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Il treno dei bambini 幸せの列車に乗せられた少年

イタリア映画 (2024)

この映画の主題になっている “幸せの列車” について、一番詳しいサイトは、恐らく https://storymaps.arcgis.com/stories/a601ea85a30340f5ba582d2c738c9ba9 であろう(2024年9月4日執筆)。実は、このサイトは映画に直接関するものではなく、当時のイタリアの状況について、大量のデータや写真を使って解説したものだ。まず、当時のイタリアの政治状況だが、1946年6月2日に国民投票が行われて全土で共和制の採用が宣言された。しかし、イタリアは他のヨーロッパ諸国と違い、19世紀には、バラバラの小さな共和国た公国と南半分の王国に分かれていた。従って、ナポリを中心とする南部では君主制支持派が多数を占めていたので、この決定に反発し、6月11日にはナポリのPCI〔イタリア共産党〕本部が襲撃された。サレルノ〔ナポリの東南東約50km〕でのPCIの集会中には、群衆が食べ物や熱湯を投げつけ、「Vulimmo 'o Re」〔ナポリ方言で「国王を求む」という意味〕と叫び続けたため、集会を続けられなくなった。この君主制支持派の象徴が、ナポリの貧困地区であるクアルティエーリ・スパニョーリ(Quartieri Spagnoli)に住むパキオキア映画原作に登場する〕という女性だった。

一方、“幸せの列車(Treni della felicità)” に関して言えば、“イタリア女性連合(Unione Donne Italiane)” とPCIが、イタリア全土の貧困家庭の子供たちを救済するために1945~52年に行った事業で、約7万人の子供たちが対象となった。事業はミラノで始まり、その後、南イタリアに拡大された。子供たちは、北部のエミリア・ロマーニャ州や、中部のトスカーナ州に送られ、地元の家庭で保護された。この事業の正式名称は、“イタリアの子供たちの救済運動(Movimento per la salvezza dei bambini d'Italia)” だったが、1945~62年までモデナ市長を務めたアルフェオ・コラッソーリが、モデナからナポリに子供たちを送り返す列車を、「幸せの列車」と呼んだことから、この名称が定着した。また、この取り組みは、女性によって構想・組織・運営されたもので、イタリア社会の中に女性のための新たな場所を創り出す最初の一歩となった。

ナポリに、そのための “子供救済委員会(Comitato per la salvezza dei bambini di Napoli)” が設立されたのは1946年12月19日で、最初の列車は、1947年1月28日に出発した〔委員会が設立されてからわずか40日後〕。子供たちは、出発前に医師の所に行き、医療カードを3部受け取った。1部は病院に保管し、1部は本人が携帯し、1部は到着時に向こうの委員会に渡すためだった。出発当日、子供たちは全員、“王立貧者ホスピス(Albergo dei poveri)”〔1751年に建設が始まった430室、8000人の貧しい人々を受け入れる施設〕に集められ、シャワーを浴び、“戦後援助省(Ministero per l'assistenza post-bellica)” から提供された朝食とコートを受け取った。列車に乗ると、子供たちはコートを脱いで外にいる母親たちに投げ、母親たちはそれを拾い、ナポリに残っている他の子供たちに渡した。委員会は鉄道員に列車の暖房を強めるよう、また、ボローニャとモデナの人々に子供たちが到着したらコートを配布するよう依頼した。列車は16時50分に12番線から出発した。子供たちはコートをなくし、そのため名前の入ったバッジもなくなったため、身元確認が大変な作業となった。列車は最初の停車駅であるボローニャに到着した。雪の降る中、子供たちはジュゼッペ・ドッツァ市長の歓迎を受け、食事と新しいコートを贈られた。列車はモデナへ移動し、そこでも同様の歓迎を受けた。1947年2月7日には、ナポリからモデナとボローニャへ向かう2番目の列車が出発した。2年間で合計12,000人の子供たちがナポリから出発し、15本の列車が投入された。子供たちは1947年5月15日から7月にかけて、複数の列車でナポリに帰還した

映画では、最初に「1946年」と表示される。そして、北イタリアに着いた時には雪だったので、恐らくこの1番列車を想定していたと考えられる。原作も、第1部が「1946年」と命名されている。しかし、6章でナポリを出発し、13章でモデナのデルナに引き取られて1週間ほどした21章でクリスマスを迎えている。つまり、1946年の12月25日にモデナにいたことになる。これは、最初の列車が1947年1月28日なので、あり得ない。

この映画の紹介を始める前に、サイトの表紙に書いたことを、以下に再録しておこう。映画のラストで、母に愛想が尽きた8歳のアメリーゴが家出し、それを47年後のアメリーゴが家出後に母がやったあることを見て感動しれ涙を流し、その結果として、「時には、あなたを手離す人が、あなたを引き留める人よりも、あなたをもっと愛していることがある」というコメントが表示され、最悪の母を美化する映像で幕を閉じるというラストに非常に違和感を覚えた。これに対し、まず、AIに、「映画の最後に表示されるコメントの意味」をイタリア語で問うと、「それは、真の愛とは、たとえそれが痛みを伴うものであっても、自己中心的な感情や独占欲から引き留めず、相手のためを思って手放すことが必要だという意味です……この映画では、この言葉を使って、たとえ大きな個人的な苦痛を伴っても、自己犠牲による、子供の自由と未来への支援を通して現われる母性愛の深さを讃えているのです」と表示された。そこで、映画の最後の場面を取り上げ、どこに母性愛などあるのか、間違いではないのかとイタリア語で質問すると、最後には、「あなたが感じられた “不快感” は正しく、実際には “眠っていて気づかなかった母” と “絶望して逃げた息子” という断絶こそが、この物語の真の痛みなのです」と私の不快感を肯定した上で、「なぜ誤った解釈がなされるのか」という質問に対しては、「この映画が、実際には埋まっていない親子の深い溝を、音楽と抒情的なセリフ(「目を閉じれば見える」)で強引に埋めようとしている違和感を、的確に捉えた結果だと言えます。彼女を “立派な人” として描こうとする言説は、アメリーゴが受けた孤独と拒絶の痛みを軽視していることになり、あなたがその演出に納得できないのは非常に論理的な反応です」という返事をもらった。そこで、2019年に出版された同名の原作の英語版(287ページ)の電子図書を至急手に入れ、実際にはどうなっているのかを分析するのに、数日を要した。結果として分かったことは、①映画の最後に出されるコメントは、実は映画の3分の1の辺りに書かれている一般論に過ぎなく、②47年後のアメリーゴは、母の死に淡々と向かい合い、③「母がバイオリンを質屋から出した」という記述もなかった。結論として、原作に基づいて映画化した際に(90%は原作に沿って作られている)、愚かな誰かが、映画のラストを破壊したことが判明した。

この映画は「公開」扱いだが、Netflix制作なのでDVDはないが いつでも国内で観ることができる。それに、後で気付いたが、元になった小説も日本語で翻訳出版されている。知っていれば購入して時間短縮できたのにと残念だ。

アメリーゴ役は、クリスティアン・チェルボーネ(Christian Cervone)。年齢不明。映画出演は、今のところ、これ1本のみ。

あらすじ

ここでは、ヴィオラ・アルドーネによる同名の原作(2019)と対比しながら、あらすじを紹介していく。映画は、1994年3月18日、マエストロと呼ばれるようになったベンヴェヌーティが、トリノのスカテッロ広場を歩いてレージョ劇場に向かうところから始まる(開演は20時30分)。劇場内の背後ではベンヴェヌーティの楽屋で電話が鳴り続いている。ベンヴェヌーティは急ぐことなく廊下を歩き、楽屋に入って行くと、受話器を取り上げる。「もしもし」「やあ、お母さん」「ええ、たった今、着いたところだよ。これから準備しないと」「話して下さい」「いつですか?」(1枚目の写真)「分かりました」「ええ、もちろん。そうします」「もう行かないと」「コンサートが終わったら電話するよ、お母さん」「じゃあね」。少し、ショックを受けたベンヴェヌーティがイスに座り込むと、ドアがノックされ、女性が入って来る。「今晩は、マエストロ。お仕度はお済みですか?」。彼女が 準備の手伝いをしようとしても、マエストロの様子がおかしいので、「どうされました?」と訊くと、「私の母が亡くなった」と答える。「コンサートをキャンセルしましょうか?」。「いや、いや」。「ご無理でしたら、延期されたらどうでしょう」。「問題などない。心配しないで」。そう言うと、ベンヴェヌーティは、結構殺風景な “幕の裏” から、すでに団員全員が位置に付いている舞台へと出て行く(2枚目の写真)。そして、団員にチラと合図すると、バイオリンを肩に置き、演奏を始める(3枚目の写真)。原作は、全53章で、1994年の第4部36章から始まる(章数で32%、ページ数で27%)。映画では、マエストロのシーンは、実写部分の僅か7%しかない(冒頭のコンサートのシーンだけで4.5%)。原作の36章は、ベンヴェヌーティが、ミラノにある一人暮らしの家にいる場面から始まる〔彼は結婚していない〕。電話については、こう書かれている。「夜明けに電話がかかってくる。3回目の呼び出し音で電話に出て知らせを聞いた時、これがいつか起こるかもしれないという思いが、まるで呪いのように私の人生に暗くのしかかり、ずっとそれと共に生きてきたのだと気づく。泣くことさえできない。ああ、『ついに呪いから逃げられなくなった』、としか考えられない。私は 『ええ、ええ。最初の飛行に乗ります』と言い、電話を切る。夜、一人で私は取り残され、あなたは去ってしまった。もう二度と、どんな電話にも怯えることはないだろう」。

「1944年 ナポリ」と表示される〔ナポリは、1943年9月27~30日の間に、「Quattro giornate di Napoli(ナポリの4日間」によって、既にドイツ軍を追放していた。この劇的な戦闘は、残虐なドイツ軍による18~33歳の全市民(男性)に対する強制労働命令(ドイツの労働収容所への強制移送)と、それに対するナポリ人の自発的反抗を破壊活動とみなした司令官による、逮捕、ならびに、反抗者に対する銃殺命令に対し、怒ったイタリア兵と市民が一斉蜂起して死に物狂いで闘い、ドイツの侵略軍を敗退させたもの。この戦闘からも、悪いのは、ヒットラーだけでなく、ドイツ兵すべてであったことが分かる〕。そして、市内に空襲警報が鳴り響く〔この空襲は、前記の解説により、敗退したドイツ空軍によるもの〕。1人の女性、アントニエッタ・スペランツァが、「アメリーゴ!」と叫びながら、一緒に逃げようと一人息子を捜し回っている(1枚目の写真)。しかし、その、アメリーゴは、1枚目の写真に写っている “荷物運びのための木造の二輪車” の中に隠れていて、そんな母を笑っている(2枚目の写真)。しかし、街路の100mほど先に爆弾が落ち、それとともに、建物が破壊されたことによる粉塵が降り注ぎ(3枚目の写真、矢印)、辺りが白い煙で覆われると、怖くなったアメリーゴが、「母ちゃん」と声を上げ、何とか姿を見つけた2人は喜び合う(4枚目の写真)。原作は、1946年から始まるので、この場面は映画だけのもの。

「1946年」と表示される。アメリーゴが、歩きながら、目に入る靴を見ながら、「1点」「2点」「0点」などと口ずさんでいる(1枚目の写真)〔裸足はポイントなし、サンダルは0点、傷んだ古い靴は1点、傷んでない古い靴は2点、新しい靴は星の章(Stella premio)〕原作の第1部 1章では、穴の開いた靴はマイナス1点、裸足は0点、穴のない靴は1点、新しい靴は星の賞。映画に戻り、アメリーゴは、制服を着たアメリカ女性2人の靴を見て、「“星の賞”だ!」と叫ぶと、母が、「数字なんかどうだっていい。来なさい!」と叱る(2枚目の写真)。母の背後の建物には、「P.C.I.(イタリア共産党)」の文字が入ったソ連そっくりの国旗が掲げられている〔第二次世界大戦後のP.C.I.は、反ドイツ・ファシズム抵抗運動の中心を担った実績により、広範な国民的支持を獲得し、1946年の王制廃止を問う国民投票と制憲議会選挙で、イタリア第3の党としての地位を築いた。1947年に政府から排除され野党となるが、労働組合や地方自治体(特に「赤いベルト」と呼ばれるエミリア=ロマーニャ州)に深く根を張り、イタリア最大の野党として社会に定着した(解党は1991年)〕〔因みに、後でアメリーゴが行くモデナも、エミリア=ロマーニャ州にある〕。 アメリーゴは、「10回見たら、何かいいことがあるんだ」と言った上で、「どこに連れてくの?」と訊く。すぐ前に小さな屋台のピザ屋があったので、そこかなと期待したが、母は 「アメリ、来て」と、建物の中に入って行く。建物の1階の廊下に並んだ多くの長椅子に座っている子供連れは、全員が、裸足か0点の靴ばかり。アメリーゴと母の番が来て室内に呼ばれると、2人は、後で、マッダレーナ・クリスクオロ(Criscuolo)と分かる女性の前に座わらされる。なぜ、ここに来たか分からないアメリーゴが、落ち着かずに机の上の物を触ったりするので母は止めるが、マッダレーナは、机の上に置いてあったメダルをアメリーゴに見せ、「これ、何か分かる?」と訊く(3枚目の写真)。「ううん」。「これは勇気の勲章よ。ドイツ軍はサニタ(Sanità)橋を爆破しようとしたの。でも、私たちが、そうはさせなかった。だから、これをもらったの」と話す〔右下の高架橋〕〔これは、実際にあった話で、マッダレーナ・チェラスオーロ(Cerasuolo)という有名な女性が銅メダルを授与された。名は同じで、姓も極めて似せてある〕。それを聞いたアメリーゴは、「あなたにいい靴あげた方がよかったのに。だって、その靴 穴が開いてるもん」と言い、怒ったは母は、「行くわよ」とアメリーゴに言い、マッダレーナには、「見たでしょ。神の罰なの。こんな子ほんとに欲しいの? あたしに残された唯一の家族だから、考えさせて」と言って出て行く。原作の1章では、「母ちゃんが前、僕が後ろ。どこに行くのか分からないけど、母ちゃんは僕のためだって言う」「母ちゃんは道の真ん中を歩き、決して下を見ない。僕は、足を引きずりながら点数を数え、怖くならないようにする。指で10まで数え、また最初から始める。10が10回になったら、何か素敵なことが起きるんだ」と、映画と少し違っている。2人は「大きな窓のある灰色と赤の建物」に入って行くが、向かった先は1階ではなく2階。そして、マッダレーナ・クリスクオロの前に行く。「マッダレーナは、『ナポリの4日間』の時、ドイツ軍がダイナマイトで爆破しようとしたサニタ橋を救い、銅メダルと賞状をもらったそうだ。僕は、新しい靴をもらった方が良かったにと思う。だって、彼女の靴、片方はいいんだけど、もう片方には穴が開いてるから(0点)。彼女は、僕たちが会いに来たのは、正しいことだって話してくれる」。最後に、母が言った言葉は、「本当に彼が欲しいの? このガキをご覧。神があたしたちを罰するため送った子なのよ!」だった。この部分は、映画がほとんどそのまま使っている。

