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I cormorani イ・コルモラーニ/ひと夏の二人

イタリア映画 (2016)

1980年生まれのFabio Bobbioの初監督作品。思春期を迎えた多感な2人の少年が、町や田舎で過す日々を淡々と、長回しで捉えた作品。登場するのは、マテオ役のマテオ・トゥーリ(Matteo Turri)と、サムエレ役のサムエレ・ボーニ(Samuele Bogni)。役名と本名が同じ。2人とも完全な素人。この映画には筋書きは一切ない。突然に始まり、突然に終わる。語られるエピソードは、一場面が非常に長いため、思ったより少ない。そもそも題名が何を意味するかも分からない。“I cormorani” は、「鵜(う)」の複数形。といって、鵜が主役なわけでもない。確かに映画の終盤、2羽の鵜が魚をとるため水中にもぐり、飛び立っていくシーンはあるのだが、それは、2人の少年の目を通して簡単に語られるに過ぎない。“I cormorani” は、もう1つ、「鵜のように貪欲な」という意味もある。2人の少年は貪欲でなはなく、淡々と、ある意味では無為に、夏休みの日々を2人だけで過している。「何でも新鮮に見え、好奇心に満ちた」少年時代を、「貪欲」という言葉で象徴したかったのか? DVDを購入してこれほど失望した映画も少ない。予告編を見るだけで選定するのでリスクは伴うが、この場合は本当にがっかりした。それならばなぜ紹介するのか? それは、このDVDにかかわる別の事情があるから。実は、このDVDをイタリアのアマゾンに発注したのは2018年「5月12日。発送されたのは5月15日。到着予定日は5月31日だった。届かなかったので、2週間待って6月13日にカスタマーサービス宛に注意喚起のメールを送った。すると、すぐに返信があり、お詫びとともに、6月19日まで待って届かなければ、再送、もしくは、返金しますとのの回答が寄せられた。届かなかったので6月19日にメールすると、すぐに、丁寧なお詫びとともに、紛失の可能性を認め、再送、もしくは、返金のどちらを選択するかの問い合わせメールが届いた。すぐに、「可能な限り速やかな再送」を求めるメールを送ったところ、現地時間6月20日7:29に発送手続きが完了し、9:29にローマのDHL(国際宅配便)に持ち込まれ、自宅には6月22日の16:40に到着した。イタリアとの時差7時間を考えると、実質約2日で届いたことになる(純粋な飛行時間は、イタリア→ドイツ→中国→日本と飛ぶので16時間。残りの32時間が発送準備、空港での中継、日本国内での通関と輸送)。アマゾンの信頼性の高さを証明する結果となったが、高額なDHL(払ったのはアマゾン/EXPRESSなので72.9ユーロ〔9300円〕)を使用して送られてきたDVDなので、紹介しなくては可哀そうと思った次第。

映画は、夏休みをのらくらと過す仲良しの2人の少年マテオとサムエレの姿を、田舎(森の中、路端、河原)、町(ショッピングモール、遊園地)の5ヶ所を回遊しながらランダムに紹介していく。そこには何のストーリーもない。ただ、淡々と12歳という「思春期の入口」にいる2人の少年の行動を追っていくことに徹している。撮影が、1分を超える長回しによるノーカット撮影の連続で、それが、「ドキュメンタリー」のような雰囲気を出している。空中分解しそうなとりとめのなさは、この年頃の少年の姿をそのまま現しているともいえる。最大の欠点は、森の中に追跡シーンの意味が全く分からないこと。それさえなければ、もう少しまともな作品になっていただろうにと惜しまれる。

ここでは、2人の少年のうち、マテオ・トゥーリにのみ焦点を当てる。サムエレ・ボーニは、後姿が多く、写真が選定できなかったので取り上げない。どちらにせよ、2人ともずぶの素人。演技が巧い訳でもないが、マテオの方が笑顔が可愛い。


あらすじ

映画は、森の中で、木や草の陰に隠れて様子を伺う2人の少年の姿を映す。2人は何かを捜すように、森の中を慎重に進んでいく。小路の先に赤っぽい服を着た少年が見えると、マテオが「あそこにいる」と言うので、追跡しているのが少年だと分かる。2人が見ていると、少年は渓流ごしに何かを捜すように見ている(写真、矢印が正体不明の少年、左がマテオ、右がサムエレ)。少年が姿を消すと、2人は渓流沿い歩いて後を追う。2人が森の中でウロウロしていると、今度は、横縞のシャツを着た少年が、2人に気付かずに後ろを通り去る。4人の関係は一切分からない。この間約3分弱。かなり長く感じる。そしてタイトル。  

