、と聖書は教えています」という考えが主流なので、教皇のこの決断は、あとで大きな問題を引き起こす。それは、先の文章の続きに、「再洗礼を勧めて授ける人もいます。きっと再洗礼を授ける人の多くは、『人が幼い頃に受けた洗礼は正しい洗礼ではなかった』、と考えているのでしょう。しかし、この主張は深刻な内容を含んでいます。『幼児洗礼を受けた人は、実は洗礼を受けておらず、キリスト信仰者でもない』、と言っていることになるからです」。つまり、エドガルドのアンナによるいい加減な洗礼が「幼児洗礼を受けた人は、実は洗礼を受けておらず」に該当するのであれば、エドガルドを連れ去る理由がなくなるからだ【原作では、教皇は悪夢など見ない】【原作(第10章)に、モルターラが手紙の中で、「息子が最近、通常の儀式によって洗礼を受けたことを耳にした」という文章があるが、この一文だけで他の記述はない〔流し読みが困難な本なので、見落としがあるかも〕
  
  
  

モモロとマリアンナは、エドガルドに面会しようとローマを訪れる(1枚目の写真)。【原作(第7章)には、「エドガルドが捕らえられてからモモロがローマに旅立つまでに1ヵ月以上かかり」と書かれていて、妻を同行してはいなかった。モモロはアントネッリ枢機卿に会うが、普通ならこんなことは不可能なのだが、その頃にはヨーロッパの新聞が批判報道を始めていたので、「枢機卿は、自分がローマにいる間は息子との定期的な面会を許可して欲しい、というモモロの要求を聞き入れた」と書かれ、それが 「前代未聞だった」とも書かれている】。モモロは、『イスラエルの大学』の事務局長スカッツォッキオのシナゴーグに連れて行かれ、そこで、「“求道者の家” の情報提供者によれば、エドガルドは元気です」 と知らされ(2枚目の写真)、その言葉に感謝し、「なんという安堵感でしょう」と言う。それに対し、スカッツォッキオは 「いいえ、あなたは理解していません、その少年は元気なんです」。「はい、ですから、嬉しいんです」。「それが、問題なんです。少年は、“求道者の家” にいて幸せで、カトリックの祈りを唱え、あなたを少しも寂しく思っていないのです。少年が幸せなら、彼を取り戻すことは非常に困難です。そして、あなた方が、(勝手に)起こした(世界的な)混乱を考えると、さらに困難です」。そう言うと、スカッツォッキオは、ボローニャのユダヤ人組織が、イタリアのユダヤ人組織の代表である自分たちを無視して、勝手に世界中に騒動を巻き起こしたことを強く批判する。【原作(第7章)によれば、「エドガルドは “求道者の家” に満足し、是非ともカトリック教徒になりたいので、ユダヤ人の両親のところへは帰りたくないと言っている、と教会の情報筋が繰り返し伝えてきた」と書かれているが、この情報筋と、映画の情報提供者とは、少し違うように思われる〔原作の方は、明らかに教会の息がかかっている〕】【スカッツォッキオがボローニャに怒っているとは書いてあるが、その怒りをモモロに直接ぶつけるシーンは原作にはない】【原作(第9章)によれば、「ヴァチカンに圧力をかけて子供を手放させるため、ヨーロッパやアメリカの政府をこの問題に巻き込もうとするボローニャのユダヤ人の側の努力は、ローマの『イスラエルの大学』〔ローマのコミュニティー〕のリーダーたちを不安にさせた。また、大衆紙によって教皇庁に対する世間の批判を盛り上げる活動は、彼らを恐怖に陥れた。ローマのユダヤ人コミュニティーのリーダーたちが、ヴァチカンに提出する敬意に満ちた嘆願書を作成している時、別の所ではモルターラの支援者たちが教皇にエドガルドを解放させるため、国際的な義憤と抗議に火を点けて大火災を起こそうとしていた」と書かれている】
  
  

“求道者の家” でモモロがエドガルドに会うシーン。“求道者の家” には両親で行ったのだが、呼ばれたのはモモロだけ。エドガルドには院長と修道士と修道女が付き添っている。モモロが 「今日は、エドガルド」と優しく声をかけると、エドガルドは 緊張した顔で 「今日は、パパ」と答える(1枚目の写真)。「元気か?」。「はい」。その言い方が、如何にも他人行儀だったので、モモロは 「話す気がないのか?」と言うと、「毎日、どうしてる?」と訊く。「学校に行くと、毎朝一番のミサ、授業、昼食、休養、勉強…」。ここで院長が口を挟む。「彼には、並外れた記憶力があります」と補足する。モモロは、内容を変えて、「私たちはお前がいなくなって寂しい。分かるか?」と訊く(2枚目の写真)。エドガルドは悲しそうな顔で黙っている。そこで、モモロは、「ママは元気だ」と言い、他の家族のことも少し話す。短い会話のあと、最後に、「キスしてくれるか?」と訊き、エドガルドがモモロの頬にキスして終わり。エドガルドは笑顔も、泣き顔も見せなかった。そして、「チャオ、パパ」と言い、まるで人形のように連れて行かれる。モモロは妻のところに戻ると、「どうだった?」と訊かれ、①元気、②キスしてくれた、と言った後、「彼は、院長に手を差し出すと、振り返りもせず立ち去った」と打ち明け、きっと恐れているからだと話す。それを聞いた母は、自分で会うことにする。【原作(第7章)によれば、ユダヤ系の新聞には、「エドガルドは父親に、一番の願いは家に帰ることだと愛情を込めて言い、エドガルドを連れずにローマを去ることはない、というモモロの言葉に安心した」と書かれている。一方、カトリック系の新聞については、伝統的なキストス教の勝利と正義の物語という形をとっていたとしか書かれていない。ポーランド司教の伝記作家ジョセフ・ペルツァーは、「モモロは息子を目にしたとたんに どっと涙を流して少年を強く胸に抱きしめ、息子が家に帰らない限り、家族の誰も幸せになれないと言った。少年は溢れる涙を抑えられなかったが、しばらくすると、父親に向かって 『なぜ泣くの? ぼくはここにいて元気だよ』と言った」】。これを見ると、映画は、カトリッ系に近い描写かもしれない。
  