建物から出る前から、アメリーゴはピザ屋に向かって走って行く。先ほどの会見で満足したのか、母は、「チチョリとリコッタ〔豚バラ肉のコンフィ(チチョリ)とリコッタチーズ〕、1つだけ」と注文し、店主は薄い紙でピザを半分くるんでアメリーゴに渡す。母は、「お前も聞いてただろ?  もう大きいんだ。8歳だから。つまり、理解しないと… いいかい、アメリ、言葉というのは…」と、うまく言葉が出てこない。アメリーゴは、「母ちゃん、苦手だから」と言う(1枚目の写真、矢印はピザ)。原作の1章では、ピザは全く同じ。その後で母の言葉は 「彼女の話 聞いただろ? お前は、もう大きいんだ。すぐに8歳だから。あたしたちの置かれている状況、分かってるわね?」と、まともに話すので、アメリーゴのちゃかす言葉はない。また、年齢について、映画では「8歳」と言っている〔この数日後の正式文書でも〕。そして、原作 と同じように「北」で誕生日を迎える。ということは、映画の方が約1歳年上ということになる〔なぜ、変えたのだろう?〕。2人が、家〔粗末で小さな貸し間〕の近くまでくると、マッダレーナがやろうとしていることに強く反対する声が、アパートの上の方から聞こえてくる。「彼らは、子供たち全員を汽車に乗せるそうよ」。「子供たちは200人だとか」。「200人? もっとよ! 貧しい子全員!」。「みんな、アメリカで働かされるわ」。「何も分かっちゃいないのね。彼らはアメリカ人じゃない、ロシア人よ」。「手や足を切り取って、オーブンに入れるのよ。可哀想な子供たち!」(2枚目の写真)。「ロシア人は、子供たちを食べるのよ」(3枚目の写真)。ここで、元国王の写真額を掲げた老女が、「子供たちを売ってはならない。尊厳の問題ですよ!」と厳しく言い放つ。それを聞いた、街路にいた物知り老女が、「共産主義者は、私たちを助けたいだけですよ。希望を与えるために」と論理的な反対論を述べる。それに対し、国王派の老女は、「彼らは神を信じない。世界をひっくり返そうとしてる!」と、ある意味正しいことを、過激に主張する。アメリーゴの母は、「なんて誇張なの!!」と叫ぶ。それを聞いた国王派の老女は、「アントニエッタさん、あんたも息子を売ったの? あんたが、そんなことをするとはね」と批判する。原作の2章では、この部分は、「子供たちを列車で移送するニュースが報道されて以来、近所は騒然としている。みんな、それぞれ違うことを言う。『僕たちを売ってアメリカで働かせる』。『僕たちをロシアに連れて行ってガスで殺す』。『悪い子は追い出し、良い子はそのまま残す』など」という記述と、近所の人の紹介で、「近所でとても尊敬されている厳格なパチオチアは、イタリアに王様がいた頃はこんなことはなかった、母親が子供を売ったりはしなかったと言う。今はもう “そんげん”〔アメリーゴが理解できない単語〕 なんてなくなったとも」という記述に分かれている。

家に戻ったアメリーゴは、母に、「ほんとに僕をロシアに送りたいの?」と訊く。「ロシアだって? 勘違いするんじゃないの!」。「アメリカに行って、父ちゃんに会いたい」。「お前の父さんは立派な人よ」。「いつ戻るの?」。「戻るわよ、遅かれ早かれ」。原作の2章では、その前に自己紹介がある。「僕の名前には “希望” が込められている。だって、アントニエッタ母ちゃんと同じスペランツァ(Speranza、希望)という名前だから。僕の名前はアメリーゴ・スペランツァ。母ちゃんは父ちゃんが僕の名前を決めたと言ってる」。映画に戻り、翌朝、アメリーゴが母に言いつけられた仕事〔恐らく、拾ってきた “捨てられたタバコ” から、タバコの葉を集める作業〕をしていると(1枚目の写真、矢印がタバコ(?))、そこに、カパ・エ・フィエロという男が入って来る。それに気付いた母が挨拶に出て来る。「何か、ご入り用ですか?」。「2袋」。母は、ベッドの下から5kg米くらいの袋を2つ取って来てアメリーゴのタバコの山の横に置く。カパ・エ・フィエロは、「迷惑をかけました」と丁寧に言って お金を渡す。母は、「ご心配なく。ベッドの下に場所はまだあります」と答える。「ベッドの上に、空はありますか?」。母は、木を編んだ籠を渡し、「お行き。空のカゴを持って帰って来るんじゃないよ」と言って、アメリーゴを追い出す。閉まったカーテンからは、2人が抱き合う影が見える。ここまでの一番不満な点は、袋の中身が何か、最後まで示されないこと。原作の2章では、「アントニエッタ母ちゃんは、僕が商売について話すのを嫌がる。僕は、カパ・エ・フィエロがベッドの下にコーヒーの袋を隠していることは誰にも黙ってる〔後で、コーヒーは密輸されたもので、そのため、カパ・エ・フィエロは警察に連行される〕。カパ・エ・フィエロが、母ちゃんと親密な関係にあることも黙ってる。彼、奥さんに何て言ってるんだろう? 彼が来ると、母ちゃんは僕を外に送り出す。僕は、外に出て、ぼろ布、残り物、アメリカ兵が捨てた服、ノミだらけの汚れたぼろ布などを探しに出かける」「母ちゃんは、彼は僕たちに食べ物を与えてくれるし、何より重要な地位の人たちと知り合いだから、敬意を払うべきだと言う」。そして、映画では、アメリーゴが、初めて登場する親友のトマジーノと一緒に、「古いシーツ! 何でも持ってくよ!」と言いながら、路地を歩いていく姿が映る(3枚目の写真、矢印は)〔それにしても、飢餓でやせ細ったように見えるアメリーゴ役の子役、これで健康が保てるのだろうか?〕原作との唯一の違いは、3枚目の写真の矢印の2人の足。2人とも靴を履いていない。しかし、原作の1章の最初に、「僕は自分の靴を持ったことがない。他人の靴を履いているので、いつも痛い。母ちゃんは、僕が真っ直ぐ歩けないと言うが、僕のせいじゃない。問題は、他人の靴にある。靴の形は、前にその靴を履いていた人の足の形なんだ。歩き方には癖があり、歩く道も違い、遊び方も違う。靴は、ちょっとずつ僕に慣れて来るが、僕の足も大きくなり、靴は小さくなり過ぎ、振り出しに戻っちゃう」と言う記述があり、これを見る限り、アメリーゴは常に靴を履いていたことになる。

トマジーノは、「もし、君んちにお金があったら、君を 共産主義者のとこには連れてかなかったろうね」と言うと、「今年は、父さんが、僕をイスキア島に連れて行ってくれるんだ」と自慢げに追加する〔イスキア島は、ナポリの海岸沿いの卵城の西南西約30kmにある〕原作の4章に、トマジーノが、「アメリ、もし、僕らがお金をいっぱい稼げれば、君は共産主義者と一緒に北へ行かなくてすむ」という言葉があるが、これは、映画の発言より遥かにアメリーゴに好意的。しかし、その直後の、「僕たち今年の夏はどこへ行くと思う? イスキア島だ」は、映画もそのまま採用している〔後で、理由が分かる〕。そのあと、2人は、屋台が並んでいる場所に行き、パンが並んでいる店まで来ると、悪賢いトマジーノが、「泥棒だ!」と叫ぶ。店主やお客が、彼の指差した方に向いている間に、トマジーノはパンを1個くすねる(1枚目の写真、矢印)。これは、映画だけのシーン。次の店では、小さな籠に入ったハムスターのような真っ白な小動物が、毛皮用に3匹250リラで売られていて、2人は興味津々で見ている(2枚目の写真)。これも映画だけのシーン。次の節で、この小動物をヒントにした悪徳商売を2人で始めるが(こちらは原作にある)、それの前哨戦のようなもの。その夜、1つしかないベッドで、母とアメリーゴが寝ている姿が初めて映る(3枚目の写真)。アメリーゴが足が冷たいと言うと、母は、アメリーゴの足を中から出して両手で擦って暖める。これも映画だけ。

翌日、アメリーゴとトマジーノが、フォンタネッレ墓所(無名の死者の納骨堂)でチャンバラごっこをして遊んでいると、祈りに来ている老夫人から叱られる。何もすることがなくなったトマジーノが、骸骨に添えられたコインを盗んでいると、アメリーゴが 「何してる? 死者から盗むのは罪だぞ」と たしなめると、トマジーノは 「もう死んでる。だから何も買わなくていいんだ。僕が持ってた方がいい」と、平気で言う。すると、骸骨の中からネズミが現われる。それを見た アメリーゴは、「このネズ公、どう思う?」とトマジーノに話しかける。「ただのネズ公だ。気持ち悪い」。アメリーゴは、「いいや、これは、お金だ」と言うと、ネズミのしっぽを持って笑顔になる(1枚目の写真)。この墓所やそこで交わされた言葉は、原作には一切ない。2人は街に戻ると、マリウッチャという年下の少女に頼んで、父親がやっている靴屋から、白い靴墨を1缶盗んで来てもらう(1枚目の写真、矢印)。マリウッチャ:「お父さんに見つかったら殺されちゃう」。アメリーゴ:「ありがとうマリウッチャ、完璧だ」。マリウッチャの様子が変なので、さらに、「どうかしたの?」と訊く。「お父さんは、わたしを共産主義者の汽車に乗せるの。兄ちゃんたちは店で働いてるのに、わたしは何の役にも立たないから。パスタ2皿温めることさえできないの」「でも、手を切り落されちゃう」。トマジーノ:「違うぞ。オーブンに入れられるんだ」。2人は、屋台の並んでいる所に行き、靴墨を塗って白くしたネズミを籠に入れ、1匹100リラで女性に売る(2枚目の写真、矢印)。しかし、運の悪いことに急に天気が急変し、大粒の雨が降り出す。ネズミに塗った靴墨は、どうどん落ちていく(3枚目の写真)。さっき買ったばかりの女性も、「何よこれ、ネズミじゃないの!」と籠ごと投げ捨て、「泥棒よ! 詐欺師だわ! 警察呼んで!」と叫ぶ。トマジーノはいち早く逃げ出すが、アメリーゴは何人かの大人に捕まってしまう。しかし、そこに現れた背広姿のカパ・エ・フィエロが介入し助けてくれるが、アメリーゴは彼が嫌いなので嬉しくない(4枚目の写真)。原作の4章には、「僕が捕まえたドブネズミのしっぽを切り落として 靴墨で茶色と白に塗ると、アメリカ軍の将校のハムスターそっくりになる。商売は順調で、僕とトマジーノには常連客もできる。もしあのひどい雨さえ降らなければ、今頃は金持ちになっていたのに」。「気づかないうちに靴墨は流され、ハムスターはネズミに戻っている。籠の周りにいた女性たちが叫び始める。『きゃあ! コレラになっちゃう!』。女性たちの夫たちが僕たちをボコボコにしてやると取り囲んだので、逃げることもできない」。ここで、カパ・エ・フィエロが介入し助けてくれる。順序が逆になるが、原作の5章に、初めて「マリウッチャという名の、髪の短い痩せた少女」が登場する。「マッダレーナが汽車について話しに行った時、靴屋はマリウッチャを送り出すことにしたんだそうだ。他の子たちは全員男の子で 店の手伝いに役立ったのに、マリウッチャは女の子なのに 残ったマカロニを温めることもできず役立たずだったから」と書かれおり、映画はそれを踏襲している。

アメリーゴが家に戻ると、説得に来たマッダレーナが母に、「アントニエ、あなたは一人なの。だから、できっこない」と言っている。そして、アメリーゴを見つけると、「汽車は楽しいわよ。それに、北では、君たちを まるで自分の子のように扱ってくれる。食べ物や服、それに新しい靴だってもらえるのよ。待ってるわ」と声をかけて(1枚目の写真)、出て行く。母が、「どうしたい?」とアメリーゴに訊くと、彼は 「もし新しい靴をくれるなら、共産主義者のところまで歩いていくよ」と答える。そして、翌日、母とアメリーゴは共産党の建物に行き、順番を待って、写真を撮る(2枚目の写真)。その奥には、たくさんのテーブルが並び、北に行く手続きを取っている。母とアメリーゴが座ったテーブルの係は男性で母にいろいろと質問する。「お子さんの姓は?」。「スペランツァ」。「名は?」。「アメリーゴ」(3枚目の写真)。「年齢は?」。「8歳」。「どこに住んでますか?」。「ナポリ」。「どこ?」、「この近く」。「何年生ですか?」。「行ってません。この子バカだから」。それを聞いたアメリーゴは、「バカじゃない。僕、3年生になるはずだった。10の10倍(100)まで数えられるよ」と反論する。「兄弟は?」。アメリーゴ:「ルイージ。死んじゃった」。母:「3歳。喘息が、わずか1ヶ月で命を奪ったの… 何て病気だったかしら?」。「気管支喘息?」。「ええ。同じ目に遭わせたくないの」。原作の3章では、共産党本部の1階に2人は行く。そこでいろいろなことを訊かれ〔何を訊かれたかは書いてない〕、最後に母にペンが渡され、サインするよう求められるが、字の読み書きができない母は、顔を赤くして、“少し歪んだバツ印” を書く。また、写真を撮るのは、原作の5章に、『お母さんはお子さんを前にして一列に並んで、写真を撮りましょう』、と母子全員が並んだ写真を撮る一文がある。

そのあと、子供たちは、シャワー室に連れて行かれ、汚れた体をきれいに洗う。隣のシャワー室にトマジーノがいるのを見つけたアメリーゴは、「トマジーノ、何 待ってるんだ、イスキア島行きの蒸気船か?」と、からかう(1枚目の写真)。原作の4章では、アントニエッタとアメリーゴのように汽車に乗る母子は、全員が王立貧者ホスピスに行かされる。「『母ちゃんは、北へ連れて行く前に、僕らが健康か病気か、伝染病を持っていないか調べる必要があるから、ここに来たんだと言う』『それに、北の国はここと違うから、暖かい服、コート、靴も渡してもらえるの。あっちは本格的な冬なのよ』。〔アメリーゴ:〕『新品の靴?』。『新品、もしくは、新品同様の中古品』。母ちゃんが僕の腕をつかむまで、僕はぐるぐる飛び跳ね始める」。この文のすぐ後に、「2列後ろにはトマジーノがいた。『ねえ、トマジー』と、僕は声をかける。『イスキア島行きの蒸気船を待ってるの?』」という一文がある。そして、原作の5章の前節で引用した全員写真の後、子供たちは、全員、大きなシャワー室に連れて行かれる。「マッダレーナは、僕たち3人〔トマジーノ、マリウッチャ〕を別の部屋に連れて行く。そこには天井から水を噴き出すパイプが走っている。雨みたいな感じだけと、熱い」「マッダレーナがスポンジと石鹸を持って近づいてきて、僕を甘い香りの泡で覆ってくれる」「マッダレーナは残りの2人を泡立てて洗い、それから僕たち全員をざらざらした白いシーツで包んでくれる」「シャワーのあと、マッダレーナは僕たちを別の部屋に連れて行く。そこには、既に体を洗ってもらった子供たちが全員、ざらざらした白いシーツで包まれ、木製のベンチに座っている」。そのあと、子供たちには、これから診察する医者から渡されたパンが1個ずつ配られる。診察に関する文はない。映画でも、シャワーが済んだ子供たちは、白いシーツで体を覆い、木のベンチに座っているが、医者の診察はない。代わりに、マッダレーナは、「汽車が君たちを待ってるよ。さあ、靴を履いて」と声をかける。アメリーゴは、待ってましたとばかりに、喜んで靴を履く。マッダレーナは、なぜか、「アメリーゴ、その靴、足に合ってる?」と訊く。「完璧だよ。大丈夫」。「少し小さくない?」。「ううん、大丈夫」(2枚目の写真)。この靴に関しては、原作の6章で、全員に靴が配布された時、「ところが、僕の番になったとき、マッダレーナが僕のサイズが品切れになったと告げる。僕は、靴紐のついた真新しいピカピカの茶色の靴をもらったけど、ワンサイズ小さな靴だ。『足に合ってる?』。僕は、靴を履いて歩いてみたり、数歩行ったり来たりしてみたが、やっぱりきつい。だけど、取り上げられるのが怖かったので、『大丈夫』と言って、そのまま履き続ける」。しかし、このため、映画にはないが、原作の9章の汽車の中で、アメリーゴが泣いているシーンがある。マッダレーナが、『どうして泣いているの? お母さんが恋しいの?』とアメリーゴに訊くと、『ううん、靴なんだ。きつすぎるから』と答える。映画に戻り、子供たち全員は、マッダレーナに誘導されて汽車に向かう(3枚目の写真)。因みに、この駅は、ガリバルディ広場駅(ナポリ中央駅)。