2人はショッピングモールのような場所にいる。同じ日かどうかは分からないが服装は同じ。マテオがバッグを背負っているのも同じ。茶髪がマテオ、黒髪がサムエレだ。マテオが座っているサムエレにふざけて手を出す(1枚目の写真)。30秒ほどのノーカット撮影。会話はゼロ。次の場面は、ゲーム売り場のショーウィンドウの前で2人がゲームについて話す(2枚目の写真)。ゲームの名前を4つほど言うだけ。ここも約30秒のノーカット撮影。最後は、休憩用のイスに座った2人が、釣りについて話す(3枚目の写真)。約30秒のノーカット撮影。要は、2人は暇で、趣味はゲームと釣りということは分かる(釣りはサムエレの方が巧く、マテオは初心者)。      

再び森の中。2人は、草むらで横になってゲームをしている。草に隠れて姿はほとんど見えない。これが1分以上ノーカットで続く。2人はようやく行動に出る。サムエレが立ち枯れした細い木をつかんで折ろうとし、マテオが、それを手伝う(1枚目の写真)。折るのに成功するが、長すぎるので、2人で上に乗ってちょうどいい長さに折る。2人は同じようにして枯れ木を集める。このシーンは多くのカットで構成されている(約2分)。終わると、2人はそれぞれ5本ずつ径5センチ前後の枯れ木の「棒」を後ろ手に牽きながら歩く(2枚目の写真)。40秒ノーカット。2人は山の斜面に生えているシダの葉を集め、河原まで運ぶ。ここまで来て、2人が何をしているのかが分かる。先程の枯れ木の棒を円錐状に組み、河原に生えている背の高い草を並べて「壁」にして、一種の「テント」を作ったのだ(シダの役割は不明)。テントの中での会話は、最初は、フリーマケットで幾ら稼いだかについて(1枚目の写真)。マテオが尋ね、サムエレがスマホでメールし、1人が1ユーロ、もう1人が12ユーロと差のあることで議論になる。その後、サムエレが、「まだマティルデとつきあってるのか?」と訊き、マテオは「夏休みになってからは会ってない」と答える。「何回ヤったんだ〔Quante volte te la sei fatta〕?」。「知るか」。「じゃあ、ヤったんだ」。マテオは話題を変える。「イリスと付き合うつもり?」。「いいや」。「じゃあ、まだマルコのキスメイト?」。「違うな。2人は終わってる」。サムエレは話を戻す。「それで、何回ヤったんだよ?」。「知るかって」。「ヤったんだな」。「2、3回」。会話はしばらく途絶える。この “te la sei fatta” というイタリア語にはいろいろな解釈があり特定できないが、流布している英語字幕では “did you shag her” となっている。この “shag” というのは、セックスを意味する俗語だが、12歳の少年がそこまでするとは思えないので、恐らく「キス」のことだろう〔後で、売春婦の家に招かれるシーンがあるが、そこでの子供っぽさからも、早熟さは感じられない〕。マテオ:「今年になって、誰かとデートした?」。「してない」。「独身なんだ」。「どうも」。その間も、サムエレはスマホを続けている。このシーンは、4分弱続くノーカット撮影。マテオはイケメンで人気があり、サムエレは根暗でモテなくてスマホ中毒だと分かる。      

2人は、夕方の市街地(かなり郊外)の2車線道路沿いを歩く。辺りが真っ暗になっても、照明の点いたベンチで一緒にいる。そして、朝日が昇るのを遊園地を望む斜面の上で迎える。つまり、家には帰らなかったことになる〔映画の中で、2人の家は出て来ない。いつも外にいる〕。マテオは立ち上がると、斜面を下って、開業時間前の遊園地に向かう。しばらくしてサムエレもそれに続く。マテオは、コーヒーカップ(遊具)に乗ると、くるくる回して遊ぶ(1枚目の写真)。それだけで50秒。その後は、ボクシング・ゲームの機械へと移動。電源が切られているのでパンチングボールは上がったままだが、2人は交互に叩いてみる(2枚目の写真)。    

