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Vozvrashcheniye 父、帰る

ロシア映画 (2003)

映画の原題『Возвращение』には、「帰る、戻る」という動詞と、その名詞形の「帰還,帰宅」という意味だけでなく、「立て直し、挽回、救済、復権」、あるいは、その神学的な表現の「贖罪、救い」までが含まれる。映画を表面的に観ると、12年ぶりに突然帰宅した父の強引で命令調の態度に、父の記憶が全くない13歳の次男イワンは、何らかの神経障害を疑わせるほど過敏、かつ、批判的に反応するが、15歳の兄アンドレイは、叱られても、叩かれても自分のせいだと反省し、“父” としてすべての命令に従う。最近の映画は、登場する父親、もしくは、母親が異様なほど子供に対して虐待的なことがあり、その延長線上で捉えてしまいたくなる。従って、映画の冒頭近くに登場するアブラハムによる「イサクの燔祭」の絵は、父の暴行を暗示し、映画の最後の転落死は、一種の天罰だと感じられてしまう。しかし、つい最近紹介した『パードレノストロ』では、曖昧な形で マンテーニャの「死せるキリスト」が表象として使われていたが、この映画では、よりストレートに、“父=キリスト” を示唆する形で冒頭に使われている。父との最初の夕食は、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を想わせ、その中央にいる “父=キリスト” が再確認されている。墜落死した父の遺体をボートに乗せて海に押すシーンは、監督インタビューによれば、ボートが、二つの円が交わってできた中心のアーモンド型(マンドルラ)になっていて、復活したイエスを囲む光輪となっている。これだけ象徴が重なれば、父は、よくサイトで書かれているように、12年の流刑を終えた犯罪者か政治犯ではなく、“父なし子” として育てられたアンドレイとイワンを救うため、男らしく責任感のある人間として立て直すため、遣わされた存在とみなすこともできる。従って、最後の死は、自分を犠牲にして息子を救った愛の表現となる。映画は日曜に始まって1週間後の土曜に終る。父が死んだのは金曜、キリスト教の受難日・聖金曜日にあたる〔キリストは3日後の日曜に復活した〕。映画の中で、父は、息子たちの教育を中断し、昔、自分が島に埋めた箱を掘り出す場面がある。これは、父が遣わされし者だとすれば、使命に反するような行動にも思えるが、2017年の監督インタビューでは、「人が去る時はいつも、個人的な秘密に過ぎない何かを持って行くものだ」と逃げている。要は、この映画は、いろいろなスタンスで観ることができ、そこに “奥深さ” があることから高く評価されたに違いない。個人的は、あまり好きな映画ではないが…

ペテルスブルクの郊外に、母と祖母、15歳の兄アレクセイと13歳に弟イワンの4人家族が住んでいる。イワンが、防波堤の先端の塔から飛び込めなかったので、仲間外れにされ、それを許容した兄を追いかけて家まで帰ると、母から意外なことを聞かされる。もういない、死んだと思っていた父が、12年ぶりに家に帰り、眠っているというのだ。2人は、昔の写真を見てみるが、当時は、3歳と1歳なので記憶はない。4人で平和に暮らしていた中に、父親という 最高の権力者が突然入って来る。それだけでも心細いのに、その日の夕食時、父はどちらかというと無口で、取り付きにくい感じだった。そして、兄弟を明日から2日間、一緒に連れ出すと言う。2人はますます心配になる。案の定、父が運転する車の中で、会話は途絶え、父の命令調の言葉だけが響く。甘やかされて育ったイワンは、そんな父に対して、次第に反感を募らせていく。最初の衝突は、昼食を食べようと父が思っていた店が閉まっていたことで起きる。父は、車でレストランを探せばいいのに、アンドレイに探しに行かせ、無責任なアンドレイは、途中で用事を忘れ3時間も父と弟を放っておく。その後、食事に入った店では、イワンの方がストライキを始め、何も食べようとしない。父との関係は次第に険悪に。父は、一旦は2人をバスで返そうとするが、考え直し、自分の用事を済ます3日間、余分に付き合うよう命じる。この強引さに、イワンは強く反撥する。その日の夜は、湖畔でキャンプ。イワンは兄に、父に対する憎しみを訴える。そして、翌日、旅に出て僅か2日目、父とイワンの仲は決裂し、イワンは、途中で置き去りに。半日放って置かれ、豪雨でずぶ濡れになる。翌日は晴れ。父は、海のように広いラドガ湖畔に車を止め、そこからボートに乗って遠くの島に向かう。しかし、途中で電動船外機が故障し、父は、2人の息子に島まで漕がせる。自分を奴隷のように扱う父の態度にイワンは心底 頭に来る。翌朝、父は、2人を灯台に連れて行くが、イワンは登るのを拒否する。そのあと、父は、“この島に来た目的” を遂行し、島を離れようとするが、釣りが好きな2人はボートで釣りに行きたいと頼む。父は、1時間だけならと許すが、釣りに行った先で、イワンは兄を言い負かし、結局、4時間半後に戻って来る。しかも、1時間と約束した兄は謝ろうともしない。この無責任な態度に父は怒り、何度もアニドレイを引っ叩く。これを見た、“遅刻の原因者” イワンは、父から盗んだナイフをかざし、汚い言葉を並べて父を誹謗すると、今朝行った灯台目がけて逃げる。そして、心配して追って来た父が天辺に入れないようにし、飛び降りると脅したため、父は、外壁から上がろうとして失敗し、転落死する。

弟のイワン役のIvan Dobronravov(イワン・ドブロヌラヴォフ)は、1989年6月2日生まれ、兄のアンドレイ役のVladimir Garin(ウラジーミル・ガーリン)は1987年1月25日生まれ。撮影は2002年6月25日~8月2日なので、それぞれ、13歳と15歳。監督は、2人を探すのに苦労したと語っているが、そして、サイトやレビューの中には、特に弟の演技が上手だと褒めているものもあるが、子役の演技を見続けてきた私はそうは思わない。派手に人を嫌う演技は誰にでもできるし、イワンの表情は単調で毎回代り映えがしない。抑えた演技の方が難しいので、私は好きになれない。むしろ、飄々としたアンドレイ役の方が面白い。ただ、このウラジーミル君は、映画がロシアで公開された2003年6月25日の前日、ロケ地近くの別の湖に飛び込んで溺死した。享年16歳。因縁があるとは思いたくないが…

