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Ender's Game エンダーのゲーム

アメリカ映画 (2013)

SFもしくはファンタジー小説を対象とするヒューゴー賞とネビュラ賞を同時受賞した『エンダーのゲーム』(1985)の映画化。この原作は、エンダー年代記として これまでに18冊が刊行されていて、その最初の1冊なのだが、年代記を “描いている時代順” に並べると、『エンダーのゲーム』は6番目に当たる。『エンダーのゲーム』と対になっているのが、同じ内容を、もう1人の登場人物ビーンの目を通して描いた『エンダーズ・シャドウ』(1999)。そして、その続編が『Ender in Exile(流浪のエンダー)』(2008)。ここでは、ビーンとペトラの間に生まれた子供が、ガンジスという植民星の支配者として登場する。そして、その続編が、ヒューゴー賞とネビュラ賞を2年連続で同時受賞した『死者の代弁者』(1986)。『エンダーのゲーム』の1830年後から始まるこの難解な作品では、エンダーは35歳。光速旅行をくり返したため、実年齢は宇宙の年齢より遥かに若い。しかし、この未来の世界では、エンダーは、「ゼノサイト〔異類の生物を意図的に皆殺しにすること〕のエンダー」という “極悪非道の歴史上の人物” とされている。エンダーが対バガーの戦闘訓練を受けていた頃の世界では、『エンダーズ・シャドウ』の訳文を借りれば、「彼らが再び襲ってきて、ありとあらゆる生命が皆殺しにされ、地球は焦土と化す」というのが、一般の人々の受け止め方、あるいは、世界をコントロールしていた国際艦隊〔International Fleet〕が人々に植え付けようとしたイメージだった。バガーと呼ばれるアリから進化したようなエイリアンが地球を襲ったのは、現代から100年近く未来。それは、第一次と第二次の侵略と称されるが、そこで実際にエイリアンが地球でどんな虐殺を行ったかは原作に書かれていない。映画では、冒頭に、「50年前、バガーとして知られるエイリアンが地球を襲った。数千万人が死んだ。偉大な指揮官の犠牲により人類絶滅は免れた」というエンダーの独白が入るので、エイリアン侵略の重大性が分かりやすくなっている。原作では、50年ではなく、80年前に第二次侵略があり〔小説の中でも年数は統一されていない〕、その際に、小惑星帯〔火星と木星の間〕にあったエイリアンの前哨拠点エロスという小惑星を手に入れたことで、国際艦隊はいろいろな知識を学び、アンシブル〔瞬時の通信〕、星間飛行、ドクター・デヴァイス〔分子分離装置〕、重力制御などの技術を手に入れ、70年前から敵の故郷世界に向けて戦艦を送り出していた。最初の艦隊を故郷世界の近くに、より後年に送り出した新型の艦隊は、順次、その後ろを守るように送り込み、70年後に一斉攻撃ができるように計画を練ってきた〔遠距離なので到達するまでに時間がかかる〕。それぞれの艦艇には人間が乗り組んでいたが〔光速に近い飛行のため、ほとんど加齢しない〕、これらの巨大な艦隊の戦闘司令官として国際艦隊が想定していたのは、天才的な少年だった〔指揮は遠距離からアンシブルで執る〕。そのため、国際艦隊は、世界中から天才児を集め、地球の周回軌道上に設けたバトル・スクールで、何度も実践的な戦闘ゲームを行い、その中から選り抜いたベストの者を、エロスにあるコマンド・スクールに送り、戦闘司令官として鍛え上げるという作戦だった。コマンド・スクールで行われるのも、すべてコンピュータ上での模擬戦闘、現代流に言えばeスポーツをもっと現実化したゲームで、それを少年が行うのは至極当然なことであった〔敏捷性、瞬時の判断力、ためらいのなさなど〕。1985年の執筆段階で、eスポーツを予知した作者の才能は素晴らしい。バトル・スクールの校長は、エンダーに対して、「あそこにバガーどもがいるんだ。我々の知る限り、百億、千億、百万兆も。そして、我々の知る限り、それと同じくらいの数の船もある。我々には理解できない武器も。しかも、敵は、我々を一掃するためにその武器を使うことを辞さない。瀬戸際に立たされているのは世界ではないんだよ、エンダー。我々だけ。人類だけだ……だが、人類は死にたくない。一つの種として、我々は生き延びるために進化してきた」(田口一江訳)と、訓練の意義を強調する。しかし、この映画のDVDに入っている監督のコメンタリーを聞くと、彼は、くどいほど、この “戦争” を矮小化し、現代の世界における地域紛争と同一化し、一方的な先制攻撃が悪だと言い切る。この、二流の監督〔大作やSFの経験ゼロの南アフリカ人〕の “誤解” が、映画そのものを矮小化してしまっている。エンダーは、優しさの中に、“絶対に誰からも助けてもらえない” という覚悟を持った少年なのだが、監督は、エンダーは、善と悪の混じった少年だと、これまた誤解している。こうした、お粗末さに輪をかけたのが、映画製作が始まってから起きたVFX会社の倒産。これで予算が削られることになった。おまけに、製作会社からの、2時間を切れという圧力。だから、この映画の上映時間は114分。そして予算1.1億ドル。この双方に無理があった。同年に製作された『アイアンマン3』は130分、2億ドル。『スター・トレック イントゥ・ダークネス』は132分、1.9億ドル。この20分弱の時間差と、倍額近い予算が、この映画から生命を奪った。原作では、エンダーは6歳でバトル・スクールに入学し、6歳9ヶ月でラーンチイ〔Launchy〕と呼ばれる幼年組から、サラマンダー隊〔Salamander Army〕の隊員に抜擢される。9歳半でドラゴン隊の隊長となり、10歳でエロスのコマンド・スクールに送られる。そして、11歳の終わりにエイリアンを全滅させる。この映画の主役エイサ・バターフィールドは出演時14-15歳にかけてなので、いくら監督が最終決戦の年齢に合わせたといっても11歳と15歳とでは違い過ぎる。ただ、ミスキャストとは言えない。エンダーのような複雑な人間を表現できる演技力のある子役は、製作当時、エイサをおいて他にないことと、戦闘司令官が11歳ではいくらなんでも違和感があるので、エイサは最良の選択であろう。ただ、問題は、校長のハリソン・フォードが撮影時69歳と高齢なこと。いくらハリソンが高名でも、校長としては50歳くらいの俳優が望ましい。ラッカム役のベン・キングズレーは適役かもしれないが、彼にほとんど演技をさせていない。これは脚本の失敗。バトル・スクールの最初のラーンチイのお守り役が、監督の南アでの従軍経験から鬼軍曹になったのは原作と乖離しているし、この軍曹が、その後、遠く離れたコマンド・スクールまでわざわざ同行するのはバカげている〔俳優の人件費の削減?〕。何と言っても一番問題なのが、子供の少なさ。『ハリー・ポッター』では、それなりの人数がいて何とか原作の雰囲気が出たが、サラマンダー隊は隊長を入れて15名。原作は41名だ〔 10人編成の4個小隊+隊長〕。無重力状態での戦闘の特殊効果の費用のためだろうが、両軍合わせて30名と82名とでは雰囲気が全然異なる。戦闘の描き方もまずいし、戦闘の回数は2回しかなく、監督は2時間以内に抑えるためと言っているが、最も重要な部分をカットしたのでは、この映画の魅力が半減する。サラマンダー隊の隊長のボンソーが、“小柄で年少” のはずのエンダーより20センチの短小なのも見苦しい。たいした役でないので、なぜ大柄な少年を選ばなかったのか? 食堂の場面も不味い。隊は原作では10以上ある。つまり、400人を超える年長組が食堂に集い、戦闘成績について論じるのだが、映画の食堂で年長組が座るテーブルは8つ、各8人なので64人しかいない。400人と64人の差は大きい。これが、映画を “予算の割にちゃち” なものにしてしまっている。すべて監督の失敗だ。ハリー・ポッターの最後の『死の秘宝 PART 1とPART 2』は合わせて276分、2.5億ドル。2で割れば、138分、1.25億ドルだ〔この映画の1億ドルと大差ない〕。やはり、大作には130分は欲しい。製作費の割に “小粒” に見えるのは、この映画が、VFXにお金をかけ過ぎているからであろう。これも、監督のミスだ。せっかくの名作を台無しにした監督名は、ギャヴィン・フッド。アカデミー賞の外国語映画賞を取った『ツォツィ』(2005)は、出身の南アの黒人問題の題材にした映画。他に受賞した1998年と1999年の2つの映画も南アの黒人映画。こうした小規模予算のドラマ監督に、SF超大作を任せたプロデューサーにも責任がある。

恐らく21世紀終わり頃の地球。50年前〔原作と違う〕にエイリアンの大規模な侵略があり、数千万人が犠牲になった。それ以後、地球では二度と侵略を受けないよう、着々と準備がなされた。まず、敵の母星の近く〔原作と違う〕に前線基地を確保し、そこから敵の母星の総攻撃ができるように、地球から大規模な艦隊を送り出した。艦隊がそこに到着するには、かなりの時間を要するので、その間に、艦隊の戦闘司令官を要請する特殊なシステムが構築された。艦隊に乗り組んでいるのは大人なのだが、それを指揮するのは5人の編隊リーダーで〔原作と違う〕、さらにそれを統括して大局的な作戦を立てる戦闘司令官を1名配する。ただし、その6名は大人ではなく、バトル・スクールという少年兵養成学校の出身者。そして、すべてを統括する国際艦隊が最初に目を付けたのは、天才的なピーターという少年。ただし彼は過激すぎた。そこで、第二子には両親に女性のヴァレンタインを産ませたが、彼女は天才だったが優しすぎた。そこで、制度上は許されない第三子(蔑称:サード)のエンダーが生れる。エンダーは両方の素質を兼ね備えていたので、国際艦隊は候補のナンバーワンに据える。エンダーをバトル・スクールに採用する際も、わざわざ校長が迎えにくるが、その際、エンダーが同窓の新入生と親しくならないよう、敢えて争いの種をまいて、エンダーを鍛える。エンダーが新入生の信頼を勝ち取ると、すぐに上級生の戦闘部隊の1つサラマンダー隊に配属される。エンダーは愚かな隊長のボンソーから無視されるが、好意的な隊員のペトラとの練習を無理矢理納得させ、最後は、戦闘に加わなという命令を無視して敗戦を勝利に変え、さらなる昇任と、ボンソーからの深い恨みを買う。ドラゴン隊の隊長となったエンダーはトップの成績を上げるが、ボンソーから卑劣な攻撃を受け、逆に相手を意識不明にしてしまう。国際艦隊は、エンダーの能力が確認されたとして、前線基地に送り、50年前の侵略の際に英雄的勝利を収めた伝説の人物ラッカムの指導で、戦闘シミュレーションの訓練を何ヶ月も受けさせる。エンダーは、訓練の最後となる「卒業」の課題で、敵の母星を完全に破壊する。エンダーはすべてがコンピュータによる模擬演習だと思っていたが、実はすべてが実戦で、エンダーは敵の母星を破壊し、1つの「高度の文明を有する異種の種族」を絶滅させていた。そのことを知ったエンダーは、艦隊のやり方に激しい怒りを覚える。しかし、1つの救いがあった。それは、人類とのコンタクトが不可能と思われていた敵から「過去のメッセージ」らしきものが寄せられていたとエンダーが気付いたこと。エンダーは、その指示に従い、前進基地の惑星の中に、敵の女王アリが残したサナギを発見し、種族の存続させるため、あらたな星を探して宇宙の旅に出る〔原作では、宇宙旅行に関する「光速に近づくと時間の進み方はゼロに近づく」という相対性原理はちゃんと守られているが、映画では、監督の不注意か無知のため無視されていて、それが観ていて極めて非論理的で不審感を招く〕