以前、アパートの上で元国王の写真額を掲げて、「子供たちを売ってはならない」と叫んだ老女が、子供たちを見送りに来た母親たちの前に行くと、「あなた方の子供を売ってはいけない。奴らに 言葉巧みに言いくるめられたのだ。子供たちはシベリアに連れて行かれる。そこで、奴らが何をするか知ってるかね? 奴らは 子供たちを大きな鍋の中に入れて茹でるんだ。そして、骨の髄までしゃぶるのさ!」と、嘘で扇動する(1枚目の写真、矢印)。似たような女性が何人も、このありもしない主張に賛同する。それに対し、マッダレーナは、「何が真実よ。とんでもない。信じてはいけない」と否定する。しかし、老女は止めない。「真実よ。生きて帰ってきた者たちが、私たちにそう言ったから」。「バカなこと言わないで。すべて嘘よ。黙りなさい!」。「あの者どもは神の子ではない。野獣だよ!」。「あんな女の言うとは聞かないで、全部嘘よ」。「太らせて、食べるんだよ!」。この最後の言葉を聞いて、子供たちが一斉に走り出し、母親の元に逃げ込む。こうなると、混乱は止まらない(2枚目の写真)。アメリーゴですら、母に、「新しい靴のことなんか、どうだっていい。もう行きたくない」と言い出す。ここで、以前、写真額の老女に反論した、物知り老女が声を上げる。「あの女(ひと)の言うことは聞かないで。 子供たちは 暖かい所に行き、優しく養われ、世話されるでしょう。トラコーマ、リウマチ、コレラによって、どれほど多くの人が命を落としたことか。子供たちのことを考えてあげて。子供たちの将来のために。この素晴らしい機会を子供たちから奪わないで!」。それに続き、マッダレーナが、「私はドイツ兵を追い払うために、機関銃を手に取って発砲した。私は、11歳になる甥のジェンナリーノが、ドイツの戦車に手榴弾を投げつけた後、地面に倒れて死んでいるのも見た。私は、もう二度と、銃弾で死んだ子供たちを見たくないと思った。もうたくさんです! これは、飢餓との、また別の戦いなんです。私たち女性が、自分の子供たちの面倒を見なければ、誰も見てくれないのです。私はあなた方と同じくらい、子供たちを愛しています。そして、必ず子供たちを連れ帰ります。名誉にかけて!」。そう言うと、右手を上げる(3枚目の写真)。原作では、子供たちが汽車に乗る時に、こうした大混乱が起きるわけではない。原作の4章で、パチオチアとその賛同者たちが、元国王の写真額を掲げ、街頭で行進をする場面がある。老女は、『子供を売ってはいけない。奴らの口先に あなたたちは惑わされているが、真実はこうです。奴らは子供たちをシベリアに連れて行き、寒さで死ななければ、働かせるつもりなんです』『子供たちを離してはいけない! 二度と戻らないでしょう。爆撃下にいたあの頃のように、子供たちをしっかりと抱きしめなさい。あの時、あなたこそが子供たちを守る全てだったように。神の御加護があなた方と共にありますように』と主張する。それに対し、マッダレーナは、原作の5章での街頭演説で、『ドイツ軍を追い出した時、私たち女性も役割を果たしました。母も娘も妻も、老いも若きも、街へ繰り出し、男たちと共に戦いました。あなたもいたし、私もいた。今度は別の戦いですが、敵はより危険なもの、飢えと貧困です。今戦えば、あなたの子供たちが何か意味のあるものを得ることになるでしょう!』『子供たちは、よりふっくらと美しくなって戻ってきます。そしてあなた方は、今日まで続いた果てしなき苦労から解放され、安らぎを得られるでしょう。再び子供たちを抱きしめる時には、あなた方もまたふっくらと美しくなっているはずです。私自ら 子供たちを連れ戻します。私の名マッダレーナ・クリスクオロの名誉にかけて、必ず実行すると誓います』と訴える。それに対し、パチオチアとその賛同者たちは国歌を歌い、『国王万歳!』と叫ぶ〔1931年に亡命したアルフォンソ13世を、15年経っても讃えるとは、時代錯誤も甚だしい〕

マッダレーナの誓約を聞いた母親たちは、子供たちを汽車に乗せ始める。アントニエッタもアメリーゴを、「お行き」と言って、客車の扉に向かって押し出す(1枚目の写真)〔乗る列車は手前で、背後のオレンジ色の車両ではない〕。列車に乗り込んだ子供たちは、窓から手を出して母親や父親と手を取り合っている。列車の中で、トマジーノ、マリウッチャに出会ったアメリーゴは、「旅の間、ずっと一緒だ」と喜ぶ〔他は、見知らぬ子ばかり〕。そのうち、子供たちは、ナポリの共産党から全員に配られた寒地用のコートを次々と脱ぎ、窓から親に渡し始める。アメリーゴが、トマジーノに訳を訊くと、「約束したんだ。コートは兄弟に残しておく」「共産主義者たちは、もう1着くれるさ。とっても金持ちだから」と言われる。1人っ子のアメリーゴも、母にあげることにする。ここで、列車がもう一度映り、多くの子供たちが脱いだコートを親に渡している(2枚目の写真)。母にコートを渡したアメリーゴは、悲しそうに母を見ている(3枚目の写真)。原作の6章では、男の子たちについて、「トマジーノや他の男の子たちは皆、髪を切られ、半ズボンに厚手の靴下、ウールの肌着、シャツ、そしてコートを着ている。僕の髪はそのままだ。だって、僕の頭はメロンみたいに丸刈りにされているから〔なぜ、母がそんなことをしたのかは分からない。頭シラミのためではない〕」と書かれているので、男の子たちの姿は映画とはかなり違っている。列車に乗るシーンは、さらに違っている。「僕たちは、列車の前に一列に並ばされ、指示を与えられた: 何も汚さない、大声を出さない、窓を開けない、靴やズボンを交換しない、三つ編みをほどかない」。「シニョリーナたちは 僕たちのコートにピン留めされた番号を確認し、リストから僕たちの名前を読み上げる。僕の番になると、シニョリーナの一人が 『アメリーゴ・スペランツァ』と声をかける。三段の鉄の階段を登ると、僕は列車の中に入っていた。外から見た時は大きかったが、中は狭くて窮屈で、鉄の取っ手で開け閉めする扉が一つずつあるコンパートメントが、ずらりと並んでいた」。「マリウッチャとトマジーノも僕の後に登ってくる」。「シニョリーナたちは名前を呼び続け、列車はゆっくりと子供たちでいっぱいになる」。以上の記述からわかるように、子供たちが列車に乗る時に 反対派による妨害は一切ない。しかし、ここから先は映画と似ていて、子供たちは窓から手を出して親と握手しようとし、そのあと、コートを脱いで窓から親に渡す。唯一の違いは、映画では、1人だけコートを脱がなかったマリウッチャ〔自分を役立たずにした兄たちに渡したくなかった〕が、コートを脱ぎ、トマジーノが言った台詞と似た、『共産主義者は、わたしたちにもう1着コートをくれるわ。だって、彼らは金持なんだもん』を口にする。それを聞いたアメリーゴは、母にコートを投げる。この異常な事態に、原作の6章では映画よりも早く対処する。すなわち、列車が駅を出る前に、ヒーターカーを連結させることにした〔自力で蒸気を発生させることができない機関車に牽引される列車に蒸気暖房を供給するために設計された移動式暖房装置〕。これなら、コートがなくても車内で凍えることはない。

汽車が走り出した後で、マリウッチャがコートを捨てなかったとアメリーゴに話し、アメリーゴは、「母ちゃん、売っちゃったに違いない」と言って、シャツに手を当てる。そしてハッと気付くと、「コートの番号!」と叫んで立ち上がる〔コートには、識別番号が付いていた〕。マリウッチャが 「どうやって、あなただって見分けるの?」と訊く。「わざとやったんだ! 二度と会えないようにするために!」と、金髪の少年が悪意を込めて言う。隣に座っていたトマジーノが、「何、言ってんだ?」とバカにすると、金髪は 「ロシア人は、子供たちの手を切断する」と、老女の言ったことをくり返す。アメリーゴ:「バカげてる! 母ちゃんは、しばらく北に行きなさいって 言ったんだ」。金髪:「信じ込ませるためさ」。それを聞いたマリウッチャは、「手を切られちゃうなんて怖い!」と言い、これを聞いた、その辺の子供全員が、「降りたい!」と叫ぶ(1枚目の写真)。原作の7章の冒頭に、これと同じ状況がある。『コートなくなっちゃったけど、どうやって わたしたち見分けるの』と、マリウッチャが心配する。『わざとやったんじゃないかな。きっと彼らは僕たちの母さんたちに コートを持ってくよう言ったに違いない。そうすりゃロシアに着いた時、僕たち、もう誰だか分からないだろ。ロシアじゃ、朝食に子供を食べるって知ってたか?』と、金髪の少年が言う。アメリーゴは、『ロシアに行くなんて誰が言ったんだ?  北イタリアに行くって聞いたぞ』と反論する。『北イタリアってのは、母さんたちを説得するためだけさ。ほんとはロシアに連れてかれて、氷のベッド、氷のテーブル、氷のソファのある氷の家に入れられるんだ〔彼は、この先も、ずっと悪意を持ち続ける〕映画では、ノートを持った男性の党員が入って来て、全員に座るよう命じ、一人一人、名前を訊き、ノートを見て番号を調べ、その番号を腕にペンで書いて行く(2枚目の写真、矢印)。原作の7章の後半で、マウリツィオという男性党員が、子供たちの名前を訊き、その名前をカードに書き、カードをシャツの袖にピンで留める。しかし、金髪の少年は聾唖のふりをする。マウリツィオはうんざりして次の車両へ行く。トマジーノが、聾唖のふりの理由を訊くと、「禁制品を扱う者は、名前も住所も家族のことも絶対に誰にも言うなって、母さんが教えてくれた」と言うので、犯罪者の息子だと分かる。映画では、夕方になり、子供たちが眠り始めると、毛布が配られる。アメリーゴは、盗まれるといけないので、靴を履いたまま寝てしまう(3枚目の写真)。原作の8章では、暖房が入っているので毛布は配られない。アメリーゴがウトウトしていると、汽車が急停車し、子供たちは座席から投げ出され、電気も消えて真っ暗になる。原因は、子供たちの誰かが警報装置を鳴らしたため。マッダレーナは、金髪の少年を疑うが、横に座っていたトマジーノが否定する。お陰で金髪は救われるが、すかさず、『列車を止めるレバーはどれ? 赤いレバー?』とマッダレーナに訊き、『私は、君に教えるほど馬鹿じゃない!』と蔑まれる。原作の9章には、「列車は時折停車し、また子供たちが乗り込んでくる」と書かれている。そして、3つ前の節で引用した、“座席に座ったまま泣いているアメリーゴが、靴のきつさをマッダレーナに話す” 場面もここにある。

翌朝、窓の外は真っ白な雪景色。最初に、窓の外を見たマリウッチャは、「見て、なんてたくさんのミルクなの」と言う。そこにやってきたトマジーノが、「ミルク? あれは砂糖だよ」と言う。そこに、アメリーゴが寄って来て、「2人とも 何言ってるの? 雪だよ」と教える(1枚目の写真)。原作の10章では、最初に気付いたのは、アメリーゴ。『雪が降ってる!』と大声で叫ぶ。誰も起きず、アメリーゴも再び眠る。次にアメリーゴを起こしたのは、マリウッチャ。彼女は、『あちこち、リコッタチーズだらけ!』と叫ぶ。アメリーゴは 『マリウ、あれはクリームでもリコッタチーズでもない。雪だよ』と教える。『雪?』。『凍った水』。マッダレーナが、『雪、見たことがないの?』とマリウッチャに訊き、マリウッチャは首を横に振る。アメリーゴは、『北の人たち、僕らが行くの喜んでるの?』と質問する。『喜んで迎え入れてくれるわ』。『僕たちが、食べ物全部食べちゃうのに、どうして喜ぶの?』。『それが、あの人たちの “れんたいかん” の示し方だからよ』。『それって、“そんげん” 、みたいなもの?』。「マッダレーナは、連帯は他者に対する尊厳のようなものだ言う」。マッダレーナとの話に、マリウッチャとトマジーノも参加し、話題は広がって行く。そして、「愛」が話題になった時、マッダレーナはこう説明する。『愛にはいろいろな側面があるの。君たちが考えているものだけじゃなく。例えば、厄介者の君たちと一緒にいることだって、愛なのよ。そして君たちのお母さん。君たちを、列車に乗せて遠くのボローニャやリミニ、モデナへと送り出した… それも愛なのよ』。アメリーゴは、『どうして? あなたを追い払う者いたら、それでも愛してると言えるの?』と訊く。それに対するマッダレーナの重要な返事。「アメリーゴ、時には、あなたを手離す人が、引き留める人よりも、あなたをもっと愛していることがあるの」。これは、映画の最後に提示される “総括文” と同じだ。この “総括文” は、一旦ナポリに帰ったアメリーゴを、再度手放し、偉大なバイオリニストにした母を褒めているかのように(間違って)使われている。しかし、実際は、最初に手放した全母親を指した言葉に過ぎない。映画では、「雪」のあと、すぐにモデナ駅での盛大な歓迎シーンに変わる(2・3枚目の写真)。原作の10章では、「駅に着くと、楽団が演奏していて、白い旗が掲げられていた」から始まり、集まっていた、地元の共産党員とその奥さんたちの歓迎ぶりが簡単に書かれている。

列車を降りた子供たちは、大きな食堂のような場所に連れて来られ、テーブルには北部の豊富な食べ物がたっぷり盛られている。しかし、誰も食べようとしない(1枚目の写真)。マッダレーナが、「どうしたの?」と訊いても、誰も、食べない理由を話さない。しかし、ようやく、マリウッチャが、「カビ」と言う。「カビ?」。マッダレーナの横に座った金髪が、「毒殺しようとしてる」と言う。その嘘が、瞬く間に広がる。それを聞いたマッダレーナは、肉片を1切れ手にすると、「これはカビじゃない」(2枚目の写真、矢印)「とっても おいしいの。モルタデッラ〔ボローニャソーセージ〕っていうんだ」と言うと、口に入れる。それを見た子供たちは、手元にある物を手づかみで口に入れて食べ始める(3枚目の写真、矢印はアメリーゴ)。原作の10章の後半には、こう書かれている。「僕たちはイタリア国旗と赤い旗でいっぱいの大きな部屋に案内される。真ん中には長いテーブルがあり、チーズ、ハム、サラミ、パン、パスタなど、おいしそうな食べ物がいっぱい並んでいる」。しかし、席に座ってよく見ると、「僕たちの皿には、白い斑点だらけのピンク色のハム、柔らかいチーズ、石のように硬いチーズ、そして足の臭いがするチーズが盛られている」。誰も手を付けないのを見たマッダレーナが、『どうしたの? お腹空いてないの?』と訊くと、マリウッチャが 『これって、古くなった食べ物じゃないわよね? だって、ハムは白い斑点だらけだし、チーズは柔らかくてカビが生えてるわ』と言い、それを聞いた金髪は、『もちろん、僕らを毒殺したいのさ』と平然と言う。「マッダレーナは白い斑点のあるハムを一切れ手に取り、口に入れた」「僕は勇気を出して、斑点のあるハムを少し食べてみる。マリウッチャとトマジーノは口をあんぐり開ける。でも、僕の顔を見て美味しいと分かったので、2人ともかぶりつく。そしたら、もう止められない。柔らかいチーズも、青カビの生えたチーズも、そして歯ごたえのある硬くて塩辛いチーズも、全部平らげてしまう」。

