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Born a King ボーン・ア・キング

イギリス・スペイン映画 (2019)

今年の1月初めに紹介を終えた『ルイ: 少年王』(1993)に続き、有名な王の少年時代を描いた映画。ただ、ルイ14世の少年時代が、波乱万丈だったのに対し、こちらの映画は、歴史上ほとんど埋もれてしまった、13歳の時のロンドン行きが内容のほとんどを占める変わった構成。映画の製作は2017年から始まったと書かれているが、なぜ、今、この映画が作られねばならなかったのか、よく分からない。あらすじで引用した3つの資料の最初の『A Life at the Heart of the Twentieth Century』は、2019年12月20日からロンドンのNash Roomで開催された展示会で使われた資料で、この展示会は、1919年のファイサル・ビン・アブドゥルアジーズ・アル・サウドのロンドン訪問の100周年を記念した行事だった。映画の公開は、これより3ヶ月弱早い2019年9月26日だったが、なぜかイギリスでは公開されなかった。両者の間に何か関係があるのだろうか? 映画の内容は、この展示とは大幅に違い、ロンドンでの4ヶ月を中心に描いていて、その内容も、展示や、当時の歴史分析を行った論文とも違う映画独自の創作なので、両者に関係があるのは、100周年という点だけなのかもしれない。日本人には馴染みのない内容という点では面白いのだが、調べるに従って、脚本の独断専行が明らかになり、もっと別の視点から描けなかったのかと不審でならない。

時代は、1919年。アラビア半島の西端の紅海沿岸のヒジャズ国を支配していたシャリフ・フセインには、『アラビアのロレンス』のロレンス大佐をはじめとする英国政府がサポートし、それに対し、半島中央部のリヤドを中心とするナジュド国を支配するアブドゥルアジーズ・イブン・アブドゥル・ラーマン・アル・サウド首長は、ヒジャズに含まれる聖地メッカを手に入れようと戦いを挑み、メッカの近くまで軍を進めるが、英国に戻るよう強く勧告される。映画は、この不安定な状況の中で、ロンドンにファイサル王子を団長とする使節を送り込み、事態を打開しようとした首長の試みについて描いている。英国に着いた王子を待っていたのは、英国外務省の不熱心な対応。王家の使節団とは思えないひっそりとした出迎えで、ロンドンに着いても、ホテルからは、イスラム教の祈りに対し苦情があったことを理由に翌日正午までに立ち退くよう要求される。使節団の世話係で、アラビア滞在歴の長いフィルビーの提案で、王子たちは話題作りのためあちこちに出かけ、それが新聞に何度も取り上げられ、ロンドン到着後3ヶ月にして、ようやく英国王からの招待を受ける。バッキンガム宮殿で、国王夫妻と一緒にいたメアリー王女は、少し前に亡くした弟と同い年のファイサルに好意を持ち、外務大臣に何とか会わせようと、狐狩りに連れて行ったり、兄の内宴に招いたりし、ファイサルはようやく外務大臣に会うことができる。しかし、会って話をしても、それがどの程度効果があったのか、分からない。不満が鬱積し、帰国を決意した時、外務大臣から2度目の会談の打診があり、ファイサルは、父宛の英国王からの手紙を持って帰国することができた。

ファイサル役は、アブドゥラ・アリ(Abdullah Ali)。映画初出演ということ以外何も分からない。英語は堪能。

あらすじ

映画の冒頭、簡単な時代背景の説明がなされる。「20世紀初頭は、アブドゥルアジーズ・イブン・アブドゥル・ラーマン・アル・サウド〔Abdulaziz Ibn Abdul Rahman Al Saud〕首長〔アル・サウドの “アル” は、「…家」の意味。だから、サウド家〕は、ナジュド〔Najd、アラビア半島の中央部の高原地帯〕を取り戻すことを切望し、オスマン帝国のクウェートへの亡命〔10年近い〕からリヤド〔Riyadh、ナジュドの中心都市〕に戻った〔1901年11月14日→1902年1月15日〕〔1891年のムライダ(Mulayda)の戦いで、ムハンマド・ビン・アブドゥラ・アル・ラシッド(Muhammad bin Abdullah Al Rashid)(“ビン” は「…の息子」の意味なので、“ラシッド家のアブドゥラの息子ムハンマド” を意味する)がサウド軍を破り、ナジュドを統治していた〕。「第一次世界大戦〔~1918年11月〕後すぐ、中東の領土は、アラビアを分裂させておくことを目論んだ戦勝同盟国によって勝手に分割された。アブドゥルアジーズと彼の忠実な戦士達は、ラシッド家とオスマン帝国軍を追放し、彼の土地を再征服した」。ネット上には様々な地図が流布しているが、最も確からしいのは1914年と1923年を対比した右の地図。の1914年の地図では、アラビア半島の中央部のナジュドの部分に 「イブン・サウド〔Ibn Saud〕首長の領土」と書かれている〔イブン・サウドは、アブドゥルアジーズ・アル・サウドの略称〕。また、紅海沿いのメッカを含む薄紫色の部分は、ヒジャズという国で、フセイン・ビン・アリ・アル・ハシム〔Hussein bin Ali al-Hashimi(ハシム家のアリの息子フセイン)、映画『アラビアのロレンス』で、ロレンスが軍事顧問を務めたファイサル王子の父〕が、1916年に王となった。しかし、の1923年の地図では、アラビア半島のほとんどが 「サウド家のアラビア〔サウジアラビア〕、1902~1934年の拡大」と書かれ、すべてイブン・サウドの領土になったことが分かる。その後、1927年5月20日、ヒジャズとネジドの独立を認めるジェッダ〔Jeddah〕条約が英国とイブン・サウドの間で締結され、1932年に両地域が合併してサウジアラビア王国として統一された。この映画は、1919年8月からスタートするが、最初のうちは、過去のいろいろな時点での重要な出来事が紹介される。

1919年8月、この映画の主人公、ファイサル・ビン・アブドゥルアジーズ・アル・サウド〔Faisal bin Abdulaziz Al Saud(サウド家のアブドゥルアジーズの息子ファイサル)〕王子が、父アブドゥルアジーズ〔フルネームは長いので省略表示〕の代理として英国に向かう船に乗っている。彼は、船室から出ると、船首に向かって歩いて階段を上がり(1枚目の写真)、映画『タイタニック』以来、定番となった構図で船首に立つ(2枚目の写真、矢印)〔ファイサルは、前の節の、『アラビアのロレンス』のファイサル王子と同じ名なので、誤解し易いが、映画のファイサルは1906 年 4 月 14 日生まれ。英国行きは13歳の時(サイトや資料によって14歳と書いてあるのは、ムスリムの年齢の数え方は生まれた時が1歳なので、ムスリム式では14歳だから)。後のサウジアラビア王。一方の『アラビアのロレンス』のファイサルは1885年5月20日生まれ(映画のこの時点で34歳)、後のイラク王〕。アブドゥルアジーズの長男はトゥルキ、次男はサウド、三男がファイサル。後で登場するが、本来は長男のトゥルキが英国に代理派遣される予定だったがスペイン風邪で死亡したため(19歳)、そして、サウドは万が一の時の国防上必要なため、三男のファイサルが選ばれた。『FAISAL: A Life at the Heart of the 20th Century(20世紀の核心に触れる生涯)』が、この時代のファイサルについて当時の資料を元に正確に触れているので、このあらすじでも、頻繁に引用する。これによれば、英国訪問のきっかけとなったのは、1919年5月に “British Civil Commissioner in Mesopotamia” のArnold Wilsonの名で、「国王陛下の政府は、閣下と英国政府との関係を強固なものとし、友好の絆をより確かなものとするため、閣下のご子息からなる使節団をロンドンへ派遣されるよう招待します… フィルビー氏はロンドンにおり、ロンドン訪問が楽しく有益なものになるよう、喜んで全力を尽くしたいと思います」という電報が届けられ、それに対し、アブドゥルアジーズは1919年6月16日に手紙で返信している。「ご連絡をいただき、光栄に存じます… 国王陛下のご意向により、息子の一人を団長とする使節団をロンドンに派遣を希望されるとのこと… 私達の間に存在する友好的な関係と絆を確認し強化するために… これは私どもにとって非常に喜ばしいことです。しかし、閣下もご周知のように、現在、私どもはご要望の使節団を送ることができません。といいますのも、私どものナジュドの領土はシャリフ〔フセイン・ビン・アリ・アル・ハシム(ヒジャズ王)のこと〕によって占領されているからです… 神の思し召しで、このような邪魔物から自由になれば、再来月の中旬には使節団を送ることができるでしょう…」〔1919年5月には、トゥラバ(Turaba)の戦いでフセイン軍がアブドゥルアジーズの同盟軍によって壊滅。英国は危機感を抱く〕。映画では、ファイサルが直接英国に向かったように描かれているが、実際には、1919年8月にバーレーン〔Bahrain〕でRIMS Lawrence号という小さな蒸気船に乗り込むと、アラビア半島のマスカット〔Muscat、現在のオマーン〕、カラチ〔Karachi、現在のパキスタン〕を経てムンバイ〔Mumbai、現在のインド〕に行く。ムンバイに1919年9月9日~21日まで滞在した後は、7000トンの中型船キゴマ号に乗り、ノンストップで紅海~スエズ運河~地中海~ジブラルタル海峡を経て、イングランド南端のプリマス〔Plymouth〕に向かう。その途中で、ファイサルは高熱を出し、船医がマラリアに感染しており、「イングランドまで行けるかどうか分からない」と不安なことを言う。ファイサル本人も 「父に伝えて。私はアッラーのために死んだのだと」と弱気になるが、黒人の従者マルズーク〔Marzouq〕〔なぜか、ファイサルは彼のことを兄と呼んでいるが、歴史的に見てあり得ない〕が看病し(3枚目の写真)、何とか回復する。この病気は史実で、「1919年、ファイサルがインドから英国に向かう航海中、同乗していたアルサム嬢が若き王子の肖像画を描いた。彼の顔を見て、彼女は彼が病気であることに気づいた。ミス・アルサムの観察のおかげで、船医はファイサルをマラリアと診断し、苦いキニーネ〔アルカロイド:残留性苦味〕を処方した。リヤドの自宅にとどまっていたら、死んでいたかもしれない」と書かれている。なお、王子は、船中で「何人かの人々に絵を描かれ」たとあり、ジャネット・ロビンソン嬢によって描かれた絵をに示す。最後に、アブドゥルアジーズは助言者として、映画では、イスタンブール生まれのトルコ人ニアン〔Nian〕が同行するが、実際には、「ファイサルの父は、信頼できる2人の助言者を若い王子に同行させた。アブドゥルアジーズの遠い親戚であるアフマド・アル・トゥナヤン〔Ahmad Al Thunayan〕はコンスタンチノープル〔イスタンブールはトルコ人の発音〕で育ち、いくつかの外国語を話した。アブドラ・アル・クサイビ〔Abdullah Al Qusaibi〕は、リヤドとバーレーンを拠点とするナジュド商人だった。彼は英語を話し、広く旅をしてきた。一行には、アブドゥルアジズ・アル・ラバイ〔Abdulaziz Al Rabai〕、アブドゥッラー・アル・サワイリ〔Abdullah Al Sawairi〕、アブドゥルラフマン・ビン・サファイラン〔Abdulrahman bin Safairan〕という3人の侍従が加わった」と書かれており、映画の助言者のニアンや従者のマルズークの名はない。4枚目にファイサル王子一行の使節団の全ルートの地図を示す。