エイサ・バターフィールド(Asa Butterfield)は1997年4月1日生まれ。この映画の撮影は2012年2月22日~6月15日なので、14歳から15歳にかけてとなる。監督も撮影が長期にわたるので、エイサの年齢を考慮して撮影したと述べている。エイサはイギリスの子役なので、出演した映画は多くはない。最初に私が惹かれたのが、10歳の時に主演した『The Boy in the Striped Pyjamas(縞模様のパジャマの少年)』(2008)。舞台がドイツなのに、ストーリーは英語で進行するのに抵抗を覚えたが、エイサの薄いブルーの瞳は、映画の最大の魅力だった。次は、主要な脇役を演じた12歳の『Nanny McPhee and the Big Bang(ナニー・マクフィーと空飛ぶ子ブタ)』(2010)。そして、既に紹介済の『Hugo(ヒューゴの不思議な発明)』(2011)。エイサのベストの作品だった。そして、この映画の後は、16歳の時の『X+Y(僕と世界の方程式)』(2014)、17歳の『Miss Peregrine's Home for Peculiar Children(ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち)』と続く。17歳以下なので、ここまでが紹介の対象となる。エイサは、年の割に童顔で、子役の時の顔が崩れてこないので、これらすべてが紹介の対象となる。2010年代前半で最も素晴らしい子役だと思う〔2010年代後半はJacob TremblayとJaeden Lieberher〕

あらすじ

学校で、うなじにモニターの端子を付けたエンダーが、体の大きなステイルスンとビデオゲームで戦っている。内容は宇宙空間での戦闘だ。それを見ながら2人の人物が話し合っている〔モニターを付けていると、エンダーの見たもの、思ったことのすべてがモニター可能〕。その内容から、エンダーには兄と姉があり、2人とも国際艦隊がエース級の天才として徴兵しようとして思い留まったことが分かる。そして、すべての期待は、人口制限上 通常は許可されない「第三子」のエンダーにかかっていることも〔原作では、エンダーは6歳。兄のピーター(10歳)は5歳の時に気性が荒すぎて不適格となってモニターを外され、姉のヴァレンタイン(8歳)は3歳の時に優しすぎて外されている。その時点でエンダーを生むよう命令が下ったとすれば、エンダーが生まれるのはヴァレンタインが4歳の時で、年齢差は4歳のはずだが、実際には2歳。これだと、ヴァレンタインが1歳の時に、見切りをつけてエンダーを生む命令が下ったことになり、よく考えればおかしい〕〔しかし、映画ではエンダーは14歳になってもまだモニターを付けている。兄と姉も10歳近くまで付けていたとすれば、エンダーと姉の年齢差がもっと広がるはずだが、実際には、各1歳ずつしか離れていない→映画で年齢を変えたことによって生ずる根本的な矛盾点〕。ゲームはステイルスンが優勢だったが、エンダーが小惑星を巧く使って勝利する。ステイルスンは腹を立てるが、すべてがモニターされているので手が出せない(1枚目の写真、矢印はステイルスン)〔2人の人物が監視しているのがよく分かる構図だが、エンダーの目ではなく、壁の監視カメラから撮ったような映像。これではモニターの意味がないし、監視カメラ網が必要となる〕。エンダーがゲーム室を出て廊下を歩いていると、校内放送で医務室まで出頭するようにアナウンスが流れる。エンダーが医務室に行き、待っていると(2枚目の写真)、そこに女医が入ってくる。そして、いきなり、「その不快なモニターを 今から外すわよ。うつぶせに寝て」と言われる。エンダーは、頭を固定する装置に横になると(3枚目の写真)、ロボットアームが麻酔なしでモニターを引き剥がすので、激痛が走る。エンダーは、自分は国際艦隊から見放されたと思い込む。      

うなじにテープをはったエンダーが、廊下を歩いていると、ステイルスンの一味が現れ、エンダーを取り囲む(1枚目の写真)。そして、エンダーをすぐ横にある標本室のような場所に連れ込む。2人の不良に両腕をつかまれ、正面に立ったステイルスンが、「一対一の勝負だ。ゲームじゃなくてな」と言う。モニターがないので、「お前を見ている奴は いなくなったぞ、ウィッギン」と強気だ。エンダーは、「ねえ、やめようよ」と笑みを浮かべるが、ステイルスンに机に向かって突き飛ばされるや否や、机の上に置いてあったバガーの脚の標本をつかみ、思いきりステイルスンの顔を叩く。床に倒れたステイルスンが立ち上がろうとすると、もう一度顔を叩く。その後は、両手で机をつかんで体を支えると、足でステイルスンの腹部を8回蹴る(2枚目の写真)。あまりの凄惨さに仲間が止めようとすると、もう一度バガーの脚の標本をかざして敵を威嚇する。モニタールームでは、その映像も確認している(3枚目の写真)。「一斉に襲いかかるつもりだろうが、僕を殴ろうとした奴がどういう目に遭ったか見たろ」。その言葉で、誰も襲おうとはしなくなる。原作では、「みんな、寄ってたかって僕を叩きのめそうと考えているかもしれない。君たちなら、僕をかなり痛い目に遭わせることもできるだろう。でも、自分を傷付けようとした連中に僕がどんなことをするかだけは覚えておいて欲しい。僕を傷付けたが最後、いつ僕が君たちに仕返しするか、どこまでひどいことをするか、それが頭から離れなくなるだろう」と言う。この時までに、エンダーは、胸を力任せにキックして転倒させ、意識のなくなったステイルスンの肋骨や股を蹴り、警告を発した後で、「この程度じゃ済まないよ」と言い、顔面を蹴って地面に鼻血が飛び散る〔原作の方が、ずっと過激だが、監督のコメンタリーによれば、少年による過激な暴力は製作会社からストップがかかったとか〕。      

家に帰ったエンダーは、姉のヴァレンタインに、自分が如何にひどいことをしてしまったかを泣きながら報告する(1枚目の写真)。そして、兄のピーターに似てきたと心配する。姉は、ピーターとは違うと慰めるが、そこにピーター本人が入ってくる。エンダーはモニターを外したことを話し、今まで、それが原因で兄から虐められてきたことがなくなることを期待する。原作では、「このチビは、もう少しで成功するところだったんだ」と許してくれないが、映画では、「ママとパパは第三子に大金をはたいたのに、落第したとはな」と皮肉る。しかし、結局は、どちらも “バガーと宇宙飛行士ごっこ” をやり始める。兄は常に宇宙飛行士で、エンダーはバガーだ。兄は、力任せにエンダーをベッドの上に投げ倒すと、「このまま、殺してやれるんだぞ」と言いながら首を絞める(2枚目の写真)。この兄の狂暴さは、すぐに終わるが、コンメタリーでは、2人の子の狂暴な喧嘩が2つ続くのはマズいという判断から短くされた〔未公開映像にロング・バージョンが入っている〕。このあと、夕食のシーンとなり、TVでは、「軍の情報によれば、第一次侵略の際に我々が戦った時の10倍の敵艦が深宇宙に展開しているそうです。バガー艦隊は再編・強化されており、我々に残されたのは、制圧か死のみです」と言っている〔原作と違い、バガーの侵略は1回だけ〕。母はTVを消し、今後についてエンダーと話そうとするが、エンダーは、「もし、その方が良ければ、どこかに行っちゃうよ。そうすれば、僕のことを恥ずかしいと思わなくて済むでしょ」と落第の悔しさを語る。優しい姉は、「エンダー、誰も恥ずかしいなんて思ってないわ」と宥める。「僕は、サード〔特例でしか許されない第三子〕だよ。生まれてくるべきじゃなかったんだ」(3枚目の写真)。母は、「そうじゃないわ、エンダー。望んだ子よ。許可が要っただけ」と宥める。発言を促された父も、「厳しい選抜だ。私がこの国に連れて来られた頃は大した競争もなかったが、それでも落第した。恥じることなど何もない」と言う。      

その時、センサーが、玄関に誰か来たことを感知し、自動的に映像がTV画面に表示され、自動音声が、来客に「お名前をどうぞ」と問いかける。「ハイラム・グラッフ大佐」(1枚目の写真)「国際艦隊の訓練部長です。こちらは同僚のアンダースン少佐。中に入っても?」。応接室に通されると、少佐がエンダーを尋問する。「なぜ、君は、蹴り続けたの? 戦いには勝っていたのに。楽しかったから?」。「いいえ」。父が、息子の行動にショックを受けて、「じゃあ、なぜなんだ。話しなさい」と促す。「最初の戦いではやっつけました。そのあとの戦いにも全部勝ちたかったんです」(2枚目の写真)「僕を放っておいてくれるように」。この言葉を聞いた大佐は、「君には、是非とも我々に加わって欲しい」と “合格” を告げる。「でも、モニターを外したでしょ?」。少佐:「モニターを外した後どうなるかを見るのが、最終選考よ」〔映画では、常にそうだと言っているが、原作では「いつもそうするわけではないが」、とエンダーが特例だと言っている。この方がもっともらしい〕。母:「入院させたから、合格なんですか?」。大佐:「何をしたかではなく、なぜそうしたかが問題なのです。将来の攻撃を止めるための戦略でした」。大佐は、家の外で2人だけで話したいと両親に通告する。外に出ると、大佐は、「前回、バガーどもが我々を全滅させたかもしれなかったことは、君も知っているだろう。偉大な指揮官が救ってくれたのは僥倖だった」。「メイザー・ラッカムですね」。「我々には、君のような優秀な人材が必要なのだ」(3枚目の写真)「若者は、複雑なデータを 大人より容易に統合できる」。大佐は、バトル・スクールへの招聘を口にする。「うまくいけば、君のおかげで、バガーどもが永久に干渉をやめるかもしれん。だから、君には一緒に来てもらいたい」。バトル・スクールの校長が、わざわざ地球まで下りてきて、これだけの言葉をかけるので、エンダーの存在が如何に特異かがよく分かる。      

大佐とエンダーを乗せた乗用車は、地球を回る軌道上にあるバトル・スクール行きのスペース・シャトルの発射場に直行する。船内には、選抜された少年たち〔いわゆる、ラーンチイ〕が17名乗っていた。これに、後からエンダーが加わり、総勢18名となる(1枚目の写真)。この人数は、すべてが矮小化されたこの映画の中で、原作に最も近い〔原作では20名〕。1つだけ空いていたのは、3列目の通路左側。右側にいたビーンと握手する(2枚目の写真)〔原作では、ビーンがバトル・スクールに入るのは、エンダーが3年半在籍した後なので、ビーンが同乗しているという設定は、原作と全く違っている〕〔原作での設定:ビーンは、ギリシャ人の家族の双子の一方が盗まれ、アムステルダムで遺伝子操作を受け、警察の摘発を受けて1人だけ逃げて助かった少年。もはや人類ではなく、知能が急速に成熟する一方、体も巨大化し、寿命は20数年と短い〕。宇宙での移動方法が進化しても、シャトルの打ち上げ方法は今と同じ(3枚目の写真)。      