食事が終わると、子供たちは、自分を引き取ってしばらく面倒を見てくれる人が来るのを待っている。その数はどんどん減って行き、残ったのは、アメリーゴ、トマジーノ、マリウッチャの3人だけになる。そこに、若い夫婦が入って来て、奥さんが、マリウッチャの前に同じ目線で屈み込むと、「あなた、マリアさん?」と訊く。言葉が、モデナ訛りなので、怖くなったマリウッチャはアメリーゴに身を寄せるが、女性は、「怖がらないで。何て素敵な名前なの」と言うと(1枚目の写真)、キャンディーの入った小さな缶から1つを取らせ、「家に行きましょ。キャンディーは好きなだけ食べていいわ」と誘い、マリウッチャも立ち上がって、一緒に出て行く。原作の11章では、マリウッチャの目の高さまでしゃがみ込んだ若い女性が、『あなたの名前は?』と訊く。マリウッチャは、ナポリ訛り(マリウ)にならないよう、『マリア』と答える。『マリア。なんて素敵な名前なの』。「女性は、クッキーとキャンディーと小さなビーズのブレスレットが入った小さな缶をマリウッチャの前に置く」。そのあとも長い記述があるが、マリウッチャは、きわめて優しい夫婦に引き取られて行く。映画に戻り、これで、残ったのは2人。アメリーゴが 「トマジー、僕たち兄弟だって言ったら、一緒に連れてってくれるかな?」(2枚目の写真)と訊くと、トマジーノは 「アメリ、北の奴らだけど バカじゃないぞ」と言う。そこに、中年の男性が一人で入って来て、「君が、トマゾか?」と訊く。「うん」。「私はリーベロだ」。「僕も自由(リーベロ)だよ」。「さあ、行こう。車で30分かかる」と言うと、着ていたコートをトマジーノに着せる。原作の11章では、白髪混じりの口ひげの男がトマジーノに近づき、手を差し出し、『私はリーベロだ。君に会えて嬉しいよ』と言い、トマジーノも、『僕は自由(リーベロ)だよ』と返事する。車で30分というのも映画と同じ。映画に戻り、こうして、アメリーゴだけが一人取り残される。建物の入口では、マッダレーナと男性と、地元代表の女性の3人がもめている。男性は、女性に、「君が、犠牲になってくれ」と言い、マッダレーナは 「ロッキさんは、来なかったの?」と両者に訊き、女性が、「ええ、でも彼女、アゴスティーナは、まさに今、出産しているところなの」と答える。この議論の間、アメリーゴは、毛布にくるまって寝ている(3枚目の写真)。原作の12章では、「トマジーノも去ってしまい、僕は木製のベンチに一人残される。きつい靴が足を締め付け、悲しみがお腹に詰まる〔感情的な苦痛の物理的な現れを指す表現〕。目もチクチクする。まるで目の奥に針が刺さっていて、涙を一粒ずつ留めているようだ。一粒でもこぼれ落ちれば、ビーズのネックレスのように全てがほどけてしまうだろう〔今にも溢れ出しそうな、張り詰めた悲しみや精神的な限界を非常に繊細に描写した比喩〕」という名文から始まる。その映像的表現が3枚目の写真ということになる。アメリーゴの引き取り手に関しては、「マッダレーナは部屋の反対側から、灰色のスカートに白いブラウス、そしてコートを着た女性と話しながら、僕を見ている。見捨てられた子供を家に連れ帰るのは彼女だろう…  共産党のバッジを付け、厳格で真剣な顔をしてるから。女性はマッダレーナの話を聞いているが、微動だにしない。マッダレーナが私を指差しても、振り返ろうともしない。それから女性は、まるで 『はいはい、私がやるわ』と言ってるように、何度か頷いた」。

結局、他に引き取り手がないということで、デルナという女性が渋々やって来て、名乗り、アメリーゴも立ち上がって名乗り(1枚目の写真、右下隅がマッダレーナ)、差し出された手を握る。デルナは、「さあ、行くわよ 坊や。もう遅いから」と言い、「寒いと分かっているのに、コートも着せずに送り出すなんて」と 誤解した批判をしながら、自分の首に掛けていたマフラーをアメリーゴの首に掛け、「荷車に毛布があって本当によかった」と言って建物を出て行く。アメリーゴは、自転車に牽かれた2輪の荷車に、毛布に包まって乗せられる。辺りは、雪で真っ白だ。自転車を漕ぎながら、デルナは、「私は、一人暮らしなの。たぶん君は、家族を望んでたんだろうね」と話しかける(2枚目の写真)。「分んないけど、一番好きな人は母ちゃんだったよ」。荷車は、一人住まいの女性にしては大きな家に入って行く原作では、一軒家なのだが、映画では、明確に説明されていないが、この塀の中に多くの人が暮らしているように思われる〕原作の12章では、2人の出会いは同じだが、一番大きな違いは、自転車ではなくバスに乗ること。駅の外に出ると、「目の前には、赤煉瓦の建物群とたくさんの木々で囲まれた巨大な広場がある」。アメリーゴが 『ここはどこ?』と尋ねると、デルナは 『ボローニャよ』と答える〔当時の人口は不明だが、現在は39万人。それに対し、モデナは19万人。汽車の終着地は、県都のボローニャの方が相応しい〕。毛布などなかったので、寒くて凍えるアメリーゴは、デルナのコートの中に入れてもらう。コートがないことへの不満は映画でも使われている。「バスが来ると、デルナが切符売りに『大人1人、子供1人』と言う〔向かった先は、モデナ〕。僕たちはバスに乗り、並んで座る。新しい靴が痛い。たった1日じゃなく、1年も履いているような気がする。眠りに落ちる前に、靴を脱いで座席の下に置く。結局、何の役に立つんだろう? 出発の前も裸足だったし、送り返される時もきっと裸足だろう」。この文章で第1部は終わる。

その夜、初めて泊った家の、初めての良質のベッドのせいか、アメリーゴは悪夢で目が覚める。「母ちゃん! 化け物だ!」の叫び声を聞いたデルナがベッドに駆け付け、アメリーゴの興奮状態を見て、水を持って来てくれる(1枚目の写真)。アメリーゴは、子守歌か、何か読んでと頼む。デルナは歌えないし、子供向きの本もないので、近くに置いてあった 「イタリア労働組合の略史」 を読む。アメリーゴはすぐに眠る。あってもなくてもいいような場面だ。原作の第2部の最初の13章でも、アメリーゴは 「母ちゃん!」と叫ぶが、それは悪夢ではなく、いつもと違い母がベッドにいなかったから。心配して見に来たデルナは、アメリーゴにいろいろな話をする。『君、マズいクジを引いたわね。私、子供のことが全然分からないの。私には子供がいないから。いとこのローザは子供が3人もいるから、扱いが上手ね』。『僕の母ちゃんにも子供が2人いたけど、苦手だったみたい』。『兄弟いるの?』。『ううん。僕一人っ子』。『明日の朝、ローザの子供たちに会いに行きましょう。子供たちは一緒にいるのが一番。きっと、好きになるわ。みんな、君とほぼ同じ年頃だから。ところで、何歳なの?』。『来月、8歳になるよ』。子供について、デルナはもう少し詳しく話す。『市長に子供を預かって欲しいと頼まれた時、怖かったから断ったの』。『あなた、子供が怖いの?』。『そうじゃなくて、どう扱っていいか分からなくて怖かったの。私は、政治、労使関係には詳しいけど、子供のことは何も知らないから』。『でも、僕を連れてきてくれた』。『私は駅に行って、全てが順調に進むよう手伝っていたの。するとクリスクオロ同志マッダレーナから、君を連れて行くはずだった夫婦に問題があったと聞かされたのね。奥さんが早産で病院に運ばれて、誰も君を迎えに来られなかった。君がベンチに一人で座っているのを見て、連れて行こうと決めたの。でも、それが正しかったのかどうか。君には、家族の方がよかったのかもね〔前節で、デルナが「君は、家族を望んでたんだろうね」に対応する〕』。『誰も僕なんか欲しくないから、取り残されたと思ってた』。『違うわ。準備万端だったのよ。私たちは何週間もかけて準備した。どの子にも行くべき家族があったの』。『つまり、どの人も、好きな子供を選べなかったってこと?』。『当たり前でしょ。果物や野菜の市場じゃないのよ』。デルナはアメリーゴの横に寝ると、『子守唄を歌ってあげようか? 好きかな?映画では、「イタリア労働組合の略史」だった。上記の長い説明を省略するためだろう〕』と訊き、子守唄が嫌いなアメリーゴは、デルナに嫌われたくないので 『はい』と言う。デルナの悩み、南部の貧困を救う臨時の里親システム、アメリーゴの考え方が分かるので、少し長いが紹介した。

翌朝、アメリーゴが外を見ると、ほとんど何も見えない。アメリーゴは、ナポリ方言で、「シニョーリ、これ一体何なの?〔Ma che è, signorì?/標準語では、Ma che cos'è, signore?〕 爆弾が爆発したの?」と訊く映画の2節目の1944年の爆撃シーン〕。「爆弾じゃない。霧よ」(1枚目の写真)。そして、「さあ、新鮮な牛乳を取りに行きましょう。私のことはデルナって呼んでね」と言う。すぐに、大きな牝牛が現われたので、アメリーゴはびっくりする。「怖がらないで」。「怖くないよ」と言いつつ、デルナの後ろに隠れる(2枚目の写真)。「あっちじゃ、動物見たことないの?」。「ネズミ。他は みんなが食べちゃった。猫だって」。原作の14章は、「目を開けると、朝だった。ベッドの向かい側の窓からは、茶色い野原と凍った木々が見える。枝は骨のようにむき出しで、そこにはまだ数枚の枯れ葉が付いている。他に家はない」という文から始まる〔最初、霧はなかった〕。食堂に行ったアメリーゴが見た物は、「テーブルの上には、大きなミルクのカップ、厚切りのパン、赤いジャムの瓶、厚いバター、そして大きなチーズの塊が置いてある〔牛乳を搾りには行かない〕。そして、「僕たちは一緒に黙って食べる」。「朝食を終えると、デルナは僕に、仕事に行かなければならないが、一人にはしないと言う。彼女は、3人の子供がいる、いとこのローザの家に僕を連れて行き、用事が済んだら迎えに来ると話す」。「デルナと一緒に、僕が寝ていた部屋に入ると、空も野原も木々も、もう見えない。手で窓を拭いてみたが、何も変わらない。汚れているのはガラスではなかった。空気だ。煙がすべてを覆っている〔急に霧が出た〕

ローザの家〔よく分からないが、デルナの家のすぐ隣にあるらしい〕で、アメリーゴが服を着せられている。ローザは、「ルツィオ〔次男〕の服は、あなたに本当によく似合ってるわ」と笑顔で言うと、鏡で 服を着た姿を見せる(1枚目の写真)。原作の15章では、まだデルナの家。彼女は、アメリーゴに、『着替え、手伝って欲しい?』と訊く。アメリーゴは 『自分でやれるよ、ありがとう』と答える。デルナはワードローブからウールのセーター、シャツ、ズボンを取り出す。「これらは、デルナのいとこのローザの長男映画では次男〕の服で、これからは僕の物になる。僕は、ほとんど新品だねとデルナに言う〔昨夜、デルナは初めてアメリーゴのことを知ったので、今朝早く、ローザの家に行き(映画と違って かなり離れている)服をもらってきたとしか考えられない〕。「机の上には、ノートが何冊かと、ペンが1本置いてある。デルナは、僕が、もうすぐ学校に行くことになると言う」。『また? 僕、もう行ったよ』。『だからこそ、行かないと。毎日よ。全部覚えた訳じゃないでしょ?』。映画に戻り、デルナは、ルツィオの服を着たアメリーゴを連れて、ローザの一家の前に連れて行って紹介する。「これがアメリーゴよ」。ローザの夫のアルチーデが、「やあ、アメリーゴ」と笑顔で言う(2枚目の写真、矢印はアメリーゴを嫌っている次男)。デルナは、アメリーゴに、「彼は、私の兄〔正しくは義兄〕のアルチーデ。そして、この子たちは私の甥っ子よ」と言うと、今度は2人の甥に向かって、「さあ、君たちも名前を言って」と声を掛ける。長男は、「僕はリーヴォだよ」と素直に言うが、次男は、最初から、生意気そう頬杖をついていて、アルチーデが促しても何も言わないので、長男が 「彼はルツィオ」と代わりに言い、アルチーデが、ローザが抱いている赤ちゃんを指して、「こっちはナリオ」と言った後で、「私が、何を思い付いたか考えてみて」と言う〔リーヴォ、ルツィオ、ナリオは、Rivo-Luzio-Nario。1つにするとRivoluzionario。“革命的な” という意味〕。自分の名前が冗談の一部だと指摘されたことで、既に、服を取られて頭に来ていたルツィオは、アメリーゴの前まで出て来ると、「それ僕のだ! 君の物じゃない!」と怒鳴る(3枚目の写真)。その態度に怒ったアルチーデは、「私たちの間では、“私のもの” や “あなたのもの” という言葉は存在しないと、何度言わせるんだ?! 所有権は持っている人にある! 今、誰が持ってる?!」と叱るように言うが、ルツィオは、「僕のだ!!」と叫んで走り去る。アルチーデは、ローザに、「君は、ファシストの息子を育ててるんだ」と不満を漏らす。そして、恥を打ち消すために、「さあ、みんな自分の役割を果たすんだ」と声をかけ、アメリーゴには、「この家じゃ、日曜日はみんなで働くことになっているんだよ」と方言を交えて教える。原作の15章は、アメリーゴがデルナと手をつないで、いとこのローザの家に向かう所から始まる。アメリーゴが、『みんながタバコ吸ってるの? 通りがほとんど見えないね』と言うと、デルナは、『煙じゃない、霧よ』と教える。ローザの家に着くと、名前の入ったドアベルを押す。『何て書いてあるの?』、『ベンヴェヌーティ(Benvenuti)〔将来のアメリーゴの姓〕。『僕たちを歓迎するために書いてあるの?〔Benvenutiには、ようこそ、という意味がある〕』。『いいえ、私の義理の兄の名前よ』。ドアを開けたのは、長男。「彼はデルナを抱きしめ、それから振り返って僕も同じように抱きしめる。『君は汽車で来た子だね。僕は汽車に乗ったことがない。どうだった?』。『混んでた』。別の少年〔次男〕が廊下を走ってきて、『そのジャケットは君のじゃない。兄さんが去年の冬に着てたやつだ』と言う」。『僕の物、君の物… 何が違う? それは、それを必要とする人の物だ。ローザ、まさか私たちの息子をファシストとして育てたりはしないよね?〔これは、映画にもあったアルチーデの言葉〕。ここで、ローザが口を挟む。『まだ自己紹介もしていなかったわね。私はローザ、デルナのいとこよ。あそこの口ひげの冗談好きはアルチーデ、そしてこれが私たちの3人の息子たち: 10歳のリーヴォ、7歳になるルツィオ、そしてまだ1歳にもなっていないナリオよ』。「彼らの父親は、革命家だからこれらの名前を選んだと言い、3人の子供たちを呼ぶと、リーヴォ、ルツィオ、ナリオになると言い映画も同じ〕、大声で笑い始める。アメリーゴは、何を笑っているのか分からなかったが、「彼を喜ばせようと、僕も笑い始める」。