次のシーンは、砂漠の中の岩山の下でのアブドゥルアジーズ軍が、オスマン帝国軍が大量の武器・弾薬を供与したラシッド軍〔1891年にムライダの戦いでサウド軍を破り、ナジュドを統治していた〕に圧倒的に勝利した1905年のアル・ブカイリヤ〔Al-Bukayriyah〕の戦いであろう(1・2枚目の写真、2枚目の写真はアブドゥルアジーズ)。理由は、敵がオスマン帝国の旗を掲げていることと、銃を使用していることと(3枚目の写真)〔アブドゥルアジーズ軍は刀のみ〕、次のシーンがファイサル王子の誕生(1906年)なので。

ファイサル・ビン・アブドゥルアジーズ・アル・サウドは、1906年4月リヤドで生まれた(1枚目の写真)。母はタルファ・ビント・アブドラ・アル・シェイク〔Tarfa bint Abdullah Al Sheikh、シェイク家のアブドラの娘タルファ、アブドゥルアジーズの3番目の妻〕。2枚目の写真は、アブドゥルアジーズ首長の三男の誕生を町の人々に知らせているところ。そして、リヤドを訪れたアブドゥルアジーズがタルファからファイサルを受け取り、神に感謝する(3枚目の写真)。「ファイサルの誕生後、僅か半年後、タルファは亡くなった。残されたファイサルと姉のヌラ〔Nurah〕は母方の祖父母に育てられた。アブドゥルアジーズは、タルファの父アブドラ・ビン・アブドゥラティフ・アル・シェイク〔Abdullah bin Abdullatif Al Sheikh、宗教学者〕を高く評価していたので、彼の子供たちの中で唯一、宮殿の外で育てられた。アブドラは、ファイサルに厳格な宗教教育を受けさせた」。4枚目の写真は、1914年に撮影されたリヤド。

1917年11月。メソポタミア派遣軍の政務官フィルビー〔H. Saint John Philby〕が、外交使節としてアブドゥルアジーズを訪問する(1枚目の写真)〔『Britannica』による〕。そして、英国陸軍のタウンゼント〔Townsend、架空?〕大尉が、「最近ラホールから戻ったフィルビーは、あなたはインドの英国政府から完全に支持されていると言っています。彼らは、アラビアにおけるオスマン帝国の時代は終わったと考えています」と、アブドゥルアジーズに説明し、フィルビーも、「そして彼らはあなたを、アラビア半島に統一をもたらし、 全体の利益を念頭置いて統治できる唯一の首長として認めています。彼らはあなたをアラビアの王として認めたいのです」と、より積極的な見解を述べる(2枚目の写真)。しかし、大尉は、「ロンドンはまだ納得していません。彼らはシャリフ・フセインを支持し続けるでしょう」と、インドの英国政府関係者と、英国本国の外務省との見解の違いを指摘する。これに対し、のちに、ファイサル王子の助言者として英国行きに同行するニアンは、「分割統治、それが彼らの戦略です」と、ずばり英国の目論見を指摘する。このあと、昼食に席を立った4人。ニアンが大尉に、「ヨーロッパで戦争が起きるだろう、というのは本当ですか?」と質問したのに対し、大尉は、「そう危惧している。ヨーロッパの部族長たちは、血縁・婚姻関係にあるにもかかわらず、お互いを信用していない」と述べるが(3枚目の写真)、第一次世界大戦は1914年6月28日に始まっているので、この問いかけは矛盾している〔なぜか? それは、映画では、フィルビーの訪問が1917年ではなく1914年以前に行われたという設定になっているから。理由は、その時、ちらと顔を見せるファイサルは、まだ小さく6-7歳に見えるから。1919年に英国に行く時13歳だったことを思うと、1919-6=1913年くらいであろう〕

このシーンの直後、アブドゥルアジーズの宮殿で、長男のトゥルキと次男のサウドが激しい剣の練習戦を見せ、トゥルキが圧倒的な強さを見せるシーンがある。最後までトゥルキを応援していたファイサルは、戦いを終えたトゥルキが出て行こうとしたので、剣を出すと、「トゥルキ!」と呼び止め、「僕と一戦」と言う。トゥルキは、すぐにファイサルの前まで行くと、ファイサルの剣を掴んで地面に捨てて前に座ると、自分の短剣〔ジャンビーヤ〕を渡す(1枚目の写真)〔前節で書いたように、どう見ても6-7歳〕。そして、「鞘から抜けば、その後に殺生が起きる。血が流されるだろう。力は戦争や人殺しのために使うべきではない。民を守るために使われるべきだ。真の力は剣を鞘に納めたままにしておくことにあり、他には何もない」と、平和の大切さを教える赤茶色はアラビア語〕。同じ日か、別の日かは分からないが、トゥルキはファイサルを鷹と一緒に宮殿の最も高い場所まで連れて行き、「私がお前に望むのは、父のそばで戦って欲しいということだ。そして、お前の行為で、父を誇りに思わせるのだ。詩人イムルル・カイス〔Imru' al-Qais、496~544年、キンダイトの王〕は、彼の父の寵愛を勝ち取るまで長い年月を待たなければならなかった。しかし、千年経った今でも、私たちは彼の詩を覚えている」と話す(2枚目の写真)。鷹を飛ばすばかりに持つと、「お前が、鷹のように強くなりたいのなら、お前の品格は、鷹のように高く上がらないといけない。鷹の目を持ち、賢くなるんだ」(3枚目の写真)「そうしてこそ、本当の強さを知ることができる」。それだけ言うと、トゥルキを放つ(4枚目の写真、矢印は鷹)。

小さな子供達を対象とした宗教教育の場面。コーランの冒頭のアル=ファーティハ〔Surah al-Fatihah、第1章〕の5節~7節を子供たちが唱和している。「私たちはあなたにのみ仕え、助けを求めます。私たちを正しい道に導いてください。あなたの御怒りを自ら招いた者たちでもなく、道を踏み外す者たちでもなく、あなたが御恵みを授けられた者たちへの道に」(1枚目の写真)。宗教指導者なので、恐らく、ファイサルの祖父アブドラが、「スーラ・アル・アスル〔Surah Al-'Asr、第103章〕について語れる者は?」と問うと、ファイサルが手を上げる。「ファイサル、話しなさい」。「スーラでは、信仰があれば迷うことはないと言っています」(2枚目の写真)。「何が必要なのじゃ?」。「寛大であり、公正であり、神を畏れること」。「他には?」。「強くて勇敢〔アル・アスルの内容は、「時間により、人は確かに喪失感に苛まれている。ただし、信じて正しい行いをし、互いに真理を勧め合い、互いに忍耐を勧め合った者たちは別である」という内容なので、ファイサルの返答が満足のいくものかどうかは分からない〕。コーランの勉強が終わると、子供たちは一斉に外に飛び出して行き、町を出て岩場の奥にある深い井戸の所まで走って行く。少し年上の子が、「登る勇気のある者はいるか?」と訊く。すると、一斉に 「ファイサル!」という声が上がる。ファイサルは、丸太で作った間隔の大きな梯子を登って行くと、井戸の真上に架け渡されたゴツゴツした太い丸太の上をバランスを取りながらゆっくりと歩いて行き、中央まで来る、90度向きを変えて井戸の背面の壁を向く(3枚目に写真)。そして、その下の水面に向かって飛び込む。