無重力状態になった船内に、大佐が通路から水平に浮いてやってくる。それを見たエンダーは、思わずニッコリする(1枚目の写真)。大佐は、「何をしてる、ウィッギン?」と訊く。「何もです、サー」。「何か、可笑しいことでも? 質問に答えろ、ラーンチイ」。「サー、あなたが水平に浮いておられるのが、可笑しかったんです」。「なぜだ?」。「無重力では、どちらが上とは決まっていません。あなたが垂直に立っておられて、僕らが水平なのかもと思ったので」〔無重力に対するエンダーの ”適応力” を示す言葉〕。「それが可笑しいか?」(2枚目の写真)。他の全員:「サー、ノー、サー」。「アーライ、彼が何を言ったか分かるか?」。「イエス、サー」。「お前は、分かってない。今のところ、このシャトルの中で頭を使っているのは1人しかいない。それがエンダーだ」(3枚目の写真)。この、他の17名の反感を買うような発言だが、事態これ以上悪化しない〔原作では、この後、エンダーに対する虐めが起こる。誰彼となくエンダーの頭を叩いたのだ。これに対し、エンダーは叩いた1人の手首をつかんで下に引っ張る。その少年、バーナードは、無重力のため何度も跳ね飛ばされ、左腕を折る。それを見た大佐は、「我々は最高の中の最高を選び抜いた。きさまらがこれから出会うことになる相手は、そういう子供しかいないのだ。そして、私が、この艇ではエンダーが最高だと言ったら、それ以上は言わせるんじゃない」と、エンダーに対する反感をさらに煽るようなことを口にする〕。      

シャトルは、バトル・スクールにドッキングする(1枚目の写真)〔中央にある円環で囲まれた中の球体が、戦闘ゲームを行うバトル・ルーム〕。この基地は、回転によって重力を生み出している。だから、メインの回廊は、『2001年宇宙の旅』のように、円弧状になっている。ドッキング・ゲートから出てきたエンダーは、他のラーンチイがすぐに居住区に向かうのと違い、大佐に話しかける。「サー、あなたは、僕を、嫌われるよう仕向けました」。「お前が、最高だと言っただけだ。我々にはジュリアス・シーザーやナポレオンが必要だ」(1枚目の写真)。「シーザーは、信じていた人たちによって暗殺されました」。少佐:「ナポレオンは最後に敗北しました」。大佐:「広大な土地を征服した後だ」。そして、エンダーには、「行ってよし」と言う〔この会話も原作にあるが、ニュアンスが違う。「私の仕事は、世界最高の兵士たちを作り出すことだ。我々にはナポレオンのような兵士が必要なのだよ。アレキサンダー大王のような兵士が。ただし、ナポレオンも最後は敗北に終わったし、アレキサンダー大王は燃え尽きて若くして死んだ。我々にはジュリアス・シーザーのような人物が必要だが、彼は独裁者になり、そのために死んだ。私の仕事は、そうならない人間を作り出すことだ」。この最後の部分が抜けているので、映画の会話は意味をなさない〕。エンダーが遅れて居室に入っていくと、みんなは奥から好きなようにベッドを取っていき、残っていたのは、入口に一番近い下段のベッドだけ。エンダーは、がっかりしたところを見せないよう、「ありがとう。ドアの近くだといいなと思ってたんだ」と言い、ベッドに向かう(3枚目の写真、矢印はロッカー)〔この部屋の雰囲気は、ほぼ原作通り/ただし、全員が6歳くらいなので天井はもっと低い〕。      

エンダーがロッカーに近づくと、自動的に扉が開き、中のモニターにエンダーの顔が映り、瞳で認証を行う。「口頭で名前を」。「エンダー・ウィッギン」(1枚目の写真)。これで登録が完了し、モニタが360度回転すると、ロッカーの中が見える。中には、バトル・スーツ、ヘルメット、ピストルなどが置かれていた(2枚目の写真、矢印はピストル)。エンダーはピストルを出そうとすると、背後から、「タマを凍らすんじゃない」と声がかかる。誰かが、「気を付け!」と叫び、ラーンチイたちはベッドの前に2列になって整列する。入ってきたのは、ダップ軍曹。「休め。よく聞け、ラーンチイども。俺の名はジェームズ・ダップ軍曹だ。正当な質問には、ちゃんと答えてやる。お前たちはチームで行動をする」(3枚目の写真、矢印は軍曹)「この二段ベッドの部屋が お前らの家だ。家は、きれいに保て」。「サー、イエス、サー」。きわめて軍隊調なのが気になる。これは、監督が10台の後半に南アで徴兵された時の経験を元にした結果だ〔原作では、「私の名前はダップだ。これから数ヶ月は、私が君たちのママだ。何か問題が起きたら、私に相談に来たまえ。忘れるな。私はここでただ一人だけ、君たちに親切にするために給料をもらっている人間だ」。この方が、エリート少年を集めた施設には適している。なぜ、ダップを軍隊の軍曹のように “怒鳴ることしか考えない” 人間に設定したのか? いったい監督は原作を真面目に読んだのか? このダップは一番のミスキャストだ〕。      

さっそく5分後に授業が始まる。そこは、コンピュータ化された階段教室で、まず最初に校長の大佐の訓辞する。「バトル・スクールにようこそ。諸君一人一人に重大な責任が課せられている。敵が最初に侵略した時、我々には準備ができていなかった。そのため何百万もの尊い命が奪われた。そのようなことが二度とあってはならない」。ここで、生徒たちは、ラッカムの劇的な勝利の映像を見せられる。「我々は、敵が何をしたかは決して忘れないが、奴らを撃退した。そして、次に侵略されても撃退するのだ。ラッカムの勇気で、自らを奮い立たせるのだ」。翌朝、軍曹に叩き起こされたエンダーたちは、バトル・ルームに連れて行かれる。ゲートの入口には大佐が待っていた〔この時の生徒は15名。シャトルには18名いたのに3名減っている〕。「こちら側の床には、地球と同じような重力がある。ゲートを抜ければ、無重力状態だ」。それだけ説明すると、大佐はエンダーを呼び、ゲートを開ける(1枚目の写真、矢印はエンダー)。広大な球状の空間はガラス壁で囲まれ、そこからは地球が浮かんでいるのも見える。中には「星」と呼ばれる八面体の遮蔽物がたくさん浮いている。エンダーはその状態をじっくり見る(2枚目の写真)〔ヘルメットは宇宙服のようなものではなく、顔面を保護するためのもの〕。「サー、何をするのですか?」。「中に入れ」。エンダーはゲートのすぐ外にあるハンドホールドをつかむと、中に入る。入った途端に体が浮いて水平になる(3枚目の写真)〔原作では、最初のバトル・ルーム行きの際、大佐はいないし、エンダーが特別扱いされることもない〕。      

大佐は、「プッシュ・オフしろ〔押して離れろ〕」と命じる。エンダーがハンドホールドを握ったまま腕力で押すと、そのまま空間に漂い出る(1枚目の写真、矢印、右にゲートが見える。正面には地球が見える。空間には10個の「星」が見える)。エンダーは、その浮遊感が気に入る(2枚目の写真)。エンダーが星にぶつかって停止した時、他のラーンチイたちが一斉に入ってくるのが見える。中で、一人ビーンが真っ直ぐに飛行してきて、エンダーの隣の星で止まる。「うまいな」。「あいつら、まだゲートの中と同じ向きになろうとしてる。君がシャトルの中で言ったように、無重力では、どちらが上とは決まってないのに」。「でも、方向を決めないと。“下” は、敵のゲート〔反対側にある〕だ」(3枚目の写真)〔原作で、非常に有名な言葉〕。「そりゃいい。足で踏みつぶす虫みたいだ」。エンダーはピストルを取り出し、星を撃ってみる。何も破損しないことが分かる。そこで、戦闘服を脚をお互いに撃ってみる。すると、その部分の繊維が脚を絞めつけ、動かなくする。エンダーは、そのまま少し離れて行き、「胸を撃って」とビーンに頼む。ビーンはエンダーの胸を狙って撃つ(4枚目の写真)〔原作ではビーンはまだいないので、この役を務めるのはアーライ〕。これにより、全身が凍ったように動かなくなる。しばらくして大佐が、全員をゲートの入口に招き寄せ、軍曹に戦闘ゲームのルールを説明させる。「手足のどこかに当たれば1点、胴体に当たれば完全に動けなくさせられるので6点〔点数の多い方が勝ち〕。しかし、もし、どちらかの士官候補生が敵のゲートに無傷で到達すれば、その時点で勝利となる」〔原作では、戦闘員のダメージは、①損傷(一部凍結、交戦可能)、②交戦不能(敵にダメージを与えられない状態)、③抹消(完全に凍結)の3段階に分けられる。また、勝利のためには、ゲートの四隅に触れる4人と、ゲートを抜ける5人目が必要で、その5人目は誰でもいい〕。        

エンダーは、姉にメールを送る。「ヴァレンタイン様。バトル・スクールじゃ毎日、何時間も訓練する。地球でやっていたより 宿題もずっと多い。護身術の練習もある。体を鍛え、攻撃的にするんだ。戦う度にピーター兄さんを感じる、感じたくないのに。バガーの攻撃パターンを3ヶ月学んだけど、規則性が全くない… ってことは、敵を全く理解できていない。メイザー・ラッカムが、なぜ敵を全滅させたかも謎のままだよ」。ここで、ラッカムの戦闘機がバガーの戦艦に突入するシーンが再度映る(1枚目の写真、矢印は衝突して爆発したラッカムの戦闘機)。場面は、セルフサービスの食堂に変わる。「大佐は、僕が皆を率いることを期待していると言ったけど、どうやって? どうやったら、リーダーになれる?」。エンダーは、食堂でも孤立し、1人でテーブルについている(2枚目の写真)〔黄色の服がラーンチイ。濃灰色の服が何れかの隊に属した生徒。解説で述べたように、原作では400名以上いるはず〕。「ここにいる子は、みな違っている。学ぶこともいっぱいある。寝る時間は最短。返事が欲しいよ。一度ももらってないから。元気なの? 僕のメール届いてる? 寂しいよ」(3枚目の写真)〔原作には、姉宛のメールは登場しない。原作が書かれた1985年には、メールがそれほど一般的ではなかったからだろう〕。      

その時、軍曹に先導されて大佐が「二段ベッドの部屋」を訪問する。「今晩は、ラーンチイ諸君。君たちが頑張っているのを見られて嬉しい。君らも知っていると思うが、コマンド・スクールへの選抜は厳しい。上級生の何人かは基準に達せず、故郷に送り返される。だから、諸君のうち何名かを昇格させることになるだろう」〔原作では、大佐がラーンチイや10以上ある「隊」の部屋を訪問することはない/この言葉の中で納得できないのは、「コマンド・スクール」という表現。バトル・スクールの上にはいくつかスクールがあり、「大学」に当たるところがコマンド・スクール。だから、いきなるコマンド・スクールというのは飛躍がある。不適格な隊員が “アイス” されて地球に返される時、あるいは優秀な隊員が上のスクールに行く時、ラーンチイはどこかの「隊」に所属できることは確か。だから、コマンド・スクールなどと言わず、ただ単に隊に入ることができると表現すべき〕。大佐は、横にいるのは友ではなくライバルだとハッパをかける。話が終わり、大佐が出ていこうとすると、エンダーが「サー」と呼び止める。「メールは遮断されているのですか? 誰にも家族からの返事が来ていません」(1枚目の写真)。「すべての通信は一時的に止めている」。「サー、なぜですか?」。軍曹は、「ラーンチイが 口出しをする立場ではない」と叱るが、大佐は、「君たちの家族には、ここでやっていることが理解できないだろう。返事をもらったことで 心が乱されても困る」と説明する。エンダーは、それにも反論する。「サー、プライバシーは保持されると思っていました」。「個人的に何を考えてもいい権利はあるぞ、ウィッギン。だが、それらの考えが検閲なしに発信されれば、我々は危機にさらされる」(2枚目の写真)。「イエス、サー」。大佐が去った後、軍曹は、「その調子で続ければ、お前は、コマンド・スクールには進めん」と警告するが、エンダーは、「正当な質問だと思ったので」と反論。この言葉は軍曹のさらなる怒りを呼び、その場で腕立て伏せを20回させられる。軍曹は、床に這いつくばると、「スクールで一番スマートだと思ってないか?」と訊く。「ノー、サー」。「指揮官にはなれんぞ! 俺は、お前には敬礼などせん」。「しますよ、軍曹」。「あと20回だ!」。40回終わったエンダーに、軍曹は、「話しかけられん限り、話すな」と言うが、エンダーは、「正当な質問もですか?」と訊き返し、「黙れ、ウィッギン!!」と怒鳴られる。この論戦は、なぜか分からないが、バーナード以外のラーンチイの尊敬を勝ち取る〔原作では、大佐など来ないので、エンダーがこうした言論を展開することもない。エンダーは、①自分のメールのセキュリティ・システムを構築し、②ラーンチイ・リーダーのアーライと一対一の親交を結ぶことで、親交を広げて行くが、尊敬までは勝ち取れない〕。      

