イタリア映画 (2024)
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あらすじ
ここでは、原作と対比しながら、あらすじを紹介していく。映画は、1994年3月18日、マエストロと呼ばれるようになったベンヴェヌーティが、トリノのスカテッロ広場を歩いてレージョ劇場に向かうところから始まる(開演は20時30分)。劇場内の背後ではベンヴェヌーティの楽屋で電話が鳴り続いている。ベンヴェヌーティは急ぐことなく廊下を歩き、楽屋に入って行くと、受話器を取り上げる。「もしもし」「やあ、お母さん」「ええ、たった今、着いたところだよ。これから準備しないと」「話して下さい」「いつですか?」(1枚目の写真)「分かりました」「ええ、もちろん。そうします」「もう行かないと」「コンサートが終わったら電話するよ、お母さん」「じゃあね」。少し、ショックを受けたベンヴェヌーティがイスに座り込むと、ドアがノックされ、女性が入って来る。「今晩は、マエストロ。お仕度はお済みですか?」。彼女が 準備の手伝いをしようとしても、マエストロの様子がおかしいので、「どうされました?」と訊くと、「私の母が亡くなった」と答える。「コンサートをキャンセルしましょうか?」。「いや、いや」。「ご無理でしたら、延期されたらどうでしょう」。「問題などない。心配しないで」。そう言うと、ベンヴェヌーティは、結構殺風景な “幕の裏” から、すでに団員全員が位置に付いている舞台へと出て行く(2枚目の写真)。そして、団員にチラと合図すると、バイオリンを肩に置き、演奏を始める(3枚目の写真)。原作は、全53章で、1994年の第4部は36章から始まる(章数で32%、ページ数で27%)。映画では、マエストロのシーンは、実写部分の僅か7%しかない(冒頭のコンサートのシーンだけで4.5%)。原作の36章は、ベンヴェヌーティが、ミラノにある一人暮らしの家にいる場面から始まる〔彼は結婚していない〕。電話については、こう書かれている。「夜明けに電話がかかってきた。3回目の呼び出し音で電話に出て知らせを聞いた時、これがいつか起こるかもしれないという思いが、まるで呪いのように私の人生に暗くのしかかり、ずっとそれと共に生きてきたのだと気づいた。泣くことさえできなかった。ああ、『ついに呪いから逃げられなくなった』、としか考えられなかった。私は 『ええ、ええ。最初の飛行に乗ります』と言い、電話を切った。夜、一人で私は取り残され、あなたは去ってしまった。もう二度と、どんな電話にも怯えることはないだろう」。

「1944年 ナポリ」と表示される〔ナポリは、1943年9月27~30日の間に、「Quattro giornate di Napoli(ナポリの4日間」によって、既にドイツ軍を追放していた。この劇的な戦闘は、残虐なドイツ軍による18~33歳の全市民(男性)に対する強制労働命令(ドイツの労働収容所への強制移送)と、それに対するナポリ人の自発的反抗を破壊活動とみなした司令官による、逮捕、ならびに、反抗者に対する銃殺命令に対し、怒ったイタリア兵と市民が一斉蜂起して死に物狂いで闘い、ドイツの侵略軍を敗退させたもの。この戦闘からも、悪いのは、ヒットラーだけでなく、ドイツ兵すべてであったことが分かる〕。そして、市内に空襲警報が鳴り響く〔この空襲は、前記の解説により、敗退したドイツ空軍によるもの〕。1人の女性、アントニエッタ・スペランツァが、「アメリーゴ!」と叫びながら、一緒に逃げようと一人息子を捜し回っている(1枚目の写真)。しかし、その、アメリーゴは、1枚目の写真に写っている “荷物運びのための木造の二輪車” の中に隠れていて、そんな母を笑っている(2枚目の写真)。しかし、街路の100mほど先に爆弾が落ち、それとともに、建物が破壊されたことによる粉塵が降り注ぎ(3枚目の写真、矢印)、辺りが白い煙で覆われると、怖くなったアメリーゴが、「母ちゃん」と声を上げ、何とか姿を見つけた2人は喜び合う(4枚目の写真)。原作は、1946年から始まるので、この場面は映画だけのもの。

「1946年」と表示される。アメリーゴが、歩きながら、目に入る靴を見ながら、「1点」「2点」「0点」などと口ずさんでいる(1枚目の写真)〔裸足はポイントなし、サンダルは0点、傷んだ古い靴は1点、傷んでない古い靴は2点、新しい靴は星の章(Stella premio)〕。原作の第1部 1章では、穴の開いた靴はマイナス1点、裸足は0点、穴のない靴は1点、新しい靴は星の賞。映画に戻り、アメリーゴは、制服を着たアメリカ女性2人の靴を見て、「“星の賞”だ!」と叫ぶと、母が、「数字なんかどうだっていい。来なさい!」と叱る(2枚目の写真)。母の背後の建物には、「P.C.I.(イタリア共産党)」の文字が入ったソ連そっくりの国旗が掲げられている〔第二次世界大戦後のP.C.I.は、反ドイツ・ファシズム抵抗運動の中心を担った実績により、広範な国民的支持を獲得し、1946年の王制廃止を問う国民投票と制憲議会選挙で、イタリア第3の党としての地位を築いた。1947年に政府から排除され野党となるが、労働組合や地方自治体(特に「赤いベルト」と呼ばれるエミリア=ロマーニャ州)に深く根を張り、イタリア最大の野党として社会に定着した(解党は1991年)〕〔因みに、後でアメリーゴが行くモデナも、エミリア=ロマーニャ州にある〕。 アメリーゴは、「10回見たら、何かいいことがあるんだ」と言った上で、「どこに連れてくの?」と訊く。すぐ前に小さな屋台のピザ屋があったので、そこかなと期待したが、母は 「アメリ、来て」と、建物の中に入って行く。建物の1階の廊下に並んだ多くの長椅子に座っている子供連れは、全員が、裸足か0点の靴ばかり。アメリーゴと母の番が来て室内に呼ばれると、2人は、後で、マッダレーナ・クリスクオロ(Criscuolo)と分かる女性の前に座わらされる。なぜ、ここに来たか分からないアメリーゴが、落ち着かずに机の上の物を触ったりするので母は止めるが、マッダレーナは、机の上に置いてあったメダルをアメリーゴに見せ、「これ、何か分かる?」と訊く(3枚目の写真)。「ううん」。「これは勇気の勲章よ。ドイツ軍はサニタ(Sanità)橋を爆破しようとしたの。でも、私たちが、そうはさせなかった。だから、これをもらったの」と話す〔右下の高架橋〕〔これは、実際にあった話で、
マッダレーナ・チェラスオーロ(Cerasuolo)という有名な女性が銅メダルを授与された。名は同じで、姓も極めて似せてある〕。それを聞いたアメリーゴは、「あなたにいい靴あげた方がよかったのに。だって、その靴 穴が開いてるもん」と言い、怒ったは母は、「行くわよ」とアメリーゴに言い、マッダレーナには、「見たでしょ。神の罰なの。こんな子ほんとに欲しいの? あたしに残された唯一の家族だから、考えさせて」と言って出て行く。原作の1章では、「母ちゃんが前、僕が後ろ。どこに行くのか分からないけど、母ちゃんは僕のためだって言う」「母ちゃんは道の真ん中を歩き、決して下を見ない。僕は、足を引きずりながら点数を数え、怖くならないようにする。指で10まで数え、また最初から始める。10が10回になったら、何か素敵なことが起きるんだ」と、映画と少し違っている。2人は「大きな窓のある灰色と赤の建物」に入って行くが、向かった先は1階ではなく2階。そして、マッダレーナ・クリスクオロの前に行く。「マッダレーナは、『ナポリの4日間』の時、ドイツ軍がダイナマイトで爆破しようとしたサニタ橋を救い、銅メダルと賞状をもらったそうだ。僕は、新しい靴をもらった方が良かったにと思う。だって、彼女の靴、片方はいいんだけど、もう片方には穴が開いてるから(0点)。彼女は、僕たちが会いに来たのは、正しいことだって話してくれた」。最後に、母が言った言葉は、「本当に彼が欲しいの? このガキをご覧。神があたしたちを罰するため送った子なのよ!」だった。この部分は、映画がほとんどそのまま使っている。