あらすじ

日曜日」と表示される。長い防波堤の先端に 鉄枠の上から木を貼り付けた高い塔が立っている。このロケ地は、後述するラドガ湖のPyatirechyeという村にあるSainasaari灯台。1枚目の写真は、グーグル・マップの定点写真。この防波堤は長さが650mもある。この塔のてっぺんには4人の少年がいる。下からは、「飛べよ、決めただろ。階段を使って降りる奴は、腰抜けのクソッタレだ」の声がかかる。年長のアンドレイが2人の飛び降りを指導する。2人だけになると、弟のイワンは、「ねえ、アンドレイ、階段で降りちゃダメ?」と訊く。「お前 バカか? クソッタレって言われたいのか?」。アンドレイは、「俺が先に飛び降りる。すぐに続くんだ。いいな?」と言って飛び降りる(2枚目の写真)〔足から、真っ直ぐ落下するので、いわゆる “飛込” ではない〕〔監督は、このシーンを一種の “洗礼” と捉えている⇒水に飛び込んだ兄は、父なる神に帰依できる人間になっている〕。イワンは、片足を柵から外に出し(3枚目の写真)、続いて両足を出すが、兄に 「チビ、早く飛べ」と言われると、柵を跨いで元に戻り、その場にしゃがみ込む。一番年長のボスは、「おい、そこで何してる。怖いんなら、階段で降りろ。待っちゃられねぇぞ」と急かす。兄は 「ワーニャ〔イワンの愛称〕、来い! 飛べ!」と叫ぶ(4枚目の写真)。待っていても何の反応もないので、放っておいて歩き出す〔イワンは、このあと、“父” に対して 汚い言葉でわめき散らすくせに、このていたらくは実に情けない〕〔イワンは、父なる神に帰依できる人間になれていない、という暗示〕
  
  
  
  

弱虫のイワンを置いて、4人、プラス、少し遅れて兄が、防波堤の上を歩いて去って行く(1枚目の写真)。夕方になっても、イワンは、塔の上に座り続ける。恐らく、アンドレイからその話を聞いた母が、息子のことを心配して塔の下までやって来る。イワンが 「ママ、母ちゃん!」と叫ぶと(2枚目の写真)、母は 「ここに来ちゃダメだって言ったでしょ」と言いながら、鉄梯子を登り、わざわざて天辺まで来る。母は 「服を着て」というが、「できない」。「帰るわよ」。「できない」。「なぜ」。「飛び降りないといけないから、階段は使えない」(3枚目の写真)。「なぜ?」。「腰抜けのクソッタレになっちゃう」。「誰にも分からないわ」。「でも、ママが知ってる。僕が飛び降りなかったって」。「ナンセンス。私は誰にも言わないわ。できるようになってから、飛び降りればいいじゃないの」。「ホント?」。「もちろん」。「ママ、僕、ここにずっと座ってて怖かった。来てくれなかったら、死んでたかも」。実に甘えん坊だ。家には、母と祖母しかいないので、どうしても子供を甘やかし、躾が行き届かない。だから、そこに “支配者” が現われ、自分の思い通りにならないと、強く反発し、躾がなってないので、普通では考えられないひどい反応を示すことになる。
  
  
  

月曜日」と表示される。廃棄されたコンクリートブロックの壁と、RCの柱と床で出来たビルの中で、昨日の5人がボールを蹴って遊んでいる。そこに、イワンが近づいて行き、「やあ、みんな」と声を掛けるが、誰も返事をしない。「ねえ」と催促すると、ボスが 「俺たち、クソッタレとは話さねぇ」と言う。「何て言った? 誰がクソッタレなんだよ?」。「お前だ、腰抜けのクソッタレ」。こう言われた時のイワンの顔が、映画の中で唯一まとも(1枚目の写真)。ボスは、「アンドレイ、どうなんだ? こいつ何なんだ?」と訊く。アンドレイは、相手が弟なので、短く 「腰抜け」と言う(2枚目の写真)。イワンは、「この野郎〔сволочь〕!」と言って兄に殴りかかる(3枚目の写真)。イワンには2歳上の兄を敬う気持ちなど全くない。昨日の醜態を恥じる気も全くない。ただの、自分本位で身勝手、弱虫なくせに身内にはやりたい放題の嫌な人間だ〔イワンは、誰かが “叩き直さない限り” 一生ダメな人間で終わることを示唆し、救済者としての “父” の出現の必然性を示唆している〕。この最低の弟を律しきれていない弱腰で、ある意味、責任感のない兄は、イワンを御しきれず、自分の家に向かって “ある意味、逃げる” ことで母親に救済を求める。
  
  
  

2人が家に辿り着き、戸口の外でタバコを吸っていた母に、それぞれの言い分を叫ぶと、母は、「2人とも静かになさい。お父さんが眠ってるわ」と静かに諫める。兄:「誰?」。弟:「誰が、眠ってるの?」(1枚目の写真)。「お父さん」。2人は驚き、言葉もない。2人が振り返ると、赤い車が停まっているのが見える。「中に入りなさい」。家の中では、祖母が難しい顔をしてテーブルに向かって座っている〔なぜ、喜びがないのだろう?〕。2人が寝室のドアをそっと開けると(2枚目の写真)、12年間会っていない父がベッドで眠っていた(3枚目の写真)。13歳のイワンにとっては全く記憶にない人間、15歳のアンドレイも、当時3歳では、覚えているとは思えない。この父の寝姿は、1475~78年頃描かれたとされる、アンドレア・マンテーニャの『死せるキリスト』(4枚目の写真)〔因みに、この有名な絵は、68cm×81cmと小さい〕と、全く同じ角度、姿勢、シーツなので、“父”、イコール、“イエス・キリストのような存在” であることを強く示唆している。
  