深宇宙での航行シミュレーション試験で、及第点を取ったのは、アーライとビーンとエンダーの3人だけ。教官は、そのお粗末さに失望するが、もう一度、艦隊の動かし方をシミュレートするための模擬訓練を行う(1枚目の写真)。そして、「エンダー、ここに来て説明なさい」と命じるが、エンダーは、「先生、ビーンかアーライの方が、うまくできると思います」と言って遠慮する。教官は、素直にその言葉を受け、アーライに説明させる。アーライがコンピュータを使って説明を始めると、バーナードが、「見ろよ。ゲロ彗星の艦長だ」というメッセージを全員のコンピュータに送る。それを読んだ生徒たちから笑い声が上がる。教官には笑い声の理由が分からないので、説明を続けさせる。すると、エンダーは、「バーナードは、チンパンジーでも宇宙に来れるという生きた証拠」というメッセージを全員に送る(2枚目の写真)。今度は、もっと大きな笑い声が起き、バーナードは、「誰が送った?」と息巻く。メッセージを見た教官は、「我慢できないのなら、他人の批判もやめなさい」とバーナードに注意する。次の食堂では、1人で食べていたエンダーの周りに、アーライやビーンたちが集まり、バーナードは1人ぼっちとなる(3枚目の写真)〔原作では、エンダーの “攻撃” はもっと巧妙で、最初は、「尻を守れ。バーナードが見張ってるぞ。神」というメッセージを送ることに成功する。さらに、一歩進むと、「おまえの尻が大好きだ、キスさせてくれ。バーナード 」というメッセージを送り、バーナードのラーンチイ支配を終わらせる(メッセージには、差出人が自動的に付くシステム)/エンダーがバーナード名で発信できたのは、“バーナードの後に半角空白を付けた別な名前” を新規で作った〕。      

原作では、エンダーが熱中する心理ゲームの一部が紹介される。エンダーは、夜の自由時間にベッドの中で画面に向かっている(1枚目の写真)。ゲームは、最終局面になり、エンダーの代理のネズミが、テーブルの上に上がると、2つのカップが置いてある。すると巨人が現れ、「一つは毒で、もう一つは違う」と謎かけをする。「正しい方を選べば、お前はお伽の国に行ける」(2枚目の写真、矢印はネズミ)〔原作では、エンダーは何度となくトライする。立ち上げる度にカップの状況は違うが、何度やっても常に毒しか飲めない〕。映画では、最初、左のカップに入って死に、次に右のカップに入って死ぬと、3回目のトライアルで、ネズミはいきなり巨人の眼に飛びかかり(3枚目の写真)、目玉を食い破って頭の中に入り込み、巨人は死ぬ〔3度目では、いくら何でも早すぎる。原作のように、何度も苦渋を味あわされた後に、最後の手段として飛びかかる方が説得力がある。そうでないと、エンダーはただの “殺し屋” になってしまう〕。一緒にゲームを見ていたアーライは、「君は殺したね。なぜなんだ?」と尋ねる。「そう期待されてるから。規則に従えば負け、暴力を選べば勝つんだ」(4枚目の写真)。その様子を、大佐と少佐がモニターで見ている。それを見た大佐は、「彼は完璧だ」と感心する。エンダーは、お伽の国に入ることができたが、2人が知る限り、ゲームをここまで進めた生徒はこれまで誰もいない〔原作では、大佐は「エンダーが勝てるはずのないゲームに勝った」ことに感心する。映画と同じように見えるが、映画では、エンダーが大佐を感心させるためにやっているような感じを受けるが、原作ではそのような下心は一切ない。ただ、純粋に、ゲームを先に進めたかっただけ〕。        

その結果は、直ちに具体化する。エンダーのモニターが付き、「エンダー・ウィッギン、ボンソー・マドリッド指揮官のサラマンダー〔火蜥蜴〕隊に配属。グラッフ大佐の命令だ。グリーンのライトに従え。所持品は不要。直ちに行け」との命令を受ける。エンダーは何も持たずに廊下に出るが、アーライはドアから出ると、エンダーの肩に手を置き、「アッサラーム・アレコム〔السلام عليكم〕(あなたに平和がありますように)」と言うので、イスラム教徒だと分かる〔原作では、頬にキスして「サラーム」と囁く〕。2枚目の写真で、廊下は円弧状になっていて、白いライトの下のグリーンのライトが、エンダーの行く方角を指して誘導している。エンダーの終着点では廊下で上級生が野球ごっこをしている。一番小柄な少年が、威張った顔で、「ウィッギンか?」と訊く。「サー、イエス、サー。エンダー・ウィッギンです。異動になりました」。「オライリーの交換を頼んだら、こんなのが来やがった。役立たずの、やせっぽちの、未熟なガキだ!」(3枚目の写真)。「すぐに学びます」。「はっきりさせておこう。お前は、すぐにトレードに出す。俺の隊は、最近21戦で全勝だ〔ボンソーのような凡人が、そんなに勝つハズがない/原作では、最近20戦で12勝〕。お前は、どこか他で訓練しろ」。それだけ言うと、ボンソーは、エンダーの首にタオルをかけて自分の顔の高さまで下げ、顔を見ながら、「戦闘の際は、全員がゲートをくぐるまで、お前は外で待つんだ。バトル・ルームに入っても、ゲートのそばから離れず、ゲームが終わるまで武器を出すことも撃つことも許さん」。「何もするなと?」。「邪魔にならないようしてろ」〔原作でも、ボンソーは似たようなことを言うが、彼は、「長身で、髪が黒く、すらりとした体。美しい黒い瞳と薄い唇には、優雅な気配があった」という大きな体の美少年。映画のボンソーは、180度違い、エンダーより20センチは低いチビで、おまけに品のない顔の青年。俳優なら余るほどいるだろうに、なぜこんな人物をわざわざ選んだのだろう?〕。      

エンダーのことを可哀想に思ったペトラ〔サラマンダー隊で唯一の女性〕は、自分が得意な射撃の訓練を、個人的に買って出る。映画だと、2人は、同じ年頃で、ペトラがエンダーに惹かれたようにも見える〔実際、もっと後になると、恋人同士のような関係になる/エンダー役のエイサは14-15歳だが、ペトラ役のヘイリー・スタインフェルドは4ヶ月年上の15歳〕〔原作では、エンダーがサラマンダーに配属された時の年齢は6歳9ヶ月。ペトラは10歳以上だろうから、完全なお姉さん。実際に、エンダーのことを、「おチビちゃん」と呼んでいる→映画とイメージがかなり違う〕。自由時間の夜になり、ペトラはエンダーをバトル・ルームに連れて行く〔映画では、ルームは1つしかないが、原作では9個あるので、いつでも自由に使える。2人が行くのは夜ではなく翌日の朝食後〕。2人はゲートの前に並んで立つ(1枚目の写真、身長はエンダーの方が若干高い)。2人は手をつなぎ、ペトラが主導してバトル・ルームに入っていく(2枚目の写真、矢印、ゲートは右下の「星」の陰になって見えない)。ルームの中央まで行くと、ペトラは標的にする小さな球体を16個投げる。そして、狙い定めて次々にボールにレーザーを当てて行く。光線が当たると、赤く光る球体が青白くなる。今度はエンダーが撃つが全く当たらない。しかし、ペトラの的確な指導を受けると、すぐに標的に当たるようになる(3枚目の写真)。      

2人が練習から戻ってくると、サラマンダー隊の部屋では、ボンソーが隊員たちと下らない遊びをしている〔さっきも野球ごっこをしていたが、原作では、指揮官が隊員と遊ぶようなことはしない〕〔隊の部屋が小さ過ぎる。原作では隊員は40名なので、「兵舎の部屋も、より大きかった。縦長の部屋で……車輪のようなバトル・スクールの一部だから、一番奥の方が上にカーブしていて床が湾曲しているのが目に見えるほど長細いのだ」と書かれているが、映画では隊員は15名でラーンチイより人数が少ないので、部屋も幅が広く奥行きが短く、イメージが全く違う〕。2人を見たボンソーは、「どこにいた?」と、咎めるように訊く。ペトラ:「練習よ」。エンダー:「自由時間に」(1枚目の写真)。「彼女とは練習するな。どんな練習も一切するな」〔原作では、エンダーはアーライたちに声をかけ、バトル・ルームでラーンチイだけで練習する。それに対し、ボンソーから「もう、あのチビの屁どもと練習するな」と禁止される〕。エンダーは、「サー、プライベートにお話ししてもいいですか?」と、有無を言わせぬような雰囲気でボンソーに訊く〔原作には、「これは、指揮官が求められれば許さざるを得ない要請だった」と補足説明がある〕。エンダーは、返事を聞かずに先に廊下に出ていき、あ然としたボンソーは怒り心頭で後を追って廊下に出ていく。ボンソーは、「おい、ペンデホ〔スペイン語でバカ野郎/ボンソーはスペイン人〕。二度と俺に背を向けるな!」とエンダーを後ろからど突く。エンダーは、振り向くと、「良い兵士になるのに、練習して何が悪いんです!」と食ってかかる(2枚目の写真)。「俺の命令が聞けんのか!」。「権限のある命令にはすべて従いますが、自由時間を奪おうとするなら、アイスに〔地球に送り返〕してやるから」。「俺を脅すのか?」。「違うよ。いいかい、僕をトレードする気でしょ? だけど、もし僕が何も知らなかったら、誰も採用しない。練習させて。僕をすぐに追い出せる」。「もう命令を下した」。「全員の前でね。だから、命令を撤回したと思われたくないでしょ」(3枚目の写真)「だから、今夜は、あんたが勝ったことにする。明日、気が変わったと言えばいい。あんたは寛大に見えるし、僕は練習できる。お互い得でしょ。いい?」。「今に思い知らせてやるからな」〔原作では、口調はもっと穏やかで長いが、突き詰めた内容は同じ。アイスの件について、ボンソーは、「エンダーが騒ぎ立てれば、自由行動への干渉によって自分が解任されることは十分考えられる」「エンダーを昇格させたということは、将校たちが明らかに彼の何かを認めている」と考える。また、最後の提案については、「エンダーに理不尽な命令を与えてしまったのだから、こうなったのも自分のせいだ、とはボンソーには思い及ばなかった。彼に分かったのは、エンダーが彼をやり込めた上で、器の大きいところを見せて傷口に塩をすり込んだ、ということだけだった」と書かれている。くどくど引用したのは、こうした前提がないと、この後のボンソーの “怒り” が理解し辛いため〕。翌朝、兵舎まで来て隊員を叩き起こしたボンソーは、「10分後にレパード〔豹〕隊と戦うぞ!」と言った後、「おい、ウィッギン。気が変わった。お前が俺の隊から学べばトレードが楽だ」と、ペトラとの練習を許可する(4枚目の写真)。        