そして、時は一気に1919年に飛ぶ。ファイサルは、悲劇を聞き、大好きだったトゥルキがスペイン風邪〔1918~21年にかけて、世界中で当時の人口の4分の1程度に相当する5億人が感染した とされ,死者数は1,700万人から5,000万人との推計が ある〕で突然死亡する。ファイサルは、死体が安置された台の横まで行く(1枚目の写真、矢印はトゥルキ、左はイマーム〔導師〕、右は父)。アブドゥルアジーズは、「彼の魂に神の慈悲がありますように」と言うと、ファイサルに向かって、「誰も戦いでできなかったことを、病という毒がやってしまった」と悔しそうに言う(2枚目の写真)。ファイサルは、「ここに横たわっているのが、私ならよかったのに。彼は勇敢な男で、あなたの最高の戦士の一人でした、首長」と、父に言う。それを聞いた父は、「トゥルキもお前に持っていて欲しいと思っていたろう」と言って、トゥルキの剣をファイサルに渡し、「これから我々とともにメッカを征服するのだ。時は来た」と命じる。ここで、時間少し先に飛び、英国に向かう船の特別室のベッドで目覚めたファイサルが、旅に持って来たトゥルキの剣を少し抜き(3枚目の写真)、トゥルキの代理を務める使節への決意を新たにする。

アブドゥルアジーズの軍は、砂漠をメッカに向かって進む(1枚目の写真)。中に、次男のサウドと三男のファイサルもいる(2枚目の写真、左)。アブドゥルアジーズと助言者のニアンが、イフワン〔Ikhwan〕軍のハリド・イブン・マンスール・イブン・ルワイ〔Khalid ibn Mansur ibn Luwai〕に対し、「我々は南から近づき、オアシスの近くに敵に奇襲をかける」と、戦法を説明する。ニアンは、「あなた方は、西から来て我々を待っていて下さい。私たちは、正午にシャリフ・フセイン軍を攻撃しましょう」と説明する。しかし、イブン・ルワイは、「なぜ、待つ? 我々だけで奴らをやっつけられる」と反対する。アブドゥルアジーズは、「私の攻撃命令を待つのだ。分かったか?」と言うが、イブン・ルワイは、「失礼する」と言って席を立ってテントから出て行く。アブドゥルアジーズは、後を追い、テントから出たところで、「イブン・ルワイ!」と呼び止める。そして、「我々の勝利はメッカへの道を開くだろう」と言い、ニアンは、「首長の命令に従って下さい」と頼む。しかし、アブドゥルアジーズの軍勢がオアシスが見える丘の上までくると、村の所々から煙が上がっている(3枚目の写真)。それを見たアブドゥルアジーズは、「全員、突撃!」と声をかけ、村に向かうが、途中には、死体が散乱している。村の中も同様。既に戦闘は終わっている。村の中にいたイブン・ルワイを、「私の命令を待つ必要があった!」と咎めると、「私は部下を抑えきれなかった」と弁解する。「私たちは、殺戮ではなく、平和によって国を団結させねばならない」。「狼が変わると期待なさるな」。『The Making of Saudi Arabia, 1916-1936: From Chieftaincy to Monarchical State(サウジアラビアの成り立ち、1916-1936年: 首長制から君主制国家へ)』という本(Joseph Kostiner著)によれば、「1919年5月25日と26日、ハリド〔ハリド・イブン・マンスール・イブン・ルワイはアル・クルマへ向かう途中のトゥラバ〔Turaba〕でアブダラ〔Abdullah I bin Al-Hussein、シェリフ・フセインの次男〕軍を破り〔トゥラバの戦い〕、1,350人の戦士を殺害した。アブダラの進軍に気づいたアブドゥルアジーズも1,500人の軍隊を送り、彼らはトゥラバの戦いの後にハリドの軍に加わった」と書かれており、戦闘がいつどこで行われたかは明らかになったが、アブドゥルアジーズとイブン・ルワイの事前の話し合いなどなく、イブン・ルワイの一方的な圧勝の後で、アブドゥルアジーズがやってきたのが事実。

そのトゥラバで、アブドゥルアジーズは英国人フィルビーと再会する〔フィルビーは、1917年にアブドゥルアジーズに会ってから、ほぼ1年間、ナジュド周辺の政治情勢の分析という極秘任務に携わっていた。しかし、1919年5月末~6月にかけての時期にアラビア半島にいたという記録はない〕。フィルビーがアブドゥルアジーズに伝えたのは、英国政府が決定した方針(1枚目の写真)。アブドゥルアジーズが、やって来た理由を尋ねると、「話をしに来たんです」と答える。そして、贈り物として、金属製の箱に入ったキャンディーを渡す。アブドゥルアジーズは、「この贈り物の目的が “甘さで悪い知らせを和らげる” ためでないといいのだが」と言うが、フィルビーは、「申し訳ない、首長。英国政府は、あなたに、メッカ征服計画を見合わせ、リヤドに戻るよう要請しているのです」と言い、それを聞いたアブドゥルアジーズやファイサルはがっかりする(2枚目の写真)。立ち上がったアブドゥルアジーズは、テントの端に行き、「大軍を率い砂漠を遥か彼方までやって来て、メッカまであと1日だというのに、引き返せと言うのか?」〔トゥラバは、リヤドの南西約650キロ〕。フィルビーは、「いいえ、私の意見ではありません。私の上司、外務大臣のカーゾン卿〔George Nathaniel Curzon、この時点で男爵〕、非常に影響力のある方の要請です」。「カーゾン卿?」。「はい。私はいつも彼に話しています。アラビアを統一できるのはあなたしかいないと」(3枚目の写真)「悪いのは、この男のせいなんです」。そう言うと、彼は、新聞の切り抜きのロレンス〔Thomas Edward Lawrence〕の写真を見せる(4枚目の写真、矢印)。「ロレンス大佐、彼は、カーゾン、チャーチル〔戦争大臣〕、ロイド・ジョージ首相など多くの人々に催眠術をかけました。そして、彼はあなたの敵を支持しています。彼は、英国政府が守れそうもない、あるいは、守れないような約束をいっぱいさせてきたのです。バルフォア〔Balfour〕宣言は、アラブ人に対するこれまでの約束をすべて覆してしまいました」〔1917年11月に出された、“ユダヤ人にパレスチナ国家建設を認めた” 宣言。1915年7月のフセイン・マクマホン協定(大戦後のアラブの独立を約束する代わりにオスマン帝国への反乱を促した協定)、1916年5月のサイクス・ピコ協定(旧オスマン帝国領分割に関する秘密協定→アラブ地域の英仏露での分割の密約)など、3つの矛盾する外交は、英国の三枚舌外交とも呼ばれ、現在の中東パレスチナ情勢の原因となっている〕。アブドゥルアジーズはリヤドに戻ることを了承する。この間の経緯について、先の本では、「1919年5月28日、省庁間会議がロンドンで開催され、新任のエジプト高等弁務官アレンビー卿の強い圧力にもかかわらず、カーゾン卿は、アブドゥルアジーズに軍を撤退させるよう促す以上の行動は取らなかった。しかし、6月13日の別の会合で、親フセイン派はアブドゥルアジーズに対する封鎖と、インド軍中隊によるフセイン援軍を提案した。この段階で、インド省高官とA・T・ウィルソンは親フセイン派の提案に断固として抵抗し、アブドゥルアジーズの支持を表明した。この動きにはいくつかの理由があった。フセインへの支援はアラビアの内政へのあからさまな干渉を意味し、湾岸を拠点とする英国省高官は一貫してこれを拒否していた。加えて、インド省高官は、聖地近辺で戦うためにインド軍を派遣することは、インド国内の敬虔なイスラム教徒を刺激することになると懸念した。また、アブドゥルアジーズの敗北は地域の力のバランスに根本的な変化をもたらし、メソポタミアと湾岸の両方における英国の立場を大きく損なうであろうとも指摘された。それ故、インド省は、アブドゥルアジーズをアル・クルマとトゥラバから武力で追い出すという提案を拒否した」と書かれている。

翌日、アブドゥルアジーズは宮殿のテラスにフィルビーを連れて行き、「私たちの街、美しいと思わないか?」と訊き(1枚目の写真)、フィルビーは 「素晴らしいですね」と言うと、「いいですか、首長、英国の人々は、この土地やアブドゥルアジーズ家の良さを何も知らないんです。あなたの敵ロレンスは、有名になり、写真に撮られ、園遊会や宮殿、政治的な会議にも招かれています。私は、アブドゥルアジーズの名をすべての英国人が口にするようにしたいのです。あなたが英国にいらっしゃるべき時が来たと思います。そうすれば、カーゾン、チャーチル、そして国王と知り合うことができます。ここで起きていることを英国人に直接説明することができるのです」と、英国に来るよう強く勧める(2枚目の写真)。アブドゥルアジーズは、「私は、メッカへの軍事進攻を諦めさせられたばかりだ。もし、私がここを離れれば、敵がすぐに襲って来る」。フィルビーは次男のサウドを勧めるが、アブドゥルアジーズはファイサルを推薦する(3枚目の写真)。フィルビーは、「申し訳ありませんが、ファイサルには経験がありません」と反対するが、アブドゥルアジーズは 「彼は私の息子だ。もう男だ〔“成人” と言う意味〕。私の助言者を同行させる。早く行く方がいいんだろう?」。アブドゥルアジーズの決定なので、誰も反対はできない。夜になり、ファイサルは父の部屋に呼ばれる。銃を手に持ったアブドゥルアジーズは、ファイサルに向かって、「お前は、戦闘の恐ろしい結末を見てきた。次は、外交を味わうことになる。その味はさらに苦い」と言う。そして、銃を横にして持つと、「この銃は大英帝国の誇りだ。だが、息子よ、お前は私の誇りだ」と力づける。そして、銃を壁に向けて狙いを付けると、「お前は、英国に足を踏み入れる最初のサウド家の者となる」と言う。ファイサル:「失望させません、父上」。アブドゥルアジーズ:「我が息子、ファイサル、お前の目の中には勇気と知恵が見える。しかし忘れるでない、我々の唯一の目標はメッカだ。そして、覚えておけ。もし成功すれば、戦場での如何なる勝利より多くを達成したことになると」。映画では、英国行きはフィルビーのアイディアで、アブドゥルアジーズが都合でファイサルにしたことになっている。実際には、第2節で紹介したように、①英国政府(メソポタミア駐在英国民間弁務官のアーノルド・ウィルソン〔前節の本の引用で「A・T・ウィルソン」とあったのと、同じ人物〕からの招待電報によるもので、②最初からアブドゥルアジーズの息子が対象だった。