建物から出る前から、アメリーゴはピザ屋に向かって走って行く。先ほどの会見で満足したのか、母は、「チチョリとリコッタ〔豚バラ肉のコンフィ(チチョリ)とリコッタチーズ〕、1つだけ」と注文し、店主は薄い紙でピザを半分くるんでアメリーゴに渡す。母は、「お前も聞いてただろ? もう大きいんだ。8歳だから。つまり、理解しないと… いいかい、アメリ、言葉というのは…」と、うまく言葉が出てこない。アメリーゴは、「母ちゃん、苦手だから」と言う(1枚目の写真、矢印はピザ)。原作の1章では、ピザは全く同じ。その後で母の言葉は 「彼女の話 聞いただろ? お前は、もう大きいんだ。すぐに8歳だから。あたしたちの置かれている状況、分かってるわね?」と、まともに話すので、アメリーゴのちゃかす言葉はない。また、年齢について、映画では「8歳」と言っている〔この数日後の正式文書でも〕。そして、原作 と同じように「北」で誕生日を迎える。ということは、映画の方が約1歳年上ということになる〔なぜ、変えたのだろう?〕。2人が、家の近くまでくると、マッダレーナがやろうとしていることに強く反対する声が、アパートの上の方から聞こえてくる。「彼らは、子供たち全員を汽車に乗せるそうよ」。「子供たちは200人だとか」。「200人? もっとよ! 貧しい子全員!」。「みんな、アメリカで働かされるわ」。「何も分かっちゃいないのね。彼らはアメリカ人じゃない、ロシア人よ」。「手や足を切り取って、オーブンに入れるのよ。可哀想な子供たち!」(2枚目の写真)。「ロシア人は、子供たちを食べるのよ」(3枚目の写真)。ここで、元国王の写真額を掲げた老女が、「子供たちを売ってはならない。尊厳の問題ですよ!」と厳しく言い放つ。それを聞いた、街路にいた物知り老女が、「共産主義者は、私たちを助けたいだけですよ。希望を与えるために」と論理的な反対論を述べる。それに対し、国王派の老女は、「彼らは神を信じない。世界をひっくり返そうとしてる!」と、ある意味正しいことを、過激に主張する。アメリーゴの母は、「なんて誇張なの!!」と叫ぶ。それを聞いた国王派の老女は、「アントニエッタさん、あんたも息子を売ったの? あんたが、そんなことをするとはね」と批判する。原作の2章では、この部分は、「子供たちを列車で移送するニュースが報道されて以来、近所は騒然としている。みんな、それぞれ違うことを言う。『僕たちを売ってアメリカで働かせる』。『僕たちをロシアに連れて行ってガスで殺す』。『悪い子は追い出し、良い子はそのまま残す』など」という記述と、近所の人の紹介で、「近所でとても尊敬されている厳格なパチオチアは、イタリアに王様がいた頃はこんなことはなかった、母親が子供を売ったりはしなかったと言う。今はもう “そんげん”〔アメリーゴが理解できない単語〕 なんてなくなったとも」という記述に分かれている。

家〔と言っても、台所兼居間、寝室、浴室が1つあるだけの狭い貸し間〕に戻ったアメリーゴは、母に、「ほんとに僕をロシアに送りたいの?」と訊く。「ロシアだって? 勘違いするんじゃないの!」。「アメリカに行って、父ちゃんに会いたい」。「お前の父さんは立派な人よ」。「いつ戻るの?」。「戻るわよ、遅かれ早かれ」。原作の2章では、その前に自己紹介がある。「僕の名前には “希望” が込められている。だって、アントニエッタ母ちゃんと同じスペランツァ(Speranza、希望)という名前だから。僕の名前はアメリーゴ・スペランツァ。母ちゃんは父ちゃんが僕の名前を決めたと言ってた」。映画に戻り、翌朝、アメリーゴが母に言いつけられた仕事〔恐らく、拾ってきた “捨てられたタバコ” から、タバコの葉を集める作業〕をしていると(1枚目の写真、矢印がタバコ(?))、そこに、カパ・エ・フィエロという男が入って来る。それに気付いた母が挨拶に出て来る。「何か、ご入り用ですか?」。「2袋」。母は、ベッドの下から5kg米くらいの袋を2つ取って来てアメリーゴのタバコの山の横に置く。カパ・エ・フィエロは、「迷惑をかけました」と丁寧に言って お金を渡す。母は、「ご心配なく。ベッドの下に場所はまだあります」と答える。「ベッドの上に、空はありますか?」。母は、木を編んだ籠を渡し、「お行き。空のカゴを持って帰って来るんじゃないよ」と言って、アメリーゴを追い出す。閉まったカーテンからは、2人が抱き合う影が見える。ここまでの一番不満な点は、袋の中身が何か、最後まで示されないこと。原作の2章では、「アントニエッタ母ちゃんは、僕が商売について話すのを嫌がる。僕は、カパ・エ・フィエロがベッドの下にコーヒーの袋を隠していることは誰にも黙ってた〔後で、コーヒーは密輸されたもので、そのため、カパ・エ・フィエロは警察に連行される〕。カパ・エ・フィエロが、母ちゃんと親密な関係にあることも黙ってる。彼、奥さんに何て言ってるんだろう? 彼が来ると、母ちゃんは僕を外に送り出す。僕は、外に出て、ぼろ布、残り物、アメリカ兵が捨てた服、ノミだらけの汚れたぼろ布などを探しに出かける」「母ちゃんは、彼は僕たちに食べ物を与えてくれるし、何より重要な地位の人たちと知り合いだから、敬意を払うべきだと言う」。そして、映画では、アメリーゴが、初めて登場する親友のトマジーノと一緒に、「古いシーツ! 何でも持ってくよ!」と言いながら、路地を歩いていく姿が映る(3枚目の写真、矢印は)〔それにしても、飢餓でやせ細ったように見えるアメリーゴ役の子役、これで健康が保てるのだろうか?〕。原作との唯一の違いは、3枚目の写真の矢印の2人の足。2人とも靴を履いていない。しかし、原作の1章の最初に、「僕は自分の靴を持ったことがない。他人の靴を履いているので、いつも痛い。母ちゃんは、僕が真っ直ぐ歩けないと言うが、僕のせいじゃない。問題は、他人の靴にある。靴の形は、前にその靴を履いていた人の足の形なんだ。歩き方には癖があり、歩く道も違い、遊び方も違う。靴は、ちょっとずつ僕に慣れて来るが、僕の足も大きくなり、靴は小さくなり過ぎ、振り出しに戻っちゃう」と言う記述があり、これを見る限り、アメリーゴは常に靴を履いていたことになる。

トマジーノは、「もし、君んちにお金があったら、君を 共産主義者のとこには連れてかなかったろうね」と言うと、「今年は、父さんが、僕をイスキア島に連れて行ってくれるんだ」と自慢げに追加する〔イスキア島は、ナポリの海岸沿いの卵城の西南西約30kmにある〕。原作の4章に、トマジーノが、「アメリ、もし、僕らがお金をいっぱい稼げれば、君は共産主義者と一緒に北へ行かなくてすむ」という言葉があるが、これは、映画の発言より遥かにアメリーゴに好意的。しかし、その直後の、「僕たち今年の夏はどこへ行くと思う? イスキア島だ」は、映画もそのまま採用している〔後で、理由が分かる〕。そのあと、2人は、屋台が並んでいる場所に行き、パンが並んでいる店まで来ると、悪賢いトマジーノが、「泥棒だ!」と叫ぶ。店主やお客が、彼の指差した方に向いている間に、トマジーノはパンを1個くすねる(1枚目の写真、矢印)。これは、映画だけのシーン。次の店では、小さな籠に入ったハムスターのような真っ白な小動物が、毛皮用に3匹250リラで売られていて、2人は興味津々で見ている(2枚目の写真)。これも映画だけのシーン。次の節で、この小動物をヒントにした悪徳商売を2人で始めるが(こちらは原作にある)、それの前哨戦のようなもの。その夜、1つしかないベッドで、母とアメリーゴが寝ている姿が初めて映る(3枚目の写真)。アメリーゴが足が冷たいと言うと、母は、アメリーゴの足を中から出して両手で擦って暖める。これも映画だけ。