15名の隊員は、ゲートの入口で5×3に並ぶ(1枚目の写真)。ボンソーは、「4小隊。Aは上、Bは左、Cは右、Dは下だ」と言う〔これは、原作と同じ命令だが、15名でどうやって4つに分けるのだろう? 原作のように40名いれば、10名ずつの4小隊になるのだが、15名では4人と3人のミニ小隊となる〕。ボンソーは、「お前が俺の隊から学べばトレードが楽だ」と言った割には、戦闘には相変わらず参加させず、「ウィッギン、お前はゲートの近くから動くな」と命じる〔それを聞いた小隊長が、「ボンソー、俺の小隊が一人減る」と言うが、これも、1小隊当たり3~4名なので、4が3になっても構わないと思うのだが…〕。全員をバトル・ルームに入れた後、ボンソーはまっすぐ漂っていく〔これも奇妙。こんなことをしたら、直ちに標的になる〕。エンダーはゲートの脇に立つと(2枚目の写真)、すぐにハンドホールドをつかんでルームに入る。そして、命じられた通り、その場所で戦闘の様子を見る。映画で紹介される戦法は、2人の隊員がチャリオット〔二輪戦車〕となり、その上にペトラが乗る。下になった2人が、ペトラの盾となり、交戦不能になった後も 射撃の上手いペトラに撃たせる作戦だ〔原作でエンダーが取った戦法は、長身の少年たちを上半身をまっすぐにした姿勢で、体がL字形になるように曲げさせてから、わざとフラッシュ(ピストルで撃って動かなく固定)し、凍りついた両脚の上に、体の小さな少年をひざまずかせ、2丁のピストルを持った両手を脇の下から引っ張り出し、敵のゲートに向かって投げるというもの〕。レパード隊の隊員は、3人をバラバラにしようと体当たりし、そのはずみでペトラは「星」にぶつかリ、本来ならぶつかった方向から斜め上に跳ね上がるはずが、なぜか重力があるように「下」に落下する。それを見たエンダーは、ペトラを助けようと、命令に反して飛び出す。そして、ペトラの手をつかむ。「ここで、何してるの? ボンソーに殺されるわよ」。「もう、戻れない」(3枚目の写真)。「じゃあ、ゲームに加わって。私たち負けてるわ」。「奴らの半分は、自分たちのゲートの周りにいる。僕を、ゲートに向かって蹴って」。ペトラに蹴り出されたエンダーは、緩やかに回転しながら敵のゲートに近づくと、ペトラから借りたピストルと合わせ、2丁を両手に持って撃ちまくる(4枚目の写真)〔原作では、3戦目まで何もしない。4戦目が映画と同じレパード隊。この時は、サラマンダー隊がエンダー以外全員凍結された段階で、エンダーが介入し、ゲームをドローにする〕。その日の食堂で、レパード隊の隊長は、ボンソーに、「ウィッギンの温存はスマートな作戦だな」と称えるが、ボンソーは面白くない。夜になって、エンダーとペトラが2人だけで仲良く護身術の練習をしていると、そこにボンソーがやって来て、エンダーの腹に思いきり一発を食らわすと、「今度、俺をコケにしたら、殺してやる」と警告する。        

真夜中になり、眠れないエンダーは心理ゲームの続きを試みる。巨人を倒したネズミが、目から這い出すと、そこは荒涼とした原野で、遠くには城が見える(1枚目の写真)。しかし、しばらくすると、宙に舞っていた枯葉が集まり、中からバガーの女王が現れる(2枚目の写真)。女王は、エンダーに何かを語りかけようとしているように見える。女王がバラバラになると、代わりにヴァレンタインが現れる。すると、空から攻撃が始まり、ヴァレンタインは城に向かって走るが、その城も攻撃を受け、崩壊した城は左右2つに割れる(3枚目の写真)。ネズミが城に近づいていくと、ヴァレンタインが中に入ろうとしている(4枚目の写真、矢印)。あとを追って中に入ったネズミが見たものは、巨大な空間の中に置かれた球形のカプセルだった(5枚目の写真)。これほど詳しく紹介した理由は、あらすじの最後から2つ目の節を見てもらいたい。その1枚目の写真は、ここの3枚目の写真の壊れた城と同じような形をしている。エンダーはこの奇妙な構築物に近づいていくが、そこでの3枚目の写真は、ここの4枚目の写真に似ている。そして、一番そっくりなのが、4枚目の写真。ここでの5枚目と瓜二つだ。これは、後になって分かることだが、バガーの女王がエンダーにメッセージを送ろうとしていることを意味している。そして、将来小惑星エロスに行ったら、「ここに行け」と示唆している〔原作では、エンダーがバガーを全滅させた後、誰もいなくなった居住可能な惑星を訪れた時、エンダーがかつて心理ゲームで見たのと似た光景が出現する。それは、種族の抹殺を目前にした女王が、何とか子孫を救おうと、通信手段を持たない中で、エンダーに「ここに種族の再興の途がある」と知らせるために作ったものだった。映画では、そうした手間を省くために、小惑星エロスに「発見」の場を移している。しかし、そのために決定的かつ最大の矛盾が生じてしまう。原作では、エンダーは国際艦隊による第三次侵略の戦闘司令官としてエンダーがバガーの母星を 「それとは知らずに」 破壊する。その危機感の中にあって、バガーの女王は、必死の延命策を練った。しかし、映画の中で、エンダーがこのシーンを目にするのは、ラーンチイからは卒業したが、まだ一人前の隊員にもなっていない段階だ。女王には、エンダーが自分を滅ぼすなどと分かっているハズがない。なのに、なぜエンダーに見せたのか? だから、このシーンは、一見、納得できるように見えて、実はあり得ないシチュエーションなのだ。          

大佐の部屋の壁面モニターに映った映像で(1枚目の写真)、大佐はある決断を下す。写真の説明をすると、右にある黄色く丸いものはバガーの母星。大佐が見ている空色の楔形のものは、国際艦隊の大艦隊。そして、その上に書かれた白い文字は、「艦隊の到着まで残り28日6時間16分54秒」という表示。黄色の母星を囲む赤いものは、その左に赤い文字で、「バガーの防衛境界」と書かれている。要は、攻撃開始まであと1ヶ月を切るのに、戦闘司令官は存在していない。大佐はすぐにエンダーを呼ぶ。そして、「クラスでは最高点。バトル・ルームでも最高ランク。だが、指揮官を怒らせる癖がある」と告げる。「サー、僕より上位にあるというだけで、尊敬することはできません」(2枚目の写真)〔この時点で、「最高ランク」と言うのは、いくら何でもおかしい。原作では、もっと時間に余裕がある。エンダーはサラマンダー隊からラット(鼠)隊に引き抜かれ、そこで全隊員の中で最高のランクを続ける。それと同時に、エンダーは、アーライなどのラーンチイ・チームとの特訓も続け、それが2年半以上続く〕。大佐は、エンダーにドラゴン〔竜〕隊の指揮官となることを命じる。隊員は、全員がラーンチイ。命令を受けたエンダーは、指揮官の居室に案内される(3枚目の写真)〔案内するのは、ラーンチイの世話役の軍曹。原作では、ラーンチイの場面以外に軍曹は登場しないので、この行動は職務外だと思う。あるいは、このバトル・スクールには、軍曹は1人しかいないのか?〕。      

15分後、エンダーはドラゴン隊の兵舎を訪れる(1枚目の写真)。「ドラゴン隊にようこそ。寝棚は古参が奥、新人が手前だ」(2枚目の写真)〔原作と同じ。通常と逆〕。バーナードは、「エンダー、なぜ僕がここにいる? 僕を嫌ってたんじゃないか?」と尋ねる。「僕が選んだんじゃない。だが、バトル・スクールでベストの隊にしようと思う。実現を手助けしてくれると信じている」(3枚目の写真)。この言葉は全員の心をとらえる。「お互いを敬うように。僕より優れたアイディアがあれば、聞かせて欲しい。僕一人で、すべて考えられるわけじゃない。できると思うか、ビーン?」。「ノー、サー」。「では、着替えよう。すぐに練習を始める」。「サー、イエス、サー」〔原作では、ここで初めてビーンが登場する。そして、エンダーは、かつて大佐が自分にしたように、ビーンを褒めて孤立させる育て方をしてしまい、あとで反省する。指揮官としてのエンダーの攻撃方は、それまでの通例とは違い、革新的だった。訓練の方法としては、無重力空間で、敵から撃たれにくい方法を徹底的に教え込み、方向感覚としての「敵のゲートは下」を徹底させた。システムとしては、全隊が10人×4小隊を採用していたのに、8人×5小隊に変え、それぞれの指揮権を小隊長と副官に任せた〕。      

〔原作では、これまで新しい指揮官には3ヶ月の訓練期間が与えられてきたが、エンダーは3週間半で最初の戦闘を強いられる。そして、それ以後、7日で7回戦って全勝。そして、7勝目を勝ち取って数時間後、1日に2度目の戦闘を命じられる。相手はボンソーのサラマンダー隊〕。映画では、こうした流れとは異なり、順位表で、①サラマンダー隊、②レパード隊、③ドラゴン隊、④ラット隊、⑤センティピード〔百足〕隊、⑥グリフィン〔鷲獅子〕隊、⑦コンドル〔禿鷹〕隊、⑧アスプ〔帽蛇〕隊と表示されるこれは、絶対に間違っている。ドラゴン隊は、前人未到の強さを発揮するが故に、エンダーはコマンダーに抜擢される。だから、3位などあり得ない。翌朝3時にエンダーの部屋でベルが鳴り、戦闘が指示される。エンダーは、飛び起きると、バトル・スーツを着て、兵舎に駆け付け、「起きろ!」と叫ぶ(1枚目の写真)。「5分後、サラマンダーとレパードと戦う」3位の弱いチームが、いきなり、2つのチームを相手に戦う道理が全くない。ナンセンスの一言。原作では10戦目になり、“どうやっても負けないエンダー” を負かそうと、2つのチームと戦わせる〕。慌てて2段ベッドの上から飛び降りて足を挫いた隊員に1人を付けて医務室に行かせる。ドラゴン隊がゲートに着くと、ゲートは既に開いている。エンダーがゲートから覗くと(2枚目の写真)、敵はもう散開してドラゴン隊が来るのを待ち受けている。そこに、ペトラとディンクが現れる(3枚目の写真)。足を挫いた隊員と付き添いの2名の交代要員として、大佐が派遣したのだ〔対戦相手のサラマンダーから引き抜くというのも変な話→戦っていない隊は他にいくつもある〕    

敵に囲まれていると分かったので、エンダーの最初の作戦は、以前、コメントした方法。ディンクの体をL字形になるように曲げさせてからフラッシュし、凍りついた両脚の上に、ペトラをひざまずかせ、2丁のピストルを持った両手を脇の下から引っ張り出し、ゲートから後ろ向きに放出する。これで、ゲートの周りで待ち構えていた敵の多くをペトラが凍結する(1枚目の写真。矢印はディックを盾にしたペトラ。ゲートの周辺に敵が固まっていて、ペトラがそれを撃っている。敵のビームは外れている)。これでゲート周囲の12名を排除。16+16−12=20なので〔ペトラとディックには代理を入れた〕、残りはほぼ1つの隊になった。ここで、エンダーは次の手に出る〔エンダーが原作の10戦目で使った ”捨て鉢” の奇手〕。ビーンにデッドラインという細くて強い糸を付け、バトル・ルームのどこに他の敵がいるかを偵察させるのだ。映画を見ていると、ビーンの胸には何度も敵のビームが当たり、彼が凍結されてしまう(2枚目の写真、矢印はビーンを引っ張っている糸。ビーンには3度目のビームが当たっている)。しかし、エンダーたち全員で糸を引っ張っているので、ビーンを一周させてゲートまで戻すことができる。この後、変なことが起きる。ゲートに戻ってきたビーンが、普通に立ち上がり、「間抜けどもは、敵のゲートのまわりの星に隠れています」と報告する(3枚目の写真)〔凍結されているので、口はきけても、動くことなどできないハズ〕。      