  
  
  

イワンは、屋根裏に登って行き、子供時代のものが詰め込んである箱の中から、聖書を取り出す。そこにアンドレイも加わると、遂に1枚の写真が見つかる(1枚目の写真)〔聖書に挟んであったことを、覚えていたことになる〕。この聖書は、1860年に初版が出された『Die Bibel in Bildern』という本で、Julius Schnorr von Carolsfeld(1794-1872)による240枚の木版画によって聖書の重要な場面を表現した有名な本。その後、何度も出版され、子供用の聖書ともなった。写真が挟んであったページは、アブラハムが、神の命により息子イサクを「燔祭の子羊」として捧げるよう命じられ、刃物を振り上げた瞬間、天から神の御使いが現れてその行為を止めた場面(2枚目の写真)。神は、アブラハムの信仰心の篤さを測るために、極度に厳しい試練を課し、それに応えたアブラハムは、義を認められたとされる。この映画では、これからアンドレイ、特に、我儘放題に育ったイワンに、厳しい試練が課されることを暗示している。そして、それを課すのは、“イエス・キリストのような存在” の “12年ぶりに突然帰って来た父” なのだ。久しぶりに両親と息子2人の写真(3枚目の写真)を見たアンドレイは笑顔になるが、不遜の息子イワンの心にあるのは、“見知らぬ第三者” によって “これまでの気儘で自分勝手な日常” を破られるかもしれないことへの怖れと怒りだけ(4枚目の写真)。
  
  
  
  

その日の夕食。長細いテーブルの両端に兄弟が座り、中央に父が座る(1枚目の写真)。この構図は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』におけるキリスト(2枚目の写真)を感じさせるとの指摘がある。父は、まず赤ワインを3人のグラスに注ぎ、乾杯しようとして、妻に、子供2人にも注ぐように命じる。2人は水で割ったワインを少量もらう。父は、グラスを上げると、「やあ、今日は〔Здравствуйте〕」と言い、イワンは 「どうも〔Здрасьте〕」、アンドレイは父と同じ言葉を使う。この2つの単語は、ともに、英語の「Hello」に近い言葉だが、「HiNative」というサイトで、両者の違いを尋ねた人に対するロシア人の返事は、後者は、「相手が初めての人、自分より年上・上役の人の場合には、失礼に当たる」というもの。これで、イワンの不遜ぶりが明らかとなる。父は、自分の前の皿に乗った鶏の丸焼きを手でさばき、骨付きもも肉を1つずつ兄と弟の皿に置く。アンドレイは、「表の車、あなたの?」と尋ねる。「そうだ」。「乗せてもらえる?」。「もちろん。小旅行に行くぞ。明日の朝、出発だ」。心配になったイワンは 「本当なの、ママ?」と訊く。「そうよ」。イワン:「釣りしてもいい?」。「ああ、もちろん、やりたければな」。夜になり、同じ部屋で寝ている兄と弟。2人は、釣りの道具や、持って行くもの(兄はカメラ、弟は日記をつけるノート)のことを話し合うが、その最後に、イワンは、「ねえ、彼、どこから来たのかな?」と訊く(3枚目の写真)。「帰ってきたんだ」。その後、声がするので、早く寝るように注意しにきた母に対しても、イワンは 「彼、どこから来たの?」と訊き、「帰ってみえたの」と、同じ返事をもらう〔なお、母とのやりとりの中で、小旅行は 当初の予定では2日間だったことが分かる〕
  
  
  

火曜日」と表示される。最初のシーンは、イワンが後部座席に座って路面をじっとみている姿(1枚目の写真)。助手席の兄は、地図を持ったまま眠っているが、この地図で場所は特定できない。ただ、湖がたくさんある場所で、これはサンクトペテルブルクの東部、フィンランド国境の南部の特徴なので、ロケ地とも合致している。その間、イワンはずっと起きている。寡黙な父は、そんなイワンをルームミラーで見て 「イワン」と呼びかける。返事は 「何?」。言い方が悪いので、父は 「何、パパ?」と言う。「何?」。「『何、パパ?』だ。なぜ、そう言わん?」。「何、パパ?」。「良くなった。なぜだ? 自分の父親をパパと呼ぶのが、決まり悪いか?」。「ううん」。「嘘付くな」。「嘘なんか付いてない」。「息子なら、パパと呼ぶんだ。いいな?」。「はい、パパ」。「それでいい」。車はさらに走り、途中の公衆電話で父が電話を掛けている。その時は、イワンが眠っていて、兄が起きている。イワンが目を覚まして 「アンドレイ、僕たち どこにいるの?」と訊くと、兄は 「やっと起きたか、チビ」(2枚目の写真)「ずっと眠ってるかと思ったぞ」と、笑いながら言う。「ずっと眠ってたのは、そっちじゃないか。まだ遠いのかな?」。「あと30キロくらいあるんじゃないかな」。「彼、どこにかけてるんだろう?」。「さあな」。「お腹減った」。「ガマンしろ。もうすぐ町だ。そこで食べる。パパがそう言ってた」。「今すぐ食べたい」。父が戻って来ると、車はすぐに出発。途中、兄が窓から身を乗り出して、前方をカメラで撮ろうとすると、イワンが、「そんなくだらないもの撮らないで、僕を撮ってよ」と声をかけ、兄もそれに応じる(3枚目の写真)。ここまでは、波風は立っていない。
  
  
  