翌日、アメリーゴとトマジーノが、フォンタネッレ墓所(無名の死者の納骨堂)でチャンバラごっこをして遊んでいると、祈りに来ている老夫人から叱られる。何もすることがなくなったトマジーノが、骸骨に添えられたコインを盗んでいると、アメリーゴが 「何してる? 死者から盗むのは罪だぞ」と たしなめると、トマジーノは 「もう死んでる。だから何も買わなくていいんだ。僕が持ってた方がいい」と、平気で言う。すると、骸骨の中からネズミが現われる。それを見た アメリーゴは、「このネズ公、どう思う?」とトマジーノに話しかける。「ただのネズ公だ。気持ち悪い」。アメリーゴは、「いいや、これは、お金だ」と言うと、ネズミのしっぽを持って笑顔になる(1枚目の写真)。この墓所やそこで交わされた言葉は、原作には一切ない。2人は街に戻ると、マリウッチャという年下の少女に頼んで、父親がやっている靴屋から、白い靴墨を1缶盗んで来てもらう(1枚目の写真、矢印)。マリウッチャ:「お父さんに見つかったら殺されちゃう」。アメリーゴ:「ありがとうマリウッチャ、完璧だ」。マリウッチャの様子が変なので、さらに、「どうかしたの?」と訊く。「お父さんは、わたしを共産主義者の汽車に乗せるの。兄ちゃんたちは店で働いてるのに、わたしは何の役にも立たないから。パスタ2皿温めることさえできないの」「でも、手を切り落されちゃう」。トマジーノ:「違うぞ。オーブンに入れられるんだ」。2人は、屋台の並んでいる所に行き、靴墨を塗って白くしたネズミを籠に入れ、1匹100リラで女性に売る(2枚目の写真、矢印)。しかし、運の悪いことに急に天気が急変し、大粒の雨が降り出す。ネズミに塗った靴墨は、どうどん落ちていく(3枚目の写真)。さっき買ったばかりの女性も、「何よこれ、ネズミじゃないの!」と籠ごと投げ捨て、「泥棒よ! 詐欺師だわ! 警察呼んで!」と叫ぶ。トマジーノはいち早く逃げ出すが、アメリーゴは何人かの大人に捕まってしまう。しかし、そこに現れた背広姿のカパ・エ・フィエロが介入し助けてくれるが、アメリーゴは彼が嫌いなので嬉しくない(4枚目の写真)。原作の4章には、「僕が捕まえたドブネズミのしっぽを切り落として 靴墨で茶色と白に塗ると、アメリカ軍の将校のハムスターそっくりになった。商売は順調で、僕とトマジーノには常連客もできた。もしあのひどい雨さえ降らなければ、今頃は金持ちになっていたのに」。「気づかないうちに靴墨は流され、ハムスターはネズミに戻っていた。籠の周りにいた女性たちが叫び始めた。『きゃあ! コレラになっちゃう!』。女性たちの夫たちが僕たちをボコボコにしてやると取り囲んだので、逃げることもできなかった」。ここで、カパ・エ・フィエロが介入し助けてくれる。順序が逆になるが、原作の5章に、初めて「マリウッチャという名の、髪の短い痩せた少女」が登場する。「マッダレーナが汽車について話しに行った時、靴屋はマリウッチャを送り出すことにしたんだそうだ。他の子たちは全員男の子で 店の手伝いに役立ったのに、マリウッチャは女の子なのに 残ったマカロニを温めることもできず役立たずだったから」と書かれおり、映画はそれを踏襲している。

アメリーゴが家に戻ると、説得に来たマッダレーナが母に、「アントニエ、あなたは一人なの。だから、できっこない」と言っている。そして、アメリーゴを見つけると、「汽車は楽しいわよ。それに、北では、君たちを まるで自分の子のように扱ってくれる。食べ物や服、それに新しい靴だってもらえるのよ。待ってるわ」と声をかけて(1枚目の写真)、出て行く。母が、「どうしたい?」とアメリーゴに訊くと、彼は 「もし新しい靴をくれるなら、共産主義者のところまで歩いていくよ」と答える。そして、翌日、母とアメリーゴは共産党の建物に行き、順番を待って、写真を撮る(2枚目の写真)。その奥には、たくさんのテーブルが並び、北に行く手続きを取っている。母とアメリーゴが座ったテーブルの係は男性で母にいろいろと質問する。「お子さんの姓は?」。「スペランツァ」。「名は?」。「アメリーゴ」(3枚目の写真)。「年齢は?」。「8歳」。「どこに住んでますか?」。「ナポリ」。「どこ?」、「この近く」。「何年生ですか?」。「行ってません。この子バカだから」。それを聞いたアメリーゴは、「バカじゃない。僕、3年生になるはずだった。10の10倍(100)まで数えられるよ」と反論する。「兄弟は?」。アメリーゴ:「ルイージ。死んじゃった」。母:「3歳。喘息が、わずか1ヶ月で命を奪ったの… 何て病気だったかしら?」。「気管支喘息?」。「ええ。同じ目に遭わせたくないの」。原作の3章では、共産党本部の1階に2人は行く。そこでいろいろなことを訊かれ〔何を訊かれたかは書いてない〕、最後に母にペンが渡され、サインするよう求められるが、字の読み書きができない母は、顔を赤くして、“少し歪んだバツ印” を書く。また、写真を撮るのは、原作の5章に、『お母さんはお子さんを前にして一列に並んで、写真を撮りましょう』、と母子全員が並んだ写真を撮る一文がある。

そのあと、子供たちは、シャワー室に連れて行かれ、汚れた体をきれいに洗う。隣のシャワー室にトマジーノがいるのを見つけたアメリーゴは、「トマジーノ、何 待ってるんだ、イスキア島行きの蒸気船か?」と、からかう(1枚目の写真)。原作の4章では、アントニエッタとアメリーゴのように汽車に乗る母子は、全員が貧困者用の病院に行かされる。「『母ちゃんは、北へ連れて行く前に、僕らが健康か病気か、伝染病を持っていないか調べる必要があるから、ここに来たんだと言う』『それに、北の国はここと違うから、暖かい服、コート、靴も渡してもらえるの。あっちは本格的な冬なのよ』。〔アメリーゴ:〕『新品の靴?』。『新品、もしくは、新品同様の中古品』。母ちゃんが僕の腕をつかむまで、僕はぐるぐる飛び跳ね始めた」。この文のすぐ後に、「2列後ろにはトマジーノがいた。『ねえ、トマジー』と、僕は声をかけた。『イスキア島行きの蒸気船を待ってるの?』」という一文がある。そして、原作の5章の前節で引用した全員写真の後、子供たちは、全員、大きなシャワー室に連れて行かれる。「マッダレーナは、僕たち3人〔トマジーノ、マリウッチャ〕を別の部屋に連れて行った。そこには天井から水を噴き出すパイプが走っている。雨みたいな感じだけと、熱い」「マッダレーナがスポンジと石鹸を持って近づいてきて、僕を甘い香りの泡で覆ってくれる」「マッダレーナは残りの2人を泡立てて洗い、それから僕たち全員をざらざらした白いシーツで包んでくれた」「シャワーのあと、マッダレーナは僕たちを別の部屋に連れて行った。そこには、既に体を洗ってもらった子供たちが全員、ざらざらした白いシーツで包まれ、木製のベンチに座っていた」。そのあと、子供たちには、これから診察する医者から渡されたパンが1個ずつ配られる。診察に関する文はない。映画でも、シャワーが済んだ子供たちは、白いシーツで体を覆い、木のベンチに座っているが、医者の診察はない。代わりに、マッダレーナは、「汽車が君たちを待ってるよ。さあ、靴を履いて」と声をかける。アメリーゴは、待ってましたとばかりに、喜んで靴を履く。マッダレーナは、なぜか、「アメリーゴ、その靴、足に合ってる?」と訊く。「完璧だよ。大丈夫」。「少し小さくない?」。「ううん、大丈夫」(2枚目の写真)。この靴に関しては、原作の6章で、全員に靴が配布された時、「ところが、僕の番になったとき、マッダレーナが僕のサイズが品切れになったと告げた。僕は、靴紐のついた真新しいピカピカの茶色の靴をもらったけど、ワンサイズ小さな靴だった。『足に合ってる?』。僕は、靴を履いて歩いてみたり、数歩行ったり来たりしてみたが、やっぱりきつかった。だけど、取り上げられるのが怖かったので、『大丈夫』と言って、そのまま履き続けた」。しかし、このため、映画にはないが、原作の9章の汽車の中で、アメリーゴが泣いているシーンがある。マッダレーナが、『どうして泣いているの? お母さんが恋しいの?』とアメリーゴに訊くと、『ううん、靴なんだ。きつすぎるから』と答える。映画に戻り、子供たち全員は、マッダレーナに誘導されて汽車に向かう(3枚目の写真)。因みに、この駅は、ガリバルディ広場駅(ナポリ中央駅)。