エンダーは、フォーメーション〔陣形〕で突破することにする。要は密集体系で、アーライにビームが当たらないようにすることが目的。ただし、ここでも、変なことが起きる。「星」に近づく手前で、フォーメーションのうち2人が上方に離脱する(1枚目の写真)〔こんなことをしても、盾が弱体化するだけで、何の意味もない〕。このあと、最後尾の2人も別々の方向に離脱する〔「星」からのビームはフォーメーションに集中していて、離脱組には向けられないので、さらに弱体化しただけ〕。フォーメーションは「星」の群れの中に突入する。ここで、エンダーが「撃たれた」と言い、「アーライを守れ」と言う〔アーライが一番、ビームが当たりにくい場所にいる〕。フォーメーションは敵のゲートに一直線に向かい、上部にいるエンダーにも、さらにビームが当たる(3枚目の写真)。フォーメーションはそのままゲートの中に突入し、エンダーは一番前に投げ出される(4枚目の写真)。そこにいた7人のうち、最初に立ち上がったのはアーライ。「やった!」と勝利をかめしめる〔最初に、軍曹が述べたルールでは、「どちらかの士官候補生が敵のゲートに無傷で到達すれば、その時点で勝利となる」と言っていた。無傷のアーライは士官候補生なので、これで勝ったことになる〕    

この結果、ドラゴン隊の成績は1位になる〔前に書いたようにナンセンス。原作ではドラゴン隊は10戦全勝〕。一方、この試合で屈辱的な敗北を屈したボンソーは、エンダーを殺そうと考える〔原作では、サラマンダー隊との対戦は8戦目。この時、1日に2つの対戦を強いられたエンダーは、疲労困憊し、勝利の直後、①ビーンに、「お前がサラマンダー隊を指揮していたら、どう戦った?」と訊き、ボンソーの作戦の不味さを指摘させた上で、②少佐に、「そっちがイカサマ(1日に2回の対戦)を続ける気なら、もっと利口にイカサマをやるよう別の隊を訓練したらどうですか」と、ボンソーのお粗末さをほのめかし、さらに、③ボンソーの尊厳ある降伏を受け入れるために止まることすらしなかった。これがボンソーを、「エンダーを殺したい」と思わせるほど憎ませる〕。そして、エンダーが1人でシャワーを浴びている時、ボンソーが手下2名を連れてシャワー室に入ってくる(1枚目の写真)〔原作では他の隊でエンダーを嫌っている者を含め6名〕。エンダーは、危機に気付くと、戦う相手を一人だけにしようと、「あんたの親爺さんは誇りに思うだろうな。シャワーを浴びている一人の子と戦うのに、仲間を連れてきたと知ったら」と言い、恥を感じたボンソーに2人を去らせる。そのあと、映画では意味が分かりにくいが、エンダーはシャワーの温度を最大に上げ、体に石鹸を塗る〔原作では、体に付いていた石鹸を 汗で滑りやすくしようと、シャワーの温度をmaxにする〕。エンダーは、戦いたくないので、「あんたが、勝ったことにしよう。懲らしめられたと言うから」と言うが、ボンソーは戦いを強要する〔エンダーより、20センチも小さいので、迫力ゼロ〕。エンダーは、戦おうと近づいてきたボンソーにシャワーの熱湯を浴びせる(2枚目の写真)。逃げようとするエンダーをボンソーが捕まえようとするが、石鹸で滑ってつかまらない。逆にエンダーがボンソーの腕をとらえて捩じ上げる。「腕を折ってやろうか?!」。エンダーは相手があきらめると思って体を離す。しかし、ボンソーが再び襲ってきたので、洗面に体を固定し、両脚でボンソーを蹴る(3枚目の写真)。ボンソーはそのまま後ろに吹っ飛び、シャワー台の段差に後頭部をぶつけて意識を失う。エンダーは、それを見て大声で助けを呼ぶ(4枚目の写真)〔映画では、「戦っていたら、運悪くボンソーが重体になってしまった」という趣旨の描き方をしているが、これは、映画の冒頭の、「対ステイルスン戦」と全く違っていて、エンダーらしくなく、間違った描き方だ。原作では、①床から上に向かって全力で突進し、ボンソーの顔にエンダーの頭をめり込ませる、これで、ボンソーは死んでしまうが、エンダーはさらに、②飛び上がって両脚でボンソーの腹部を蹴った後、ボンソーの下に滑り込み、ボンソーの股間めがけて脚を蹴り上げる。こうした徹底攻撃には、「完全にケリをつけるただ一つの道は、恐怖が憎しみを上回るまでボンソーを痛めつけることしかない」というエンダーの強い意志がある。これでこそエンダーであり、だから、大佐は、第三次侵略の戦闘司令官はエンダーしかないと確信している。映画の描き方は、そういう意味で、本末転倒としか言いようがない        

治療室に入れられても意識不明の状態が続くように見えるボンソーに、エンダーは、彼が死んでいるのはと疑う。しかし、大佐はそれを否定し、地球に送り返すと答える。「そうすれば、良くなるだろう」。「僕も一緒に行きます」。「行かせるわけにはいかん」。「姉と話させて下さい」。「君は、国際艦隊のものだ」。「家に帰して下さい、大佐、でないと、僕は辞任します」(1枚目の写真)。この言葉に、大佐は折れる〔どのみち、バトル・スクールから直接小惑星エロスには行けない。一旦地球に戻り、別のシャトルで、長距離宇宙船に乗り換える必要がある〕。場面は変わり、ヴァレンタインが学校を終えて家に戻ってくると、国際艦隊の乗用車が止まっている。彼女が家に飛び込むと、そこには大佐がいて、ヴァレンタインを湖に連れて行く。車の中で、姉は、大佐からエンダーの説得を頼まれる。湖に着くと、桟橋の先にはエンダーがいて、横には手製の筏がつないであった(2枚目の写真)。2人は筏に乗り込んで湖に漕ぎ出す。ここでの会話は、コメンタリーによれば短くカットされてしまい分かり辛い(3枚目の者写真)。そこで、原作の該当部分を引用しよう。重要な部分は2ヶ所ある。①「自分の敵を本当に理解し、打ち負かせるほど十分理解した瞬間、まさにその瞬間に、僕は相手を愛しもする。本当に誰かを理解する。彼らが何を求め、何を信じるかを本当に理解していながら、彼らが自分自身を愛するように愛さずにはいられないなんて不可能だと思うんだ。だとしたら、僕は彼らを愛したまさにその瞬間に、彼らを滅ぼす。彼らが二度と僕を傷つけられないようにする。彼らをすり潰す。しかも、跡形もなくなるまですり潰すんだ」。②「僕には、バガーをやっつけることはできない。僕は、ある日、メイザー・ラッカムのようにその場にいて、誰もが僕を頼りにしているだろう。でも、僕はそれをやれない」。ここには、敵を理解しようとする心と、それに相反する残忍性。しかし、結局はそれが絶対に実行できない人間らしさが現れている。それでも、姉は、エンダーにメイザー・ラッカムになって、人類を救えと、大佐に言われたように鼓舞する。そして、エンダーは、大佐には従わなくても、姉の言葉には従う。       

真夜中にシャトルは発射される。乗っているのは、エンダーと大佐の2人だけ(1枚目の写真)。「僕の eメールを二度と遮断しないと約束して」。大佐は何も言わないが、表情からOKしたことが分かる。「バトル・スクールに戻るんだと思ってました」。「戻らない」。「どこに行くんですか?」。「ずっと遠くだ」〔大佐は、もう校長ではなくなっている〕。シャトルは、大型の宇宙船とドッキングする(2枚目の写真、矢印はシャトル)。ここで、エンダーが姉に送ったeメールが、エンダーの独白の形で背景に流れ、エンダーの向かう先が、バガーの母星に近い前線の指令基地だと分かる〔原作のような、小惑星帯のエロスではない。従って、エンダーは光速の長時間飛行のため冬眠カプセルに入る(3枚目の写真)〔ここで、重大な問題が生じる。原作では、「地球からバガーの母星まで着くのに50年。船に乗っているのは2年」という記述がある。前線基地は母星ほど遠くはないだろうが、冬眠カプセルに入る以上、かなりの時間がかかることは確か。すると、大佐のモニターに映し出された「艦隊の到着まで残り28日6時間16分54秒」という数値は全く意味をなさなくなる。次節で、この前線基地の取得はラッカムの勝利の27年後とあるので、仮に基地が地球と母星の中間点にあると推定すると片道25年、冬眠1年なる。その間に、15歳のヴァレンタインは40歳になっている〕〔このようなバカげた設定にしたのは、コメンタリーによれば、小惑星の中の地下基地にすると予算が足りなくなるから、大きな惑星にして地表の基地にした、という前後の見境もないの能天気な理由。原作通りなら、エンダーや、その下で編隊リーダーを務めるアーライ、ビーン、ペトラたち36名は、小惑星からアンシブル(瞬時の通信)で第三次侵略の艦隊群に指令を出しているので、勝利の後、同じ年齢のまま地球に帰ることができる。しかし、光速飛行で前線基地まで移動してしまったら、アーライ、ビーン、ペトラ達はどうなるのだろう? 1年かけて地球に戻ったら、往復で50年後ということになりかねない。たかが、予算のためにこうした矛盾を抱えてしまったわけだが、監督は、こうした矛盾に全く気付いていないように見える。ここまで来ると、無責任の極みと言える。      

宇宙船から切り離された着陸船は、前線基地のある惑星に着陸する(1枚目の写真)。そこはバガーの故郷世界の一部なので、辺りには、バガーが築いた針のような構築物が並んでいる〔映画では、この惑星は、ラッカムの勝利の27年後に取得したという設定。だが、そのあとの大佐の「ここなら敵の母星に近いから、アンシブルで第三次侵略の艦隊と瞬時の連絡つく」という言葉は、原作におけるアンシブルの距離に無関係に瞬時という機能とは違っている〕。エンダーは、大佐に、「もし、バガーたちが母星にいるのなら、おとなしくしているのでは?」と質問する。「今はな」。「彼らがじっとしているなら、なぜ攻撃するのです?」(2枚目の写真)。「我々が君を採用する前、学校で、君が虐めっ子を蹴り続けたのと同じ理由だ。将来の全ての戦争を防ぐための戦いだ。君の訓練は明日の朝から開始する。ダップ軍曹が、居室に案内する」。エンダーの居室には、バガーの有機質的な構造の一部がそのまま残っている。軍曹は、大気は未だ再生中で、呼吸はできますが、薄すぎます。外に出られる際は、これを1分間に2回吸えば、地表の低酸素を補うことができます」と説明する(3枚目の写真)〔解説にも書いたが、なぜここにダップがいるのか? 何度も書くが、ここに来るには恐らく1年の冬眠状態での光速飛行が必要で、その間、地球では25年の歳月が流れている。監督は、恐らく、そうしたことは考えもしなかっただろう〕。      