アメリーゴは、リーヴォと一緒に納屋に行く。そこにいたのは1頭の牝牛。リーヴォは、「戦争の前は3頭いた。残りはドイツ軍に取られてしまった」と話す(1枚目の写真)。「名前はマルタ。気に入った? 僕が付けたんだ」。「マルタははらんでる。悪いのは雄牛だよ」と言って、ポンポンとマルタを叩く。アメリーゴも、近づいて触ってみる(2枚目の写真)。原作の15章の終わりに、リーヴォが『僕は牛舎で働いて、1年以上お小遣いをもらってるんだ』と言うと、ルツィオが『だから、牛の糞の臭いがする』とからかう〔実に嫌な性格〕原作の16章の初めに、リーヴォと牛について「リーヴォは牛のためにバケツで水を汲んで来る。彼は、野菜畑もあるし、牛も何頭かいるけれど、鶏はもう数羽しか残っていないとも言う。それに、乳搾りも習っているんだけど、丁寧にやらないといけないとも」という文がある。これを見る限り、映画のように、牝牛1頭だけではない。さらに、原作の17章の最後には、映画と同じように、「僕は腕を伸ばし、指先で牛に触れた。牛の毛はチーズほど柔らかくなく、近づくと古い足の匂いがする。僕はもっと近づいて、手全体で牝牛を撫でる」という表記がある。あとの章でも牝牛は何度も登場し、子牛を生み、アメリーゴと名付けられる。

納屋から卵を集めて台所に持って来たアメリーゴは、すぐそばの木製のベビーベッドで寝ているナリオに、「おチビちゃん、元気かい」と声をかける。その時、ふと上を見ると、すごく興味を惹かれたので〔何を見たのかは分からない〕、その下に置いてあった3段の木の階段の一番上まで登り、誰もいないことを確かめ、壁に設けられた木の台の上に置いてあるモルタデッラソーセージの切断面の表面を指でほじくり、かけらを口に入れる。2度目は、すべての指を使ってほじくり、穴は大きくなる(1枚目の写真)。しかし、この悪事を、窓の外から見ていた者がいた。それは、アメリーゴのことが嫌いなルツィオだった(2枚目の写真)。アメリーゴが3度目を食べていると、ルツィオが 「泥棒め! 見られてるぞ!」と叫び、驚いたアメリーゴはバランスを崩して階段から転落し、ベビーベッドにぶつかり、ナリオが泣き出す。原作の16章には、こう書かれている。「台所の隅、食器棚の後ろに、半分隠れて梯子がある。僕はそれを引き出し、壁に立てかける。僕は、梯子に登ったことがない。パチオチア〔国王の写真額の老女〕は梯子の下を歩くと不運が訪れると言う。僕は最初の段に片足を乗せて体重を支えられるか確かめ、次の段、さらに次の段と乗せていくと、いつの間にか高いところまで登っていて、自分が大きく強くなったことを実感し、一人ぼっちになったことを忘れてしまう。僕は、天井に触れてみたくて、一番上まで登る。そして、指を伸ばし、粗削りの温かみのある梁に触れる。ぶら下がっているサラミが顔に擦れ、その匂いが鼻をつき、よだれが出てくる。僕は、これほど多様な食品を見たことがない。ボローニャでもらった白い斑点のある大きなモルタデッラソーセージもある。僕は、爪でその皮を引っかき、柔らかなピンク色の肉に届くまで削り続ける。僕は、指を穴の深くまで突っ込み、引き抜いて吸う。穴に戻って同じことを繰り返す。穴が深過ぎたら、また別の穴、さらにまた別の穴を掘る」。『泥棒だ!』。「声は どこか下の方から聞こえる」。『君は、僕たちの物をみんな盗むために来たんだな!』。「僕は、踵を返してバランスを崩し、梯子から落ちてしまう。それほど高くないのに、転んで背中が痛くなる。ベビーベッドの赤ちゃんが目を覚まして泣き始める」。原作映画がよく一致している。

アメリーゴは、悲しくなってデルナの所に戻って来る。デルナは、簡単な食事の載ったテーブルに座ると、立ったままのアメリーゴに向かって、「マッダレーナに子供を預からないかと誘われた時、私は断ったの。子供のことなんて何も知らないから。政治や組合のことなら知ってるけど、子供は駄目なの」と打ち明ける原作の13章で、既にデリナ言ったこと〕。それを聞いたアメリーゴは、「専門じゃないから」と言う。「どういう意味?」。「あなたには 向いてないってこと。僕、いつも 母ちゃんにそう言ってたんだ」。「なぜ? 君のお母さんはどんな人?」。「きれいだよ。男の人は気づいてたけど、母ちゃんは誰も相手にしないんだ。一緒に寝るのは僕だけ」。「じゃあ、君がいて、お母さんは幸せだね」。「でも、母ちゃんは、『僕は神の罰だ(厄介な存在)』って言うんだ」(1枚目の写真)〔これは、映画で、母がマンダレーナに言った 「見たでしょ。神の罰なの」に対応している〕。デルナは、「さあ、座って。食べて」と言う。別の日、集合住宅の中央にある通路で、アメリーゴとリーヴォは木の籠を持って外に向かい、デルナは二輪車に置いてあった紙の箱を運んでいる。アメリーゴが、リーヴォに、「デルナはどうしてお婆さんみたいに黒い服 着てるの?」と訊くと、「いつもルーポのこと思ってるから」と答える。「それ、誰?」。「ルーポは、カヴァッツォーナでドイツ軍の車列を爆破したパルチザンの英雄なんだ。彼は森に隠れてたけど、ある日、祖母に会いに行こうと山を下りたら、ファシストに捕まっちゃって、生きたままトラックに縛り付けられた。ファシストの奴らはルーポを町中引きずり回したんだ」(2枚目の写真)「デルナおばさんは、ルーポのことが頭を離れないのさ」。原作の26章に、「僕は、デルナがバッグに隠している写真で彼を一度見たことがある」。「彼女は、彼は本当に勇敢で、真の同志だったと言う。彼がファシストへの攻撃で殺されたとも」。「写真の男は痩せていて、幸せそうな顔をしている。ローザは僕が彼に似ていると言う」という文章がある。この男の名前は書かれていないが、映画のルーポに間違いないであろう。映画に戻り、2人が部屋に入って行くと、アメリーゴが引っかいたモルタデッラソーセージがなくなっている。それを見たアメリーゴは、部屋から飛び出していく警察に連れて行かれるとでも思った?/原作28章)で、コーヒーをベッドの下に隠していたカパ・エ・フィエロについて、「また警察に連行されたの?」と母に訊く場面がある〕。走っているアメリーゴを、ローザが呼び止め、「アメリーゴ。こっちへおいで。パンの作り方を教えてあげる」と笑顔で声を掛ける。他の3人の女性たちも、「アメリーゴ、おいで。おいで」と呼び、その向こうには、真っ赤に燃えたパン焼きかまどが見える(3枚目の写真)。自分が焼いて食べられちゃうと思ったアメリーゴは、ローザに捉まれた手を払いのけ、野原に向かって逃げ出す。木の幹の裏に隠れたアメリーゴは、「かまどになんか入れられるもんか。おばあさんの言う通りだった」と怖そうにつぶやく。原作には、モデナに来てからのアメリーゴが、こんなバカげたことを信じる場面は一切ない。

心配したデルナが探しに来て、「さあ、家に帰ろう」と声をかける(1枚目の写真)。アメリーゴは、「僕の家はナポリだよ」と言ったので、故郷が恋しくなったと思ったデルナは、アメリーゴを土が剥き出だしになった畑に連れて行く〔アメリーゴが着いた翌々日のはずなのに、そして、彼が着いた時 辺りは雪で真っ白だったのに、その痕跡はどこにもない。絶対におかしい〕。そして、「小麦が芽を出し、畑が黄色に染まったら、ナポリの家に帰れるわ」と言ってアメリーゴを安心させる。原作の25章は、アメリーゴが着いてから1ヶ月以上が経過し、クリスマス映画にはない〕も新年も過ぎてからの章だが、ローザがアメリーゴに『畑が黄色く染まり、小麦が背高に育ったら、旅立つ時が来るわね』と言い、アメリーゴがそれに対して「小麦がどれほど背を伸ばしたか、ちらりと目をやるが まだ兆しは見えない。空気は冷たく、辺りの畑は灰色だ」と綴った箇所が、これに該当する。アメリーゴはさらに 「どのくらい時間がかかるの?」とデルナに訊く(2枚目の写真)。「もう少しすれば見えてくるわ。時間は飛ぶように過ぎるから」。そして、デルナはアメリーゴを二輪車に乗せて小学校に連れて行く(3枚目の写真、矢印はアメリーゴ)。原作には、デルナたちの家が小学校からどのくらい離れているかも、アメリーゴやローザの息子2人が、どうやって通ったかも書かれていない。

学校でのシーン。仲の悪いアメリーゴとルツィオが同じ机なので、授業中なのに喧嘩をしている(1枚目の写真、矢印)。女性の教師は、「静かになさい。戦争は終わったのよ。ここは学校でしょ」と注意する。パンを食べている子には、「パンを食べちゃダメ。片付けて」。眠っている子には、「ほら、起きて」。あるいは、「悪戯しようと鼻ほじっちゃダメよ」。注意が終わると、生徒全員に「2×7は幾つかな?」と訊く。手を上げたのはアメリーゴだけ。「スペランツァ君」。「2×7は14です」。「よくできました、スペランツァ君。君の町では、九九はもう習っていたの?」、「いいえ、先生。僕が、ナポリで靴を2足ずつ数えていたからです」。みんなが笑う。その直後に、授業が終わる鐘が聞こえ、生徒たちは教室から出て行く。すると、背が高くて生意気そうな生徒が後ろからやってきて、「おい、みんな魚臭くないか?」と手下に言い、3人が 「うぇっ、魚臭い」と言う(2枚目の写真)。生意気は、「ナポリ、魚臭いのはお前だろ。何て臭いんだ」とバカにする。そこに、アメリーゴ嫌いのルツィオが来て、「黙れ、お前の名前はベニートだろ、このファシスト野郎!」と威嚇する(3枚目の写真)。この時代、ファシストとみなされることは恥だったので、ベニートはおとなしく引き下がる。アメリーゴが、「ありがとう」とルツィオに言うが、ルツィオがアメリーゴを嫌っていることに変わりはないので〔共産主義者の息子として、ファシストがのさばるのが許せなかっただけ〕、「それにしても、君は魚臭いな」と言って出て行く。原作の18章では、フェラーリという男性の教師が、『2の段の九九を復習しよう。ベンヴェヌーティ君〔ルツィオ〕、黒板まで来なさい』と呼ぶ。しかし、ルツィオはできなかったので席に戻らされる。教師は、『2×7が何だか知っている子はいるかな?』と訊く。映画と違い、誰も返事をしない、すると。意地悪なルツィオが、恥をかせようと、『スペランツァに訊いたら?』と発言する。教師は、『スペランツァ君は新入生だ。来たばかりで、この学校に慣れてない」と言うが、ルツィオはしつこく、『これで、慣れますよ』と言う。「先生は少し迷っている。そして、僕に微笑みかける。この先生は、これまで一度も生徒を叩いたことがないんだ。『スペランツァ君、2×7が分かるかな?』。『14です、先生』。ルツィオは、僕がモルタデッラに穴を開けているところを見つけた時と同じ表情をし、まるで僕が何かを盗んだみたいに睨みつける。フェラーリ先生は驚いたみたいだが、嬉しそうだ。『よくできた、スペランツァ君。君の町では、もう2の倍数表を習ったのかい?』。『いいえ、先生』と僕は答えた。『故郷では、僕は靴を数えてました。靴はいつだって2足ずつでしょ』」。「終業のベルが鳴り、帰る時間になると、先生は教室を出るまで手をつないでいなさいと言う。僕は教室の後ろに1人でいた。すると、前に座っていた男の子の1人がやって来て、僕の手を握って 『僕、ウリアーノ』と名乗る」。この続きは、原作の20章にある。「最初の数日間にあったこと… 教室の後ろに座っていたベニート・ヴァンデッリが 『ナポリ』 と叫ぶ。彼は僕に近づくと鼻をつまんで、腐った魚の臭いがすると言う。隣の隣に座っているウリアーノは、気にするな、去年みんながベニートを虐めたから、あんなに意地悪なんだと言う」。「翌日、ベニートが僕をまた 『ナポリ』 と呼んだ時、ウリアーノは黙れと言い、『ベニートはファシストの名前だ』と言う。ベニートは何も言わず、後ろの列の自分の席に戻る映画と違い、ルツィオが助けた訳ではないが、この方が理にかなっている〕映画とは関係ないが、さらにその続きとして、原作の22章に、「ウリアーノは熱があるから学校に来なかった。先生に、もしかしたら僕の兄さんのルイージみたいに気管支喘息じゃないかって聞いたら、おたふく風邪だって。それなら良かった。ルツィオはいつも一番前の席だし、ベニートは僕の隣に座っている。僕たち、今はうまくやってる。彼はもう僕を見ても鼻をつままなくなったし、僕は、時々算数の問題を彼に写させてあげている」。そして、この最後の文が示唆する結果として、これも映画にはないが、原作の27章に、「フェラーリ先生の算数で、僕はトップの成績」という一文がある。

学校から戻ったアメリーゴに、デルナは、縞模様と格子模様のノートと、色鉛筆を渡す。アメリーゴは色鉛筆を見て、「ありがとう。一度も使ったことないんだ」と喜ぶ。デルナが、「鉛筆削りがないわね」と言うと、「ナイフで鉛筆の先端を尖らせるよ」と答える。「他に何か必要なものある?」。「学校で臭いって言われちゃった」。「あの子たちは何も分かってない。真に受けなくていいのよ」。この時には、アメリーゴは変わった木のたらい(?)に入れられ、体の汚れを落としている(1枚目の写真、矢印は追加の湯の入った鍋)〔デルナの家には浴槽がないのだろうか?〕。デルナは、「どのどんぐりも、自分は樫の木になれると思っているけど、そのほとんどは豚の餌になるのよ。グラムシはそう言ってる」と話す〔アントニオ・グラムシは、イタリア共産党創設者の一人〕。「お湯、もう少し入れる?」。「もう十分です」。そう言って、アメリーゴが立ち上がろうとすると、デルナは、裸体を見ないように顔を背けてシーツのような布を渡す(2枚目の写真)。暖炉の前で、布で体をくるんでもアメリーゴが寒いと言うので、デルナは手でアメリーゴの腕の布を何度も擦る。すると、アメリーゴがデルナに抱き着く。子供と接したことのないデルナも、抱き着かれたら、抱き締める(3枚目の写真)。このシーンすべてが映画だけのもの。これに類する記載は、原作には一切ない。