以前、アパートの上で元国王の写真額を掲げて、「子供たちを売ってはならない」と叫んだ老女が、子供たちを見送りに来た母親たちの前に行くと、「あなた方の子供を売ってはいけない。奴らに 言葉巧みに言いくるめられたのだ。子供たちはシベリアに連れて行かれる。そこで、奴らが何をするか知ってるかね? 奴らは 子供たちを大きな鍋の中に入れて茹でるんだ。そして、骨の髄までしゃぶるのさ!」と、嘘で扇動する(1枚目の写真、矢印)。似たような女性が何人も、このありもしない主張に賛同する。それに対し、マッダレーナは、「何が真実よ。とんでもない。信じてはいけない」と否定する。しかし、老女は止めない。「真実よ。生きて帰ってきた者たちが、私たちにそう言ったから」。「バカなこと言わないで。すべて嘘よ。黙りなさい!」。「あの者どもは神の子ではない。野獣だよ!」。「あんな女の言うとは聞かないで、全部嘘よ」。「太らせて、食べるんだよ!」。この最後の言葉を聞いて、子供たちが一斉に走り出し、母親の元に逃げ込む。こうなると、混乱は止まらない(2枚目の写真)。アメリーゴですら、母に、「新しい靴のことなんか、どうだっていい。もう行きたくない」と言い出す。ここで、以前、写真額の老女に反論した、物知り老女が声を上げる。「あの女(ひと)の言うことは聞かないで。 子供たちは 暖かい所に行き、優しく養われ、世話されるでしょう。トラコーマ、リウマチ、コレラによって、どれほど多くの人が命を落としたことか。子供たちのことを考えてあげて。子供たちの将来のために。この素晴らしい機会を子供たちから奪わないで!」。それに続き、マッダレーナが、「私はドイツ兵を追い払うために、機関銃を手に取って発砲した。私は、11歳になる甥のジェンナリーノが、ドイツの戦車に手榴弾を投げつけた後、地面に倒れて死んでいるのも見た。私は、もう二度と、銃弾で死んだ子供たちを見たくないと思った。もうたくさんです! これは、飢餓との、また別の戦いなんです。私たち女性が、自分の子供たちの面倒を見なければ、誰も見てくれないのです。私はあなた方と同じくらい、子供たちを愛しています。そして、必ず子供たちを連れ帰ります。名誉にかけて!」。そう言うと、右手を上げる(3枚目の写真)。原作では、子供たちが汽車に乗る時に、こうした大混乱が起きるわけではない。原作の4章で、パチオチアとその賛同者たちが、元国王の写真額を掲げ、街頭で行進をする場面がある。老女は、『子供を売ってはいけない。奴らの口先に あなたたちは惑わされているが、真実はこうです。奴らは子供たちをシベリアに連れて行き、寒さで死ななければ、働かせるつもりなんです』『子供たちを離してはいけない! 二度と戻らないでしょう。爆撃下にいたあの頃のように、子供たちをしっかりと抱きしめなさい。あの時、あなたこそが子供たちを守る全てだったように。神の御加護があなた方と共にありますように』と主張する。それに対し、マッダレーナは、原作の5章での街頭演説で、『ドイツ軍を追い出した時、私たち女性も役割を果たしました。母も娘も妻も、老いも若きも、街へ繰り出し、男たちと共に戦いました。あなたもいたし、私もいた。今度は別の戦いですが、敵はより危険なもの、飢えと貧困です。今戦えば、あなたの子供たちが何か意味のあるものを得ることになるでしょう!』『子供たちは、よりふっくらと美しくなって戻ってきます。そしてあなた方は、今日まで続いた果てしなき苦労から解放され、安らぎを得られるでしょう。再び子供たちを抱きしめる時には、あなた方もまたふっくらと美しくなっているはずです。私自ら 子供たちを連れ戻します。私の名マッダレーナ・クリスクオロの名誉にかけて、必ず実行すると誓います』と訴える。それに対し、パチオチアとその賛同者たちは国歌を歌い、『国王万歳!』と叫ぶ〔1931年に亡命したアルフォンソ13世を、15年経っても讃えるとは、時代錯誤も甚だしい〕。

マッダレーナの誓約を聞いた母親たちは、子供たちを汽車に乗せ始める。アントニエッタもアメリーゴを、「お行き」と言って、客車の扉に向かって押し出す(1枚目の写真)〔乗る列車は手前で、背後のオレンジ色の車両ではない〕。列車に乗り込んだ子供たちは、窓から手を出して母親や父親と手を取り合っている。列車の中で、トマジーノ、マリウッチャに出会ったアメリーゴは、「旅の間、ずっと一緒だ」と喜ぶ〔他は、見知らぬ子ばかり〕。そのうち、子供たちは、ナポリの共産党から全員に配られた寒地用のコートを次々と脱ぎ、窓から親に渡し始める。アメリーゴが、トマジーノに訳を訊くと、「約束したんだ。コートは兄弟に残しておく」「共産主義者たちは、もう1着くれるさ。とっても金持ちだから」と言われる。1人っ子のアメリーゴも、母にあげることにする。ここで、列車がもう一度映り、多くの子供たちが脱いだコートを親に渡している(2枚目の写真)。母にコートを渡したアメリーゴは、悲しそうに母を見ている(3枚目の写真)。原作の6章では、男の子たちについて、「トマジーノや他の男の子たちは皆、髪を切られ、半ズボンに厚手の靴下、ウールの肌着、シャツ、そしてコートを着ている。僕の髪はそのままだった。だって、僕の頭はメロンみたいに丸刈りにされていたから〔なぜ、母がそんなことをしたのかは分からない。頭シラミのためではない〕」と書かれているので、男の子たちの姿は映画とはかなり違っている。列車に乗るシーンは、さらに違っている。「僕たちは、列車の前に一列に並ばされ、指示を与えられた: 何も汚さない、大声を出さない、窓を開けない、靴やズボンを交換しない、三つ編みをほどかない」。「シニョリーナたちは 僕たちのコートにピン留めされた番号を確認し、リストから僕たちの名前を読み上げる。僕の番になると、シニョリーナの一人が 『アメリーゴ・スペランツァ』と声をかける。三段の鉄の階段を登ると、僕は列車の中に入っていた。外から見た時は大きかったが、中は狭くて窮屈で、鉄の取っ手で開け閉めする扉が一つずつあるコンパートメントが、ずらりと並んでいた」。「マリウッチャとトマジーノも僕の後に登ってくる」。「シニョリーナたちは名前を呼び続け、列車はゆっくりと子供たちでいっぱいになる」。以上の記述からわかるように、子供たちが列車に乗る時に 反対派による妨害は一切ない。しかし、ここから先は映画と似ていて、子供たちは窓から手を出して親と握手しようとし、そのあと、コートを脱いで窓から親に渡す。唯一の違いは、映画では、1人だけコートを脱がなかったマリウッチャ〔自分を役立たずにした兄たちに渡したくなかった〕が、コートを脱ぎ、トマジーノが言った台詞と似た、『共産主義者は、わたしたちにもう1着コートをくれるわ。だって、彼らは金持なんだもん』を口にする。それを聞いたアメリーゴは、母にコートを投げる。この異常な事態に、原作の6章では映画よりも早く対処する。すなわち、列車が駅を出る前に、ヒーターカーを連結させることにした〔自力で蒸気を発生させることができない機関車に牽引される列車に蒸気暖房を供給するために設計された移動式暖房装置〕。これなら、コートがなくても車内で凍えることはない。

汽車が走り出した後で、マリウッチャがコートを捨てなかったとアメリーゴに話し、アメリーゴは、「母ちゃん、売っちゃったに違いない」と言って、シャツに手を当てる。そしてハッと気付くと、「コートの番号!」と叫んで立ち上がる〔コートには、識別番号が付いていた〕。マリウッチャが 「どうやって、あなただって見分けるの?」と訊く。「わざとやったんだ! 二度と会えないようにするために!」と、金髪の少年が悪意を込めて言う。隣に座っていたトマジーノが、「何、言ってんだ?」とバカにすると、金髪は 「ロシア人は、子供たちの手を切断する」と、老女の言ったことをくり返す。アメリーゴ:「バカげてる! 母ちゃんは、しばらく北に行きなさいって 言ったんだ」。金髪:「信じ込ませるためさ」。それを聞いたマリウッチャは、「手を切られちゃうなんて怖い!」と言い、これを聞いた、その辺の子供全員が、「降りたい!」と叫ぶ(1枚目の写真)。原作の7章の冒頭に、これと同じ状況がある。『コートなくなっちゃったけど、どうやって わたしたち見分けるの』と、マリウッチャが心配する。『わざとやったんじゃないかな。きっと彼らは僕たちの母さんたちに コートを持ってくよう言ったに違いない。そうすりゃロシアに着いた時、僕たち、もう誰だか分からないだろ。ロシアじゃ、朝食に子供を食べるって知ってたか?』と、金髪の少年が言う。アメリーゴは、『ロシアに行くなんて誰が言ったんだ? 北イタリアに行くって聞いたぞ』と反論する。『北イタリアってのは、母さんたちを説得するためだけさ。ほんとはロシアに連れてかれて、氷のベッド、氷のテーブル、氷のソファのある氷の家に入れられるんだ』〔彼は、この先も、ずっと悪意を持ち続ける〕。映画では、ノートを持った男性の党員が入って来て、全員に座るよう命じ、一人一人、名前を訊き、ノートを見て番号を調べ、その番号を腕にペンで書いて行く(2枚目の写真、矢印)。原作の7章の後半で、マウリツィオという男性党員が、子供たちの名前を訊き、その名前をカードに書き、カードをシャツの袖にピンで留める。しかし、金髪の少年は聾唖のふりをする。マウリツィオはうんざりして次の車両へ行く。トマジーノが、聾唖のふりの理由を訊くと、「禁制品を扱う者は、名前も住所も家族のことも絶対に誰にも言うなって、母さんが教えてくれた」と言うので、犯罪者の息子だと分かる。映画では、夕方になり、子供たちが眠り始めると、毛布が配られる。アメリーゴは、盗まれるといけないので、靴を履いたまま寝てしまう(3枚目の写真)。原作の8章では、暖房が入っているので毛布は配られない。アメリーゴがウトウトしていると、汽車が急停車し、子供たちは座席から投げ出され、電気も消えて真っ暗になる。原因は、子供たちの誰かが警報装置を鳴らしたため。マッダレーナは、金髪の少年を疑うが、横に座っていたトマジーノが否定する。お陰で金髪は救われるが、すかさず、『列車を止めるレバーはどれ? 赤いレバー?』とマッダレーナに訊き、『私は、君に教えるほど馬鹿じゃない!』と蔑まれる。原作の9章には、「列車は時折停車し、また子供たちが乗り込んでくる」と書かれている。そして、3つ前の節で引用した、“座席に座ったまま泣いているアメリーゴが、靴のきつさをマッダレーナに話す” 場面もここにある。