  

そこで、マリアンナは、同じ日か、別の日かは分からないが、単身 “求道者の家” に行き、エドガルドとの面会を要求し、授業中のエドガルドが、院長と修道士に付き添われて出て来る。母は、息子と同じ目線までしゃがみ込むと、「元気?」と声をかける。「いいよ」。「その服どうしたの?」。院長が、「それは、学校の制服で全員が着ています」と答える。エドガルドは 「パパはいないの?」と訊く。「いいえ」。「ちゃんと食べてる?」。「うん」。「夜は寒くない?」。「ううん、暖かいよ」。「痩せたわね」。院長が、「奥さん、体重は増えてます」と補足する。その時、母は、エドガルドの大きな白い襟飾りの下に隠れていた金の鎖に気付き、それを引き出すと、先端に十字架が付いている。「これ何?」。「もらったの」。「でも、なぜ首にかけてるの? そんなのつけてたら、もうユダヤ人じゃなくなるのよ」。院長が、「あなたの息子は、もうユダヤじゃなく、クリスチャンです」ときっぱり言うと、怒った母は、ネックレスを掴むと(1枚目の写真、矢印)、引きちぎって、床に投げ捨てる【原作(12章)によれば、イエスズ会の執筆者が、「マリアンナが聖母マリアのメダイを引きちぎった」と書き、教会寄りの新聞もそれを引用し、「残酷なユダヤ人」のイメージを高めたが、本当かどうかは不明】。そして、院長に向かって、「私の息子はユダヤよ! あんたたちが、彼を殺したのよ!! 恥じるがいい」と、暴言を吐く(2枚目の写真)【原作では、マリアンナは体調がすぐれず、ずっとボローニャにいる】〔だから、こんな気違いじみた顔を院長に対してするような、非現実的なシーンはない。この醜い顔は、演出の失敗だと思う。ボローニャにかろうじて住むことを許されているユダヤ人のしかも当時は発言権のなかった女性が、いくら息子をさらわれたとはいえ、高位聖職者に向かってこんな顔で怒鳴るとは、19世紀にはあり得ない〕。院長はマリアンナに、二度と面会は許さないと言い、母はエドガルドを抱きしめると、「必ず家に返すからね」と囁き、エドガルドは、「家に帰りたい」と泣きわめく(3枚目の写真)【因みに、9月になり、モモロの元に義兄と弟との連名で、主人が不在なので、モモロの店が破綻寸前だという手紙が来て、モモロは ローマにいられなくなる】
  
  
  

その夜、みんなが眠ってから、エドガルドはベッドから起きると、聖堂に行き、段の上に置かれた “磔にされたキリスト” 像をじっと見る(1枚目の写真)。そして、段を這い上がって、何とか高い手のところまで行くと、手のひらに打ち込まれた釘を抜く(2枚目の写真、矢印)。エドガルドは他の手と足の釘も抜くと、床に降りてもう一度キリスト像を見る。すると、キリストの手がゆっくりと十字架から離れ、ゆっくりと段を降りると、頭から茨の冠を外すと(3枚目の写真)、エドガルドの前から去って行く【こんなシーンは原作にはもちろんない】。あるサイトには、このシーンについて、次のような分析が書いてあった。「エドガルドが母親から強制的に連れ去られ、ベッドに戻されると、その夢は、自分の出自と彼に押しつけられた宗教とを調和させたいと願う素朴な子供の夢となる。その夢の中で彼は十字架から釘を外し、イエスを解放する。それはあくまで夢であり、和解の場面であり、エドガルドが平和を見つけて両親に再会したいという願望を表現している」。
  
  
  

その直後、エドガルドの目が覚めると、自分のベッドの反対側にある、心臓が悪くて一度も起きたことのない少年シモーネの周りに7名が集まり、院長が終油の秘蹟に続いて祈りを捧げている。そして、少年の遺体を抱き上げる(1枚目の写真、矢印)。このシーンは、キリストのシーンとあまりにも接近しているので、前節のキリストの夢は、このシーンの説明のためかもしれない〔磔にされたキリストのように、心臓病でベッドに寝ているしかない少年を、キリスト像の釘を抜いて自由にしたように、苦しい生から救った〕。恐らく翌日、聖堂の中央に棺が置かれ、神父が、「洗礼を受けてから僅か数日後に神に召された小さなシモーネのために祈りましょう」と言い(2枚目の写真)、シモーネについて短く語る。そして、全員が立ち上がり、讃美歌が始まると、シモーネの母親(元ユダヤでカトリックに改宗)が息子の頬を優しく撫でて別れを告げる。そして、額にキスして棺から離れると、生徒達が列を作って席を離れ、最後のお別れに行く。すると、教会の最後部にこっそり侵入して来た4人のユダヤ人が、いきなり前に走って来て、エドガルドの1人後ろの子を掴んで、悲鳴をあげるのも構わず拉致しようとする(3枚目の写真)。すると、後ろで見ていたリカルドが、「彼じゃない!」と叫び、4人とリカルドは聖堂から逃げ出す【この、エドガルドの拉致未遂事件は、原作にはない】
  