同じ日か、別の日かは分からないが、2人は田舎道沿いの茂みの中で、何かを待っている。そのうち、マテオが、「きっと来る。でも、イスが置いてないな」と言い、サムエレは、「来ないさ」と否定する。「始めたトコかも」。「別の道に鞍替えしたかも」。ここまでで30秒。カメラが切り替わるので、2人はしばらく待っていたのであろう。マテオが、「車の音、聞こえなかった?」と言い出す。「いいや」。「聞こえたって。彼女 来るぞ」。実際に車の音が聞こえ、青い小型車が2人から20メートルほど先の道路脇で停まる。マテオ:「イタリア人だと思う?」。「さあ」。女性が助手席から降り、「チャオ、アモーレ」と言うと(1枚目の写真)、車は去って行く。2人はくすくす笑う。女性は手に持っていた小さなバッグを地面に置く。サムエレ:「イスないぞ。買うお金ないのかな」。マテオ:「また電話するぞ。またヤる気だな。新しい客のお出ましだ」。ここで、カメラは、ようやく2人の横顔を映す〔最初の2分間は後頭部しか映っていない〕。ブラブラしながら待っている女性を見ながら2人はクスクス笑う。その後で、マテオが、「サム、お前ならやるか?」と訊く。「まさか」。「なんで?」。「なんでも」。「理由は?」(2枚目の写真)。「ブスだ」。「美人だったら?」。「行かない」。「なんで?」。「なんでも」。応酬が何度も続き、「売春婦だからか?」と訊く。「そうだ」。今度は、サムエレが、「お前なら?」と訊く。「やらない」。「なんで」。「売春婦だから、汚いだろ。何人の男がチンチンを尻〔culo〕に突っ込んだと思う?」〔「尻」と言っているが、その程度の認識なのか?〕。この言葉で、全体で4分続く「茂みの中」のシーンはようやく終わる。    

2人は大きな工場の前を通り、チェーンのかけられた半地下への入口から中に侵入する。中には湾曲した鏡の置いてある部屋があり、2人は自分の姿を映して時間を潰す。地下だけで3分30秒。地下を抜けた先にあったのは、なぜか、遊園地の、「Folies Bergeres」と書かれた建物の出口〔フォリー・ベルジェールは、パリにあるミュージック・ホール。その名前を借りているということは、似たような役目のパビリオンだろう〕。時間は夜。照明が華やかに点いて、園内は客で賑わっている。ボクシング・ゲームの機械には、多くの大人が挑戦し、自分のパンチ力を試している。この何の意味もない大人のパンチシーンが1分半続く〔いい加減うんざりする〕。大人がいなくなり、ようやく2人が試す時間となる。サムエレがコインを入れると、パンチングボールがセットさせる。マテオは、手でなく、頭でボールにぶつかる。その時のパンチ力は「9156」。セット前に残っていた数値が「10153」なので、マテオの頭突きは、大人のパンチ並みということになる。マテオの笑顔が可愛い(写真)。  

次は、冒頭のシーンと同じ森の中。2人は顔を見合わせ、何事かを伝えあう(1枚目の写真)。前回と同じ横縞のシャツを着た少年が隠れるように座り込み、口笛を鳴らす。すると、緑シャツの少年が現れ、また口笛が鳴る。この口笛を聞き、2人は心配そうに周りを見るが、木に阻まれて何も見えない。2人は先へと進む。別の白シャツの少年が、森の中を探るように歩いて行く。何をしているのかは全く分からない。だが、マテオとサムエレが別のグループを捜して森の中を徘徊し、その2人を3人(赤縞、緑、白)が追っていることは確か。しかし、その3人が1ヶ所に集合したところで(2枚目の写真)、彼らはなぜか引き揚げていく〔意味不明の単調なシーンを4分以上見せられるのは苦痛〕。    