ルツィオが、父アルシードの作業場に入って行く。すると、こともあろうに、父が、嫌いなアメリーゴの前でバイオリンを弾いている。「よく聞いて。A〔ラ〕弦の音がずれているのに気づいたかい?」(1枚目の写真)。ルツィオは音を立てていないので、アメリーゴの目線から 後ろに誰かいると感づいたアルシードが振り向き、「やあ、ルツィオ」と声をかける。しかし、すぐにアメリーゴに戻る。「なぜこれがあるか分かるかい? これはティラカンティーノ〔微調整器〕って呼ばれてる物なんだ。このネジを時計回りに回すと、弦の張力上げる〔音程を高くする〕ことができる」。父を取られてふてくされたルツィオが、置いてあった木片で大きな音を立てて邪魔する。「静かにしろ、ルツィオ。何も聞こえないじゃないか」。ルツィオは、その、そっけない叱り方に腹を立て、木片を音を立てて投げる。アルシードは、それを無視し、バイオリンを少し弾き、「これでいい。音の違いが分かるかい?」と訊く。アメリーゴは、「音楽って素晴らしいですね。千もの想いに匹敵する力を持ってる」と、7歳の子にはとても言えない、深い意味のあることを言う。それを聞いたアルシードは、「私の父は大工だったが、音楽への情熱を持っていた。そして、父は私に それを渡した」と言うと、また急に振り返り、「だが、このろくでなしどもの誰も、それに興味がない」と不満をぶつけ、面目を潰されて頭に来たルツィオは、「僕は、音楽なんか好きじゃない」と反論する。アルシードは、アメリーゴにバイオリンを渡し、「さあ、やってみて」と言う。アメリーゴが、バイオリンのあご当てを、自分の顎の下に入れると、「そうだ、顎をしっかり乗せて。私が教えた通りに弓を持ってごらん」と言う(2枚目の写真)。アメリーゴが弦を鳴らし始めると、すぐにドアが開き、アルシードにイスの修理を頼んでおいた女性が入って来る。アメリーゴは、「新品同様だよ」と言ってイスを渡す。2人がイスに関する話を終えた後、女性は、アメリーゴに、「大人になったら何になりたいの? 楽器を修理するの?」と訊く。「違う。楽器を演奏したいんだ」(3枚目の写真)。重要なシーンなので、細かな内容は違うが、もちろん原作にもある。19章。アルシードの工房で(ルツィオはいない)。アルシードの職業は、調律もできる大工ではなく、楽器の調律師。「彼はその技術(仕事の技)を父から教わったのではない、と僕に話す。彼はそれをすべて一人でやったそうだ。彼の父は農夫だったが、彼自身もまた、植物を育てること(自然)と音楽(芸術)をこよなく愛している……大人になったら、僕も音楽をやりたい」。工房の中には楽器が散乱している。『ご覧、これがギター、これがトロンボーン、これがフルート、これがトランペット、これがクラリネットだ。どれを試してみたい?』。『バイオリンはあるの?』。『バイオリンを弾くのは本当に難しい。ここに座って』。彼は僕をピアノの前に座らせ、僕がすでに知っている音階の7つの音の弾き方を教えてくれる。僕は何度も繰り返し、音符をミックスし始める」。そこに、毛皮のコートを着た婦人映画より階級が上〕が部屋に入ってくる。アルシードは、調律の済んだバイオリンを渡す。2人の会話が終わった後で、婦人は、『大きくなったら何がしたいの? やっぱり、楽器の調律?』とアメリーゴに尋ねる。『いいえ。僕、大きくなったら、楽器の調律はしたくありません』。『あら、違うの? なら、何?』。婦人は、少しショックを受けて訊く。『楽器を弾きたいんです。僕の演奏を聴くために、みんながお金を払うような』。婦人は言葉を失い立ち去る」。こちらの方が、将来、マエストロになるアメリーゴに相応しい返事だ。

学校での楽しい授業のシーン。黒板には、「肉屋(マチェライオ、macellaio)」と書いてあり、担任の女性教師が、「ベンヴェヌーティ君、肉屋では何を買うのか、黒板に書きなさい」と言う。ルツィオは、「Le sussese」と書き。そんな言葉はイタリア語にはないので、教師は、似たような発音の、「ソーセージ(Salsiccia)と書いてね」と言う。アメリーゴが みんなと一緒に笑っていると、「スペランツァ君、君は、肉屋(マチェライオ)では何を買うの?」と訊く。「マチェライオって何ですか?」。生徒たちはまた笑う。「マチェライオは、お肉を買う店よ」。「ああ、キアンキエーレ(chianchiere、ナポリ方言)ですね」(1枚目の写真)。「キアンキエーレって何?」。「キアンキエーレでは… 肉屋ではオ・ペレ・エ・オ・ムッソ('o pere e 'o musso)を買います」。「イタリア語では、どういう意味なの?」。「オ・ペレは豚の足、オ・ムッソは子牛の鼻です」。生徒たちは一斉に、「気持ち悪い」と言う〔実際には、これに、子牛や山羊の足、子牛の胃・子宮・直腸、乳牛の乳房、雌豚の子宮などを入れることが多い〕。この部分は映画だけのコメディ。

その直後。そこに、校長が1人の少女を連れて入って来る。そして、「ロッサーナ・パルマさんです」と紹介する。「ナポリから来ました。大事にしてあげて下さい」(1枚目の写真)〔まだ黒板の所にいたルツィオは、一目で好きになり、見惚れている〕。教師は、なぜか、ルツィオの隣にいた生徒をアメリーゴの隣の空席に移らせ、ロッサーナをルツィオの隣に座らせる。ルツィオは大喜びで、憮然とした顔のロッサーナを見続ける。原作の22章では、状況は全く違う。まず、休み時間に、アメリーゴとルツィオが担任のフェラーリに呼ばれる。フェラーリは、アメリーゴに、『君と同じ街から、新しい女の子が汽車で来たんだ。校長先生は、私たちがその女の子を温かく迎え入れ、居心地よく感じてもらいたいと望んでおられる』と話す。「校長室の前で、リーヴォが、5年生の担任と一緒に僕たちを待っている。リーヴォは、新しい女の子は、年齢が同じなので 彼のクラスに入るという。校長先生は僕たちを呼び入れた……彼が言うには、少女の名はロッサーナ、党の重要な同志の娘で、マンジ家に滞在することになっていたのだが、マンジ夫人が肺炎で寝込んだため、夫人が回復するまで、ロッサーナと彼女の家庭教師であるシニョーラ・アディノルフィは、司祭が面倒を見ることになったとか。ロッサーナは僕より背が高い。緑色の目と長い黒髪の三つ編み、そしてしかめ面をしている。もしかしたら、家族ではなく、司祭の家で家庭教師と暮らすことになったから不機嫌なのかも。校長先生は、『この子はアメリーゴ』と言って、僕を少し前に押し出す。『彼は、私たちと1ヶ月以上一緒にいて、とても順調に過ごしています。こちらは、彼の新しい兄弟です』。リーヴォは、前歯の隙間を見せながら微笑み、ルツィオは『兄弟』という言葉を聞いて舌打ちするが、少女を見ると顔が赤くなる。彼女は、僕を見ようともせず、ありがとうとも、さよならとも言わない」

その日の夕方、デルナの家の入口で、1人の男性が、司祭に対し 「党を代表して、ロッサーナさんを迎え入れることを快諾されたことに 心から感謝申し上げます」と感謝し、それに対し司祭は 「君たち共産主義者が、単なるキリスト教的な善行である今回の件を、政治的に利用しようとしないことを願うよ。教皇様が、こうした問題にあまり賛成されていないことを知っているかね?」と念を押す。デルナが、「どうぞ、用意ができました」と、食堂から呼ぶ。2人とデルナとアメリーゴはテーブルに座るが、ロッサーナだけは立っている。デルナが、「ロッサーナ、座って」と言うと、彼女は、「あなたの慈善など要らない。そんなもの欲しくない」と、強い口調で言い、それを聞いたアメリーゴは “何て子だろう” という顔でロッサーナを見る(1枚目の写真)。男性は、「これは、“もてなし” であって “慈善” じゃないんだ」と言うが、ロッサーナは、「私が受けるべき “もてなし” は、あなたたちからではなく、私の両親から与えられるべきでした」と言う。男は、「もう止めましょう。私が後で対応します」と言い、4人だけで食事は進む。原作の22章では、その夜デルナの台所に最初からいたのは、デルナ、アメリーゴ、ロッサーナの3人。「まるで彫像のように動かない」ロッサーナに、デルナが『夕食の前に少し遊ばない?』と声をかけても、返事はない。アメリーゴは、舌を切り落とされるのが怖いのかと誤解し、「見て、パチオチア 嘘ついてただろ」と言って舌を出して見せるが、バカにされただけ。そこに、モデナ市長〔歴史的には、アルフェオ・コラッソーリ市長〕が入ってくる。「市長は色鮮やかに包まれた贈り物を2つ手に持っている。1つは僕に、1つはロッサーナに。市長は、『この町を代表して、あなたたちを歓迎するため ここに来ました』と言い、僕たちに包みを渡す。女の子は微動だにしない。贈り物に興味のかけらもないみたいだ。僕は受け取ったけど、リーヴォとルツィオがここに来るまで開けない」。2人がくると、「リーヴォと僕は、床の上で、市長からもらった汽車のおもちゃで遊び、ルツィオは女の子のそばに、できるだけじっと座っている、まるで2人とも同じ病気にかかったみたいに」。「トルテリーニ〔ボローニャ風の詰め物入りショートパスタ入りスープ〕が皿に盛られると、女の子を除き、全員が音を立ててすすり始める」。料理が美味しいと褒められると、市長は、『私には、何も得意なものはない。だから市長になったんだ』と言う。デルナは。『子供たち、一言も信じてちゃダメよ。市長は、戦時中 勇敢なパルチザンだったの。投獄され、追放されたこともあったわ』と話す。アメリーゴが 『追放されたって、どういうこと?』と訊くと、市長は 『それは、私が長い間、故郷から、私の町から、愛する人たちから遠く離れて放り出され、戻ってくることが許されなかったという意味だよ』と言う。それを聞いたロッサーナは、『分からないの? 追放されたのよ。あんたと私みたいに』とアメリーゴに言う。市長は、すぐに、『あなたは追放されていない。あなたは助けになりたいと思っている友人たちの中にいる。いや、 むしろ友人以上の同志の中にいると言うべきだな。なぜなら、友情は2人の間の私的な問題だから終わりを迎えることもある。それに対し、同志は同じ理想を信じているからこそ共に戦うから』と、共産主義を剥き出しにする。それに対し、ロッサーナは 『父はあなたの同志だけど私は違う。あなたの慈善など必要ないし、望んでもいない』と、市長を侮辱し、『両親は家で私を温かく迎えるべきだった。ここにいる見知らぬ人たちではなく〔この2行は映画でも使われている〕と、両親も侮辱する。こうした態度は、中国の「紅二代」を思わせる。紅二代とは、中国共産党の革命初期に貢献した高級幹部の子供を指し、親の権力やコネを利用して政治・経済界で特権階級を形成したグループのこと。ロッサーナの自己顕示的な傲慢さは、彼女が特権階級の子なのに、“党の善行のシンボル” として無理矢理連れてこられたことへの反発から出たものであることが後で分かる。

その夜、ベッドに入ったアメリーゴは、「あなたが僕たちにしていることは慈善なの?」と、デルナに訊く(1枚目の写真)。「いいえ、アメリーゴ… 違うわ」「さあ、寝なさい」。アメリーゴが、「小麦は、まだ青いよね?」と言うと、「ええ、まだ少し時間がかかるわね。芽が出た所よ」と言って額にキスする。翌朝、アメリーゴは畑を見に行く。辺り一面、芽を吹いた小麦で緑色に染まっている(2枚目の写真)。

映画では、ここで、アメリーゴの誕生日のシーンが入る。原作では21章で、22章のロッサーナと順序が逆転する。因みに、24章がクリスマスなので、本来なら辺りはまだ雪だらけ。前節の緑の畑は原作ではずっと先だ。家の前に置かれた大きなテーブルに、恐らく、この集合住宅の住民(計12人)が座っている。真ん中に座っているのはアメリーゴで、そこに、ローザが誕生日ケーキを持ってきて、万国共通のハッピーバースデーの歌をイタリア語でみんなで歌う〔歌ってないのは、本人以外はルツィオだけ〕。アメリーゴが、真ん中に1本だけ立ったロウソクを吹き消すと(1枚目の写真)、ルツィオ以外の全員が拍手する。そして、デルナが大きな誕生日プレゼントを取り出し、アメリーゴの前に置く(2枚目の写真、矢印は嫌々座っているルツィオ)。アメリーゴが丁寧に紙を剥がし始めと、ルツィオが飛んできて包み紙を乱暴に破り、ローザから、「あんたの誕生日は、もう終わったでしょ」と叱られ、アルシードには頭を叩かれる。大きなケースを開けると、中にはバイオリンが入っていた。デルナが、「気に入った? アルシードが作ったのよ」と説明する。「えっ、これ僕に? 僕へのプレゼントなの?」。アルシードは 「もちろん君のものだよ、息子よ」と笑顔で応える。アメリーゴは、アルシードに抱き着く。アルシードは、「弾き方も教えてあげるよ。バイオリンを持って来て」と言う。ローザが、テーブル越しにバイオリンをケースごと渡す。受け取ったアルシードは、アメリーゴに向かって、「頼んだよ。大切に扱って。いつも肌身離さず持っていてね。だって、これは特別なバイオリンなんだから」と言うと、ケースに貼ってある 「アメリーゴ・スペランツァ」の文字を見せる(3枚目の写真、矢印)。原作の21章では、アルシードが 色紙に包まれ、リボンを蝶結びした包みを持ってデルナの家の玄関から入って来ると、「『誕生日おめでとう、息子よ。いくつになっても幸せに!』と言い、ルツィオ以外は全員が拍手する。僕は硬直して立っている。みんなはプレゼントを開けろと叫び始めるが、僕は包み紙を破りたくない。おもちゃ屋で見た木のライフルだといいなと期待する。リボンをゆっくり解き、紙を丁寧に開けると、中にバイオリンが入っている。本物のバイオリンだ。『これは、君のために、私が作ったんだ。ハーフサイズ〔7~9歳向け〕だよ。リナルディ夫人が来た日〔アメリーゴが、『楽器を弾きたいんです』と言った日〕から、私は毎晩それに取り組んだ』。『でも、僕、弾き方知らないよ』。『私のお客さんで、ペーザロの音楽院で教えている女性がいて、君が始められるように、数回レッスンをしてあげると言ってくれる。君はいつも何て言ってるんだっけ? “誰もすべてを知って生まれてくるわけじゃない”』」。そして、ケースの中には、「アメリーゴ・スペランツァ」と書いたラベルが貼ってある。アルシードが 『幸せかい?』と訊くと、「嬉しすぎて声が出ない。『はい、パパ』。やっと言うことができる。アルシードは両腕を広げ、私を抱き寄せる。父親に抱きしめられるのは初めてだ」。リーヴォが、『ケーキは食べるの?』と訊くと、ルツィオが、『アメリーゴはケーキが好きじゃない。好きなのはモルタデッラだけ』と言い、ローザに睨まれて黙る。

ケーキを食べ始める前に、デルナが、「アメリーゴに、もう一つサプライズがあるわ」と言い、封筒を1通取り出し、「これナポリから届いたの」と言う。アメリーゴは、急いで封筒を取りに行く(1枚目の写真、矢印)。ローザは、「アメリーゴ、お母さんが何て書いてるか、私たちに読んで聞かせて」と言うが、アメリーゴは封筒を持ったまま走って門から外に出て行く。そして、映画を見ていると、木の前に座ったアメリーゴが手紙を読む声が聞こえる。「大好きなアメリーゴ、ずっと忙しかったのと、マッダレーナに聞くのが恥ずかしくて、もっと早く手紙を書くことができなかったの」(2枚目の写真、矢印)「近所の女性たちは皆、感謝の気持ちから共産主義者になったわ。お前がちゃんと食べられて嬉しい。カパ・エ・フィエロは刑務所に入れられた…」。ここで場面は変わり、アメリーゴがデルナと並んで歩き、手紙の内容を話している。「カパ・エ・フィエロは刑務所に入れられた。僕、嬉しいよ。よかった。そうそう、あなたのことも書いてあった。あなたは運が悪かったって。だって、出て行った子供たちの中で、“神の罰” である僕に当たっちゃったから」(3枚目の写真)。原作の21章には、「『もう一つサプライズがあるわ』と言って、デルナはポケットから薄黄色の封筒を取り出す。『お母さんから、あなたへのプレゼントよ』」。「僕が北に来てから、僕たちは母ちゃんに3通手紙を出したけど、一度も返事もない。デルナは封筒を開け、肘掛けイスに座る。僕は、アントニエッタ母ちゃんの言葉が、デルナの口から溢れ出るのを聞く。すると故郷での生活が一気に蘇る。それが好きかどうかは分からない。母ちゃんは、この手紙を書くことと、僕たちが書いた手紙を読むことをマッダレーナ・クリスクオロにお願いしたとか。返事を出すのが遅くなったのは、すごく忙しかったからとか。僕たちの通りでの暮らしは相変わらずだとか。今年の冬は寒かったけど、僕は北イタリアにいて、暖かく、服も着て、ちゃんと食べて暮らせて幸いだったとか。パキオキアは一度も僕のことを尋ねなかったが、子供を北へ送り出した母親たちが皆、子供たちの順調ぶりを自慢し、感謝の気持ちから徐々に共産主義者になっていく状況を見て、彼女がイライラしているのは明らかだとか。カパ・エ・フィエロはコネのおかげで刑務所から出所したが、もう母ちゃんと一緒に働いておらず、市場での屋台も辞めたとか」と書かれている。