  
  

翌1853年、スカッツォッキオが、ローマのゲットーのリーダー達と共に教皇に謁見する。スカッツォッキオが最大限に敬意を払った言葉で挨拶をした後、教皇は、①昨年、モルターラ事件で、ヨーロッパ中に大騒動を巻き起こした罪を責め、②“求道者の家” からモルターラを拉致しようとし、③新聞社に行き嘘を広めたと非難する(1枚目の写真)。スカッツォッキオは、①と②への関与を否定し〔共にボローニャのせい〕、③は記事の出版を止めようとしたと弁解するが、興奮して大きな声を上げたので、教皇は 「声が高い」と注意し、跪(ひざまづ)くよう命じる。スカッツォッキオは謝罪し、教皇は許し、それに感謝したスカッツォッキオは法王のスリッパにキスをする(2枚目の写真、矢印)【原作(第15章)に、スカッツォッキオとタリアコッツォの2人が教皇に叱咤される場面があり、①はスカッツォッキオ、③はタリアコッツォが標的になる。2人は謝罪するが、スリッパにキスはしない】。そのあと、教皇が “求道者の家” の生徒達を連れて人工鍾乳洞の中のマリア像に祈る場面があるが(3枚目の写真)【原作にはない】、場所は特定できなかった。
  
  
  

無原罪の御宿りの日〔12月8日〕、教皇が立派な部屋に “求道者の家” の生徒達を招き、食事会を催す場面がある(1枚目の写真)〔イタリア映画でなければあり得ないシーン〕。食事を始める前に、教皇は、「誰か、教条(ドグマ)とは何か言えるかな?」と質問する。誰も言わないのを見てから、エドガルドは おずおずと、「教義は信仰の真理です。神から直接与えられたものなので、質問や議論をせずに信じるべきものです」と答える(2枚目の写真)。教皇は、「よろしい、エドガルド。君は私に多大な犠牲を払わせたが、十分に報いてくれた。神は奇跡を起こし、君を拉致しようとした悪党どもを打ち負かされた。よって、幸運にも、君はまだ私たちと一緒にいられる」と褒める【原作にはない】。次は、ヴァチカンの庭園内での、一種の隠れん坊。鬼になった少年が10まで数えて、他の少年を探し始める。エドガルドが気に入っている教皇は、自分の大きな赤いマントの中にエドガルドを隠す(3枚目の写真、矢印はエドガルドによる膨らみ)。鬼になった少年が教皇の前まで来ると、マントの下に足が2人分見えるので、ここに隠れていると分かっても、教皇が 「エドガルト、どこにいる?」と言ったので、恐れ多くて手が出せない。鬼が諦めて去ると、マントの下から飛び出したエドガルドは、ゴールに決めてあった木に鬼より先に触り、勝利する【内容は異なるが、原作(第15章)には、こんな記述がある。「事件をめぐる論争が続くと、教皇は定期的にエドガルドを訪問することに慰めを見出し、少年の明らかな教会への愛着を、教皇の働きとその目的の正しさに対する神の祝福の証と見なした。ある時、教皇は少年に言った。『息子よ… 私はおまえのために大きな犠牲を払った。そして、おまえのためにとても苦しんだ』。そして、同席していた他の人々の方を向いて言い添えた。「力のある者もない者も、私からこの子を取り上げようとし、私のことを残忍で無慈悲だと言って非難する。彼らは、この子の両親のために声をあげるが、私もやはりこの子の父親だということを、彼らは分かっていない」】
  
  
  

「ボローニャ、1859年」と表示される。【原作(第17章)には、「1859年6月12日午前3時、1848年から49年の暴動を制圧したあとずっとボローニャに駐在していたオーストリア軍が町から撤退した… 午前6時、コムナーレ宮の外のマッジョーレ広場が群衆で埋まり始めた。人々は国民協会のメンバーに煽られ、三色旗を振りながら叫んだ。イタリア、万歳!」と書かれている】。1枚目の写真は、まさにこの瞬間だ。教皇領の半分を失ったピウス九世は階段を降りていて、突然倒れ、けいれんを起こし始める(2枚目の写真)【原作(第8章)に、教皇の持病として、「15歳の時に初めててんかんの発作を起こした」と書かれている】。これだけの大事が起きたのだから、発作を起こすのは当然かもしれない。その頃、審問官のフェレッティ神父は書類をすべて暖炉で燃やしていた(3枚目の写真)〔教皇領ではなくなっても、住民のほとんどはカトリック教徒なので、ボローニャの枢機卿と大司教はそのまま留まるが、教皇直属の異端審問所は消滅するため〕
  
  
  