次は、売春婦を茂みから見張るシーン、No.2。前日の女性が、違う服を着て、同じ場所に立っている。同じ茂みに隠れ、2人は見ている。マテオ:「何を訊こう?」。サムエレ:「幾らするか、だ」。そして、「ほら、行けよ」と催促する。「他のこと訊いちゃダメか?」(1枚目の写真)。「ダメ」。「たとえばさ…」。「ダメ」。「彼女の料金表を訊いて来いよ」。「10ユーロ、プラス、かぎ針〔魚釣り用〕だぞ」〔訊き賃〕。「ダメ」。「勇気がいるんだぞ」。「じゃあ、10ユーロ」。「プラス、かぎ針」。「10ユーロだけ」。「10ユーロと浮き10個」。「分かった」。握手をして交渉は成立。マテオは茂みを出て、女性の方に歩いて行く(2枚目の写真)。マテオ:「チャオ」。女性:「誰なの?」。「僕? マテオだよ」。「チャオ、マテオ」。そこでシーンは終わる。何を話したのかは分からない。    

再びショッピングモールで。ソファに腰を降ろした2人。サムエレは1人スマホに熱中し、放っておかれた形のマテオは寂しくて、ちょっかいを出すが、その度にサムエレは手を振り払い、相手にしようとしない(1枚目の写真)。このシーン、会話は一切なく、1分、ノーカット。次のシーンでは、2人がイタリアン・ジェラートを購入し(2枚目の写真)、通路で食べる。会話は注文のみ。30秒。1カット。    

同じ日か、別の日かは分からないが、遠くで雷鳴が響く曇天の中、2人は森の中を通る高速道路の高架下に行き、鉄筋コンクリートの柱にもたれかかって「何か」をしている。そのうちに、飽きてきたのか、マテオが落ちていたコンクリートブロックの上に石で字を書き始める。サムエレ:「何してる?」。サムエレは読もうとするが、「サム」しか分からない。「お前にしか読めんな」。サムエレは、すぐに興味をなくす。マテオは、「ほら、読むぞ」と言い、字を指しながら、「サムエレは… testa... di... caz...」と読み上げる(1枚目の写真)。“caz” は、“cazzo”の前半だと思うので、“testa di cazzo” は「アホンダラ」というような意味。サムエレは面白くない。40秒ノーカット。次のシーン。隣にころがっていたペンキの缶を何とか開けようとする。「開けようぜ」と言い出したのはサムエレ。それを実行させられたのはマテオ。先の尖った石で何度も蓋を叩き、それでもダメなので、缶の上で何度も飛ぶ。最後は枯れ木の棒で叩く。缶は破壊され、ベンキがコンクリートブロックの上にこぼれる。2人は、手にペンキをつけて、コンクリートの柱に手形をつける(2枚目の写真、上についた4つの手形がマテオ、下の3つがサムエレ。マテオの方が背が高いし、手も大きい)。この後半のシーンは、カットは多いが、3分以上続く。    

さっきは雨が降りそうだったが、今度は曇り空。恐らく、別の日。2人は、「テント」のある近くの川を徒歩で渡る。先に行くマテオは、予め脱いだ靴を向こう岸に1足ずつ投げてから渡り始める。サムエレは靴紐で2足を縛り、首にかけて渡る。川の中は石がゴロゴロし、深さもまちまちなので、2人は何度か転倒しそうになりながら(写真)、何とか渡りきる。渡るだけで2分。ノーカット。  

売春婦と茂みの3度目。カメラは茂みとは正反対の角度から遠望で3人をとらえる。道路端で客を待つ売春婦。そこに、道路を歩いて2人が近づいていく。2人が近寄ると、売春婦が振り向く(1枚目の写真、赤の矢印が売春婦、黄の矢印が2人)。この直後、2人は売春婦の家のソファに寝転がっている。最初は、手持ち無沙汰な感じで待っている(台詞なし、動作もほとんどなし)。1分ノーカット。そして、ドアがバタンと閉まる音がし、階段を降りてくる足音が聞こえる。姿が目に入ると、マテオが相好を崩しサムエレをつつく。サムエレも笑顔になる(2枚目の写真)。2人は、緊張したり、笑顔になったりを繰り返す。ここまで40秒、都合1分40秒のノーカット撮影だ。ここで、アングルが変わり、カメラは横から3人を映す。下着姿で2人の前に立った売春婦は、下着を脱いでビキニショーツだけの姿になる。2人のクスクス笑いが大きくなる。女性はそのままの姿で、2人に接近する(3枚目の写真)。売春婦にも良識はあり、12歳の少年たちには、「上半身裸の姿を見せるだけ」という料金を設定したのだろう。      