翌朝、窓の外は真っ白な雪景色。最初に、窓の外を見たマリウッチャは、「見て、なんてたくさんのミルクなの」と言う。そこにやってきたトマジーノが、「ミルク? あれは砂糖だよ」と言う。そこに、アメリーゴが寄って来て、「2人とも 何言ってるの? 雪だよ」と教える(1枚目の写真)。原作の10章では、最初に気付いたのは、アメリーゴ。『雪が降ってる!』と大声で叫ぶ。誰も起きず、アメリーゴも再び眠る。次にアメリーゴを起こしたのは、マリウッチャ。彼女は、『あちこち、リコッタチーズだらけ!』と叫ぶ。アメリーゴは 『マリウ、あれはクリームでもリコッタチーズでもない。雪だよ』と教える。『雪?』。『凍った水』。マッダレーナが、『雪、見たことがないの?』とマリウッチャに訊き、マリウッチャは首を横に振る。アメリーゴは、『北の人たち、僕らが行くの喜んでるの?』と質問する。『喜んで迎え入れてくれるわ』。『僕たちが、食べ物全部食べちゃうのに、どうして喜ぶの?』。『それが、あの人たちの “れんたいかん” の示し方だからよ』。『それって、“そんげん” 、みたいなもの?』。「マッダレーナは、連帯は他者に対する尊厳のようなものだ言う」。マッダレーナとの話に、マリウッチャとトマジーノも参加し、話題は広がって行く。そして、「愛」が話題になった時、マッダレーナはこう説明する。『愛にはいろいろな側面があるの。君たちが考えているものだけじゃなく。例えば、厄介者の君たちと一緒にいることだって、愛なのよ。そして君たちのお母さん。君たちを、列車に乗せて遠くのボローニャやリミニ、モデナへと送り出した… それも愛なのよ』。アメリーゴは、『どうして? あなたを追い払う者いたら、それでも愛してると言えるの?』と訊く。それに対するマッダレーナの重要な返事。「アメリーゴ、時には、あなたを手離す人が、引き留める人よりも、あなたをもっと愛していることがあるの」。これは、映画の最後に提示される “総括文” と同じだ。この “総括文” は、一旦ナポリに帰ったアメリーゴを、再度手放し、偉大なバイオリニストにした母を褒めているかのように(間違って)使われている。しかし、実際は、最初に手放した全母親を指した言葉に過ぎない。映画では、「雪」のあと、すぐにモデナ駅での盛大な歓迎シーンに変わる(2・3枚目の写真)。原作の10章では、「駅に着くと、楽団が演奏していて、白い旗が掲げられていた」から始まり、集まっていた、地元の共産党員とその奥さんたちの歓迎ぶりが簡単に書かれている。

列車を降りた子供たちは、大きな食堂のような場所に連れて来られ、テーブルには北部の豊富な食べ物がたっぷり盛られている。しかし、誰も食べようとしない(1枚目の写真)。マッダレーナが、「どうしたの?」と訊いても、誰も、食べない理由を話さない。しかし、ようやく、マリウッチャが、「カビ」と言う。「カビ?」。マッダレーナの横に座った金髪が、「毒殺しようとしてる」と言う。その嘘が、瞬く間に広がる。それを聞いたマッダレーナは、肉片を1切れ手にすると、「これはカビじゃない」(2枚目の写真、矢印)「とっても おいしいの。モルタデッラ〔ボローニャソーセージ〕っていうんだ」と言うと、口に入れる。それを見た子供たちは、手元にある物を手づかみで口に入れて食べ始める(3枚目の写真、矢印はアメリーゴ)。原作の10章の後半には、こう書かれている。「僕たちはイタリア国旗と赤い旗でいっぱいの大きな部屋に案内された。真ん中には長いテーブルがあり、チーズ、ハム、サラミ、パン、パスタなど、おいしそうな食べ物がいっぱい並んでいた」。しかし、席に座ってよく見ると、「僕たちの皿には、白い斑点だらけのピンク色のハム、柔らかいチーズ、石のように硬いチーズ、そして足の臭いがするチーズが盛られていた」。誰も手を付けないのを見たマッダレーナが、『どうしたの? お腹空いてないの?』と訊くと、マリウッチャが 『これって、古くなった食べ物じゃないわよね? だって、ハムは白い斑点だらけだし、チーズは柔らかくてカビが生えてるわ』と言い、それを聞いた金髪は、『もちろん、僕らを毒殺したいのさ』と平然と言う。「マッダレーナは白い斑点のあるハムを一切れ手に取り、口に入れた」「僕は勇気を出して、斑点のあるハムを少し食べてみた。マリウッチャとトマジーノは口をあんぐり開けた。でも、僕の顔を見て美味しいと分かったので、2人ともかぶりついた。そしたら、もう止められない。柔らかいチーズも、青カビの生えたチーズも、そして歯ごたえのある硬くて塩辛いチーズも、全部平らげてしまった」。

食事が終わると、子供たちは、自分を引き取ってしばらく面倒を見てくれる人が来るのを待っている。その数はどんどん減って行き、残ったのは、アメリーゴ、トマジーノ、マリウッチャの3人だけになる。そこに、若い夫婦が入って来て、奥さんが、マリウッチャの前に同じ目線で屈み込むと、「あなた、マリアさん?」と訊く。言葉が、モデナ訛りなので、怖くなったマリウッチャはアメリーゴに身を寄せるが、女性は、「怖がらないで。何て素敵な名前なの」と言うと(1枚目の写真)、キャンディーの入った小さな缶から1つを取らせ、「家に行きましょ。キャンディーは好きなだけ食べていいわ」と誘い、マリウッチャも立ち上がって、一緒に出て行く。原作の11章では、マリウッチャの目の高さまでしゃがみ込んだ若い女性が、『あなたの名前は?』と訊く。マリウッチャは、ナポリ訛り(マリウ)にならないよう、『マリア』と答える。『マリア。なんて素敵な名前なの』。「女性は、クッキーとキャンディーと小さなビーズのブレスレットが入った小さな缶をマリウッチャの前に置いた」。そのあとも長い記述があるが、マリウッチャは、きわめて優しい夫婦に引き取られて行く。映画に戻り、これで、残ったのは2人。アメリーゴが 「トマージ、僕たち兄弟だって言ったら、一緒に連れてってくれるかな?」(2枚目の写真)と訊くと、トマジーノは 「アメリ、北の奴らだけど バカじゃないぞ」と言う。そこに、中年の男性が一人で入って来て、「君が、トマゾか?」と訊く。「うん」。「私はリーベロだ」。「僕も自由(リーベロ)だよ」。「さあ、行こう。車で30分かかる」と言うと、着ていたコートをトマジーノに着せる。原作の11章では、白髪混じりの口ひげの男がトマジーノに近づき、手を差し出し、『私はリーベロだ。君に会えて嬉しいよ』と言い、トマジーノも、『僕は自由(リーベロ)だよ』と返事する。車で30分というのも映画と同じ。映画に戻り、こうして、アメリーゴだけが一人取り残される。建物の入口では、マッダレーナと男性と、地元代表の女性の3人がもめている。男性は、女性に、「君が、犠牲になってくれ」と言い、マッダレーナは 「ロッキさんは、来なかったの?」と両者に訊き、女性が、「ええ、でも彼女、アゴスティーナは、まさに今、出産しているところなの」と答える。この議論の間、アメリーゴは、毛布にくるまって寝ている(3枚目の写真)。原作の12章では、「トマジーノも去ってしまい、僕は木製のベンチに一人残された。きつい靴が足を締め付け、悲しみがお腹に詰まる〔感情的な苦痛の物理的な現れを指す表現〕。目もチクチクする。まるで目の奥に針が刺さっていて、涙を一粒ずつ留めているようだ。一粒でもこぼれ落ちれば、ビーズのネックレスのように全てがほどけてしまうだろう〔今にも溢れ出しそうな、張り詰めた悲しみや精神的な限界を非常に繊細に描写した比喩〕」という名文から始まる。その映像的表現が3枚目の写真ということになる。アメリーゴの引き取り手に関しては、「マッダレーナは部屋の反対側から、灰色のスカートに白いブラウス、そしてコートを着た女性と話しながら、僕を見ている。見捨てられた子供を家に連れ帰るのは彼女だろう… 共産党のバッジを付け、厳格で真剣な顔をしてるから。女性はマッダレーナの話を聞いているが、微動だにしない。マッダレーナが私を指差しても、振り返ろうともしない。それから女性は、まるで 『はいはい、私がやるわ』と言ってるように、何度か頷いた」。