1860年1月2日、サン・ドメニコ修道院にいたフェレッティ神父の前にボローニャの検察官カルボーニが警察官を連れて現われ、「ドミニコ修道会の修道士ピエール・ガエターノ・フェレッティ、元検邪聖省の異端審問官、エミリア王州の命令により、推定洗礼を根拠に、子供エドガルド・モルターラを彼のイスラエル人家族から強制的に引き離すよう命じた罪で、あなたを逮捕する旨宣言する。この引き離しは、1858年6月24日の夜、ボローニャで行われた」と告げる(1枚目の写真)。フェレッティは 「偏見に満ちた行為です。私は、教皇聖下からボローニャの異端審問を監督する任務を与えられた正規の司祭として、私の逮捕は管轄権のない支配者によるものとみなします」と反論するが、「私の職務は、あなたを逮捕し トッローネの刑務所に連行するだけです」と問答無用に言われる。次のシーンは、剥き出しの煉瓦の塔の中の広い独房【約8m四方】内で、フェレッティが祈りながら回っている姿(2枚目の写真)。翌1月3日、正式な告発状を作成することを委ねられた司法官カルボーニが独房を訪れる。フェレッティは、「教会の決定や判断は、他のいかなる下級の権威にも従わないことを、あらかじめ明確にしておきたいと思います」と、最初から防衛線を張る。「私はただ、モルターラの子がイスラエル人でありながら洗礼を受けたことを、どのようにして知ったのかを尋ねたいだけです」。「それは検邪聖省の案件に関する質問です。私の口は封印され、誓約によって縛られています」。「しかし、誰がローマ教会に知らせたのですか?」。「私は、権威をもって規定されたこと以外の言葉を加えることはできないと理解してもらいたいのです」。カルボーニは、結局、何も聞き出すことはできなかった。そして、1月30日、ボローニャ宮廷で、元ボローニャ検邪聖省異端審問官フェレッティ神父の非公開裁判が開始される(3枚目の写真)〔このワンカットも、イタリア映画でなければあり得ないシーン〕【原作(第18章)のタイトルは「審問官の逮捕」、(第19章)のタイトルは「審問官の告発」なので、多くのことが書かれているが、取り立てて追加するまでのことはなく、省略する】
  
  
  

裁判は、モモロに対するカルボーニ検事の質問から始まる。主なものは、①アンナ・モリージの雇用期間: 数回の中断を含み約6年。②アンナ・モリージはエドガルトが生後6歳で死の床にあった時、洗礼を施したと言っているが知っているか?: 知らない。誰もいなかった。ここで、モモロは、「私はエドガルトがローマで教皇の御前で洗礼を受けたことを知っていますし、子供に二度洗礼を施すことができないことも知っています」と言う。すぐに 弁護士が発言を求め、「それは本当の洗礼ではなく、歓迎の儀式、正確には確認のための儀式だった可能性が非常に高いです」と言うが、モモロは正式な洗礼だったと主張する【原作では、二重洗礼に対する発言は一切ない】。検事は、モモロの脱線を批判し、「エドガルトが洗礼を受けたとされる時、命は危険な状態だったのですか?」と訊く。モモロは否定し、その際の医師サラゴーニはそれを証言できると答える。そこで、検事はサラゴーニに、エドガルトの病状について質問する。医師は、病気だった期間は2・3日で、寄生虫による発熱だったと答える。3人目は、アンナ・モリージに、エドガルトへの洗礼を勧めたとされる食料雑貨商のレポリが証言台に座る。検事に、洗礼を勧めたかと訊かれたレポリは100%否定する。ここで、裁判のシーンは一時中断し、モモロが妻に状況を説明するが、ここでもヴァチカンでの二度目の洗礼の話が出てくる〔監督は、よほど、“二度目だから最初の洗礼は無効” だという論理を使いたいのか?〕。そして、裁判では、いよいよ、アンナ・モリージ本人が証言台に座る。検事は。「モリージさん、なぜ7年も経ってから、エドガルド洗礼を授けたことをフェレッティ神父に明かすべきだと思ったのですか? なぜ、そんなに待ったのですか?」と質問する。「あたしは、いいクリスチャンです。重くのしかかっていた良心の呵責を晴らすためにやったんです」。アンナは、エドガルドに洗礼を施した理由を問われると、「あの子をクリスチャンにするためです。そうすれば、死んでも魂が救われるから」と答える(1枚目の写真)。「誰が、あなたに洗礼の儀式の言葉を教えましたか?」。アンナはレポリの名を挙げるが、検事はレポリが、否定したと告げる。しかし、アンナは、レポリの店に行った時に交わされた会話を、克明に話す。如何にも、本当に、レポリが全てを指導したかのように。そして、その指導に従い、エドガルドが一人でいる時、水差しから水を手に取り、あっという間に洗礼を授けた(2枚目の写真、矢印)とも〔授洗の言葉は、「父と子と聖霊との御名によりて、我汝に洗礼を授く。アーメン」だけ〕〔映画では、冒頭にアンナが “祈っている両親” を見た後でレポリの店に行くシーンがある。これは、この証言が正しいという前提に立っている〕。ここで、久し振りに、“求道者の家” にいるエドガルドが映る。院長が生徒達に向かって、「土曜に、君たちは第三の秘跡 “堅信” を受けます〔第一は “洗礼”、第二は “聖体拝領”〕。これにより、君たちは決して主を否定しないことを約束することになる。そしてまた、主の名において犠牲を払うことも… それは何かね?」。全員が揃って、「私たちの人生」と言う。「そして、受け入れるべきは?」。再び全員が揃って、「殉教」と答える(3枚目の写真)〔“教育”、見方によれば “洗脳” は、非常に巧く機能している〕【原作との対比については同上】
  