エンダーが翌朝起きて窓の外を見ると、かつて心理ゲームの中で見たようなV字型に倒れた針状の廃墟があり、これは何かのメッセージなのかと考える。そして、窓から振り返りると、ベッドの前の床の上に、顔中にタトゥーを入れた老人が床にあぐらをかいて座っている。「誰ですか?」。相手は何も答えない。エンダーが、「あなたには楽しいかもしれないが、今に人がやって来る」と言って(1枚目の写真)、老人の横を通って行こうとすると、老人は手でエンダーの足をつかんで転倒させる。起き上がったエンダーが、「戦う気なの? 僕が老人とでも戦うという、テストなの? でも、やらないからね。パスするよ」。すると、老人は立ち上がり、エンダーを後ろから襲って、ベッドにねじ伏せる(2枚目の写真)。「いいよ、あなたの勝ちだ」。すると、やっと老人が口を開く。「お前は、いつから、敵に勝ったと言わせるようになった? さっき脅した時、なぜすぐに反撃しなかった?」。「指導者じゃないの?」。「敵だ。お前のどこが弱点で、どこが強いかを指摘する。だから、私は、お前の敵なんだ。いいな?」。「はい」。老人は拘束を解くと、「訓練では、私が 敵の戦略を立てる。覚えておくがいい、敵はお前より強い、お前は常に負けるだろう」。「サー、お名前を聞かせて下さい」。「メイザー・ラッカム」(3枚目の写真)。エンダーは、敵を全滅させて死んだと思っていた英雄に会い、驚く〔原作では、エンダーが10歳で小惑星エロスのコマンダー・スクールに来てから、1年間、複数の戦闘艦を使ったコンピューター・シミュレーション戦で技を磨き、その後、ラッカムと会う〕〔ラッカムの登場シーンは、映画も原作も似ているが、どちらもしっくりこない。なぜ、最初、わざわざ敵対してみせるのだろう?〕〔ラッカムは第二次侵略に勝利後20年エロス上に留め置かれ、その後、第三次侵略の艦隊がバガーの故郷世界に近づき、戦闘指令官の養成が必要となるまで、8年間(地球上では50年)宇宙を光速で飛んでいたという設定。だから、前回の戦争から80年経つのに、69歳(ベン・キングズレー)でも、おかしくはない(戦闘時41歳+20年+8年=69歳)〕。      

エンダーは、ラッカムの機がバガーの戦艦にぶつかり、戦艦が破壊された後の映像が、どのバージョンからも徹底的に削除されていて、実際はどうなったのか知りたいと申し出る。ラッカムは、エンダーを着替えさせると、すぐにモニタールームに連れて行き、オリジナルの映像を見せる。そこでまず分かったことは、被弾して炎を出しながら、ラッカム機は敵艦めがけて垂直に上昇していくが(1枚目の写真)、ぶつかる寸前にラッカムが機体から脱出したこと〔だから、生きている〕。そして、パラシュートで落下していく途中の映像から、敵の戦艦が破壊されると同時に、激しく動いていた敵の戦闘機が一斉に停止し(2枚目の写真)、あとは、操縦者がいなくなったように墜落していったことが分かる。エンダーは、衛星からの赤外線映像をもとに、特定の戦艦を破壊したことで、敵が活動を停止したことは突き止めるが、理由は分からない。ラッカムは、あくまで自分の推測として、バガーがアリに似ていることから、たまたま女王アリを殺したことで、残りの働きアリがすべてコントロールを失ったという仮説を話す〔バガーも即時の意思の伝達は距離に関わらず可能で、普通は女王は侵略に同行しないのだが、第二次侵略の際には、地球に移住するため女王が乗っていた〕〔ラッカムの顔のタトゥーは、父がマオリのため。これは原作と同じだが、原作にはタトゥーのことは触れられていない〕。      

エンダーは、ラッカムに連れられて、プラネタリウムのような場所に連れていかれる(1枚目の写真)。その真ん中の一段高い所に台があり、その中央にエンダーが立ち、その周囲にある5つのモニターに、アーライ、ペトラ、ビーン、ディンク、バーナードの5人が座る〔原作では36名。バーナードは敵側なので いない。替わりに、エンダーのドラゴン隊から数多く採用されている/この36名が編隊リーダーで、それぞれの編隊には、その日の戦闘状況によって、配置される艦船の数が違っている〕〔5名と36名とでは迫力が違う。映画化に当たり、一番貧相になっ箇所の一つだが、それをVFXの映像で何とかカバーしようとしている〕。ラッカムは、エンダーにバガーの母星の低空撮影映像を見せる(2枚目の写真)〔原作にはこうした設定はない。そもそも、どうやったらこんな映像がリアルタイムで入手できるのだろう? 国際艦隊は、そのようなスパイ衛星をバガーの母星に送り込めてないハズだ〕。ラッカムは、「実際の戦闘に極めて近いシミュレーションで始めよう。全体的な戦略はお前が指令する。編隊リーダーは各戦闘グループを指揮する。お前が5人に命令を出し、5人はドローンの船隊に指示する〔映画では、小型のドローン戦闘機が多数登場するが、原作では戦艦が主体。そして、戦艦には人間が多数乗り込んでいる〕。3枚目の写真は、第三次侵略の中核を担うドクター・デヴァイス(分子分離装置)という破壊装置〔原作では多数あるが、映画では、700億ドルをかけた1台しかない貴重な存在。しかも、1回撃つと チャージに2分かかる〕。      

エンダーが、姉にeメールを送っている〔メールがアンシブルで送られていれば、瞬時に届く。しかし、エンダーがここに着くまでに地球上では25年経過したと考えれば、姉は40歳になっている〕。「ヴァレンタイン様。コマンド・スクールだよ。とうとう来た。僕はサードだから、失敗しないかと いつもヒヤヒヤしてきた。基準に達しないんじゃなかとも。でも、僕は戦闘司令官になった」(1枚目の写真、指揮者のような手がカッコいい)「だから、約束するよ。全力でこの戦争に勝ってみせるって。姉さんに もしものことがあったら、僕は自分が許せないから」。エンダーの戦闘場面は、予算の関係で3回だけ。最初の1回は、完全な勝利。ある惑星に水の補給にきたバガーの小戦隊を見つけたエンダーは、惑星の周囲に浮遊する多くの氷塊の層の下に入って敵艦に近づき、ドローンを一斉に放ち、一気に攻撃させる(3枚目の写真)。      

再び、eメール。「訓練が進み、シミュレーションはどんどん複雑かつリアルになってきた。勝利へのプレッシャーも、日が経ち 月が経つごとに大きくなっていく。睡眠不足で、いつか注意力が落ちるかも」。エンダーがパネル上で指示を出し、その結果の戦闘が半球状の空間に映し出される(1・2枚目の写真)。エンダーの指令の一部。「アーライ、右に離脱しろ」「ディンク、惑星G8の引力を相殺するため、全パワーだ!」「ビーン、シエラを掃討しろ」「バーナード、そんなに飛ばすな」「ディンク、接近が速すぎる」。ここで、ディンクが、エンダーの指令ミスを指摘する。「全パワーと言ったろ」。「ディンク、後退させろ!」。しかし、この指令は間に合わず、国際艦隊の2機が衝突して破壊される。それを見たエンダーは、打ちのめされる(3枚目の写真)。パネルでは「ミッション失敗」と表示される〔原作では、戦艦を失うことはあっても、戦闘に負けたことは一度もない〕。ラッカムは、「実戦では、ゲームのように再起動してやり直すことなどできん!」と叱る。エンダーも、「サー、危険を冒さなければ、勝てません!」と反論する。大佐は、「危険を冒すな、などとは言っとらん。だが、すべてを一人でコントロールしようとするな!」と権限の分化を指示する。「掃討などはビーンに任せ、君は全体の動きに集中しろ!」。ラッカム:「チームにもっと任せろ!」。「チームは疲れ切っています! 睡眠も満足に取れないのに、どうやって力を出せますか!?」。ラッカム:「睡眠の欠乏も訓練の一環だ! バガーとの戦闘は何日も続くかもしれん!」(4枚目の写真)〔こうしたやり取りは、原作より遥かに厳しい。ラッカムの最初の叱咤は原作と似ているが、そのあと、くどくどと叱ってエンダーを追い詰めるようなことはしない。原作のラッカムの方が大らかな人間だ〕。        

翌日は、エンダーにとっての最終シミュレーション。原作の表現を借りるなら、最終試験だ。エンダーは中央の台に来ると、5人を見る、背後の観覧室には、いつもは大佐がいるだけだが、今日は、国際艦隊の総帥をはじめ、多くの見学者がいる(1・2枚目の写真)〔原作では、何度も書くが、火星と木星の間にある小惑星帯の中の基地での話だったので、簡単に総帥が出席できるが、地球から数10光年離れたバガーの母星近くの基地まで、どうやってこんなに大勢集まれたのだろう? この原作や映画の中では、スターウォーズやスター・トレックのような、光速を超える移動手段は存在しない。監督は、この歴然たる事実を忘れて脚本を書いている。観覧室を振り返ったエンダーに、大佐は、「総帥が、君の最終シミュレーションをご覧になる。君が成功すれば、戦闘司令官への昇進が承認される」。「イエス、サー」(3枚目の写真)。ラッカム:「シミュレーションの場所は、敵の母星の周辺だ」。総帥:「幸運を、司令官」。「サンキュー、サー」。よして、いよいよ、最終決戦が始まる。      

スクリーンに画像が映ると、正面に敵の惑星が映し出される。エンダーが画像を拡大していくと、正面に散開していた小惑星群の向こうには大量の戦艦が待ち構えている。エンダーに冷たいラッカムが、すぐに、「何を待ってる」と不満をもらす。大佐は、「少し時間をやれ」と庇う。どうするか迷ったようなエンダーに(2枚目の写真)、他の5人が振り向いてエンダーの顔を見る。ビーンは、最初にバトル・ルームに入った時、エンダーが言った言葉を口にする。「敵のゲートは下だよ」。それを聞いたエンダーは、全艦隊の向きを惑星の方に向ける(3枚目の写真、腕がカッコいい)〔この部分の映画の表現は実に不味い。だから、実際はどうなっていたかを原作を使って、理解してもらおう。「全体の陣形が表示され、エンダーの倦怠は絶望に変わった。敵は数的に千対一で上回り、シュミレーターは敵を示すグリーンに輝いていた……エンダーの艦隊は20隻のスターシップから成ってしたが、いずれも戦闘艦が4隻しか積んでいなかった(最初に発進ししたため、一番旧型)。それらは旧式でのろく、搭載されているドクター・デヴァイスの射程も新型の半分だった。80隻の戦闘艦で、少なくとも5千、恐らく1万の敵艦に対抗しなければならなかった……公正さがゲームの一部でないことは明白だった。エンダーに、ほんのわずかな成功のチャンスを与えるつもりもないようだった。僕はあんなに苦労したのに、連中には僕をパスさせるつもりはこれっぽっちもなんだ……もう どうだって構わない、とエンダーは思った。あんたたちで勝手にゲームを続ければいい。チャンスを与えてもくれないなら、なんで僕がプレイしなきゃならないだ? バトル・スクールでの最後のゲームで、2チームの敵をぶつけられた時と同じだった。そして、エンダーがそのゲームを思い出すと同時に、ビーンも思い出したらしく、ビーンの声が聞こえた。『思い出して、敵のゲートは下だよ」。そのことを覚えていた他の仲間が笑う。「エンダーも笑った。滑稽だった。大人は、この全てを真剣に受け止めていたが、子供たちは付き合って調子を合わせていた。しかし、突然、大人たちが限度を超えてやり過ぎてしまい、子供たちはゲームを見透かせるようになった。もういいよ、メイザー。あんたの試験に受かろうが落ちようが、僕はどうだっていいんだ。あんたのルールに従うつもりはない。あんたがインチキをできるなら、僕だってできる。不公平にやっつけられるままになったりするもんか。こっちが先に、不公平にあんたをやっつけてやる。バトル・スクールでの最後の戦闘でエンダーが勝ったのは、敵を無視し、味方の損害を無視したお陰だった。エンダーは敵のゲートに向かって進んだのだ。そして、敵のゲートは下だった」。この長い引用は、是非とも必要と思い、付け加えた。これにより、エンダーの思いがストレートに理解できる。だから、映画で、2枚目の写真の後、ビーンに言われて笑わなかったのは、脚本にそれだけの卓抜さがなく、このぎりぎりの選択を巧く描くことがでなかったからだ〕。      