1919年10月14日、キゴマ号に乗っていたファイサルと、身分不詳のマルズークは、イングランド南東端の海岸が見えると、ようやく目的地に辿り着いた喜びで笑顔が溢れる(1枚目の写真)。一方、英国の役人らしい服装になったフィルビーは、プリマス港の埠頭で、ファイサルを迎える準備に大わらわ。正装したプリマス市長に対し、「あなたは、大群衆が使節団を出迎えると約束したが、どこにいるんです?」と、閑散とした波止場に心配するが、市長は、「まだ時間はある」と言う。しばらくすると、新聞記者や、木製三脚に載せたカメラを持った男性がやって来たので、フィルビーは、「来ていただきありがとう。皆さんには歴史的瞬間に立ち会う特権が与えられている」と、アラブから最初の首長家の来訪の意義を強調する。その時、待ちに待っていたモンタギュー〔Sir Montague Smythe〕が現われる〔親フセイン派の架空の人物で、ファイサルをカーゾンに会わせないよう企んでいる〕。フィルビーは、外務省のモンタギューの上司で大臣のカーゾンが現われると思っていたので、「悪いなフィルビー」と言われる(2枚目の写真)。その時、雨が降り出す。キゴマ号は接岸し、タラップの下には、赤い絨毯が敷かれ、ファイサルが降りるまで、全乗客は下船を待たされる。小さな楽隊が演奏を始め、雨なので、マルズークが後ろから傘をさし、ファイサルがタラップを降りる(3枚目の写真、矢印)。の古写真は、本物のキゴマ号。赤い絨毯の上で待っているのは、フィルビー夫妻と、プリマス市長、王室のサー・ヘンリー・ストークスで、なぜかモンタギューは離れた所で見ている。階段から降りたファイサルに向かって、フィルビーが一歩進み出て、「殿下、英国へようこそ」と歓迎し、ファイサルも、「ナジュド首長の我が父アブドゥルアジーズに代わり、謹んでご挨拶申し上げる」と応じる(4枚目の写真)。あまりに寂しい出迎えに、助言者のニアンは、隣にいる人物に、「これが王子を迎える方法だと思いますか?」と訊く。フィルビーは、離れた場所で、難しい顔をして立っているモンタギューをファイサルに紹介する。

その後、フィルビーが記者連中に、「私がアラビア中央部を横断したとき、600マイル以上にわたる砂漠地帯だったが、私は全く妨害されず、あらゆる方面から歓待を受けた。それは、私が王子の父親の権威の下で旅行したからだ。私は彼を友人だと思っているし、この国は彼を同盟国にすることができて幸運だ」と、「フセイン=ロレンス」コンビに比べてほとんど知られていないアブドゥルアジーズの存在を理解させようと、言葉は悪いが “売り込む”。「でも、王子はすごく若いですね」。「まあ、確かに。でもアラビアでは、あの年齢で、彼は既に一人前の男なんだ。あの剣を見ただろ? 一人前の男でなきゃ持てない。彼は父親のアル・サウドと同じ偉大な戦士なんだ」。「彼らは、ロレンスと戦ったのですか?」。「アル・サウドはロレンスのような扇動家とは何の関係もない。彼らは誰の助けも借りずに、自分たちだけでオスマン帝国と戦い、打倒してきた」。それを聞いた記者の一人は、笑顔で、「トルコ人を恐怖に陥れた若き王子」と、記事の見出しを告げる。「それは、いいね」。フィルビーは、モンタギューと一緒に休憩席にいるファイサルに、記念撮影をするよう促し、関係者全員がプラットホームに並んでパチリ(2枚目の写真)。撮影が終わり、しばらくすると、ホームに汽車が入ってくる。ファイサルにとっては、初めてみる蒸気機関車だ〔機関車の横には、「SE&CR」と書いてあるが、これは、サウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道(South Eastern and Chatham Railway)のこと(ロンドンとロンドン東部のケント州を結ぶ鉄道会社)。しかし、プリマスは、ロンドンの遥か西にあり(真逆)、そちらの方に伸びている鉄道会社は、L&SWR、すなわち、ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道(London and South Western Railway)。つまり、恥ずかしいミス〕。そして、汽車は、ロンドンに向かって走る(3枚目の写真)。ファイサル、フィルビー、モンタギュー、ニアンの4人は食堂車で紅茶を飲む(4枚目の写真)。ファイサルは、モンタギューに 「カーゾン卿はどこですか?」と尋ね、ニアンも 「彼が、殿下をお迎えするため ここに来られなかったのは残念です」と口添えする。モンタギューは、「その通りです。申し訳ありませんが、カーゾン卿は内閣府で会議がありまして」と、フィルビーに言ったこととは違い、体のいい嘘をつく。

列車がロンドンに着くと、そこには誰一人、出迎える人がいない〔着いたのは、Waterloo駅〕。ニアンは、「これが、“盛大な歓迎” なのですか?」と、フィルビーを詰(なじ)る。フィルビーも、「分ります。私が期待していたものではありません」と言った後で、「どうか信じて下さい。私は何週間もかけて、細部に至るまで計画してきました。ご心配なく。今から、モンタギューと話をしてきます」と弁解する。フィルビーは、王子を放っておいて役所に戻ろうとしているモンタギューを追いかけると、「一体どうなってる、モンタギュー? こんな出迎えは侮辱だ。使節団はここに来るために何週間も旅をしてきたんだ」と不満をぶつける。それに対し、モンタギューは、「君の願いは叶ったじゃないか、フィルビー。アル・サウド家の英国公式訪問か… 英国政府の一部〔自分のこと〕には、子供を送るなんてまるっきり時間の無駄だと考える連中がいる」(2枚目の写真)と言うと、そのまま立ち去る。困った顔で戻って来たフィルビーに、ファイサルは 「どうかしましたか?」と尋ねる。「大したことではありません。見て下さい、自動車が我々を待っています」。王子を待っていたのは、銀色のロールスロイス・シルヴァーゴースト。そして、駅の全景が映る〔ただし、これはWaterloo駅ではない。撮影場所は、ロンドン近郊のサリー州Eghamにあるロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ(Royal Holloway)の中央部分(4枚目の写真)〕。ファイサルとニアンを後部座席、フィルビーを助手席に乗せたロールスは、お付きのアラブ人を乗せた黒い車体の自動車2台と一緒にロンドン市内を走り、アラビアとは全く違った光景にファイサルは心を躍らせる(5枚目の写真)。

車列は、ヴィクトリアという架空のホテルの前で停まる(1枚目の写真)〔この撮影場所はどこなんだろう? そして、写真の右端の長方形の点線の中に、かろうじて「VILLANDRY」らしき文字がぼやけて読み取れた。そこで、この文字のある場所をロンドン中で探したら、奇跡的に、この建物と同じ扉が見つかり、そこからこの「ホテル」が特定できた。1枚目の写真と同じ構図で、グーグル・ストリートビューの写真を2枚目に示す。この「ホテル」は、1824年に設立されたThe Athenaeum Clubという ハイクラスを対象とした会員制クラブで、これまで “51人のノーベル賞受賞者がメンバーになっている。だから、ホテルではない。場所は、セント・ジェームズ・パークのすぐ裏手〕。使節団の一行はホテルに入っていくが、想定以上に人数が多いことに驚かされる(3枚目の写真)。ここの支配人は、内輪でこっそり、「驚いたな、彼はラクダに乗って来なかった」と言うほど、差別意識の強い嫌な男。特別室に案内されたファイサルは、部屋にある電気スタンドに驚き(4枚目の写真)、しばらくして鳴り出した電話にどう対応していいか分からない(5枚目の写真、矢印)。