  
  

裁判では、フェレッティ神父の弁護士フランチェスコ・ジュッシが最終弁論を行う(1枚目の写真)【この部分は原作と非常によく似ているので、史実を記した原作(第21章)を引用しておこう。「幼いモルターラの連れ去りに関して訴えた人々に対し、ピウス九世は “不認可” と告げられた… もしも教皇聖下が、少年について尋ねた人々に “不認可” と告げられたのなら、教皇聖下はご自分がその命令を下されたこと、少なくとも検邪聖省の代表としてそれを承認されたことを自覚しておられたはずです。そのことで審問官を裁くどんな権利がこの法廷にあるのですか? その機関がまだ存在していた当時に、彼が執行の責任を負っていた法律を執行したからといって、どうしてひとりの司法官を訴えることができるのですか? 古い政府に取って代わった新しい政府は、古い法律が気に入らなければ撤回できますが、単にその法律やその機関に対する嫌悪感だけで、それを執行した者を訴えることはできません」】。この見事な論理により、2月15日の判決(史実)は以下のように下された【原作(第22章)からの引用。「当法廷は、長官より審議を求められた事案に応え、聖なる神の御名によって、1858年6月24日の夜、警察がユダヤ人夫婦、モモロことソロモン・モルターラとマリアンナ・パドヴァーニからその息子エドガルドを連れ去ったこと、及び、この行為が政府より承認されていたことを確認し、宣言する。従って、過去と現在を問わず、前述の行為の実行者に対する刑事訴追の根拠はなく、ボローニャ異端審問所の元審問官でありドミニコ修道会のピエール・ガエターノ・フェレッティは、刑務所から直ちに釈放されるべきである」】(2枚目の写真)。それを聞いたモモロは、誰もいなくなった裁判所の中で、悲しみと怒りの混じった叫び声を上げる(3枚目の写真)。
  
  
  

判決が出たのと同じ2月15日、“求道者の家” では堅信の儀式が行われ、エドガルドも、額に「聖霊の賜物で封印されなさい」という意味を込めて、クリスマ〔聖油〕が塗られる(1枚目の写真)。これで、少年時代のパートは終わる【映画には描かれていないが、原作(第24章)によれば、「13歳になった頃には、エドガルドは教会に生涯を捧げる決意を固め… 新しい父であり、保護者であるピウス九世に敬意を表し、ピオと名乗ることにした」「翌年の1866年4月12日、教皇が、町の城壁の外にあるサンタニェーゼ教会へ年に一度の訪問をした時、14歳のエドガルドが特別の栄誉を与えられた。若い神学生の群れから進み出て、教皇を大げさに讃える自作の詩を朗読したのだ」と書かれ、2人の密接な関係を感じ取ることができる】。映画では、「10年後」と表示され、一気に青年になったエドガルドが映る(2枚目の写真)。
  
  

場所不明の聖堂〔教皇御輿は、主としてサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂で行われた儀式に入退場する際に使われたと書いてあったが、このロケ地は前者に似てはいるが別の聖堂〕で、教皇が聖扇〔ダチョウの白羽で作られた2本の大きな扇〕を先頭に、正面扉から教皇御輿に乗って入って来る(1枚目の写真)。身廊に沿って、多くの若い神学生が並んでいて、その中にエドガルドもいる。御輿が床に降ろされ、教皇が立ち上がって身廊を歩き出すと、教皇が前を通った際に、両脇にいる神学生達は跪いて教皇の手にキスをする。それを見たエドガルドは、やおら立ち上がると、教皇に向かって突進し、腕をとってキスしようとしたのだが、勢いがあり過ぎて教皇は倒れてしまう。助け起こされた教皇は、歩き出すが、エドガルドは、あまりに申し訳ないことをしたので、教皇が前を通っても じっとしている。教皇は、教皇冠を外させると、聖堂の内陣の地下にあるクリプタに入っていき、聖人の遺骨に祈ったあと、もう一度身廊に戻る。そして、エドガルドの前で立ち止まると、前に出るよう命じ、「あれは何だ?」と訊く。「想像してみるがよい。もし私が、教皇が、エドガルド・モルターラをとても愛していたから、彼は教皇を殺そうとしたとしたのだと言ったら? ペナンス〔過ちに対する償いとしての自己処罰〕を命じる。跪き、床にキスを」。エドガルドは言われた通りに床にキスをする。「まだ足りぬ。床に舌で三度十字を描くのだ」。エドガルドは、これにも素直に従う(2枚目の写真)。教皇は、その従順さを祝福する〔裁判から10年後ということは、1870年2月15日。エドガルドは1851年8月27日の生まれなので、約18歳半になる〕【原作(エピローグ)に、「教皇は定期的にポアティエの司教に手紙を書いてエドガルドの様子を尋ね、エドガルドが早く司祭の位を授けられるように希望を表明した。1873年〔このシーンの3年後〕、特別免除により、まだ司祭職の最低年齢に達していない21歳で、ピオ・エドガルド・モルターラは聖職位を授けられた。この機会に教皇はエドガルドに親書を出して計り知れない満足を伝え、自分のために祈って欲しいと若者に頼んだ。教皇はエドガルドの生活を保証するため、7千リラ〔当時のリラの価値は不明だが、1873年発行の5リラ銀貨は、重さ25g、直径37mm、発行年は少し前になるが10リラで金貨になる。従って、7千リラは現在と違い、かなりの金額になる〕の終身信託を開設した」と書かれているので、教皇がエドガルドのことを心から愛していたことが分かる。映画のエピソードは、原作にはない】〔この “恐るべきシーン” に対し、論評の1つには、「教皇はかなり残忍な方法で彼を罰する。彼(エドガルド)の中にはまだ完全に消えていない何かがある」などと書かれているが、上記に引用した史実から、そんなことは考えられない。もしそのようなイメージを感じさせたとすれば、それは監督による作為で、このようなミスリードの最大ものは、もう少し後にある〕
  