町に着き、父が予定していたカフェの前で停まると、店は閉まっていた。ここで、父は異様とも言える態度に出る。「アンドレイ、食べられる店を至急探して来い」と命じる。「どうやって?」。「お前、バカか? 誰かに訊くんだ。急げ、すぐ戻れよ」。兄は、走って探しに行く(1枚目の写真)〔車で探しに行くのが常識なのに、なぜ兄を送り出したのだろう?〕〔当然、イワンもそう思っただろうし、父に対する不審感が芽吹いたのも、この時点であろう〕。次のシーンでは、アンドレイが 町の人に食堂の場所を訊き、指し示してもらった方に走って行く。車の中では、父がイライラして待っているが、いきなりエンジンをかける。見知らぬ町での出来事なので、イワンは 「アンドレイは どうなるの?」と心配する。「俺は 腹が減った。あいつも俺たちを探せるだろう。もう子供じゃないんだ」(2枚目の写真)。この先が、映画の中で一番理解し難い部分。アンドレイは数十メートル離れた所から、奥で3人が何かをしているのを見ながら、アイスクリームを食べている。そこに、父の声が聞こえる。「アンドレイ」。彼は、声の方を見る(3枚目の写真、矢印は遠くで行われている “何か”)。父は、「ここで、何してる?」と訊く。返事は、答えになっていない。「パパ、レストラン見つけたよ。そこで食べられる」。次の言葉には耳を疑う。「3時間もかけてか?」。「俺、見とれてたんだ、パパ」〔これほど離れて、何を見ていたのか?〕。「あっちでずっと待ってる間、お前はここで見とれてたのか? こんなことは 二度とせん。そうだな?」。3時間も待たせておいて、この “うすら馬鹿” は謝りもせず、「俺、ただ…」と言い訳をくり返そうとする。「返事をしろ!」。「もうしません、パパ」。父は、この愚かなアンドレイをこれ以上叱ることなく、「よし。じゃあ、昼飯にしよう。イワン行くぞ」と言う。すると、イワンは、「行かない」と言い出す。「なぜ?」。「食べたくない」〔ずっと前に、「お腹減った」と言った〕〔愚かな兄に対し、父の態度は寛容だったのに、なぜ拗ねたのか? 兄を1人で食堂探しに行かせたことや、兄を見捨てて車を出したことが許せなかったのか?〕〔ここが、イワンが父に反撥するきっかけの重要なシーンだけに、曖昧な脚本には失望した〕
  
  
  

レストランに入った3人。父と兄にはメインディッシュが運ばれてきたが、イワンはスープにも手をつけずに、ふてくされている〔料理を持って来たウェイトレスが何も言わずに料理を置き、兄が「ありがとう」というのは、ソ連時代の “愛想の全くない店員” がロシアになっても続いている、と言いたいのだろう〕。父は、イワンに 「2分で皿をきれいにしろ」と言うが、「食べたくない」〔「パパ」を付けるのを止めた〕。残り30秒になり、父は再度命令するが、イワンは「車で待ってる」と立ち上がる。父は、それを力ずくで止め、「座って、スープとパンを食べろ」と3度目の命令。イワンは、立ったまま父を睨みつける(2枚目の写真)。そして、ようやく 「はい」とだけ言う。「『はい、パパ』 だろ」。「はい」。「いいから座れ」。イワンは、当然、食べようともしない。2人の食事が終わると、父は、アンドレイに財布を渡し、ウェイトレスを呼んで勘定を済ませるよう命じる。アンドレイが立ち上がって払いに行こうとすると、呼びつけるよう教え、慣れないアンドレイが 「お姉さん、おばさん」と呼ぶと、父は 「ちょっといいですか」と言うよう指導する(3枚目の写真)。父は 「外で待ってろ」と言い、電話を掛けに行く。
  
  
  

レストランから出ると、兄は 「何を、突っ張ってたんだ? 感じ悪いぞ」と弟に注意する。それに対するイワンの返事は、最悪のFワード。「くたばれ〔Да пошел ты〕」。アンドレイは、こんな言葉で罵られても、それを咎めもせず、財布を見ながら、「こんな大金見たことない」と言っただけ。「だから?」。「別に」。アンドレイが、財布を見せびらかすものだから、年上の不良が2人寄って来て、2人に殴りかかり、財布を奪って逃げる。そこに、電話を終えた父が出て来る。役立たずのアンドレイは、父に、「パパ、財布を盗まれた! あいつら捕まえてよ!」と訴える。父は、「自分で できんのか?」と言いながら車に乗り込むと、車で犯人を追う。2人が、レストランの前の段差に座って待っていると、すぐに父の車が戻って来る(2枚目の写真)。父は、助手席の主犯の腕をつかむと、2人に「ついて来い」と言って建物の裏に入って行く。「こいつか?」。「そうだよ」。「やれよ」。「どういうこと?」。「好きなようにしろ。何を突っ立ってる? 殴られたんだろ?」。これは、『旧約聖書・出エジプト記』第21章23-25節の「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない」に当たる。しかし、アンドレイは 「いいよ、パパ、やりたくない」と断る(3枚目の写真)。父は、イワンに 「仕返ししろ」と言うが、彼も断る。父は、主犯に 「なぜ金を盗った?」と訊くと、「腹が減って」と答えたので、父は食事代を渡し、「失せろ」と逃がしてやる。
  
  
  

この2人の言動は、父をいたく失望させた。そこで、父は、“小旅行” を取り止め、車のバックドアから2人のバッグと釣り竿を出させ、「あのバスに乗れ。大事な用がある」と命令する。アンドレイが 「滝に連れてくって約束したじゃない」と反論すると、「今度だ」。それを聞いたイワンは、生意気な口調で 「12年後だ」と言う。「何だと?」。「今度あんたがやって来て、僕らを滝に連れてくのは、12年後だって言ったんだ。気に触ったかい?」(1枚目の写真)。それだけ言うと、イワンはバスに向かう。まだ残っていたアンドレイに、父は 「弟と一緒に行け」と言い、直ちに車に乗り込むと、走り去る。バスに乗った2人。兄は 「多分、お金のせいだ」と言う(2枚目の写真)。イワンは 「違う、金じゃない」と反論。「なら、お前がレストランでふてくされたせいだ」。「そうじゃない」。「なら何だ、知ったかぶり〔умник〕?」。「僕らなんか要らないんだ。兄貴も僕も。それが分からんのは、間抜け〔придурок〕だけさ」。「誰が、“間抜け” なんだ?」。「兄貴さ」。「お前は、腰抜けだ」。イワンは、「ムカつく」と言って、席を代わる。すると、父がバスの窓を叩き、「降りろ」と命じる。父の車に乗り込むと、イワンはすぐ、「何だよ、用事とやらは大事じゃなくなったから、滝に行くんかい?」と からかうように訊く。「いいか、ある場所に行って用事を済ますのに3日かかる」(3枚目の写真)「滝に行くのは、それからだ。いいな?」。イワン:「ママは? 明日の朝 帰ると思ってる」。父は、イワンに答える。「3日、余計にパパと過ごしたくないのか? それとも、もう12年待つのか?」〔父は、イワンの暴言をちゃんと覚えている〕。父は、アンドレイにも意見を求める。彼は、父にいろいろ借りがあるので、「釣りもしたいし、ママも 僕らがパパと一緒なら…」と肯定する。「イワンは?」。彼は返事すらしない。父は小さな漁港に行き、そこで電動船外機を買い求める〔電話していたのは、この交渉の可能性が高い〕
  