その夜、使節団の一行は、ホテルの1階ロビーの横の部屋で、1日5回のサラート〔礼拝〕の夜の部を行っている(1枚目の写真)。そこに、宿泊客の夫妻が戻って来て、ドアマンに、「私の鏡を置き忘れていますよ」と文句を言った上で、礼拝の音を聞き、「あの騒ぎは何なの?」とフロントに文句を言い、扉から覗いてみる。翌朝、新聞が配達されているが、一面に大きく掲載されているのは、ロレンスとカーゾンの写真。しかも、標題は、「カーゾン卿、アラビアのロレンスと一緒に新しい写真展に出席」というどうでもいいもの。その新聞がテーブルに置いてある両側に座ったフィルビーと支配人の間では、信じられないような会話が交わされている。支配人は、「誠に申し訳ありませんが、フィルビーさん、彼らはここで祈ることはできません。ここはホテルでモスクではありません。他のお客様の邪魔になっております。正午までに、ここを出て行って下さい」と、ひどい要求をする(1枚目の写真)。フィルビーは、「彼らは、陛下の政府、陛下御自身の客人なんですぞ」と反駁するが、支配人は、「それなら、あなたが陛下にお話してみてはいかがですか?」と、しゃあしゃあと言う。怒ったフィルビーが、「これが英国流のおもてなしなのか? アラビアでは、客人は家族の一員として扱われるんだぞ!」と文句を言うが、「正午までには、引き払って下さい。では、失礼」と、粗暴なほどの非礼さ。フィルビーが、どうしようかと頭に来ていると、そこに、ファイサルとニアンが現われ、ニアンが 「何か問題でも?」と訊く。フィルビーは、支配人の反アラブ的言葉など死んでも話せないので、「いいえ、何も問題ありません。殿下は、よく眠れましたか?」と誤魔化す。しかし、ファイサルは、どこで耳にしたのか、「あの男は、私たちを排除する気なのか?」と尋ねる。ファイサルに悪印象を持って欲しくないフィルビーは、「いいえ、それは誤解です。あなたはもっと良いホテルに泊まるべきです。ですから、別のホテルを用意します」と言う。ニアンは、それとは別に、「殿下は、カーゾン卿から何の知らせもないことを心配しておられます」と杞憂する。フィルビーは、「殿下、カーゾン卿はあなたに会われます。彼は、私に直接そう申されました。しかし、差し当たり、彼には他に優先すべきことがあります」と言い、それを聞いたニアンは、「私の印象では、我々はカーゾン卿にもチャーチルにも国王にも会えないだろうと思います」とフィルビーに言うと、今度はファイサルに、「あなたの父上は、何と言われるでしょう」と心配する。フィルビーは、新聞の三面の中央に、「アラブの王子ファイサル/アブドゥルアジーズ・アル・サウドの息子/英国訪問に到着」という標題で、プリマス駅で撮った集合写真と一緒に小さく掲載されている(3枚目の写真)〔ロレンスの下らない記事と比べ、あまりに格差が大きい〕。この記事を見せたフィルビーは、「あなたはすでに有名になりつつあります。ジョージ国王は朝食を食べながらこれを読んでいることでしょう」と言うが、ニアンは、「陛下はあなたが休暇を過ごしに来たと思うだろう」と言い、ファイサルは、「休暇? 王は私が遊びに来たとでも思っているのか?」と愕然とする。

フィルビーは、今後の方針として、「私たちがすべきことは、あなたが英国民の注目や想像力を集め、国内を旅し、衆目を浴び、支持を得ることです。そうすれば、英国政府もあなたを無視できなくなります。あなたは真剣に受け止められ、尊敬の念を持って話を聴かれ、正当な評価を受けるでしょう」とアドバイスする。そして、その結果としてのファイサルの行動を、当時撮影されたかのように、白黒映像で紹介する(1~3枚目の写真)。

ファイサルは、努力の結果、撮影された多くの写真をホテルの机の上に散乱するように置き、その上から、「一面にシェリフ・フセインの写真が掲載され、「シェリフ・フセイン、メッカの首長、自らアラブの王と宣言」と書かれた新聞を放り投げる〔1919年にフセインはこんなことは言っていない。いろいろ調べた中で、一番正しく書いてあった https://www.royalark.net/Arabia/hijaz1.htm には(他のサイトは月日なしで すべて1917年、出典はすべて嘘のウィキペディア?)、シェリフ・ファイサルについて、「1916年10月29日、アラブの独立を宣言。1916年11月2日、メッカの大モスク(マスジド・ハラーム)において、マリク・アル・ビラド・アル・アラビーヤ(Malik al-Bilad al-’Arabiyya、「アラブの王」)、及び、アミール・アル・ムメニン(Amir al-Mumenin、「信徒の総司令官」)と宣言し、国王だと 決めてかかった(assume、証拠はないが事実だとする)」と書かれている。この一方的宣言により、ファイサルとアブドゥルアジーズの関係が悪化したが、それは3年も前の話〕。そして、ファイサルはマルズークに、「英国に3ヶ月〔ということは、今は1920年。1919年1月18日から始まったパリ講和会議で、シャリフ・フセインはアラブ国家の支配者ではなく、ヒジャズ王としてのみ承認された。上の新聞記事は真逆の内容〕、我らの敵が自ら王と宣言しているのに、カーゾン卿は一言も寄こさなかった」と不満をぶつける(1枚目の写真)。そこに、笑顔のフィルビーが入ってくると、「良い知らせです、殿下」と言う。「カーゾン卿は、ようやく我々に会うことに同意したのか?」。「いいえ、でも、英国国王がお会いになります」。そして、ファイサルの一行はバッキンガム宮殿に向かう(2枚目の写真、矢印)。宮殿内に中に入った一行は、召使いに先導され階段を登って行くが、最後の2人が持っている長い箱は、アブドゥルアジーズからジョージ5世への献上品(3枚目の写真、矢印)。

ファイサル一行は、ジョージ5世と王妃が待っている大きな部屋に入って行く(1枚目の写真、王妃の横に立っているのはメアリー〔Mary〕王女)〔撮影場所は、ロンドンにあるゴールドスミス・ホール。工芸ギルド会社、ゴールドスミス家の本部として、14世紀、17世紀のホールに次ぐ第三のホールとして1835年に完成した華麗なホール。その中心となる部屋は4つのシャンデリアが特徴〕。ファイサルは、父から託された挨拶文を読み上げる。「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において、我が父アブドゥルアジーズ・ビン・アブドゥル・ラーマンは、陛下に最も温かく誠実なご挨拶を申し上げます。彼は英国からの支援と親密な友情に対し、陛下に深く感謝致しますと共に、今後も変わらぬご厚誼を賜りますようお願い申し上げます」(2枚目の写真、矢印)。そして、ジョージ5世の前へ、長い箱に入って来た黄金の鞘の剣〔史実では金メッキの剣2本〕を持って進み出ると、「ナジュド家から陛下への贈り物です」と言う。召使いが剣を受け取り、ジョージ5世に渡す。ジョージ5世は、「実に素晴らしい」と心から賛辞を述べる。ファイサルは、「その金はインドから来た物です、陛下」と説明する。インドも、大英帝国の一部なので、ジョージ5世は関心を持つ。ファイサルは、ナジュドには金鉱山がないのでバーレーン、クエート経由で輸入していると説明する。ジョージ5世は、「あなたは、名を上げてきましたな」と、新聞で何度も取り上げられてきたことを指摘する(3枚目の写真)。ファイサルは、「私は多くの驚異を見てきました」と笑顔で答える。ジョージ5世も笑顔になり、「自動車も運転したとか」と言い、「はい、陛下。 素晴らしい日でした」と応じる。ジョージ5世は、剣に対する返礼として、金の額縁に入った家族の写真を、「私たちの祝福とともに、あなたの父上に」と言って渡す。この謁見は、史実とは全く違っている。最初に提示した資料では、こう書かれている。「ファイサル一行は1919年10月13日にロンドンに到着した。1919年10月30日、ジョージ5世と王妃はファイサルをバッキンガム宮殿に迎えた〔映画では3ヶ月後だが、実際は約2週間後〕。そして、アブドゥルアジーズは、1337年〔ヒジュラ暦〕Dhu Al Qa‘da〔11月〕22日〔1919年8月1日〕にジョージ5世に、次のような手紙を出している。「偉大なる英国国王、ジョージ5世陛下の高貴なる御前に、陛下のご健勝を祈ります。陛下の要請により、また、陛下の政府の招きにより、あなた方の繁栄する首都を訪問し、陛下に拝謁する浴すため、私たちは息子のファイサル・アル・アブドゥルアジーズと、アル・サウド家から、私たちの最も特別で信頼できる代表の一人であるアフマド・アル・トゥナヤンを含む使節団を派遣致しました。この訪問が成功を収め、この喜ばしい出来事が陛下の王国と私たちのナジュド王国との友好の絆を確かなものにすることを祈念しております。私どもは、直接ご挨拶に出向くことができませんので、このような形で 敬意と感謝と誠意をお伝えし、貴殿の益々のご成功とご繁栄、そしてご高名を心よりお祈り申し上げます」。そして、1919年10月30日にファイサルに会った際、ジョージ5世は、アブドゥルアジーズに渡す手紙をファイサルに託した〔手紙は紛失しているので、次の内容は英国公文書館に残る書簡草案〕。「閣下、1337年Dhu Al Qa‘da 3日付け〔日付の間違い〕の友好的な書簡に感謝致します。ご子息のファイサル・イブン・アブドゥル・アジズと、代表のアフマド・イブン・トゥナイヤー〔綴りが違っている〕をお迎えし、あなたのご健勝を伺えたことは、私にとって大きな喜びでした。私は、我が帝国と貴国を結ぶ友好の絆がより強固なものとなり、すべてのアラブ諸国と友好関係を築くことを望んでおります。敵〔オスマン帝国〕が倒され、アラビアの独立が回復した今、私はその首長と人々が自由と平和と団結のうちに共に生きることを信じております。政府はそのためのあらゆる努力を支援するでしょう。皆様のご長寿とご繁栄を心よりお祈り申し上げます」。以上の書簡から、ジョージ5世が映画のように、ファイサルの名を新聞でよく見たから、来英3ヶ月に招いたのではなく、当初から招く予定だったことが分かる。しかし、ファイサルのロンドンでの滞在は、映画の方が順調だった。1919年10月16日〔ロンドン到着僅か3日後〕の『デイリー・グラフィック』紙の記事の標題は 「政府の不手際。さすらいのアラブ人と接待委員会」。長い記事の中のポイント部分を取り上げると、「『まさか』という言葉がぴったりだ。彼らに宿泊施設は提供されておらず、あちこち 『たらい回し』 にされた挙句、彼らは結局、 南東部の郊外のとんでもない場所にある小さなホテルにひっそりと無頓着に放り込まれた。この驚くべき怠慢の責任を負う部署は、『H.M. Office of Works、政府接待委員会』として知られている」と、厳しく行政の不作為を糾弾した上で、「このスキャンダルは、名前を明かさない某個人によって改善された。自国の名声のために、彼はこのアラブの客人たちの重荷を自らの肩に背負う必要があると考え、より適切な宿舎を手配した」。資料では、「このような報道に対し、国王ジョージ5世が介入し、ファイサル一行はアッパー・ノーウッド〔Upper Norwood〕からバッキンガム宮殿近くの政府宿舎に移された」と書かれている。このホテルは、クイーンズ・ホテル〔Queens Hotel、の写真〕。この先は、映画と似ているのだが、翌朝(10月15日)フィルビーはホテルの支配人コンウェイ・デイヴィスから、ホテルは1泊しか予約されていなかったので、ホテルを出るように警告された。そこで、フィルビーは15日の夜、王子たちをIndian Army Orderly Officersに泊まらせた。この行政・軍司令部は、王室の賓客を迎えたり、もてなしたりするのに適した場所ではなかった。王子を含む使節団のメンバーは、グロブナー・ホテルで食事をするために、雨天の中、長い道のり〔直線距離で約2キロ〕を歩かなければならなかった。この最後の部分は、この先のメインの資料となる、最新の厳しい分析、『The Visit of Najd Delegation to London, (October - November 1919): A Documentary Study(ナジュド使節団のロンドン訪問、(1919年10-11月): 記録による研究)』、Saeed Mushabab Al-Qahtani、Human and Social Sciences, Volume 50, No. 5, 2023 という学術論文に基づいている。