  

「1870年9月19日」と表示される〔先ほどのシーンの僅か半年後〕。イタリア軍が、サン・ピエトロ大聖堂が遠くに見える丘の上まで到達している。ヴァチカンでは、教皇が 「フランスは我々を見捨てた」と発言し、枢機卿の一人は、「誰もが私たちを見捨てました、聖下」と同意し、教皇の右腕とも言えるアントネッリ枢機卿は、「もう終わりです。我々が救って欲しいと屈し始めれば、彼らは際限なく要求してくるでしょう。今日、司教杖を取り上げれば、明日、法衣を渡せと言い、最後は教皇冠を手放すことになるでしょう、それでも我々は救われません。彼らは、我々を葬ろうとしているのです。かくなる上は、我々は過去の栄華の象徴や尊厳のすべてを抱き、死ぬしかないではないかと思われます」【映画ではアントネッリが “死” について述べているが、原作(第23章)には、ローマ駐在のイギリス大使館員ラッセルの報告が引用されている。「教皇聖下は 教会の敵がやがて教皇個人に暴力を加えるだろうし、自分の最期も近いと信じておられる。教皇は、多くの先人が担ってきた殉教の栄誉を切望しておられる… 迫害の犠牲者として教皇のローブを身につけたまま、聖ペトロの祭壇の前で死にたいと思っておられるのだ」】。教皇は立ち上がると、「私は行く」と言い出す。司祭に 「聖下、どこに行かれるのですか?」と訊かれると、「スカラ・サンクタ〔白い大理石でできた “膝を付いて上がる” ための28 段の信仰の階段〕へ」。アントネッリ枢機卿が、「私も参ります」と言うと、「あなたは、賢すぎる。最悪の事態になったら、宝物を救って欲しい」と言い、枢機卿は跪いて教皇の手にキスすると(1枚目の写真)、その場を離れていく。教皇は若い2人だけを連れて階段に行くと、自分だけが、階段に膝を付いて一段ずつ上がり、立ち止まっては礼拝をくり返す(2枚目の写真)〔教皇ピウス九世が、ローマ占領の前夜、この階段を膝を付いて上がったのは歴史的事実〕【原作にはない】【歴史的状況について補足すると、原作(第24章)に、「1870年7月、フランスはプロイセンに宣戦布告するという失敗を犯し、フランス軍は僅か数週間でプロイセン軍に制圧された(9月2日)。ローマに残ったフランス軍は撤退し、ナポレオンは退位させられた(1871年3月1日)」と書かれている】〔教皇領を守っていたフランス軍がいなくなったことで、教皇領はイタリア軍の標的となった〕
  
  

【原作(第24章)に、「ラファエレ・カドルナ将軍の率いるイタリア軍がラツィオ州に進入し、何の抵抗も受けず、ローマの町外れまでやって来た。1870年9月20日、軍隊はピア門の近くの城壁に突破口を開いた」と書かれている】。映画では、教皇のシーンのあと、何の説明もなく、いきなり巨大な石の城壁が爆破されるが(1枚目の写真)、それは上記の原作の場面であろう。そしてローマ市街になだれ込むイタリア軍の中に、リカルドの姿がある(2枚目の写真)【これについては、「(リカルドは)ピア門の戦いの頃は若き歩兵将校だった」と書かれている】
  
  