エンダーが、ドローンを前面に出して敵をおびき寄せ、その中心に向けてドクター・デヴァイスを発射する。しかし、全滅したかに見えた敵だったが、赤外線映像でチェックすると惑星から数多くの敵艦が向かってくる様子が映し出される(1枚目の写真)。ドクター・デヴァイスはチャージに2分かかるので、それまでに攻撃で破壊されないよう、エンダーは、持てるドローンをすべて投入し、デヴァイスを何重にも囲んで守ろうとする(2枚目の写真)。お陰で、輸送艦は護衛のドローンがなくなって丸裸になるが、エンダーはルールなど無視し、犠牲などは厭わない。「全てかゼロかだ」。チャージまであと90秒。ドローンでできたシールドに対する攻撃が激しくなる。防御されていない、空母や戦艦も、次々と破壊されていく。「弩級戦艦など どうでもいい。ペトラを守れ〔ドクター・デヴァイスの担当〕。ボンソーとの戦いでアーライを守ったように」(3枚目の写真)。チャージまであと60秒。ペトラ:「標的は?」。「惑星だ。惑星を破壊すれば、女王たちも死ぬ。ゲーム・オーバーだ」〔この辺りの戦法は、原作と全く違う。恐ら視覚的効果を狙ったのであろう。VFXは、安手のSF映画とは違い、確かによくできている〕。      

ドクター・デヴァイスは大気圏に突入し、熱が発生するが、それは、先行するドローンがシールド代わりになって吸収する。しばらくすると、熱で溶けていくドローンが多くなる。ビーン:「シールドがもたないよ」。「あと、しばらくもてばいい」。チャージまであと30秒。エンダーは、ペトラに前方の視界を確保するため、ビーンにドローンを加速して連続的な流れを作るよう命じる。対ビーン:「ライフルの弾丸となり、惑星が見えるようにしろ」。対ペトラ:「先端に穴を空ける。1秒しか余裕はない」。「3、2、1。ビーン、今だ!」(1枚目の写真)。エンダーの正面に映ったドクター・デヴァイスの先端が細長く伸びて、そこに穴が開く(2枚目の写真、右端)。「今だ、ペトラ!」。ペトラがボタンを押すと、強力なビームがバガーの母星の表面に向かって放たれる(3枚目の写真)〔原作では、80隻の戦闘艦すべてにドクター・デヴァイスがあるが、最後まで生き残ったのは2隻のみ。そのどちらが発射したのかは分からない。ドクター・デヴァイスが命中した惑星は、わずか3秒で破裂し、エンダーの戦闘部隊も消滅した〕。      

その結果、母星の表面には破壊の輪が円形に広がっていき、遂には惑星全体を包み込む。ここで映像が切れる。エンダーは、最終シミュレーションに勝ったと思い、「やった!!」と叫んで 他の5人と抱き合って喜ぶ(1枚目の写真)。しばらくして、「アンシブル回線修復しました」とアナウンスがあり、惑星表面が溶けて溶岩が流れている映像が映し出される(2枚目の写真)。シミュレーション・ゲームをしていただけなのに、このようなライヴ映像が流れることは異常だ。エンダーは、「これは何なんだ?」と戸惑う。そこで、「なぜ、こんな映像を見ているのですか?」と尋ねる。背後から、大佐とラッカムが近づいてくる。開口一番、大佐は、「ありがとう。素晴らしい。実に素晴らしい。これでもう安心だ」と言う。「プログラムになぜあの映像が?」。「エンダー、我々は勝ったんだ」(3枚目の写真)。      

エンダーは、「『勝った』とは、どういう意味です?」と大佐に訊き、ラッカムの方を向き、「僕は彼をやっつけた。彼がシミュレーションを作った。そして、ゲームだと言った!」と主張する。大佐:「あいつらか 我々か、だったんだ」。ラッカム:「他に道はなかった」。大佐:「この勝利で、君は、将来の全ての戦いに勝った。君が、彼らを滅ぼしたんだ」(1枚目の写真)。観覧室の総帥らからはエンダーに拍手が送られる。しかし、エンダーは通路の奥に姿を隠し、むせび泣く。そこに、大佐が後を追ってきて、「エンダー」と声をかける。エンダーは、「僕に近寄るな!」と怒鳴る。「この嘘つき!」。「我々は恐れたんだ。もし、事実を話していたら…」。「プレーを拒むと? 僕は、知的生命体を皆殺しにしたんだぞ!」(2枚目の写真)。「奴らも、我々をそうしていただろう」。「そうじゃない。待ってた。何を待ってたと思う?」。「知ったことか! 君が見捨てた輸送船で1000名が死んだ」。「勝つために捨てたんだ!」。「そうだ! みんな誇らしく死んだんだ。我々のためにな!」。「誰も死ななくて済んだかもしれない。もし、僕が(シミュレーションじゃなく)現実だと知っていたら、僕はきっと…」。「対話を呼びかけたか? 奴らは話せないんだぞ」。「観察したさ。何を考えてるか… 再侵攻を企んでいたか、単に 防衛を図っていたのか… 彼らは、地球に植民のため地球に来て駆逐された。以来、50年、戻って来なかった」。「今となっては、どちらでもいい」。「僕は、このジェノサイドの汚名を永遠に着せられる」(3枚目の写真)。「いいや、君は、英雄として記憶されるだろう」。「大量殺害者としてだ!」〔原作では、大佐は、「もちろん騙してやらせたんだ。それが、この計画の眼目だった。ひっかけるしかなかったんだ。さもなくば、君はやり遂げられなかった。そこが困り果てたところなんだ。戦闘司令官はバガーのように考え、彼らを理解して先を見越せるほど共感能力が高くなければならなかった。部下たちに愛され、彼らと力を合わせて動けるほどの思いやりを持っていなければならなかった。ところが、そんな情け深い人物は、我々が必要とする殺し屋にはなれない。どんな犠牲を払ってでも勝つつもりで戦うことなど決してできないだろう。知っていたら君にはやれなかったはずだ。そして、君が知っていながらやれるような人物だったら、バガーを十分には理解できなかったんだ」と話す。これにより、なぜエンダーが最初から第一候補になっていたがよく分かる/ここで、「情け深い人物」は姉のヴァレンタインを、「知っていながらやれるような人物」は兄のピーターを指す〕。      

鎮静用の注射を打たれて眠りについたエンダーには、ペトラが付き添う。エンダーは夢の中で、“心理ゲームで目の前に現れたバガーの女王” を思い出す。そして、廃墟となった城跡も。目が覚めたエンダーは、ペトラの止めるのもきかず、エアロックに入り、酸素補助機も持たずに気密扉を開けて外に出る〔外は酸素濃度が低い〕。ペトラは、2人分の酸素補助機を持って後を追う。エンダーが酸素不足で走れなくなると、追いついたペトラが器具を渡す。2人の正面にあったのは、エンダーがこの星に来て最初に気付いた斜めに倒れたV字型の廃墟(1枚目の写真)。今のエンダーには、これが、心理ゲームの中の崩れた城だと分かっていた。だから、エンダーは、ゲームの中でヴァレンタインがやったように、あのV字型の廃墟の中に入って行かないといけない。それが、通信手段を持たないエンダーに、バガーがゲームを通じてサジェストしたものだから。エンダーは、ペトラに、「心理ゲームで、この場所を見た」と打ち明ける。「何を言ってるの?」。「バガーは、ゲームを通して僕にアクセスしたんだ。女王が思っていることと、僕の夢とが一緒になった。僕に話しかけようとしたんだ」(2枚目の写真)。そして、ペトラに戻るように指示し、1人で廃墟に向かう。ゲームの中で姉がしたように、廃墟の中に入っていく(3枚目の写真)。ここから、エンダーの独白が始まる。「ヴァレンタイン様。あれは、僕の夢じゃなかったんだ。女王が見せたんだ。僕に話しかけようとしたんだ。今では、僕は誰よりもバガーのことを知っている。僕はバガーから未来を奪ってしまった。何とか埋め合わせをしないと」。そして、廃墟の中の巨大な空間の真ん中に置かれた卵型のものが見えてくる(4枚目の写真)。エンダーは、迷わず中に入っていく〔原作では、前線基地ではなく、エンダーが訪れたバガーの故郷世界の惑星の一つで発見する。バガーがそれを作ったのは、エンダーにより自分たちが滅ぼされると知った時〕。        

エンダーが、階段を下りて行くと、中にあったのは、バガーの女王のサナギ。サナギを守っていたのは、死を間近にした女王。女王はエンダーの前に立ちはだかると、前脚でエンダーの顔に触れる。そして、エンダーの涙に触れると、それが交信すべき相手だったと知る(1枚目の写真)。エンダーは、「あなたは、死ぬのですか?」と語りかける。女王は、サナギを示しているように見える(2枚目の写真、矢印はサナギ。左側全体が女王)。「これが、女王ですか?」。うなずいているように見える。「新しい故郷の星を見つけます。約束します」(3枚目の写真)“死にかけた女王” は27年間、自分の種族の絶滅を予期し、ここでエンダーを待っていたことになる。ここで、再び独白。「寂しいよ、ヴァレンタイン。しばらくは連絡できない。僕に、戦争の時のような力が、平和な時にもあるかどうか見極めないといけない。国際艦隊は僕を提督に授け、宇宙艇も与えてくれた。僕は、貴重な荷物を持って宇宙を旅するよ。約束を果たさないといけないから」(4枚目の写真)〔3枚目の4枚目の写真の間で、一瞬、「現在」のヴァレンタインが映るが15歳のままだ。ということは、この映画では、一般相対性原理が完全に無視されている。光速に近づいても時間の進み方はゼロに近づかないのだ。そして、ワームホールを使わないのに、光速を超えて飛行できる〕〔この映画の終わり方は、あまりにもあっけない。原作では、①地球では、それまで対バガーで団結してきた仕組みが崩れ、戦争が起きかけるが、ピーターが創造したロックと、ヴァレンタインが創造したデモステネスという天才的な論客により一定の平和がもたらされる。②その中で、デモステネス(ヴァレンタイン)は、もしエンダーが地球に戻れば、ロック(ピーター)に利用されるだけなので、エンダーをバガーの故郷世界への植民団の総督にするよう説得する。③36名の編隊リーダーは順次地球に戻り、英雄として歓迎される。④ヴァレンタインは、エンダーと一緒に植民団に加わる。移民船の船長はラッカム。大佐が植民大臣として同行する。⑤2年後(地球では50年後)、植民団は新世界に到着する。⑥新たな移民団の到着が迫る中、エンダーは適地を捜そうとしていて、心理ゲームで見た光景を発見する。これはきっとバガーが自分にメッセージを残そうとしたのだと推測して中に入っていき、女王のサナギを見つける(映画と違い、死にかけた女王などいない)。⑦エンダーは、女王の物語を『死者の代弁者』という本にまとめる。⑧エンダーとヴァレンタインは、2人だけで宇宙艇に乗り、サナギを置くにふさわしい地を求めて流浪の旅に出る、という構造になっている〕。        

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