ここからはずっと、歴史的事実とはまるで違う、映画だけの物語となる。正式な式典が言わると、ファイサルはメアリー王女〔この時点で22歳〕と2人になる。ファイサルが 「ナジュドでは 幼い頃から戦うことを学びます」と言うと(1枚目の写真)、メアリーは 「あなたの年ごろでは、私の弟たちは海賊の格好をしていました」と話す。そして、その話から、「あなた方は、誕生日をどう祝うのですか?」という質問になり、ファイサルは、「私たちは、祝いません」と答える〔ムスリムにとっての祝祭は、イード・アル=フィトル(断食明けの祭り)とイード・アル=アドハー(犠牲祭)のみ〕。もう1つのペアは、ジョージ5世とフィルビー。彼は国王に、「アブドゥルアジーズ・アル・サウド首長は、アラビア中で大きな尊敬を勝ち取っています」と、なかなか英国には伝わって来ない現状について説明している(2枚目の写真)。ファイサルとメアリーは話が弾んで打ち解けたので、ファイサルは、「メアリー王女、カーゾン卿をご存じですか?」と訊いてみる。「ええ、少しは。なぜ訊くのです?」。「私の国では決定は国王によってなされますが、ここでは…」。「ここでは。カーゾン卿と言いたいのですね? あなたが聞いたことはすべて本当です」(3枚目の写真)「彼は、とても政治的権力のある人ですが、会ったことは?」。「いいえ。もしカーゾン卿に会わずにアラビアに帰ったら、父に会わせる顔がありません」(4枚目の写真)。「あなたは、ザ・ミート〔meat〕に来なくては」。「肉〔meat〕?」。「ザ・ミートと呼ばれる狐狩りの会が、各地で開催されるのです。私もしますし、カーゾン卿もそうです」。

王女と王子は、カーゾンが来る予定の狐狩りの会に行く。王女は白馬に跨り、ファイサルは、鞍を外して黒い馬に跨る(1枚目の写真)〔この時点では、カーゾンはまだいない〕。そして、宮殿の前から、猟犬を先頭にして一斉にスタート(2枚目の写真)。最初は犬を含め、全員がゆっくりと進んでいたが、犬が一斉に走り始めると、ファイサルはアラブ式の走りで、抜きん出た速さで後を追う(3枚目の写真、矢印)。しかし、早過ぎて犬を見失い、森の中に迷い込み、途中、木の枝に頭のイガールがぶつかって地面に落ち、頭部もケガをする。心配して後を追って来た王女は、イガールを回収し、下馬して馬をねぎらっているファイサルに近づいていくと、ケガに気付く。そこで、看護婦としてロンドンの病院で働いていた経験を活かし、鞍に付けた消毒薬でファイサルの顔の傷の手当てをする(4枚目の写真)。ファイサルが、「メアリー王女、なぜ私にそんなに親切にしてくださるのですか?」と尋ねると、「私の弟のジョンは昨年亡くなりました。彼はあなたと同じ年でした」と答える〔映画では、1919年10月13日のロンドン到着から3ヶ月以上経っているので、もう1920年。ジョン王子は1919年1月に死亡したので、「昨年」は正しい。年齢も、生まれたのが1905年7月なので13歳で「同じ年」も正しい〕

2人が宮殿に戻ってくると(1枚目の写真)、モンタギューはいたが(2枚目の写真)、カーゾン卿は、カントリー・ハウスで首相とロレンスと一緒に昼食を取っていると知らされ、しかも、モンタギューはこれからカントリー・ハウスに向かうと言い出す。フィルビーは、「あなたにとってはただの遊びかもしれないが、これには命がかかっている。もし我々がアル・サウドを支援しなければ、アラビア全土で戦争が起きるだろう」と諫言するが、親フセイン派のモンタギューも負けてはいない。「これは私にとって遊びではない、断言できる。今朝、私たちはシャリフ・フセインがヒジャズを征服したことを知ったんだ、フィルビー」と強く反論する(3枚目の写真)〔これは、全くのナンセンス。シャリフ・フセイン、すなわち、フセイン・ビン・アリ・アル・ハシミは、1916年6月から既にヒジャズ王だった。1919年5月のトゥラバの戦いでの圧倒的な勝利を受けて、アブドゥルアジーズはヒジャズにあるメッカを奪取しようとして英国にストップさせられた。そのしばらく後に、アブドゥルアジーズはファイサルを英国に送り出した。そうした構図を無視する、歴史的にも間違ったひどい発言だ〕。だから、これを聞いたニアンの、「そこは私たちの土地だ。また戦争だ」や、モンタギューの 「英国政府はこの侵入を強く非難する」も全くの的外れ。あまりにひどい脚本に開いた口が塞がらない。

親切なメアリー王女は、兄のデビッド王子が内宴を主催し、そこには首相もカーズンも出席するので、ファイサルを彼女の賓客として招くことにする。ファイサルは、内宴のある日、一番豪華な服を着てマルズークに見せる(1枚目の写真)。マルズークは、「まるで王のようです」と褒める。しかし、ファイサルが、「今夜は何人かの偉大な人に会えるだろう」と言うと、英国政府から無視され続けていること腹を立てているマルズークは、「そろそろナジュドに戻る時期だと思いませんか?」と尋ねる。ファイサルは、その政治的な意見に、「英国人は、食事の席で政治の話はすべきではないと言っている」と、出過ぎた意見を批判するが、マルズークは、「英国人は、本当に重要なこと以外、何でも話すのではないですか? いずれにせよ、私たちは英国人ではありません!」と強く言う。それに対し、王子が何と答えたのかは分からない。セント・ジェームズ宮殿に向かう馬車の中で、ニアンは、「今晩はお気をつけください、殿下。英国人は、あなたや父上が彼らに混乱を引き起こさないよう、彼らの一員だと思わせるのがとても上手ですから」と注意する。そして、ファイサル、ニアン、マルズークの3人が宮殿に着くと、なぜかマルズークだけは、頭にイガールを付けていないせいなのか、黒人のせいか、厨房に連れて行かれる〔ただし、ファイサルには、彼がどこに連れて行かれるのかは分からない〕。ファイサルが部屋に入ると、さっそくメアリー王女が迎えにきて、兄に会わせる(2枚目の写真)。王女が次に会わせたのが、ウィンストン・チャーチル〔戦争大臣〕。チャーチルは、モンタギューと話していたが、ファイサルを見ると立ち上がり、「殿下、お噂はかねがね伺っております」と言うと、キツネ狩りでの乗馬の上手さについてお世辞を言った後で、「アラビアについて話して下さい。すべてお伺いしたいですね」と言うと、ファイサルと2人だけで小テーブルに着く。チャーチルが、「あなたの父上は勇気ある男、偉大な指導者として知られています」と言うと(3枚目の写真)、ファイサルは 「息子であることを誇りに思います」と答え、チャーチルは自分の過去の話を始めると、そこに、メアリー王女がカーゾンを連れてテーブルまで来る。2人は、王子が来英してから3ヶ月以上経ってようやく対面する(4枚目の写真)。ファイサルが、「カーゾン卿、お会いできて大変光栄です」と言うと、相手は、「いえいえ、光栄なのは私です、ファイサル王子」と言ったあとで、「こうやってお会いできるまでに、多大な時間がかかってしまったことを心からお詫びします」と謝罪する。そして、食事の開始を知らせるドラが鳴らされる。