リカルドはあちこちの教会を調べ、エドガルドを含めた多くの神学生が集まっていた教会に入って行く。エドガルド以外の神学生は全員逃げ出すが、エドガルドはリカルドの姿を認め、そのまま留まる。リカルドは、心底嬉しそうに、「エドガルド」と言うが、エドガルドは、まるで相手が赤の他人のように、「何でしょう?」と言う。「家まで連れて帰るぞ」(1枚目の写真)。「私は家には行かない」。「何、言ってるんだ?」。「私の家はここです」(2枚目の写真)「私は、あなた方の王〔サルデーニャ国王ヴィットーロオ・エマヌエーレ〕を絶対認めません。なぜなら、彼は簒奪者だからです。私には、どうしたらあなたがあの暗殺者の制服を着られるのか理解できません。歴史は、あなた方が犯した犯罪に、ポンテオ・ピラト〔イエスを磔にするよう命令したローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督〕やヘロデ〔ユダヤ王国を統治した王〕に対したのと同じように激しい言葉で烙印を押すでしょう」。「どうして、お前は、お前を拉致した犯罪者の側に立つんだ?」。「拉致ではありませんでした。それは、私の自由な意志でした」。「自由な意志だと? お前は6歳だったんだぞ?」。「今では、私の宗教であるキリスト教を受け入れられて幸せです」。「俺は、どんな宗教も信じん。お前は、両親から強奪されたんだ! そんな風に2人〔父と母〕を見捨てることは、2人を侮辱することになるんだぞ!」。「私は誰も侮辱していませんし、恥じることなど何もしていません。母と父がとても苦しんでいることは、よく承知しています。でも、今では、私が自分の人生の主人なのです。洗礼が私を救ってくれました。出て行って下さい、兄さん。出て行って」【原作(第24章)は全く違う。「リカルドは、弟が閉じ込められているサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会へと突進した。ところが、イタリア軽歩兵の制服を身につけたリカルドは、修道院のエドガルドの部屋の入口で無礼な出迎えを受けることになった。新入門者のローブを着た19歳の弟が、聖所侵犯の光景を見ないよう片手で目を覆い、もう一方の手を体の前に突き出してリカルドを制したのだ。エドガルドが叫んだ。『下がれ、悪魔!』。がっかりしたリカルドは言った。『俺はお前の兄だ』。エドガルドはこれに答えて言った。『私に一歩でも近づくなら、その暗殺者の制服を脱いでからにしてください』】【エドガルドのその後については、こう書かれている。「エドガルドの上長は彼が連れ去られることを恐れた… エドガルドを海外へ送り出す計画が立てられた」。そして、エドガルド自身の証言が記される。『1870年10月22日、夜10時、ひとりの修道士に付き添われ、駐在している監視の目を逃れるために2人とも平服を着て修道院の庭を通って外へ出た。鉄道の中央駅へ行くと、そこで教育係が私の父を見かけたと言った。私は愕然とし、心の中で出遭わないことを祈ると、その祈りが実際に聞き届けられ、私は何事もなくボローニャ行きの列車に乗り込んだ』。「エドガルドと修道士はウンブリアの小さな町、フォリーニョ〔ローマの北北東約120キロ〕でいったん列車を降り、レストランで食事をした… エドガルドと教育係は再び列車に乗った。2人は無事にオーストリア国境に辿り着き、国境の向こうの修道院に避難した」】
  
  

「1878年2月7日」と表示され、ピウス九世は、多くの枢機卿や司教に見守られて息を引き取る(1枚目の写真、矢印)。そして、その直後、「ピウス九世の死後3年、ピウス九世の遺体はサン・ロレンツォ大聖堂に移された」と表示される〔実際には、1881年7月12日~13日にかけての真夜中に移送された/この時エドガルドはもう少しで30歳〕。この映画で一番問題のシーンが、教皇の棺を乗せた馬車がテヴェレ川を渡るシーン。大勢の抗議集団が集まり、「テヴェレに放り込め! その豚を放り込め!」と一斉に叫んで襲いかかる。葬列の中に加わっていたエドガルドは、必死になって止めようとする(2枚目の写真、矢印)。そこまではいいのだが、エドガルドは突然、何かに取り憑かれたように、「この教皇は豚だ! 放り込め! テヴェレに放り込め! 豚!」と叫ぶと、馬車を襲っている暴徒から走って逃げ出す〔この何の意味もない、矛盾した、バカげたシーンは、監督自身が狂ったとしか思えない。何のためにこのような欺瞞を入れたのか? 実際には、どうだったのか→→〕【原作(エピローグ)には、「教皇の棺は厳かな行列に囲まれ… 馬車や白いチュニック姿の聖職者、紫色のローブを着た枢機卿、悲しみに沈む司教、教皇の衛兵から成る行列がテベレ川の橋に差し掛かると、三色旗を振りながら愛国的な歌を歌い、反教皇のスローガンを叫ぶ無法な反教権主義の抗議集団に出くわした。そして、群集があわや棺を馬車から取り出して川に投げ込もうとした時、警察分隊が駆けつけて窮地を救った」とあり、エドガルドがいたとは書かれていない】〔エドガルドは、先に書いたように、1870年にオーストリアに逃げ、ブレッサノーネ(Bressanone/ボローニャの北約250キロのドロミテ地方/今はイタリアだが、当時はオーストリア)のノヴァチェッラ修道院(Abbazia di Novacella)にいたが、しばらくしてフランスのポワティエ(Poitiers/パリの南西約300キロ)に移り、前に書いたように、教皇の好意で1873年に司祭叙階を受けている。司祭になった人物が、それから5年後、こんな恩知らずなことを叫ぶハズがない〕
  
  