結局、他に引き取り手がないということで、デルナという女性が渋々やって来て、名乗り、アメリーゴも立ち上がって名乗り(1枚目の写真、右下隅がマッダレーナ)、差し出された手を握る。デルナは、「さあ、行くわよ 坊や。もう遅いから」と言い、「寒いと分かっているのに、コートも着せずに送り出すなんて」と 誤解した批判をしながら、自分の首に掛けていたマフラーをアメリーゴの首に掛け、「荷車に毛布があって本当によかった」と言って建物を出て行く。アメリーゴは、自転車に牽かれた2輪の荷車に、毛布に包まって乗せられる。辺りは、雪で真っ白だ。自転車を漕ぎながら、デルナは、「私は、一人暮らしなの。たぶん君は、家族を望んでたんだろうね」と話しかける(2枚目の写真)。「分んないけど、一番好きな人は母ちゃんだったよ」。荷車は、一人住まいの女性にしては大きな家に入って行く〔原作では、一軒家なのだが、映画では、明確に説明されていないが、この塀の中に多くの人が暮らしているように思われる〕。原作の12章では、2人の出会いは同じだが、一番大きな違いは、自転車ではなくバスに乗ること。駅の外に出ると、「目の前には、赤煉瓦の建物群とたくさんの木々で囲まれた巨大な広場があった」。アメリーゴが 『ここはどこ?』と尋ねると、デルナは 『ボローニャよ』と答える〔当時の人口は不明だが、現在は39万人。それに対し、モデナは19万人。汽車の終着地は、県都のボローニャの方が相応しい〕。毛布などなかったので、寒くて凍えるアメリーゴは、デルナのコートの中に入れてもらう。コートがないことへの不満は映画でも使われている。「バスが来ると、デルナが切符売りに『大人1人、子供1人』と言った〔向かった先は、モデナ〕。僕たちはバスに乗り、並んで座った。新しい靴が痛い。たった1日じゃなく、1年も履いているような気がする。眠りに落ちる前に、靴を脱いで座席の下に置いた。結局、何の役に立つんだろう? 出発の前も裸足だったし、送り返される時もきっと裸足だろう」。この文章で第1部は終わる。

その夜、初めて泊った家の、初めての良質のベッドのせいか、アメリーゴは悪夢で目が覚める。「母ちゃん! 化け物だ!」の叫び声を聞いたデルナがベッドに駆け付け、アメリーゴの興奮状態を見て、水を持って来てくれる(1枚目の写真)。アメリーゴは、子守歌か、何か読んでと頼む。デルナは歌えないし、子供向きの本もないので、近くに置いてあった 「イタリア労働組合の略史」 を読む。アメリーゴはすぐに眠る。あってもなくてもいいような場面だ。原作の第2部の最初の13章でも、アメリーゴは 「母ちゃん!」と叫ぶが、それは悪夢ではなく、いつもと違い母がベッドにいなかったから。心配して見に来たデルナは、アメリーゴにいろいろな話をする。『君、マズいクジを引いたわね。私、子供のことが全然分からないの。私には子供がいないから。いとこのローザは子供が3人もいるから、扱いが上手ね』。『僕の母ちゃんにも子供が2人いたけど、苦手だったみたい』。『兄弟いるの?』。『ううん。僕一人っ子』。『明日の朝、ローザの子供たちに会いに行きましょう。子供たちは一緒にいるのが一番。きっと、好きになるわ。みんな、君とほぼ同じ年頃だから。ところで、何歳なの?』。『来月、8歳になるよ』。子供について、デルナはもう少し詳しく話す。『市長に子供を預かって欲しいと頼まれた時、怖かったから断ったの』。『あなた、子供が怖いの?』。『そうじゃなくて、どう扱っていいか分からなくて怖かったの。私は、政治、労使関係には詳しいけど、子供のことは何も知らないから』。『でも、僕を連れてきてくれた』。『私は駅に行って、全てが順調に進むよう手伝っていたの。するとクリスクオロ同志〔マッダレーナ〕から、君を連れて行くはずだった夫婦に問題があったと聞かされたのね。奥さんが早産で病院に運ばれて、誰も君を迎えに来られなかった。君がベンチに一人で座っているのを見て、連れて行こうと決めたの。でも、それが正しかったのかどうか。君には、家族の方がよかったのかもね〔前節で、デルナが「君は、家族を望んでたんだろうね」に対応する〕』。『誰も僕なんか欲しくないから、取り残されたと思ってた』。『違うわ。準備万端だったのよ。私たちは何週間もかけて準備した。どの子にも行くべき家族があったの』。『つまり、どの人も、好きな子供を選べなかったってこと?』。『当たり前でしょ。果物や野菜の市場じゃないのよ』。デルナはアメリーゴの横に寝ると、『子守唄を歌ってあげようか? 好きかな?〔映画では、「イタリア労働組合の略史」だった。上記の長い説明を省略するためだろう〕』と訊き、子守唄が嫌いなアメリーゴは、デルナに嫌われたくないので 『はい』と言う。デルナの悩み、南部の貧困を救う臨時の里親システム、アメリーゴの考え方が分かるので、少し長いが紹介した。
翌朝、アメリーゴが外を見ると、ほとんど何も見えない。アメリーゴは、ナポリ方言で、「シニョーリ、これ一体何なの?〔Ma che è, signorì?/標準語では、Ma che cos'è, signore?〕 爆弾が爆発したの?」と訊く〔映画の2節目の1944年の爆撃シーン〕。「爆弾じゃない。霧よ」(1枚目の写真)。そして、「さあ、新鮮な牛乳を取りに行きましょう。私のことはデルナって呼んでね」と言う。すぐに、大きな牝牛が現われたので、アメリーゴはびっくりする。「怖がらないで」。「怖くないよ」と言いつつ、デルナの後ろに隠れる(2枚目の写真)。「あっちじゃ、動物見たことないの?」。「ネズミ。他は みんなが食べちゃった。猫だって」。原作の14章は、「目を開けると、朝だった。ベッドの向かい側の窓からは、茶色い野原と凍った木々が見える。枝は骨のようにむき出しで、そこにはまだ数枚の枯れ葉が付いている。他に家はない」という文から始まる〔最初、霧はなかった〕。食堂に行ったアメリーゴが見た物は、「テーブルの上には、大きなミルクのカップ、厚切りのパン、赤いジャムの瓶、厚いバター、そして大きなチーズの塊が置いてあった」〔牛乳を搾りには行かない〕。そして、「僕たちは一緒に黙って食べた」。「朝食を終えると、デルナは僕に、仕事に行かなければならないが、一人にはしないと言った。彼女は、3人の子供がいる、いとこのローザの家に僕を連れて行き、用事が済んだら迎えに来ると話した」。「デルナと一緒に、僕が寝ていた部屋に入ると、空も野原も木々も、もう見えない。手で窓を拭いてみたが、何も変わらない。汚れているのはガラスではなかった。空気だ。煙がすべてを覆っている」〔急に霧が出た〕。