2人は幸せそうな顔をして森の中の道を自転車で走る。恐らく、先程のシーンの直後、達成感に溢れての笑顔であろう(1枚目の写真)。2人の仲の良さは分かるのだが、1分30秒はさすがに長い。2人はトウモロコシ畑の前で自転車を降りると、そのままトウモロコシに向かって走る(2枚目の写真)。2人の姿がトウモロコシの中に完全に消えても、カメラはそのまま回り続ける。15秒後、畑の奥から7羽の白い鳥が飛び立つ。2人のどちらかが接近したので、驚いて飛び立ったのであろう。鳥はしばらくして、放置された自転車と畑の間に着地する。この間、20秒強。つまり、2人の姿が消えてから、40秒近く “boring” な映像を見ることを強いられたことになる。これは、詩情でもなんでもない。    

2度目の夜の遊園地。2人が挑戦したのは射撃(1枚目の写真)。最初にマテオが5発撃ち、次にサムエレが5発撃つ。成果のほどは分からない。40秒ノーカット。次が、遊園地でのメインシーン。2人はゴーカートに乗ってぶつけ合う(2枚目の写真)。2人連れの少女の乗ったカートにもぶつけ、ぶつけられ、和気あいあいといった感じ。このシーン、2分以上続く。それが済むと、マテオとサムエレが、ゴーカートでぶつかり合っていた2人の少女と話している(3枚目の写真)。お互い楽しそうだが、話し声は聞こえない。成果は、次にデートする日の約束か?。      

翌日? 2人はパンツだけになり、いつもの川で泳ぐ。そして、水を掛け合って遊ぶ(1枚目の写真)。約1分強だが、如何にも夏休みの少年同士といった感じ。その後、「テント」が映り、夜の焚き火へと移行するので、同じ日の一連の行動なのだろう。2人は背を合わせた形で座り、そのためか会話が途絶えている(2枚目の写真)。火の勢いが衰え始めた頃、マテオが、「赤くなってきたな」と言い出す。サムエレ:「木だ。くすぶりかけてる」。「ロレーナって、今、ウチの学校にいるけど、前は、お前のクラスにいたんだろ?」。「ああ」。「ガリ勉すぎないか?」。「さあ」。サムエレはスマホに熱中し始め、会話は途絶える。1分半。ノーカット。途中の話題は少年らしいが、サムエレのスマホ中毒はマテオに失礼だ。    

2人は、背の高いトウモロコシに囲まれた野道をカメラに向けて歩いてくる。遠景から近景になるまで無音の50秒は長い。クローズアップになると、2人は釣りのことを話している。話に熱中していると、いつの間にか、2人の背後に少年が2人いる(1枚目の写真、矢印)。マテオが異常に気付いたのは、前方を遮るようにさらに2人の少年がいるのが目に入った時。振り返ると2人、さらに、真横(左手)にも1人いる。計5人に囲まれてしまった。サムエレは、マテオの手を引くと、残された右手の森の中に逃げ込む。2人は必死に逃げ、何とか相手をまく。しかし、マテオはかなり疲れてしまったので、地面にへたり込む。ここまで、逃げ始めてから2分弱。「敵」のことが心配なサムエレは、「行くぞ、マテオ」と呼びかけるが、動けない。その時、森の中に口笛の音が響きわたる。そして、突然 追っ手が現れる。サムエレはまっすぐ、マテオは左に逃げる。5人全員がマテオを追う(2枚目の写真、矢印はマテオ)。恐らくマテオはすぐに捕まったのであろう。サムエレの方は、誰も追ってこないのに逃げ続け、森の外に出る。そして、後ろを振り返るが誰もいない。マテオのことが心配になったサムエレは、その場に留まってじっと待つ(3枚目の写真)。しばらく待ってもマテオが来ないので、森に戻る。そして、最後に別れた場所まで行き、「マテ!」と呼ぶが、返事はない。この長いシーンは、映画のクライマックスかもしれないが、「何が起きているか」がさっぱり分からない。「追いかけっこ」は、冒頭を含めて3度目だが、2人と5人の関係が説明されていないので、マテオがいなくなったことにどういう意味があるのかも分からない。「解釈は観客に任せる」というタイプの映画ではないので、これは致命的な欠陥だ。      