最後のシーン。映画でいつかは示されないが、実際には1895 年〔エドガルドは43歳/映画では、イタリア軍がローマを占領した19歳の時と、顔がほとんど変わっていない。せめてメイクで中年に見せるべきだ〕。母の死が近いので、ボローニャに呼ばれたエドガルドは、死の床にある母と2人だけになると、「この瞬間を長い間待っていました」と声をかける(1枚目の写真)。「あなたは私に命を与えてくれました。そして、私は… 洗礼を受けて… それをあなたに返します」。そう言うと、エドガルドは水の入ったビンを取り出し、母に洗礼を施そうとする。母は、「私はユダヤ人として生まれ、ユダヤ人として死ぬわ」と言うと、片手で顔を覆うと、「申命記6」の 「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」を囁くように唱え、そのまま死に至る【原作(エピローグ)には、「1878年、今は寡婦となり、9人の子供がすべて成人したマリアンナ・モルターラは、エドガルドがフランス南西部のペルビニャンで説教を行っていることを耳にした。そこで、友人に付き添われ、マリアンナはエドガルドに会いに行った。エドガルドは母親に深い愛情を抱いていたので、それは胸を打つ再会となった。しかし、エドガルドがどれほど言葉を尽くして母親を永遠の恵みと幸福の道に導こうとしても、マリアンナに “求道者に家” や修道院に入ることは承知させられなかった。その時からエドガルドは家族との連絡を保ち、年齢を重ねるに従って、イタリアへ行くたびに家族のひとりひとりを探すようになった。ところが、母親がエドガルドと和解する一方、すべての兄弟がそこまで軟化したわけではなかった」と書かれている】〔この記述によれば、「この瞬間を長い間待っていました」という言葉は変だし、死の間際に改宗を迫るのも不自然/しかし、映画化にあたり、原作の上記の部分がない以上、それを縮めて、このように描いたことは間違ってはいない〕。エドガルドと母が2人だけになってから母が死んだことで、リカルドはエドガルドを廊下に連れ出すと、「何がしたかったんだ? 母の人生を台無しにしおって! お前は、父さんの葬儀にも来なかった! 恥ずかしくないのか!」と怒鳴って突き倒す。家族全員が亡き母の部屋で悲しむ中、エドガルドは1人、カトリックの祈りを捧げる(2枚目の写真、矢印)〔上記の引用で、「すべての兄弟がそこまで軟化したわけではなかった」の代表はリカルドだろうか?〕。最後に、エドガルドの父について言及しておこう。【原作(第25章)では、1871年4月3日にモルターラのアパートで召使のローザ・トニャッツィが転落死し、4月5日、モモロ・モルターラが逮捕されたと書かれている】【原作(第26章)には、「1871年6月30日… フィレンツェ王立控訴院の3人の裁判官は、『トニャッツィの頭の傷は、モモロ・モルターラが突発的な激怒の末に、モルターラのアパートメント内において負わせたものであり、トニャッツィはその後、自殺に偽装するために窓から放り出された』と裁定した… モモロは体調が悪化する中、運命の行方を待ってさらに3ヶ月半勾留され、その間にも健康状態は確実に悪くなっていった… 10月18日、遂に重罪院の長官が最終審理の開廷を告げた… 10月27日、最終弁輪に続いて裁判官たちが評決に達した。モモロ・モルターラは無罪。裁判官はモモロを、7ヶ月近く暮らした刑務所から釈放するように命じた。それから1ヶ月後、モモロは息を引き取った」と書かれている】〔モモロは、1858年にエドガルドが連れ去られてから、ずっと苦しみ続け、1871年の二度目の災難で力を使い果たして亡くなる。なんという悲惨な人生だろう〕。最後の最後に、エドガルドにその後について… 【原作(エピローグ): 「エドガルドは、第一次世界大戦が終わる頃には、ベルギーのブエイ〔Bouhay〕にある司教座聖堂参事会の大修道院に移っていた。エドガルドは、ブエイに留まって黙想や学問や祈りや特別に愛着のある聖母マリアへの献身に専念することを好んだ。ブエイはルルドの聖母の聖地として、ピレネー山脈の麓の町ルルドで発見された聖地に次いで二番目に有名で、ピオ・エドガルドはルルドの奇跡との特別に神聖な結び付きを感じていた。1858年、聖母は忠実な信者の前に姿を現すことを選び、そのため、同じ年に2つの奇跡が起こった。ひとつはフランスの町ルルドで、もうひとつはイタリアで、ユダヤ人の家庭から引き離されたばかりの幼い少年、一介の商人の家庭の6歳の子供という無名の存在から、教皇や国務省長官、大使や首相、そして、短期間ではあるが皇帝を含む人々との関係に恵まれ、ほんの数日間で名士の仲間入りをした少年の前に聖母マリアが姿を現わした時に起こったのだ」「1940年3月11日、88歳の修道士が、長年暮らしたベルギーの大修道院で息を引き取った」】〔ベルギーのフランス語圏の中心地リエージュには確かにBouhayという地名の場所があり、そこにはBressoux-Église Notre-Dame de Lourdes à Le Bouhay(ブエイにあるルルドのノートルダム教会)がある。なぜルルドという呼称がついているかと言えば、フランスのルルドの洞窟のレプリカがあるから。この教会についての情報は少なく、錯綜している。2019年の記事では、1年半の間信者を受け入れておらず、売りに出されていると書いてあり、2022年の記事では、市立大学の提案で、教会を家庭内暴力の被害者のための受付兼宿泊センターに改造するが、地下室は礼拝の場として残すという案が出されたと書いてある。3枚目の写真に、ルルドのレプリカを含めた映像を掲載する。教会の建物は、原作に書かれているような「司教座聖堂参事会の大修道院」というよりは、もっと小規模な感じがするし、「二番目に有名」と言ってもただのレプリカでは寂しい限り。エドガルドはイタリアに幾らでもいい場所があるのに、なぜこんな二流の場所で生涯を終えたのだろうか? それに、原作の著者デヴィッド・I・カーツァーは、この地を訪れたことがないのでは?〕
  
  
  

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