ローザの家〔よく分からないが、デルナの家のすぐ隣にあるらしい〕で、アメリーゴが服を着せられている。ローザは、「ルツィオ〔次男〕の服は、あなたに本当によく似合ってるわ」と笑顔で言うと、鏡で 服を着た姿を見せる(1枚目の写真)。原作の15章では、まだデルナの家。彼女は、アメリーゴに、『着替え、手伝って欲しい?』と訊く。アメリーゴは 『自分でやれるよ、ありがとう』と答える。デルナはワードローブからウールのセーター、シャツ、ズボンを取り出す。「これらは、デルナのいとこのローザの長男〔映画では次男〕の服で、これからは僕の物になる。僕は、ほとんど新品だねとデルナに言った」〔昨夜、デルナは初めてアメリーゴのことを知ったので、今朝早く、ローザの家に行き(映画と違って 隣ではない)服をもらってきたとしか考えられない〕。「机の上には、ノートが何冊かと、ペンが1本置いてある。デルナは、僕が、もうすぐ学校に行くことになると言う」。『また? 僕、もう行ったよ』。『だからこそ、行かないと。毎日よ。全部覚えた訳じゃないでしょ?』。映画に戻り、デルナは、ルツィオの服を着たアメリーゴを連れて、ローザの一家の前に連れて行って紹介する。「これがアメリーゴよ」。ローザの夫のアルチーデが、「やあ、アメリーゴ」と笑顔で言う(2枚目の写真、矢印はアメリーゴを嫌っている次男)。デルナは、アメリーゴに、「彼は、私の兄〔正しくは義兄〕のアルチーデ。そして、この子たちは私の甥っ子よ」と言うと、今度は2人の甥に向かって、「さあ、君たちも名前を言って」と声を掛ける。長男は、「僕はリーヴォだよ」と素直に言うが、次男は、最初から、生意気そう頬杖をついていて、アルチーデが促しても何も言わないので、長男が 「彼はルツィオ」と代わりに言い、アルチーデが、ローザが抱いている赤ちゃんを指して、「こっちはナリオ」と言った後で、「私が、何を思い付いたか考えてみて」と言う〔リーヴォ、ルツィオ、ナリオは、Rivo-Luzio-Nario。1つにするとRivoluzionario。“革命的な” という意味〕。自分の名前が冗談の一部だと指摘されたことで、既に、服を取られて頭に来ていたルツィオは、アメリーゴの前まで出て来ると、「それ僕のだ! 君の物じゃない!」と怒鳴る(3枚目の写真)。その態度に怒ったアルチーデは、「私たちの間では、“私のもの” や “あなたのもの” という言葉は存在しないと、何度言わせるんだ?! 所有権は持っている人にある! 今、誰が持ってる?!」と叱るように言うが、ルツィオは、「僕のだ!!」と叫んで走り去る。アルチーデは、ローザに、「君は、ファシストの息子を育ててるんだ」と不満を漏らす。そして、恥を打ち消すために、「さあ、みんな自分の役割を果たすんだ」と声をかけ、アメリーゴには、「この家じゃ、日曜日はみんなで働くことになっているんだよ」と方言を交えて教える。原作の15章は、アメリーゴがデルナと手をつないで、いとこのローザの家に向かう所から始まる。アメリーゴが、『みんながタバコ吸ってるの? 通りがほとんど見えないね』と言うと、デルナは、『煙じゃない、霧よ』と教える。ローザの家に着くと、名前の入ったドアベルを押す。『何て書いてあるの?』、『ベンヴェヌーティ(Benvenuti)』〔将来のアメリーゴの姓〕。『僕たちを歓迎するために書いてあるの?〔Benvenutiには、ようこそ、という意味がある〕』。『いいえ、私の義理の兄の名前よ』。ドアを開けたのは、長男。「彼はデルナを抱きしめ、それから振り返って僕も同じように抱きしめた。『君は汽車で来た子だね。僕は汽車に乗ったことがない。どうだった?』。『混んでた』。別の少年〔次男〕が廊下を走ってきて、『そのジャケットは君のじゃない。兄さんが去年の冬に着てたやつだ』と言う」。『僕の物、君の物… 何が違う? それは、それを必要とする人の物だ。ローザ、まさか私たちの息子をファシストとして育てたりはしないよね?』〔これは、映画にもあったアルチーデの言葉〕。ここで、ローザが口を挟む。『まだ自己紹介もしていなかったわね。私はローザ、デルナのいとこよ。あそこの口ひげの冗談好きはアルチーデ、そしてこれが私たちの3人の息子たち: 10歳のリーヴォ、7歳になるルツィオ、そしてまだ1歳にもなっていないナリオよ』。「彼らの父親は、革命家だからこれらの名前を選んだと言い、3人の子供たちを呼ぶと、リーヴォ、ルツィオ、ナリオになると言い」〔映画も同じ〕、大声で笑い始める。アメリーゴは、何を笑っているのか分からなかったが、「彼を喜ばせようと、僕も笑い始めた」。

アメリーゴは、リーヴォと一緒に納屋に行く。そこにいたのは1頭の牝牛。リーヴォは、「戦争の前は3頭いた。残りはドイツ軍に取られてしまった」と話す(1枚目の写真)。「名前はマルタ。気に入った? 僕が付けたんだ」。「マルタははらんでる。悪いのは雄牛だよ」と言って、ポンポンとマルタを叩く。アメリーゴも、近づいて触ってみる(2枚目の写真)。原作の15章の終わりに、リーヴォが『僕は牛舎で働いて、1年以上お小遣いをもらってるんだ』と言うと、ルツィオが『だから、牛の糞の臭いがするんだ』とからかう〔実に嫌な性格〕。原作の16章の初めに、リーヴォと牛について「リーヴォは牛のためにバケツで水を汲んで来る。彼は、野菜畑もあるし、牛も何頭かいるけれど、鶏はもう数羽しか残っていないとも言う。それに、乳搾りも習っているんだけど、丁寧にやらないといけないとも」という文がある。これを見る限り、映画のように、牝牛1頭だけではない。さらに、原作の17章の最後には、映画と同じように、「僕は腕を伸ばし、指先で牛に触れた。牛の毛はチーズほど柔らかくなく、近づくと古い足の匂いがした。僕はもっと近づいて、手全体で牝牛を撫でた」という表記がある。あとの章でも牝牛は何度も登場し、子牛を生み、アメリーゴと名付けられる。

納屋から卵を集めて台所に持って来たアメリーゴは、すぐそばの木製のベビーベッドで寝ているナリオに、「おチビちゃん、元気かい」と声をかける。その時、ふと上を見ると、すごく興味を惹かれたので〔何を見たのかは分からない〕、その下に置いてあった3段の木の階段の一番上まで登り、誰もいないことを確かめ、壁に設けられた木の台の上に置いてあるモルタデッラソーセージの切断面の表面を指でほじくり、かけらを口に入れる。2度目は、すべての指を使ってほじくり、穴は大きくなる(1枚目の写真)。しかし、この悪事を、窓の外から見ていた者がいた。それは、アメリーゴのことが嫌いなルツィオだった(2枚目の写真)。アメリーゴが3度目を食べていると、ルツィオが 「泥棒め! 見られてるぞ!」と叫び、驚いたアメリーゴはバランスを崩して階段から転落し、ベビーベッドにぶつかり、ナリオが泣き出す。原作の16章には、こう書かれている。「台所の隅、食器棚の後ろに、半分隠れて梯子がある。僕はそれを引き出し、壁に立てかける。僕は、梯子に登ったことがない。パチオチア〔国王の写真額の老女〕は梯子の下を歩くと不運が訪れると言う。僕は最初の段に片足を乗せて体重を支えられるか確かめ、次の段、さらに次の段と乗せていくと、いつの間にか高いところまで登っていて、自分が大きく強くなったことを実感し、一人ぼっちになったことを忘れてしまう。僕は、天井に触れてみたくて、一番上まで登る。そして、指を伸ばし、粗削りの温かみのある梁に触れる。ぶら下がっているサラミが顔に擦れ、その匂いが鼻をつき、よだれが出てくる。僕は、これほど多様な食品を見たことがない。ボローニャでもらった白い斑点のある大きなモルタデッラソーセージもある。僕は、爪でその皮を引っかき、柔らかなピンク色の肉に届くまで削り続ける。僕は、指を穴の深くまで突っ込み、引き抜いて吸う。穴に戻って同じことを繰り返す。穴が深過ぎたら、また別の穴、さらにまた別の穴を掘る」。『泥棒だ!』。「声は どこか下の方から聞こえる」。『君は、僕たちの物をみんな盗むために来たんだな!』。「僕は、踵を返してバランスを崩し、梯子から落ちてしまった。それほど高くないのに、転んで背中が痛くなる。ベビーベッドの赤ちゃんが目を覚まして泣き始める」。原作と映画がよく一致している。