晩餐会が始まり、ロレンスが失礼にも遅れて到着する。メアリー王女は、ファイサルに 「彼はいつも遅刻。きっとわざとやってるのね」と言う。ロレンスは席に着くなり、ペラペラとしゃべり始める。如何にも、“自分は人気者で、英国の英雄だから、何でもできるんだ” といった傲慢さが漂っている〔『アラビアのロレンス』とは大違いだが、こちらの方が実像に近い〕。そして、王子を見つけると、「あなたは、ファイサル王子に違いない。英国がそれほど寒くないといいのですが」と言う(1枚目の写真)。ファイサルは 「それどころか、天気はとても快適です」と応じ、ロレンスは、「本物の英国人のように話されますね」と、ある意味失礼なことを平気で言う。そして、今度は、全員に向かって、「注意してお聞き下さい。メソポタミアでは反乱が画策されてします。私たちは英仏宣言に定められた自己統治の約束を守らねばなりません」〔英仏宣言(1918年11 月 9 日)は短いもので、その中で関係する部分だけを抜き出すと、「メソポタミアで解放を進めている…地域が自らの自由意志で採択した政府と行政が正常に機能されることを保証する」という一文であろうが、ロレンスはそれを勝手に解釈している〕「ですから、我々はファイサル・フセインにメソポタミアを統治させなければなりません。私の評価では、彼はサラディン〔Saladin、アイユーブ朝の創始者〕以来最も優れたアラブの指導者です」〔ロレンスの一方的な判断〕。これに対し、フィルビーは 「ファイサル王子の父アブドゥルアジーズ・アル・サウドほどアラビア全土で尊敬を集めている人物はいません」と強く反論する(2枚目の写真)〔これは、その後の歴史を見ると正しいが、当時は異端的な見解〕。チャーチルが、「ファイサル王子、どう思いますか?」と訊くと(3枚目の写真)、彼は、「英国人は晩餐の席で政治について話し合うことはないと思っていました」と言って、笑いを誘う(4枚目の写真)。

晩餐会が終わると、別室の暖炉の前に、デビッド王子、ファイサル、チャーチル、カーズン、モンタギュー、ロレンス、フィルビーが集まる。チャーチルは、暖炉に向かって葉巻に火を点けながら、「あなたにはメソポタミアの支配を維持するための資源がありません。毎日、毎週、この無駄で悲惨な散発的な戦争が続いています」と発言する(1枚目の写真、矢印はファイサル)。ファイサルに言うのに適した内容だが、この発言に対して、「そうですな」と言ったのは、この時、チャーチルと視線が合ったカーゾン〔この辺りは、すべて映画の創作なので、すべてが曖昧〕。チャーチルは、さらに、「おそらく文明発祥の地というテーマについて報道関係者に友人は一人もいないでしょうし、彼らには余裕がありません」と続けながら、カーゾンの隣に座る。カーゾンは、ファイサルに向かって、「アラビアへ出発する前に、客人として私のクラブに来てください。そこの食事は最高です」と招待する。ファイサルは、「そのお誘いはとても嬉しいですね、カーゾン卿」と言った後で(2枚目の写真)、「でも、その前に一度、内々に話し合いをしたいものです」と本音をぶつける。その少し前に、厨房で食事をさせられているマルズークに、デビッド王子の召使が、ファイサル用のミントティーの作り方を訊くシーンがあったが、結局、マルズークがミントの葉を刻んで、自分でファイサルのところまで持って行く。彼が、その場の話し合いを聞いていると、モンタギューが隣に座っている男〔フィルビーでもロレンスでもない〕に向かって、こっそり、「あなたが砂漠に戻る潮時ですな」と囁く〔一体誰に言ったのか?〕。それを聞いたマルズークは、頭に来て、ミントティーの入ったカップをワザとモンタギューのフォーマルな白いシャツの上に落とす。モンタギュー、「何て奴だ! わざとやったな!」と叫んで立ち上がる(3枚目の写真、矢印は汚れ)。マルズークという架空の存在は、謝りもせず、「わざとじゃありません」と抗弁する。その礼を失した態度に、ファイサルは立ち上がり、「マルズーク、謝罪し、片付けろ!」と叱りつけ、モンタギューには王子自ら謝罪する。マルズークは、謝罪も片付けもせず、無言で立ち去る〔何の意味もない無駄なシーン〕

それから数週間経ったある日、ホテルのファイサルの部屋で、ニアンはフィルビーに不満をぶつける。「英国に4ヶ月近く滞在しているのに、カーゾンがしたことは、クラブでの昼食だけだった。帰国すべきだ。英国が我々を支援しないなら、我々はこの問題をベルサイユでの会議で解決させないといけない。恐らく、フランスは、アラブの人々の問題に、もっと同情的だろう」(1枚目の写真)。それに対し、フィルビーは、ファイサルに向かって、「もし、あなたが、英国政府からの言質なしに帰国すれば、あなたの父上の立場は大きく弱体化するだろう」と警告する。自分の意見が無視されたニアンは、「そもそも、我々がここにいるのは誰のせいなんだ? アラビアの将来はベルサイユ会議か戦場で決まる」と、強くフィルビーを責める。それでも、フィルビーはファイサルに話しかける。「殿下、もしあなたが帰られたら、父上と英国の関係は破壊されます」と言い、ニアンもファイサルに、「殿下、帰国しましょう。父上にはあなたが必要なのです」と言い、ファイサルは頷く。次のシーンでは、ホテルの廊下を、使節団の荷物を満載したカートが運ばれて行く。すると、マルズークは、モンタギューがフロントの前にいるのに気付く。そこで、すぐに、そのことをファイサル達に知らせに行く。フィルビーは、さっそくモンタギューに会いに行く。そして、フィルビーは吉報を持って部屋に戻ってくる。「公式な会議です。カーゾン卿は、ファイサル王子との会見を望んでいます。これこそ私たちが待っていたものです」。それを聞いたファイサルは、「正式な会議?」と訊く。「はい。 モンタギューは、カーゾンは殿下にとても感銘を受けたと言いました」。それに対し、ニアンは、「これは策略、シャリフ・フセインを助ける罠です」。フィルビー:「それはファイサル王子に対する侮辱だ。王子は、カーゾン卿が尊敬するに値する人物だと証明したんだ」。ニアン:「“分割して統治せよ” ですぞ ファイサル。彼らはアラビアを分裂させた。今や、彼らはあなたの家族を分裂させ、あなたを彼らの操り人形、彼らの代理の “砂漠の英国紳士” にしようとしているのです」(2枚目の写真)。ファイサル:「止めよ!」。ニアンは、「殿下」と言って頭を下げる。「父は、私に、外交は戦闘よりも苦いと警告した。決めるのは私だ」(3枚目の写真)「そして、私は留まることに決めた」。

カーゾンとの会議に向かう車の中で、フィルビーが見ている新聞には、「チャーチル: 植民地主義の費用は高すぎる」という大きな見出しが書かれている(1枚目の写真)。その内容についてファイサルが尋ねると、フィルビーは、「チャーチルは、国庫は資金不足になっており、費用のかかる対外公約を行う余裕はないと言っています」と答える。「読んでみて」。「数々の戦乱ののち、我々の乏しい軍事資産を集めて財政の再建をしようとしている時に、割りの合わない砂漠に軍隊と資金を投じるべきだと思うことは、余計で不要なことだ」。そして、カーゾンの執務室の入口で待っていた3人の前に現れたモンタギューは、カーゾンの命令で ファイサル王子1人だけを大臣と会見させる。照明の点いていない暗い部屋で、王子とカーゾンは握手する(2枚目の写真)。カーゾンはファイサルを椅子に座らせると、「モンタギューがあなたのために特別にこれを用意しました」と言って、“かつて、フルビーが、アブドゥルアジーズに、リヤドへの帰還を求める英国政府の要請を伝えた時に贈り物として持参したキャンディー” と同じものを載せた銀の皿を置く。ファイサルは、父がその時、「この贈り物の目的が “甘さで悪い知らせを和らげる” ためでないといいのだが」と言ったのを覚えていたので、「“甘すぎないので悪くない知らせ” だといいのですが」と言い、カーゾンは、「もちろん違いますとも」と笑う。彼の勧めで、ファイサルは、ピンクのストロベリー味のキャンディーを1つ取ってテーブルの上に置く。カーゾンは、アブドゥルアジーズを褒めることから始める。それは、英国政府の圧力に屈してリヤドに引き返したから。しかし、そのすぐ後で、杞憂も付け加える。「それは正しい決断でしたが、私たちは、彼が間違い、それも重大な間違いを犯し、シャリフ・フセインと戦争をしようとしているのではないかとの見方を強めています」。そして、英国の期待するファイサルが取るべき “アラブの大局” は、「英国との長期にわたる友好関係」だと述べる(3枚目の写真)。しかし、ここからファイサルの反撃が始まる。「私は、英国に来て、本当の友情とは何なのかを学びました。友情とは尊敬のことです。優越感に基づいた友情は、友情ではありません。私の父はすべてのムスリムとその同盟者を尊敬しており、彼らに対しては必ず約束を守ります。しかし、父の土地が侵略されているのに、何もしないで傍観するつもりはありません。父は反撃するでしょう。今、父は大軍を集めています」。この予想外の言葉に、カーゾンは、「私たちは平和維持軍を派遣しています。あなたの父上は、報復してはなりません」と反対する。「英国の武器で武装した軍隊が、英国の武器で武装した別の軍隊と戦うのは最も愚かなことです。“分割して統治せよ” でしょ? 確かに、強く団結したアラビアは英国の利益にかなっていますが、それだけのことをする(財政的)余裕がありますか? 割りの合わない砂漠の内紛の泥沼にはまり込み、何年も費やしたいのですか?」青字は、車の中で読んでもらったチャーチルの言葉(上記)を上手に引用している〕。ファイサルは、最後に、英国が支援して、フセインとその息子たちにメソポタミアとトランスヨルダンを統治させ、アラビアは父に任せるよう言う(4枚目の写真)〔実際にその通りになった→あまりにできすぎた脚本〕