サムエレは、ひょっとしてマテオがいるのではと、ショッピングモールに行ってみるが、そこにも姿はない(1枚目の写真)。明くる日は、釣竿を持って川にでかけるが、そこにもマテオはいない。仕方なく、1人で釣りをする。夕方になり遊園地にも行ってみる(2枚目の写真)。サムエレの単独シーンは3分半も続く。事態が分からないだけに、観客の苛立ちは募るばかりだろう〔普通なら、マテオの自宅に行くのが当然だと思う。そして、マテオが丸1日戻らなければ、警察に届けるべきだろう。だが、サムエレは何もしない〕。    

夕方の遊園地の後は、いきなり川の中で泳ぐサムエレの水中撮影シーンに変わる。この意味不明の水中シーンは1分以上続き、次いで、川との境にあるコンクリート壁の上にサムエレが上がる。そして、その20秒後、その隣に、何とマテオが上がってくる。いつの間にか、マテオは戻って来て、2人はごく自然に川で泳ぎ、日光浴に上がってきたのだ(1枚目の写真)。何の説明もない。あまりにも無責任な展開だ。カメラは2人のクローズアップに切り替わる。2人はお互いに逆向きに横になる。横に並ばなかったのは狭いから。だから、話ができるように、頭をつけたのだろう。30秒、何もしないシーンが続いた後、マテオが川の水を手ですくってサムエレの口にかける。サムエレは嫌がって手で払いのける。それが何度もくり返され、今度は、手で鼻をつまんだり、手で取っ組み合ったりする。クローズアップが始まって2分後、ようやく最初の台詞が流れる。サムエレ:「ここ、暑いな」。マテオは、「だから…」と言うと、さっきより大量の水をかける。「こいつ!」。「だって、暑いんだろ?」。ここで、水の掛け合いが始まる。このシーンの最後は、マテオがすくった水がカメラにまともにかかり、マテオがカメラを振り向いて「しまった」という顔をするところで終わる〔普通は、俳優がカメラを意識して見るシーンは禁忌〕〔マテオが森の中でどうなったか、一切説明はない〕。    

いつもの河原で、2人が水面を見ている。サムエレ:「見ろよ、あいつ、水に落ちるぞ」。マテオ:「バシャンだ」〔画面には映らないが、鵜が魚を獲りに手中に飛び込んだ〕。マテオ:「落ちちゃったから、もう飛べないな」。2人の話題は、近くにいた魚に変わる。しばらくして、サムエレが、「マテ、見てみろ、2羽の鵜だ」と声をかける(1枚目の写真、矢印の先に2羽の鵜)。写真でも分かるように判別は困難。だから、マテオにも見えなかった。「何 言ってんだ?」。「そこにいたんだ。今は木の中に入っちゃったけど。あの大きな木だ。あそこに巣があるんだ」。「何で知ってる? スパイしてたのか?」。鵜の話はこれで終り。映画の題名と同じ “cormorani” という単語が出てくるのは この部分だけなので、敢えて取り上げたが、題名とは関係のないことが分かる。2人は、この後、鱒の習性についてしばらく話す。次のシーンで、2人は、堰の上に干しておいたタオルを回収し、それをマテオがまとめてバッグに詰めて背負う(2枚目の写真)。マテオがいつも背負っているバッグは、2人の持ち物を入れるためのものだったことが分かる。マテオは歩き出し、サムエレが後を追う。この立ち去るシーンだけでも、延々と川の向こうに姿が消えるまで1分もカメラは回り続ける。そして、第3のシーン。薄暗くなった草むらで2人はふざけ合う(3枚目の写真)。2分弱。ノーカット〔もう、いい加減にして欲しい…〕。      

夜の遊園地。2人は食堂で簡単なスナックを食べている。映画では、何回も撮り直すことが多いので、普通は食べるふりをするだけだが、ここでは長回しの1回撮影なので、どんどん食べる(1枚目の写真)。会話は、「うまいな」。「うん」だけ。50秒ノーカット。最後のシーンは、ロデオマシン。大人たちが試しているのを見た2人が、自分たちにもできるとばかりに挑戦する(2枚目の写真)。そして、映画は唐突に終る。結論。99分はいくらなんでも長すぎる。3分の1の時間で十分だ。    

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