アメリーゴがアルシードの作業場でバイオリンの練習をしている(1枚目の写真)。初心者のノコギリ引きではなく、ちゃんと音になっている。アルシードは、「素晴らしいよ。前に演奏したことがあったんだろ? 初めてじゃないよな」と褒める。「ううん、一度も弾いたことないよ。これが初めてなんだ」。「誰かが君に音楽を教えたんだね。例えば、お父さんとか、お母さんとか?」。「父さんはアメリカに行ったんだって。母ちゃんがそう言ってるよ」。「じゃあ、君のお母さんか?」。「歌が上手いよ」。「そうか、お母さん似だな。君には “聞く耳” がある」(2枚目の写真)。そして、「アメリーゴ、忘れるな。毎日練習しないといけないよ」と注意する。原作の24章(クリスマス休暇)では、アメリーゴのバイオリンについて、唯一の記載がある。「セラフィーニ先生についてバイオリンの弾き方を習わないといけない。始めたばかりの頃は、自分には向いていないと確信している。指が痛くて、音楽を奏でるどころか、発情期の猫のような音になってしまう。アルシードの工房の窓から、僕は他の子供たちが雪玉を投げているのを眺め、その間、バイオリンの先生と一緒に何時間も音階の練習を続ける。そして、ある晩、あれだけの練習を終えたあと、バイオリンはキーキーと鳴るのをやめ、ようやく音楽が聞こえてくる。自分の手が音楽を生み出したなんて、信じられない」。映画に戻り。デルナの家では、デルナが集合住宅の若い女性3人を集めて、「男たちは、戦争が終わった今、私たちが文句も言わずに大人しく元の生活に戻ると思っている」と、危機感を訴える。女性:「仕方ないわ」。ローザ:「私たちは腕まくりし、工場で働いたわ」。女性:「男たちが戻ってきたら、私たちがしてきたことはすべて無意味になる」。ローザ:「労働組合は私たちが代表していることをやめさせることはできない」。アメリーゴのバイオリンの音が邪魔になるので、デルナは席を立つと、階段の所まで行き、「アメリーゴ!」と呼ぶ。そして、本人が現われると、「今日はもう十分に練習したんじゃない?」と言う。「アルシードは、毎日しっかり練習しないといけないって」。「だから、上達したじゃないの。でもね、今、会議をしてるのよ」。アメリーゴは、バイオリンを置くと、階段を駆け下り、会議の席に参加する。デルナは、「重要なのは、本人が来て、話し、自らの言葉で仕事について語ることよ」と言い、みんなで、壇上で話すべき女性の当事者の名前を挙げていく(3枚目の写真)。この女性だけの集まりに直接該当する原作の箇所はない。

5月1日の労働者の日〔Festa dei lavoratori〕。会場に向かって音楽隊が行進し(1枚目の写真)、P.C.I.(イタリア共産党)の旗を持った大勢がそれに続く。それを建物の中庭で迎えるのは、汽車でナポリから連れて来られた子供たちと、その子供たちを迎え入れた家族の人々。中庭では、大人たちが音楽に合わせてダンスを始める。アメリーゴは、首に “共産主義者を示す赤いネッカチーフ” を巻いている。すると、「アメリーゴ・スペランツァ!」と声がかかり、振り向くとトマシーノがいたので、「トマジー! 久しぶりだ!」と言って抱き合う。「ほんとに君なんだ! 格好良くなっちゃって。映画俳優みたいだ」(2枚目の写真、矢印はトマシーノ)。「君だってカッコいいぞ」。「共産主義者になったのか?」。「そうだよ」。「マリウッチャに会った?」。「マリウッチャ? いるんか?」。「来て」。アメリーゴは幸せそうなマリウッチャに会う。彼女は、一緒にいた若い夫婦に、「お母さん、お父さん、こっちは南の方の友だちよ」と紹介する(3枚目の写真、矢印はマリウッチャ)。原作の24章(クリスマス休暇)は、映画とは場所が違う。「高くそびえる鐘楼のある大きな広場〔モデナ市街の中心にあるグランデ広場であろう。そこには高さ86mのギルランディーナの鐘塔がある〕には、電飾と旗が縦横に張り巡らされている。共産党の女性たちは、破れた靴と大きな鼻をしたベファーナの魔女に扮している〔第二次世界大戦後、イタリア共産党は “ムッソリーニ政権が、慈悲深い国家の象徴して始めたファシスト・ベファーナ” を、魔女に扮装した「共産主義の女性たち」を、労働者階級と社会の連帯の象徴に変えた〕。広場では、アルシードとローザが赤ワインを飲んで踊っている。リーヴォ、ルツィオと僕は学校の友達と遊んでいる」。トマシーノとの出会いは一部似ている。「合唱団を作るために並ばされると、僕は、真っ黒な巻き毛をヘアジェルで後ろに梳かした少年のすぐ隣にいる。誰なのかほとんど見分けがつかなかい。『アメリ、君なのか? 映画俳優みたいだ!』。『冗談はやめろ、トマジー。君こそ、サラミをどれだけ食べた? パチオチアみたいに太ってるぞ』」。マリウッチャとの出会いは、一歩進んで書いてある。「トマジーノと僕は、マリウッチャも人混みの中にいるに違いないと思い、探しに出かける」。「幸運なことに、突然現れたマリウッチャは、僕たちが最初に北に来た日に彼女を連れて行った夫婦に挟まれ、両方から手を握られて歩いている。マリウッチャはきれいだ」。2人を見つけたマリウッチャは「『うまくいってる?』と、強い地元訛りで尋ねる。そして、『お母さん、お父さん、こっちは南から来た友だちよ』と言う。この時、僕はマリウッチャがもう家に帰らないと分かる。なぜなら彼女はここで家族を見つけたのだから」。

3人は一緒になって走り出す。ルツィオが、相変わらず不機嫌な顔のロッサーナに、ブリキ缶投げを見せていると、そこにやって来たアメリーゴが、「ロッサーナもナポリから来たんだ。僕たちより後から汽車に乗って、僕と同じ学校に通ってる」とトマシーノに言うと、生意気ルツィオが、「彼女を君たちと一緒にするな」と、格が違うことを強調して侮辱し、ロッサーナ自らも、「私は帰りたい。ここにいるよう強制されたくない」と、珍しく自ら話す。ルツィオが 「ほら、君らと違うだろ」とアメリーゴに言うと、ロッサーナに向かって 「だれも、君を強制できっこない」と言うが、ロッサーナに片思いのルツィオは、「だけど、君が望むなら残ってもいいよ」と、無意味なことを耳元で囁く〔ロッサーナはナポリに行きたくてたまらないのに、何てバカな耳打ちを〕。ルツィオは さらに、アメリーゴに向かって、「君は、母さんのとこに戻ったらどうだ? だけど、今、彼女は喜んでるだろうな。邪魔者がいなくなったから」(1枚目の写真)。怒ったアメリーゴは、ルツィオと取っ組み合いの喧嘩を始めるが、祭典の途中なので止めさせられる(2枚目の写真)。原作には、全くない。なぜかというと、ロッサーナはとっくにナポリに帰っているから。

1人になったアメリーゴが歩いていると、デルナが男性と話している。「女性労働者たちは皆と一緒にステージに上がるが、男性の専門家に話をさせる。もう決定されたことだ」。「私たち(女性)だって、あなたたち(男性)と同じくらい政治のことはよく分かってるわ。私たちは、あなたたち以上にファシストと戦ってきたのよ。私たちは兵士たちに食べさせ、市民の服を縫った。銃だって撃った。何人かは、武勇勲章を授与されたわ」。それに対し男性幹部は、「たいしたことしてないのに、偉そうなこと言うな!」。「あんたみたいな人と同じ側に立ってやってるんだから、見返りがあって当然よ!」。男性幹部は、デルナの頬を思い切り引っ叩き(1枚目の写真、矢印)、「失せろ」と言う。それを見ていたアメリーゴは、共産主義者の赤いネッカチーフを投げ捨てる(2枚目の写真)。原作の24章には、「デルナが公現祭のパルチザン・フェスティバルを企画していた時、ある有力な同志が会合にやって来る。有力者はデルナと2人きりで話がしたいと言い出す。彼女が選挙運動のために自分がしてきたことをすべて彼に説明すると、彼は、子供たちのパーティーや貧しい人々のための慈善活動に集中したほうがいいと言う。僕は、2人の話を盗み聞きしようと、薪ストーブと食品庫の間の隙間に隠れ場所を見つける。デルナは有力者に、パルチザンと共に戦い、ライフルを使い、勲章を授与された女性が大勢いると話す。僕はマッダレーナ・クリスクオロの勲章と、彼女がサニタ橋を爆破から救ったことを思い出す。有力者は彼女も勲章が欲しいのかと尋ねる。デルナは、多くの女性たちは、ただ党に留まり続けただけでも勲章に値すると答える。その時、男はデルナの頬を強く平手打ちする。デルナは泣かない」。「何と言えばいいのか分からない。アントニエッタ母ちゃんなら、平手打ちを食らったら必ずやり返すだろう。同志に少なくとも2回やり返しただろう。しかしデルナは何もしない」。映画でも、原作でも、イタリア共産党の男性優遇、女性蔑視の体質が明らかだ、しかし、これはイタリアだけの問題ではない。当時のイタリア共産党が従ったソ連の共産党は、公式には男女平等を掲げていたが(世界に先駆けて女性参政権を認め、女性の労働参加を奨励した)、実際には女性は仕事と家庭・育児の両立という二重の負担を強いられた。政治の指導層においては、理念と実態が大きく乖離し、隠蔽された女性差別や女性蔑視が存在していた。女性がソ連の最高指導者の地位に近づくことはほとんどなく、共産党中央委員会などの権力中枢における女性の比率は非常に低く、実質的な意思決定過程から女性は排除されていた。党内にける女性の地位向上を要求したデルナに対する最高幹部の平手打ちは、その象徴とも言える。

その夜、アメリーゴは夕食の皿をテーブルの上に置きながら、「母ちゃんだったら叩かれっぱなしではいなかっただろう。お返しに2発叩いていただろう」と言い、デルナは 「私には怖いものなんてない。戦争中、あらゆることをしたんだから」と、弁明する。「けど…」。「けど、私、どうして言い返さなかったのか、自分でもわからない」。「次は殴ってね」。「ええ」。「僕がルツィオにしたように。奴に思い知らせてやって」。「え? 君、一体何やらかしたの?」。「我慢して、我慢して、もう限界だった」。ここで、アメリーゴは話題を変え、「あなたの恋人、ほんとにルーポ(狼)って名前だったの?」と訊く。「そう呼んでたけど、本当の名前はジャコモだった」と言うと、すごく悲しそうな顔になる。アメリーゴは食べるのを止めて立ち上がると、デルナの背中をさすり、思わず涙を流したデルナは、アメリーゴの胸に顔をつける(1枚目の写真)。なお、この節の最初の文章は、前節の原作引用の最後の部分とほぼ同じ。ルーポに関しては、原作の26章に、「デルナは党の大会で彼に会った。彼女は男たちに囲まれて演説をしていた時、青年の集団が入ってきて、窓際に立った。デルナは周りを見回して、初めて彼に気づいた。彼女は真っ赤になり、考えがまとまらなくなりかけた」。「その青年は彼女に恋をし、戦後結婚したいと思っていた。しかし、彼は彼女より2歳年下で、党の幹部は2人の結婚を望まなかった。彼らは自由を口にしながら、党員には自由を認めない。特に女性を。ダーナは不快な結果を受け入れて耐えた」と書かれている。まさに、ソ連流の女性無視の考え方だ。 

学校では、ロッサーナがトイレに行くと教室を出て行ったきり戻ってこない、という事件が起きる。夜になり、多くの人々が、手に松明を持ち、「ロッサーナ!」と呼んで捜索に当たる(1枚目の写真)。アメリーゴの部屋の窓に、石が当たったので、窓を開けると、下にルツィオがいる。「ルツィオ、どうした?」と訊くと、「下りてきて」と言う。アメリーゴが下りて行くと、「ロッサーナが死んだ。僕のせいだ、死んじゃった。どの道を行けばいいか教えたのは僕だ。僕の責任だ」と、動転する。「何言ってるの?」。「あの子、出て行きたがってた。だから、僕、あの子に、農園の裏にある線路を辿っていけばモデナに行けるって話したんだ」(2枚目の写真)。「正気か?」。その言葉で、ルツィオはアメリーゴに泣きながら抱き着く。次の場面では、ランタンを持った2人が、線路の真ん中を歩いている。そして、「ロッサーナ!」と呼ぶ。しばらく歩くと、線路の脇にロッサーナが座っている。早速、ルツィオが、「家に帰ってきて。みんなが君を探してるよ」と声をかける。ロッサーナは、「いや。ここから動かない。そこに死体があるの」と言う。アメリーゴが、「何言ってるの? どこ?」と訊く(3枚目の写真)。ロッサーナは振り向いて死体のある方を見る。「心配しないで。ここにいて、確認しに行くから」と言うと、アメリーゴはランタンを持って見に行く。そこには、骨だけになった兵士の死骸が横たわっていた。アメリーゴは、「ただの死んだ動物だよ」と嘘を付き、2人の所に戻ると、「僕について来て、死骸を避けて行こう」と言うと、もう1本の線路を通って、もと来た方角に戻る(4枚目の写真)。映画では、ロッサーナが来てから、この事件が起きるまでに、①小麦の新芽、②アメリーゴの誕生日、③バイオリンの稽古、④5月1日のパーティ、とかなりの時間が経過したが、原作では22章でロッサーナが学校に来た数日後の23章でもう行方不明になる(トイレに行くと言っていなくなるのだけは同じ)。家に帰る途中で、ルツィオが 『大人はいつも全てを決める。僕たちが何を望もうが どうだっていいんだ、君もだ。ここに来たくなかった。強制的だろ?』と言い出す。夜になり、アメリーゴは、ベッドの中で自分にあったこと、ロッサーナのことを考えているうち、ルツィオの言ったことが正しいに違いないと思う。さっそく、リーヴォを呼ぼうと、ライトを点滅させる。何度も繰り返すと、反応があったので、アメリーゴは服を着て家を出て行く〔一軒家と書いてあったが、窓の光で合図が届くのなら、ローザの家はそれほど離れていない〕。すると、ランタンを持ったルツィオがやって来る。アメリーゴは、『ロッサーナがどこに行ったか、見当がついたよ。バス停までの行き方知ってる?』と訊く。『行こう!』。「30分以上歩いて、バス停に着いた。ボローニャ行き最終バスが発車しようとしている。エンジンがかかり、ヘッドライトが切符売り場を照らす」。アメリーゴがルツィオと一緒に待合室に行くと、ロッサーナが中にいる。「僕は、ルツィオに そこにいて、黙っているよう合図すると、彼女にゆっくりと近づいて行く。僕が彼女の隣に座ると、彼女は飛び上って逃げ出そうとするが、どこに行けばいいか分からず、立ち止まる。僕はコートのポケットからチーズの塊を取り出して彼女に差し出す。彼女は、何も言わずに受け取ると2口で食べてしまう。今朝から何も食べてないんだ。『慣れてないから変に感じて当然だよ』。『あんたに何が分かるの? 私はあんたとは違う、他の誰とも違うのよ』『私、故郷では何一つ不自由したことがない。私がどこに住んでたか知ってる? 街で一番美しい通りの一つよ。私は、体面を重んじる父のために、無理矢理ここに送られたの。父は、これが 良き模範になると言ったわ。母は懇願したけど、拒否したのよ。家族の中で一番年下なのに、なぜ私なの? なぜ私じゃないといけないの? そんなの不公平よ!』〔父も悪いが子も悪い。共産党の幹部は、こんなにひどいのか?〕。連絡が届くと、市長がすぐに飛んでくる。そして、『何と幸運な夜だろう。一気に3人の勇敢な子供たちが集まるとは』と声をかけると、ロッサーナに『だが、あなたは大きな間違いを犯している。ローザのトルテリーニを味わう前に、ましてやモルタデッラも食べずに逃げ出すなんてありえない』と冗談を交えて言う。「ルツィオは、ロッサーナの髪から落ちた赤いリボンを拾い、ポケットに入れる」。市長は3人をローザの家に連れて行く。そこは真っ暗で、ローザは牛小屋で牝牛から子牛を取り出しているところだった。それを見たロッサーナは悲鳴を上げて逃げ出すが、戻って来て牝牛の鼻を撫でる。一方、ルツィオは子牛にアメリーゴと名前を付ける〔以前、簡単に紹介したことだが、アメリーゴの名を付けたのは、感謝の心からだと分かる〕