  
  

その日の夜は、森の中でキャンプ。2人は、湖のすぐ近くなので、暗くなる前にすぐ釣りに行く。その間、父は焚火用の薪を割るのに精を出す。2人は、辺りが暗くなっても、まだ釣りをしている(1枚目の写真)。真っ暗になると、3人は焚火の前の丸太に座る。父は、漁港で買ったパンに何かを塗ったものを、2人に渡す。イワンは、「魚はどうするの?」と訊く。アンドレイは「スープを作ったら? パパ、できる?」と訊く。「できるが、魚は食わん」。「なんで?」。「一度食べた」(2枚目の写真)〔この台詞が謎。ロシア語字幕は「Наелся однажды」で、俳優もそう言っている。ところが、英語字幕は、「I've had too much fish」。それを受けて、DVDの日本語字幕も、「食い飽きた」になっている〕〔海外の英語サイトを見ても、この英語字幕から、12年間、父は漁師だったとか、シベリアに流されていたとか、推測が並べられているが、ロシア語は、一度食べてうんざりした、というような意味合い〕。アンドレイが 「どこで?」と訊くと、「遥か遠くだ」とだけ答える。食事が終わり、自分たちのテントに入った2人。イワンは、「なぜ、あいつ、魚のこと話したのかな? どこの話かなで起きたんだろう?」と、兄に囁きかける。「兄貴が 『どこで』って訊いた途端、あいつ、話を打ち切りやがった。どうしてだ?」。「思い出したくないんだろ」。「あいつ、嘘ついてる」。「嘘じゃないさ。なんでそんなこと言える?」。「誰も、あいつのこと知らない。きっと悪党だ。森の中に連れてって、僕らを刺し殺す気かも」。イワンは、憎しみのためか、さらに非常識なことを言い出す。「あいつ誰だ? なんで あいつが親父だって分かる?」。これに対しては、兄が、「バカ! ママが父さんだって言ったじゃないか」と諫める。
  
  
  

水曜日」と表示される。早朝イワンは一人、湖に突き出した倒木に座って魚釣り。父と兄は、テントを畳んでいる。次のシーンでは、倒木のイワンに向かって、兄が、「チビ、竿をしまえ、出発だ」と声をかける(1枚目の写真)。「どこへ?」。「先へだ。聞こえなかったのか?」(2枚目の写真)。車に乗った後も、イワンは後部座席で小声でブツブツ文句を並べる。「なんで出発したんだよ? やっと食いつき始めたトコだったのに。エサが全部無駄になっちゃった」「あんなカマス見たことない。新しいリールを試せたのに」。そのうち、父が兄に、「ベケトヴォまであとどれだけある?」と訊く〔Бекетовоはサンクトペテルブルクの東約500キロにある小集落だが、そんなに遠くまで来ているハズはないので、架空の地名だろう〕。これを聞いたイワンは、父に向かって 「なんでベケトヴォなんかに? ここで一杯 釣れるじゃないか!」と、自分勝手なことを言い出す。この病的なまでに利己的な少年は、父が 「俺は ある場所に行って用事を済ますのに3日かかる。滝に行くのは、それからだ。いいな?」と言ったことを、完全に忘れ、すべてが自分の釣りのためにあると思い込んで、不満をぶつけている。
  
  
  

怒った父は、小川に架かる橋の手前で車を停め、「その泣き言は何だ?」と訊く。「別に。ここでも釣れるって言ったんだ。僕たち、バカンスに来たんだろ?」。父は、車から降りると、バックドアを開けて竿を取り出すと、後部座席のドアを開け、「降りろ」と命じる。そして、無理矢理に引きずり降ろす、竿を渡し 「釣りをして来い」と言うと、イワンを橋に残したまま、車を出す(1枚目の写真)。幅10メートルほどしかない用水路のような場所で、大きな魚が釣れるハズもないので、イワンは “見捨てられた” ショックで茫然とする(2枚目の写真)。ただ、反省するわけではなく、“父” なる存在に対する憎しみは増すばかり。長い時間が経ち、天気も急変し、叩き付けるような土砂降りとなる(3枚目の写真)。
  
  
  