アメリーゴは、悲しくなってデルナの所に戻って来る。デルナは、簡単な食事の載ったテーブルに座ると、立ったままのアメリーゴに向かって、「マッダレーナに子供を預からないかと誘われた時、私は断ったの。子供のことなんて何も知らないから。政治や組合のことなら知ってるけど、子供は駄目なの」と打ち明ける〔原作の13章で、既にデリナ言ったこと〕。それを聞いたアメリーゴは、「専門じゃないから」と言う。「どういう意味?」。「あなたには 向いてないってこと。僕、いつも 母ちゃんにそう言ってたんだ」。「なぜ? 君のお母さんはどんな人?」。「きれいだよ。男の人は気づいてたけど、母ちゃんは誰も相手にしないんだ。一緒に寝るのは僕だけ」。「じゃあ、君がいて、お母さんは幸せだね」。「でも、母ちゃんは、『僕は神の罰だ(厄介な存在)』って言うんだ」(1枚目の写真)〔これは、映画で、母がマンダレーナに言った 「見たでしょ。神の罰なの」に対応している〕。デルナは、「さあ、座って。食べて」と言う。別の日、集合住宅の中央にある通路で、アメリーゴとリーヴォは木の籠を持って外に向かい、デルナは二輪車に置いてあった紙の箱を運んでいる。アメリーゴが、リーヴォに、「デルナはどうしてお婆さんみたいに黒い服 着てるの?」と訊くと、「いつもルーポのこと思ってるから」と答える。「それ、誰?」。「ルーポは、カヴァッツォーナでドイツ軍の車列を爆破したパルチザンの英雄なんだ。彼は森に隠れてたけど、ある日、祖母に会いに行こうと山を下りたら、ファシストに捕まっちゃって、生きたままトラックに縛り付けられた。ファシストの奴らはルーポを町中引きずり回したんだ」(2枚目の写真)「デルナおばさんは、ルーポのことが頭を離れないのさ」〔原作では、22章に、「アルフェオは戦時中、勇敢なパルチザンだった。彼は刑務所に送られ、さらには追放された」という市長の言葉と、23章に、アメリーゴが、デルナについて 「アルフェオは頑固者で、簡単に諦めるような男じゃない。山岳地帯でパルチザンとして戦ってた。三つ編みの少女を逃がすわけがない」と表現する箇所があるだけ。だから、完全に映画だけの設定〕。2人が部屋に入って行くと、アメリーゴが引っかいたモルタデッラソーセージがなくなっている。それを見たアメリーゴは、部屋から飛び出していく〔警察に連れて行かれるとでも思った?/原作(28章)で、コーヒーをベッドの下に隠していたカパ・エ・フィエロについて、「また警察に連行されたの?」と母に訊く場面がある〕。走っているアメリーゴを、ローザが呼び止め、「アメリーゴ。こっちへおいで。パンの作り方を教えてあげる」と笑顔で声を掛ける。他の3人の女性たちも、「アメリーゴ、おいで。おいで」と呼び、その向こうには、真っ赤に燃えたパン焼きかまどが見える(3枚目の写真)。自分が焼いて食べられちゃうと思ったアメリーゴは、ローザに捉まれた手を払いのけ、野原に向かって逃げ出す。木の幹の裏に隠れたアメリーゴは、「かまどになんか入れられるもんか。おばあさんの言う通りだった」と怖そうにつぶやく〔原作には、モデナに来てからのアメリーゴが、こんなバカげたことを信じる場面は一切ない〕。

心配したデルナが探しに来て、「さあ、家に帰ろう」と声をかける(1枚目の写真)。アメリーゴは、「僕の家はナポリだよ」と言ったので、故郷が恋しくなったと思ったデルナは、アメリーゴを土が剥き出だしになった畑に連れて行く〔アメリーゴが着いた翌々日のはずなのに、そして、彼が着いた時 辺りは雪で真っ白だったのに、その痕跡はどこにもない。絶対におかしい〕。そして、「小麦が芽を出し、畑が黄色に染まったら、ナポリの家に帰れるわ」と言ってアメリーゴを安心させる。原作の25章は、アメリーゴが着いてから1ヶ月以上が経過し、クリスマス〔映画にはない〕も新年も過ぎてからの章だが、ローザがアメリーゴに『畑が黄色く染まり、小麦が背高に育ったら、旅立つ時が来るわね』と言い、アメリーゴがそれに対して「小麦がどれほど背を伸ばしたか、ちらりと目をやるが、まだ兆しは見えない。空気は冷たく、辺りの畑は灰色だ」と綴った箇所が、これに該当する。アメリーゴはさらに 「どのくらい時間がかかるの?」とデルナに訊く(2枚目の写真)。「もう少しすれば見えてくるわ。時間は飛ぶように過ぎるから」。そして、デルナはアメリーゴを二輪車に乗せて小学校に連れて行く(3枚目の写真、矢印はアメリーゴ)。原作には、デルナたちの家が小学校からどのくらい離れているかも、アメリーゴやローザの息子2人が、どうやって通ったかも書かれていない。

学校でのシーン。仲の悪いアメリーゴとルツィオが同じ机なので、授業中なのに喧嘩をしている(1枚目の写真、矢印)。女性の教師は、「静かになさい。戦争は終わったのよ。ここは学校でしょ」と注意する。パンを食べている子には、「パンを食べちゃダメ。片付けて」。眠っている子には、「ほら、起きて」。あるいは、「悪戯しようと鼻ほじっちゃダメよ」。注意が終わると、生徒全員に「2×7は幾つかな?」と訊く。手を上げたのはアメリーゴだけ。「スペランツァ君」。「2×7は14です」。「よくできました、スペランツァ君。君の町では、九九はもう習っていたの?」、「いいえ、先生。僕が、ナポリで靴を2足ずつ数えていたからです」。みんなが笑う。その直後に、授業が終わる鐘が聞こえ、生徒たちは教室から出て行く。すると、背が高くて生意気そうな生徒が後ろからやってきて、「おい、みんな魚臭くないか?」と手下に言い、3人が 「うぇっ、魚臭い」と言う(2枚目の写真)。生意気は、「ナポリ、魚臭いのはお前だろ。何て臭いんだ」とバカにする。そこに、アメリーゴ嫌いのルツィオが来て、「黙れ、お前の名前はベニートだろ、このファシスト野郎!」と威嚇する(3枚目の写真)。この時代、ファシストとみなされることは恥だったので、ベニートはおとなしく引き下がる。アメリーゴが、「ありがとう」とルツィオに言うが、ルツィオがアメリーゴを嫌っていることに変わりはないので〔共産主義者の息子として、ファシストがのさばるのが許せなかっただけ〕、「それにしても、君は魚臭いな」と言って出て行く。原作の18章では、フェラーリという男性の教師が、『2の段の九九を復習しよう。ベンヴェヌーティ君〔ルツィオ〕、黒板まで来なさい』と呼ぶ。しかし、ルツィオはできなかったので席に戻らされる。教師は、『2×7が何だか知っている子はいるかな?』と訊く。映画と違い、誰も返事をしない、すると。意地悪なルツィオが、恥をかせようと、『スペランツァに訊いたら?』と発言する。教師は、『スペランツァ君は新入生だ。来たばかりで、この学校に慣れてない」と言うが、ルツィオはしつこく、『これで、慣れますよ』と言う。「先生は少し迷っている。そして、僕に微笑みかける。この先生は、これまで一度も生徒を叩いたことがないんだ。『スペランツァ君、2×7が分かるかな?』。『14です、先生』。ルツィオは、僕がモルタデッラに穴を開けているところを見つけた時と同じ表情をし、まるで僕が何かを盗んだみたいに睨みつける。フェラーリ先生は驚いたみたいだが、嬉しそうだ。『よくできた、スペランツァ君。君の町では、もう2の倍数表を習ったのかい?』。『いいえ、先生』と僕は答えた。『故郷では、僕は靴を数えてました。靴はいつだって2足ずつでしょ』」。「終業のベルが鳴り、帰る時間になると、先生は教室を出るまで手をつないでいなさいと言う。僕は教室の後ろに1人でいた。すると、前に座っていた男の子の1人がやって来て、僕の手を握って 『僕、ウリアーノ』と名乗った」。この続きは、原作の20章にある。「それは最初の数日間の出来事だった。教室の後ろに座っていたベニート・ヴァンデッリが 『ナポリ』 と叫んだ。彼は僕に近づくと鼻をつまんで、腐った魚の臭いがすると言う。隣の隣に座っているウリアーノは、気にするな、去年みんながベニートを虐めたから、あんなに意地悪なんだと言った」。「翌日、ベニートが僕をまた 『ナポリ』 と呼んだ時、ウリアーノは黙れと言い、『ベニートはファシストの名前だ』と言った。ベニートは何も言わず、後ろの列の自分の席に戻った」〔映画と違い、ルツィオが助けた訳ではないが、この方が理にかなっている〕。映画とは関係ないが、さらにその続きとして、原作の22章に、「ウリアーノは熱があるから学校に来なかった。先生に、もしかしたら僕の兄さんのルイージみたいに気管支喘息じゃないかって聞いたら、おたふく風邪だって。それなら良かった。ルツィオはいつも一番前の席だし、ベニートは僕の隣に座っている。僕たち、今はうまくやってる。彼はもう僕を見ても鼻をつままなくなったし、僕は、時々算数の問題を彼に写させてあげている」。そして、この最後の文が示唆する結果として、これも映画にはないが、原作の27章に、「フェラーリ先生の算数でトップの成績」という一文がある。

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