この会談の結果は、ファイサルを失望させるものだったので、彼は本当にホテルを引き払うことにする。その準備のさ中、メアリー王女が訪れ、ファイサルはホテル側が用意した “誰も入ってこないよう隔離した立派な部屋” にファイサル1人を入れる(1枚目の写真)。メアリー王女は、カーゾンとの会見の様子を聞きに来たのだった。ファイサルは、「カーゾン卿はとても狡猾です。 彼はまるで…」と言うと、王女は、すぐに、「狐?」と言う。ファイサルは笑顔になり、「まるで狐です」と言う。そして、「メアリー王女、あなたの友情に感謝します。これから会えなくて寂しくなりますね」と言う(2枚目の写真)。「私も寂しくなるわ。あなたがいないと、人生は、ずっと退屈なものになるわね」。そう言うと、王女は、持参したバースデーケーキを見せ、ファイサルのテーブルの上に置くと、14本の蝋燭に火を点ける(3枚目の写真)。

そこに、「ファイサル王子殿下、お邪魔して申し訳ありません」と言って、モンタギューが入って来る(1枚目の写真)。メアリー王女が、「何の用ですか?」と訊くと、モンタギューは 「カーゾン卿は、あなたの状況について、首相および国王と詰めの議論をする機会が得られる前に、殿下がアラビアに戻られないよう希望されておられます」と答える(2・3枚目の写真)。映画は、ここでロンドン編を終わるので、前回の史実のホテル騒動の後、実際に何が起きたのか、サウジアラビアのキング・ハリド大学の論文を元に紹介して行こう。論文の第7節 「使節団と英国外務省との話し合い」は、次の文章から始まる。「国王ジェームズ5世による使節団の接見は、ナジディ使節団のロンドン訪問の外交的成果としては適切なものであったかもしれないが、この接見の後も英国当局が無関心(冷淡)であり続けたことは、真の危機につながった。レバノンの詩人Paul Salamehは、英国当局によるファイサル王子とその連れに対する無視と子供扱いに対する怒りを詩で表現した。アラビア語の資料によると、使節団がロンドンに1ヶ半以上滞在したにもかかわらず、政治的な問題についての本格的な話し合いの始まる兆しが何もないまま、地下鉄や動物園、その他のロンドンの名所への非公式な娯楽目的の訪問に費やすしかなかったことが、使節団の不満を喚起した。恐らくこれが、使節団がロンドンを離れてパリに向かおうとする決断を突然下した理由であろう」。「このような形でのナジディ使節団の出発は、多くの英国の欠陥の集積の結果であることは間違いない。そして、英国政府高官にとって最もばつの悪い節目であったことは間違いない。英国政府は、ナジディに受けの良いフィルビーを派遣して使節団をなだめ、英国の名所を巡回している間に、両者の間で公式会談を行う統合計画を作成することを約束してロンドンに戻らせることで、この問題に対処しようとした。フィルビーは使節団の説得に成功し、ウェールズとアイルランドを公式訪問した後、両者の話し合いが始まった」。「英国の文書によれば、11月26日、王子と助言者アフマド・アル・トゥナヤンを外務省に迎え、外務大臣カーゾンとナジディ使節団との会談が開始された。カーゾンは、11月1日に使節団が英国政府に提出した覚書に対して何らかの返答をする前に、シャリフ〔支配者〕・フセインとスルタン〔君主〕・アブドゥルアジーズの間の “現状維持” を再考したいという意向を表明した。カーゾンは、スルタンと “英国政府の友人であるシャリフ・フセイン” との間の対立には中立であると示そうとした。カーゾンは、アラビア半島における主要な独立統治者の一人であるスルタンに対する英国の承認と、二国間条約によって築かれた(フセインとの)友好関係を維持したいとする英国の切望を併記する外交用語を用いた。カーゾンはまた、紛争の詳細には立ち入らないよう慎重に徹し、戦闘の勃発に対する英国政府の懸念と、彼が “アラビア半島の二大独立統治者” と述べたものの間で相違点を解消し、和平を確立する方法を模索したいとする英国政府の意向を強調することで満足した」。「11月26日の会談に関して、外務省が作成した報告書によると、両当事者の境界紛争と、クルマとトゥラバでの戦闘について言及がなされた。報告書の勧告は、この紛争に対する最善の解決策は、スルタンとシャリフの直接会談であり、場所はジッダか両当事者にとって都合のよい場所で行うというものであった。ただし、その際、英国が中立な当局として介入することで調停困難な紛争を解決し、その後に境界を定める委員会を設置することを条件とした」。「外務省の報告書には、11月1日の覚書でサウジ使節団が提起したいくつかの論点に対する回答も含まれていた。その第一は、英国・ナジュド条約の更新と批准を望んでいるスルタンの願望について、外務省は、元の条約はまだ有効で漠然としているため、その必要はないと答えた。第二点は、シャリフ・フセインがナジュドからの巡礼者を阻止していることに関するもので、英国は、この問題は両者の直接会談で解決できるものと考えていた。第三の点については、ナジュドに対する英国の財政援助の増額して欲しいとするスルタンの要求の対するもので、特にシャリフ・フセインとの関係が緊張している今、それを議論するのは時期尚早であるとの回答であった。報告書は、“カーゾンがナジュド使節団に対し、スルタンはシャリフ・フセインと友好的で強固な関係を築くよう努力すべきであると強調した” と締めくくっていた」。最後の3項目を見ると、結局、カーゾンは何も約束しなかったことになる。

29。映画のラスト。砂漠を馬で駆けるファイサル王子の姿が、英国からアラビアへの帰国を象徴的に表している(1枚目の写真)。リヤドにいる父アブドゥルアジーズの前まで言ったファイサルは、「よく戻った」と歓迎され、「ありがとう、父上」と答える。「お前が安全・無事に戻ることは、神の願いだった」。「英国王からナジュドのスルタンへの手紙を持ってきました」。「さあ、読みなさい」。ファイサルは手紙を読み上げる(2枚目の写真、矢印は手紙)。「親愛なるナジュドのスルタンへ、私はこの手紙を、あなたのご子息であり、懇意になれて嬉しかったファイサル王子に託します。これは、我が国政府が全会一致であなたをナジュドのエミール〔首長、なぜスルタンと書かない?〕に正式承認したことを受け、両王国間の実り多い関係の始まりとなることを期待するものです」。これを聞き〔彼らに英語が理解できたとは思えない〕、並んでいた兵士たちが歌い始め、ファイサルの兄のサウドが、「お前は、私たちの最高の大使だった」と褒める(3枚目の写真)。父も、「お前は50の勝利よりも多くの名誉を我々にもたらした。トゥルキはきっと誇りに思ったことだろう」と称える(4枚目の写真)〔いったい、手紙のどこが、それほど “称賛に足るもの” なのか、全く理解できない〕。映画はここで終わるが、最後に、先の論文の「結論」の中の、“使節団に対する評価” の部分を引用しておこう。「政治的利益という視点では、ナジュド使節団が何かを達成したとは言い難い。英国の公式回答は、英国・ナジュド協定の更新、財政支援の増大、ナジュドの巡礼者の問題解決を含めたすべての要求を遠回しに無力化するもので、要求達成にはシャリフ・フセインとの和解が条件となっていた。これらは間違いなく、英国側にとっての使節団に対する唯一の目的が、戦勝者たるスルタン・アブドゥルアジーズに圧力をかけ、軍事衝突を止めさせ、平和的手段でシャリフ・フセインとの紛争を解決することにあったことを示す証拠である」。「英国の考え方とスルタン・アブドゥルアジーズとその使節団への対処法を理解するには、アラビアと中東における英国の増大する影響力、第一次世界大戦の勝利後の超大国化という、より広範な文脈でとらえることが重要である。スルタンやシャリフなどは単なる砂漠地帯の部族長に過ぎないという英国政府の見方が、使節団の招聘方法、宿泊に関する苦労、使節団に対する政府官吏の冷淡さに間違いなく影響している。実際、使節団に敬意を表した唯一の表明となったジョージ5世によるバッキンガム宮殿での使節団の歓待を例外として、この訪問のすべてにおいて、国家間の外交儀礼上のルールが欠如していた」。「その結果、使節団の要求が何一つ英国政府に認められなかったのと同様に、使節団は、シャリフ・フセインとの和解を求める英国の要求に関して、拘束力のある約束をしなかった」。この最後の部分が、使節団の成果だと言えるかもしれない。最初の資料には、「ファイサルは11月、イギリスとアイルランドを視察した。彼は、ナジュドの砂漠とは異なる自然の美しさを高く評価した、しかし、若き王子に永続的な影響を残したのは、彼がイギリスで目の当たりにした産業の規模だった。彼が南ウェールズで見た炭鉱は、19世紀の大英帝国の力の源泉だった、しかし、将来の源泉はサウジアラビアの石油だろう」。「英国とアイルランドのツアーでは、ケンブリッジのほか、ダブリン、ベルファスト、バーミンガムの大学も訪問した、そこでファイサルは、大学のアラビア語写本のコレクションに魅了され、教授陣とアラビア語で話すことを喜んだ」という記述がある。前者は、ファイサルが1964年に王位に就いた時、サウジアラビアの産業振興の原動力となり、後者は、ファイサルが、自分の大勢の子供たちを欧米の大学に留学させたり、教育における男女差別の撤退につながっていて、それらを見ると、長スパンで考えれば成功だったと言えるのではないか。この映画の “その後” だが、1924年8月に、アブドゥルアジーズはタイフ〔Taif、メッカの東南東約65キロ、1916年にフセイン軍により占領された〕を奪取し、メッカにいたフセインは、ジェッダ〔Jiddah、メッカの西北西約65キロ〕に逃げ、長男のアリ・ビン・フセインをヒジャズ王とし、自らは退位した。アブドゥルアジーズは、1924年12月にメッカを占領、1925年にはジェッダを包囲し、アリ・ビン・フセインはバグダッドに去り、アブドゥルアジーズはヒジャズ王になる。

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