イワンが同じ格好で座り続けていると、父の車のクラクションが聞こえたので、立ち上がり、車まで歩いて行き、ずぶ濡れのまま車に乗り込む。兄は 「釣れたか?」とからかうが、父は 「着替えろ」と服を渡してくれる。それなのに、イワンは服を撥ね退け、「なぜ戻ってきたのか、言えよ」と乱暴に訊く(1枚目の写真)。さらに、「なんでだ? なんで連れて来た? 僕らなんか要らないハズだ。あんたなんかいない方が、ママとお祖母ちゃんだけの方が幸せだ。なんで帰って来た?」と非難。そして、もう一度、「なんで連れて来た? 答えろよ!」とくり返す。「ママに、一緒に過ごせと頼まれた」。「ママが頼んだ? あんたはどうなんだ?」。「俺も行きたかった」。「何のため? 僕らを嘲(あざけ)るためか?」〔日本版DVDでは、“虐める” と訳しているが、“издеваться” にそうした意味はない。観る者を迷わす誤訳〕。父は、「着替えろ」としか言わない。その後、車は森の中の山道に入って行き、タイヤが泥濘(ぬかるみ)にはまって動かなくなる。外は相変わらずの土砂振りで、おまけに、次第に暗くなり始めている。父は、左後輪の状態を見て、2人に、靴を脱ぎ、雨ガッパを着て外に出るよう命じると、兄に斧を渡して 「枝を切って来い」と言う。自分は、埋まったタイヤの前後をスコップで掘る。ここに至っても “性根が叩き直らない” イワンは、枝を切っている兄に、「もう、これ以上行きたくないって言おうよ。あいつに、連れ帰らせるんだ。家に戻りたい」と言う(2枚目の写真)。アンドレイは、「やだね」と断り、父の要請に応えて大急ぎで切った枝を持って行く。父は、枝をタイヤの下に入れるよう指示し、どうやるかやって見せる。兄も、それに倣ってやってみるが(3枚目の写真)、父から 「何をバカやっとる!」と叱られ、「なら、自分でやれよ」と反撥し、頭を車体にぶつけられ、鼻血を出す。父は、ちゃんとやり直し、運転席に乗って2人に後ろから押させるが、動かないので、兄を運転席に座らせ、自分で押して泥濘からの脱出に成功する。
  
  
  

木曜日」と表示される。翌日は快晴。車は ラドガ湖畔に着く(1枚目の写真)。ラドラ湖は、サンクトペテルブルクの都心から最短で35キロの所にある湖。湖とはいえ、面積は17600 ㎢(出典による異なり、ここではブリタニカの数値を採用)もあり、何と日本最大の琵琶湖(669 ㎢)の26倍もある! だから、まるで海のように対岸が見えない。父は、そこでボートの修理にかかる〔12年ぶりにこの地を訪れた人間が、そこに “修理が必要だが、電動船外機を付ければモーターボートとして使える廃船” があることを、なぜ知っていたのだろう?〕。父は、まず火を起こし、そこに、イワンがバケツでタールを持って来る。父は、「見つけたか? よくやった。焚火の上に置いて」と言うが(2枚目の写真)、タールなんか、そんなに簡単に見つかるものだろうか? 父と兄は、棒の先に布を巻き付けたものを作っている。次のシーンでは、その棒を溶けたタールに浸し、それを、“底を上にしたボートの表面” に2人で塗る(3枚目の写真)。イワンが持っているものは2本のオールだが、これも、どうしてボートから離れた場所にあったのだろう? このシーンは、一見順調に見えて、あまりにも偶然が重なり過ぎ、現実とは思えない。
  
  
  

湖面に押し出し、電動船外機を付けると、ボートは快調に動き出す。ボートの後方にも前方にも陸地は見えない。ところが、天気がまた急変し、それに合わせるように、電動船外機がストップする〔そんな安物を購入した?〕。この次の父の言葉は、あまりにひどい。電動船外機の故障に関して何らかの詫びがあってしかるべきだと思うのだが、彼は、「オールを持て」とだけ命じる。2人が場所を移動し、ボートの中央に座れると、「何を見とる。漕げ!」。2人は、そもそもボートを漕いだことがあるのだろうか? 息を合わせて同じ力で漕がないと、ボートは真っ直ぐ進まない。それを、いきなり「漕げ」とは、ひどい父親だと思う。しばらく時間が経ち、辺りは暗く、そして、土砂降りに。父の叱咤が飛ぶ。「イワン、船首を波に直角に保たんか、この間抜け〔бестолочь〕!」。「無理だ!」。「チームでやろう。オールを上げろ! じゃあ行くぞ。漕げ」。2人は同時にオールを入れて漕ぐ。父の号令で、2人は漕ぎ続ける(2枚目の写真)。体力のないイワンが、「もう無理だ」と音を上げる。「やれるぞ」。「あんたがやれよ。強いんだから」。父は、それには答えず、号令をかけ続ける。ボートは、何とか目的地の島に辿り着く〔この場面の父の印象は悪い。イワンに号令をかけさせ、彼が漕ぎ役に回るべきだったと思うからだ〕。雨は止んでいる。父は、荷物を2人に持たせて砂浜に上げ、ボートを木の杭に縛り付ける。そのあと、砂浜で焚き火。ここでも疑問。①枝はどこにあったのか? ②雨で濡れていて なぜ燃えるのか? 火の前に座った3人。イワンは。掌に布を巻いているが、オールを漕ぎ続けて皮が剥けたのだろう。父は、まず、ウォッカの入った水筒を取り出すと、アンドレイに、「息を止めて呑み込め」と言い、少量を飲ませる。次に、イワンに飲ませようとすると、「要らない」と言う。父は、イワンの顎を掴むと、90度回転させて自分の方を向かせ(2枚目の写真)、「飲め」と強要する。イワンは 仕方なく飲むと、そのまま立ち上がり、いつの間にか出来上がっていたテントの中に入る〔最初のイメージでは、“父”、イコール、“キリスト” を指していたが、今の父はサタンに近い〕。テントの中で、兄は 「大丈夫か、チビ?」と訊く。「今度、僕に触ったら、あいつを殺す」(3枚目の写真)。「本気か?」。「触ったら、殺す」。
  
  
  

金曜日」と表示される。朝。テントから出て砂浜に座った2人。父はどこかに行っていない。そこでの主な会話は、①イワンが父のテントからナイフを盗んだ、②釣りをしたいが 砂浜にはミミズがいない(1枚目の写真)。すると、父が現われ、「おい、ねぼすけども。何をじっとしとる。来い。島を見せてやる」と言う。イワンが、「朝食は、どうすんだよ?」と拗ねる。「後でいい。行くぞ」。イワンは、ふてくされ、動こうとしない。「イワン、どうした?」。「足が痛い」。「寝過ぎたんだ。行くぞ」。さんざゴネた末、イワンは仕方なく後に付いて行く。普通に歩けるので、足が痛いというのは嘘だ。イワンは、途中で砂地に死んだカモメが横たわっているのを見つける。あるロシアの評論家は、「これは、鳥が飛んでいる時に死んで落下したことを意味する。これは 一種のシンボルで、誰かが島から戻らず、残ることを意味する」と示唆している。次のシーンで、イワンは、映画の冒頭に出てきたような鉄骨と木でできた塔〔灯台〕を見ている(2枚目の写真)。映画の冒頭の塔は、あらすじの最初に書いたように、ラドガ湖のSainasaari灯台として、それなりの観光スポットになっているようだが、こちらの灯台は、どうやっても存在を確認できなかった。3枚目の写真は、サンクトペテルブルクの西のフィンランド湾に突き出たPikhlisaar岬の灯台〔形が似ている〕。こうした粗雑な形式の灯台が、かつてのソ連流だったのか? 3人が塔の下に着くと、父は 「後に続け。すごい見晴らしだぞ」と言い、鉄梯子を登り始める。一歩引いたイワンに、兄が 「怖いのか?」と訊くと、「足が痛い」と言って登らない。てっぺんまで登ったアンドレイは すごい展望に感激する(4枚目の写真)。
  
  
  
  

3人は浜辺に戻り、遅めの朝食をとる。父と兄の仲がいいのが目立つ。イワンだけゆっくり食べていたため、父に、「アンドレイと俺は薪を拾ってくる。イワン、お前は皿洗いだ」と言われる。「なんで、僕が?」。「最後まで食べてる奴が、きれいにするもんだ」。イワンは、反論しなかったが、父の皿を海に投げ捨てる。薪拾いが済むと、父は 「散歩してくる」と言い残し、バッグパックを持って出かける。父は、屋根のなくなった廃屋の中の地面を掘る。深さは1m弱。穴の底から取り出したものは、大きな木の箱(1枚目の写真、矢印)。蓋を開けると、一番奥に小さな金属の小箱が入っている。小さい割に重い小箱を取り出すと(2枚目の写真、矢印)、それをバックパックに入れる。ガラスも何もない窓枠の向こうには、ミミズを探しにきた兄弟が見える。2人が小屋まで行くと、中に大きな穴が掘ってある。2人は、それを父が掘ったとは気付かず、中に集まっているたくさんのミミズを集める。父の方は、2人がそんな近くに来たことに気付かず、ボートに向かうと、持って来た重い小箱を、ボートの物入れの中に置く(3枚目の写真)。この箱が、解説で述べた「個人的な秘密に過ぎない何か」。掘っている土地の硬さから、父、もしくは、その関係者が12年前以上前に、こんなへんぴな所までわざわざ来て、埋めたことに間違いはない。2人の息子をここまで同行させたのも、この箱を掘り出すという最重要のミッションのためだ。そして、その描写に1分以上の時間を割いたにもかかわらず、何の説明もせず、答えをはぐらかすのは、あまりいいやり方とは思えない。“父”、イコール、“キリスト” という、監督の目指す路線からも、大幅にズレている。
  
  
  

兄弟は、ミミズを持ってボートまで来る。イワンはボートで釣りに行こうとするが、アンドレイは 「待てよ、父さんの許可を取らないと」と言う。「なんで? 僕らで漕げるだろ。押せよ」。この 情けない兄には、自分の意志がない。父に言われれば言われたままに、弟に言われても反論もせず唯々(いい)として従う。アンドレイが、イワンの乗ったボートを “部下のように” 押し始めると、父の声が響く。「おい、どこに行く? 戻れ!」。イワンは 「海岸から離れない」と言い、アンドレイも 「パパ、ちょっとだけ」。箱の回収という唯一かつ最大の目的が完了してご機嫌の父は、腕時計を外してアンドレイに渡すと、「持ってけ。1時間やる。3時半に戻れ」という(1枚目の写真、矢印は腕時計)。父は、ボートを押し出すと、「1時間で戻れ。見える所にいろ」と念を押す。「分ったよ、パパ」。30分経ち、兄は、「おいチビ、帰るぞ。もう3時だ。父さんが30分で戻れと言った」と言う。「あと2・3回 投げたら」。「無駄だ。今日は、食いつかない」。「アンドレイ、少し先まで行こう」。「父さんが、戻れと」。「また それだ! さっと行って、さっと戻ればいい」。この懲りないバカ兄は、「分かった」と、“弟、ご主人様” の言う通りにする(2枚目の写真)。父が、電動船外機の整備をしていて、ひょいと海を見ると、ボートの姿がどこにもない。2人は、廃船の奥にある壊れた桟橋まで行き、そこに係留された別の廃船の中で釣りをする。その時も、竿を取りに走らされたのは兄。2人が、ボートを漕いで戻ると、待ちくたびれた父は、「アンドレイ、何時だ?」と訊く。恐らく、それまで一度も時計など見ていなかったアンドレイは、「7時だよ、パパ」と答える。謝罪もしない。彼は、火曜日にも、食堂を探しに行って3時間平気で待たせた。今回も、約束の3時半を3時間半も超過している。恐らく、注意欠陥・多動性障害(ADHD)なのであろう。「何時までに戻れと言われてた?」。「3時半」。ここで、イワンが口を出す。「魚、見てよ」。「お前に話してない」。父は、立ち上がると、「どうして こんなことに?」。「それは…」。ここで、左頬を一発。すぐ、右頬を一発。「何すんだよ?」。「呼んだの、聞こえなかった?」。「ううん」。左頬を一発。「叩かないでよ。説明するから。魚がかかったから…」。「時計を渡したのは何のためだ?」。「時間を忘れないよう」。「で、どうなった?」。「魚を獲った」。左頬を強く一発(3枚目の写真、矢印)〔なぜ、素直に謝らないのだろう?〕。責任を感じたイワンは、「叩かないで。僕なんだ。引き留めたのは。廃船があって…」と父にすがりつくが、投げ飛ばされる。兄は、「パパ、ホントだよ。叩かないで。イワンが言い出したんだ」。この責任転嫁に対し、さらに、左頬に一発。「人のせいにするな。時計を持ってたのは、お前だ」。兄も遂にキレる。「だから、何だ? 俺に、どうしろって? クソ野郎、ろくでなし!」。さらに一発。「殺すなら、殺せ! こん畜生、大嫌いだ!」。父は、「殺せだと?」と言って、斧を手に取る。
  
  
  

ここで、イワンは、父から盗んだナイフを取り出し、「やめろ! 兄貴に何かしたら、お前を殺してやる!」と怒鳴る。「俺を殺すだと?」。そう言いながら。父はイワンに近づいて行く。「止まれ! 近づくな!」(1枚目の写真、矢印はナイフ)。さらに、「もっと違ってたら、好きになれたのに。お前は最悪だ。大嫌いだ! 僕らを折檻することしか考えてない! お前なんか、赤の他人だ!」と怒鳴る。「お前は間違っとる」。「違う! 違う!」。そう叫ぶと、イワンはナイフを捨てて逃げ出す。父はイワンを追う。イワンは 今朝の塔まで行くと、登り始める。そして、父より先に天辺まで登ると、梯子の上の蓋を閉じ、父が入って来られないようにする(2枚目の写真)。父が、蓋を叩きながら、「開けろ! 中に入れろ!」と叫ぶと、「僕を どうする気だ? 行っちまえ!」と反撃。「坊主、頼む」。「行かないと、飛び降りるぞ。聞こえたか? 飛び降りるぞ、いいな?」。イワンは、灯台のレンズまで登ると、「聞こえるか、僕には、何だってできるんだ!」と叫ぶ。父は、外側から天辺に上がろうと、木の枠をつかんでよじ登ろうとする(3枚目の写真)。しかし、木の枠が外れ、そのまま落下、地面に叩き付けられる。イワンは、自分が仕出かしたことを、上から見る(4枚目の写真)。
  
  
  
  

下まで降りたイワンは、兄の横に行き、父の死体を見る(1枚目の写真)。兄は、「運ばないと」と言う。「どこへ?」。「ボートだ」。「でも、どうやって?」。「手でだ」。そして、父の頭の前にしゃがむと、肩をつかむ。「何を見てる。足を持て」。しかし、こんな方法では重くて運べない。今度は、2人で、父の腕を一本ずつ持って引きずろうとするが、これもダメ。兄は、イワンに斧を取って来させ、タイヤが泥濘にはまって動かなくなった時の対処法を参考に、木の大きな枝を父の下に入れ、地面との摩擦を減らすことで、枝に乗せた父を引きずって行く。辺りはもう真っ暗だ(2枚目の写真)。2人が、父の死体をボートの所まで引きずって来た時、もう夜は終わりかけていた(3枚目の写真)。
  
  
  

土曜日」と表示される。2人は、父の死体をボートに乗せ、電動船外機を取り付け、湖に押し出す(1枚目の写真)。この時の構図を、監督は、「ふたつの弧を合わせた楕円に近い形のなかに、人の身体があります。これはイエスです。二つの弧を延長していくと二つの円になり、それぞれが生と死を表します。この生と死が重なる部分は、キリスト教ではマンドルラと呼びます。キリストが死んでから三日後に復活することを、私たちは変容を遂げたという言い方をし、このシンボルはその変容を象徴しています」と述べている(2枚目の写真は、マンドルラの一例)。3枚目の写真は、ボートに黙ったまま載っている兄弟。2人の背後に見えるのは、電動船外機のスクリューで攪拌された湖水。岸に近づいたボートは、湖底の何かにぶつかって大きく揺れ、それと同時に電動船外機も止まる。その後は、兄がオールで湖底を押してボートを進ませる(4枚目の写真)。それ以上進めなくなると、兄は、靴を履いたまま浅い湖底に足を踏み入れ、船首に結ばれたロープをつかみ、岸に向かって引っ張る。それもすぐに限界に達し、兄はロープをボートに投げ込むと、イワンから渡された荷物をかついで行き、砂浜に向かって投げる。それを2度行うと、軽くなったボートを引っ張って少し岸に寄せ、イワンが足を濡らさずに砂浜に飛び移れるようにする。
  
  
  
  

「荷物を車まで運ぼう」。2人は、それぞれの荷物を持ち、ふらふらしながら車まで歩いて行く。2人は、バックドアを開け、荷物を全部中に入れる。そして、兄がバックドアを閉める(1枚目の写真)。そして、「ちょっと 休もう。そしてら、あれを運ぼう」。疲れたイワンがバンパーにもたれてウトウトしていると、兄の、「パパ!」という叫び声が聞こえる。イワンが起き上がって声のする方を見ると、ボートが岸から離れ、兄がそれに向かって走って行く。イワンも、「パパ!」と叫んで走り始める(2枚目の写真)。しかし、湖底に衝突した弾みで応急的に塗ったタールが傷ついたボートの中には湖水がどんどん入り、父の死体も沈んでいく(3枚目の写真)。兄は、水際の所で止まり、イワンだけが 「パパ!」と叫びながら湖の中まで走って行く。4枚目の写真は、映画が始まってすぐに流れる映像。それは、この沈んだボートの数ヶ月後(?)の姿。右下の白いものは電動船外機。父の死体は、所期の目的を果たして天に戻ったのか、魚に食べられたのか、どこにもない。
  
  
  
  

兄と、戻って来たイワンは、水際に立って 父が沈んでいった水面を見ている(1枚目の写真)。父の死の直接原因を作ったイワンの方が、当然、ショックは大きい。兄が、その場を去っても、イワンはしばらく湖を見続ける。兄が、運転席に座っている車に乗り込んだイワン。ドアを強く閉めると、弾みでサンバイザーに挟んであったものが落ちてくる。戻そうと思って、サンバイザーを下に向けると、裏に何か貼ってある。イワンは 何だろうと開き、それが自分たちの写真だったと知り、兄に見せる(2・3枚目の写真)。2人には、父がこの写真を大切に持っていたことが分かる〔この写真に、なぜか父は映っていない〕
  
  
  

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