翌朝、アメリーゴから話を聞いたデルナが、死骸のあることを警察に電話し、アメリーゴが正確な場所を教えるために現場に行く。そして、死骸が運び去られる前に、コインを目の穴に入れる(1枚目の写真、矢印)。後ろで待っていたデルナに理由を訊かれると、「カプッツェッレ(頭蓋骨)墓地のシニョーレのように、目にコインを置いたの。そうやって死者を追悼するんだ。生き続けるための力が持てるように」と説明する(2枚目の写真)。映画では、ロッサーナについて、事後談は何もない。原作の23章の最後には、「翌日、学校でレニン校長が僕とルツィオを校長室に呼び、胸にメダルと赤・緑・白の勲章をピンで留める」。「休み時間に、ロッサーナがさようならを言いに来る。きれいな水色のドレスを着ている。初めて僕たちに満面の笑顔を見せると、父さんが来て、家に連れて帰ってくれると話す。ルツィオはポケットから赤いリボンを取り出し、ロッサーナに渡す」。彼女は、『これを私だと思って持っていてね』と言う。「ベニートもおたふく風邪にかかり、みんなが僕の隣に座りたがる。ルツィオは、『そこは僕の席だ。僕は彼の兄だ』と言う〔ルツィオが、アメリーゴの一番の親友になった瞬間〕

小麦が実り、畑は黄色に染まっている。中から、「アメリーゴ!」と呼ぶ声が聞こえるが、小麦が茂り過ぎて姿が見えない。アメリーゴは、声のする方に入って行き、ルツィオを見つけると、2人は走り始める(1枚目の写真)。本当の兄弟のような仲の良さだ。リーヴォが2人を呼びに来る。デルナは、アメリーゴに持たせるローザ風のトルテリーニや、モルタデッラを挟んだパン、サラミなどを、汽車の中や、ナポリの家で食べられるよう用意している。そして、「手紙を書くわ。もしよかったら、手紙を書いてね」と アメリーゴに言う。「いいよ」(2枚目の写真)。「いよいよだね。お母さんに会えるわ。君の町で。嬉しい?」。「うん」。「さあ、行って。みんな待ってるわよ」。隣の部屋では、リーヴォが、「お母さんの所に戻れて嬉しい?」と訊く。「とっても嬉しいよ」。アメリーゴはルツィオに、「僕が出てくの嬉しい?」と訊く。ルツィオはアメリーゴの肩に手を置き、「うん。でも、また戻って来るよね?」と訊く(3枚目の写真)。原作の27章。「畑は黄色になり、小麦は高く実っている」。「ローザは旅のためにサンドイッチを詰めた紙袋をくれる。僕のスーツケースに、ローザは持ち帰り用の自家製ラビオリと、桃、プラム、アプリコットのジャムの瓶を入れる。出発前に、僕は 家の裏にあるオーブンから ローザがチーズとサラミのパイを取り出すのを手伝う。ローザはそれを油を塗った紙で包み、さらに黄色と白の縞模様の布巾で包む」。「リーヴォとルツィオは、僕たちが一緒に作った木の小屋に3人の名を刻むため、動物小屋の外で待っている。僕たちは自分の名を書き、それからリーヴォがペンナイフを取り、3つの名の下に大文字で “ベンヴェヌーティ” と刻む」。「アルシードが僕を呼ぶ。『息子よ おいで。バスに乗り遅れる』。リーヴォとルツィオは、さよならを言いに来る」。

デルナとアルシードは列車の中まで入って来て、最後の別れをする。アルシードは、「頑張れよ、息子。君は上手だから、演奏を続けるんだ。ぜひ、また訪ねてくれよ」と、アメリーゴの頬から首を両手で挟んで名残惜しそうに話す(1枚目の写真)。アメリーゴは 「うん」と答える。アルシードが列車から降りると、デルナは何も言わずに、アメリーゴを抱き締める(2枚目の写真)。デルナも列車を降りると、アメリーゴは、列車が動き出すまでデルナと手をつないでいる(3枚目の写真)。こうして、子供たちを乗せた汽車は、北から南へ戻って行った。デルナは、アメリーゴが見えなくなると、泣き出す。原作の27章には、「列車は子供たちで一杯だったが、僕たちが来た時より数が減っている。マリウッチャのように、北の新しい両親の所に残った子もいれば、ロッサーナのようにホームシックと怒りに耐えきれず、既に帰ってしまっている子もいる」。「アルシードが僕と一緒にコンパートメントに入り、スーツケースとバイオリンケースを棚に置く。デルナが窓の外から僕の手を握る。彼女は何も言わず、僕も何も言わない。列車が動き出すと、デルナの指が僕の指から抜け、彼女はどんどん小さくなり、ブラウスは小さな白い点になる。たくさんの子供たちの中で、僕はまた一人ぼっちだ」と書いてある。

アメリーゴは、トマジーノと一緒に座る。トマジーノはシャツのボタンを外し、「北の母がくれたんだ」と言うと、中から札束を出して見せ、「これは汽車に乗るためのお金なんだ。僕が好きな時に戻れるように」と言う(1枚目の写真)。アメリーゴは、ズボンのポケットに触ってみて何も入っていないことを確かめると、「待ってて、すぐ戻る」と言い、トイレに行く。そして、半ズボンのサスペンダーを外すと、シャツのボタンを外し、確認のために下着だけになってみるが、中には何も入ってない(2枚目の写真)。これは、“帰ってくるな” ということかと誤解したアメリーゴはがっかりする。ここで、いきなり、画面は、映画の冒頭(1994年)の続きになり、母の死を知らされたベンヴェヌーティが、電車の一等車から降り、子供の頃住んでいた通りにやって来る(3枚目の写真)。そして、家に入ったところで、再び1947年に戻る〔これは原作に従ったもので、ひょっとしたら1946年なのかもしれない〕原作の27章の最後には、「トマジーノはジャケットを開け、北の母親が縫ったもの見せてくれる。母親が裏地にお金が縫い込んだそうだ。寂しくなったら、また北に戻れるようにと」。「僕が、ジャケットの裏地を軽く叩くと、隠しポケットが縫い付けられていないことが分かる。デルナは僕に戻るお金をくれなかった」と、映画よりあっさりした記述になっている。原作の第4部の38章には、ベンヴェヌーティが死んだ母の部屋に入った時の印象を、「静かにノックするが、誰もドアに現れない。ドアを押すと開く。半分閉じた雨戸から、光が僅かに差し込んでいる。テーブルと椅子、キッチン、バスルーム、そして暗い隅に置かれたベッド… アパート全体を見渡すのに1秒で十分だ。すべてがほぼ以前と同じ状態… 編み座の椅子、床の六角形のタイル、昔使っていたのと同じ古びた茶色のテーブル。テレビの上にはあなたが手作りしたレースの敷物が乗っていて、あなたの誕生日に私は贈ったラジオもある。コート掛けに掛かっているあなたの花柄コート、あなたの母のフィロメーナが編んだ白いベッドカバー。唯一欠けているのはあなただ」と綴っている。

ナポリでのアメリーゴと母との出会いは家で。「母ちゃん!」。「疲れた? 長旅だった?」。「とっても長かった。なかなか着かなかった。持ち帰るもの、いっぱいくれたんだ。サラミもあるよ」(1枚目の写真)。「お腹空いた?」。「デルナが、サラーメ・ローザ〔ピンクのサラミ〕のサンドイッチ 作ってくれた。食べてみて、おいしいよ。モルタデッラっていうんだ」。「これ何なの?」。「バイオリンだよ」。「北じゃ、お前を音楽の先生にまでしたんかい?」〔実に意地悪な言い方〕。「僕の名前が書いてあるよ」。「字なんか読めない」。「じゃあ、弾いてあげる」。「いいかい、こんなくだらないことに構ってる時間はないの」(2枚目の写真)「ソラチァニエッロと話したんだ。お前は工房に行くんだよ。そして仕事を覚える。上手になれば報酬まで支払ってくれるから」。一方的に決めたことを命令調で言うと、バイオリンのケースを取り上げる。「やめて!」。「今は、必要ない」。そう言うと、以前コーヒーの袋を隠していたベッドの下に入れる。まさに鬼畜のような母親だが、原作の第3部28章でも、少し長いので半分カットしたが、内容は同じ。アメリーゴは、駅で、迎えに来た母に、「僕は全速力で走り、後ろから抱きつく」。「帰り道、ずっと僕だけが話す。母ちゃんは何も尋ねず、前を見つめたまま黙って歩いていく。僕は、北の家、食べ物、学校のことを話し続けるが、母ちゃんが聞いてくれているか分からない」。「母ちゃんがドアを開ける。ここには僕の部屋はない。ベッドさえない。母ちゃんのベッドの下、カパ・エ・フィエロの持ち物がしまわれていた場所を覗いてみると、空っぽだった。『彼はいなくなった。これからはお前とあたしだけ。何とかしないといけない』」。『何か食べたい? 旅でお腹空いてない?』。「彼女は、テーブルにコップ一杯の牛乳と、昨日の古くなったパンを置く。前は、毎日食べてたのに、今は貧相に見える。僕は、スーツケースを開け、ジャム、ソフトチーズ、ハードチーズ、ソーセージ、モルタデッラ、チーズとサラミのパイを取り出す。黄と白の縞模様のティークロスに包まれたパイ。昨日の朝、ローザが作ってくれた生パスタも」。『試してみて。自家栽培の木の実で作ってあるよ』。「母ちゃんは首を横に振る」。『お腹空いてないから、お前がお食べ』。「彼女は、僕の服、ノート、教科書、ペン、鉛筆を取り出す。そして、バイオリンを指しながら、『まさか、あっちで、ミュージシャンにさせられたなんてこと、ないわよね?』と言う。『北の父さんが、僕ために特別に作ってくれたんだ。僕の名前も書いてあるよ』。『読めないわ』。『どんな音か聞いてみたい?』。『靴職人に話したら、靴修理の手伝いのお前を雇うと言ってくれた。最初は無給で働いて技術を学ぶ。腕が上達したら、少しは給料をくれるって』。『フェラーリ先生は、僕は数学が得意だって』。「『そのフェラーリって人は、あたしたちが生きてけるように毎月お金を送ってくれるとでも言うの! お前の母さんが泥棒じゃなく、正直な働き者だって、ちゃんと言ったの?!』と、彼女は叫ぶ」。「彼女は部屋の中を歩き回り、僕が持ってきたものをすべて拾い集める:服、ノート、食べ物。彼女がどうするつもりなのか、僕には分からない」。「『そんなものは置いて。もう要らないから』と母ちゃんが言う。僕の名前が入ったバイオリンとケースはベッドの下に押し込まれ、僕は何も言わなかった」。アントニエッタは、母親としては完全に失格で、子供を生活の道具としか考えず、愛情のかけらもない、ロクデナシの最低の人間であることが良く分かる 。

アメリーゴとトマジーノが、屋外の階段に座っている。トマジーノは 「母さんは、2週間に1回、マッダレーナから小包を受け取るんだ。チーズと野菜を送ってくれる。すごくたくさんね。北の母さんは、ジャガイモのタルトを作るんだけど、南の母さんが大好きなサラーメ・ローザまで入れてくれるんだ」と話し、それをアメリーゴが悲しそうに聞いている(1枚目の写真)。トマジーノが、「君の方は? 何もかい? でも、心配するな。きっと、何もかもいっぺんに君に届くよ」と慰める。「3ヶ月経った。僕のことなんか、もう忘れちゃったんだ」。原作の30章には、「『君の北のお父さん、また手紙くれるの?』。僕は、『ううん』という返事を期待してトマジーノに訊く。僕は、南に戻ってから1通も受け取っていなかったから。デルナは、週に1回は書くと言ってた。もう3ヶ月経ったのに、1通も届いていない。『いつもだよ』と、トマジーノが幸せそうに言う。『彼、小包も送ってくれるんだ。オイル、ワイン、サラミ。みんなの写真も』。彼はしばらく黙っていて、それから僕を見る。『君はどうなんだ? まだ何もか?』。僕は肩をすくめて、答えなかった。『母さんは、2週間おきにマッダレーナの所に小包と手紙を受け取りに行くんだ。荷物はいつもそこに届いていて、連絡が途絶えることなんてないんだ』」。非常に重要な会話なので、映画でも、ほぼそのまま再現されている。映画に戻り、その日の夜、アメリーゴが貧しい夕食を食べている。「ほら、食べて。働いたんだから。ソラチァニエッロはどう言ってる? お前、ちゃんとやってるか?」。「うん」。「彼、何か教えてくれた?」。アメリーゴは、「僕に手紙が来たかどうか訊きに、マンダレーナの所に行った?」と尋ねる。「もう言ったでしょ。何もないって。いつから、給料を払ってくれるって?」(2枚目の写真)。アメリーゴは何も言わない。「アメリ! いつ給料でるの?」。「いつ、訊きに行ったの?」(3枚目の写真)。「おやめ! 何もないって言ったでしょ!」。後半の部分は、原作にはない。

ソラチァニエッロが、アメリーゴに、「アメリ、家にお帰り。時間だよ」と言う。アメリーゴが帰り支度をしていると、「アメリ、北はどんなだ?」と訊く。「落ち着いていて、話すと、ちゃんと聞いてくれるよ」と答える(1枚目の写真)。「マリウッチャは、二度と帰ってこなかった」〔彼は、マリウッチャの父〕。「正解だった」〔アメリーゴは、自分も帰らなければよかったと思い始めている〕。アメリーゴは、ナポリの音楽院の中に入って行き(2枚目の写真)、それぞれの部屋で、いろいろな楽器の練習をしているのを、ドアのガラス越しに羨ましそうに眺める。そして、家に戻ると、母がいないのでバイオリンに触ってみようとベッドの下を見るが、あるはずのバイオリンがなくなっている(3枚目の写真)。アメリーゴは狭い家じゅうを探すが、元々、ベッドの下以外に置き場所などないので、どこにもないことが分かる。原作の31章の最後の方に、「僕はドア開ける、そこに母ちゃんはいない」。「僕は、床に横になり、ベッドの下に腕を伸ばす。そこには何もない。僕は立ち上がり、電気を点け、もう一度見てみる。僕のバイオリンは、そこにはない。ベッドの下には何もない」と書かれている。

アメリーゴは、トマジーノの話を思い出し、ひょっとしたらと思い立つ(1枚目の写真)。原作の31章のラストに、「突然、トマジーノの言葉が頭を過(よぎ)る。2週間ごとに届く手紙と小包だ。僕は涙を拭うと、路地裏を走り出す」とある部分だ。アメリーゴは、マンダレーナの事務所に行くと、彼女は会議で、1947年5月1日に起きたポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺について話している最中だった。しかし、アメリーゴの姿を見ると、マンダレーナは会議を中断し、立ち上がると、「アメリ、ずっと待ってたのよ。君に何かあったのかと思ってた。見損なったわね。君、あの人たちに面倒見てもらったんでしょ? 彼らは君を世話した。私が言いたいのは… 彼らは君を息子のように扱ってくれたのだから、せめて礼儀として手紙ぐらい出すべきだった。お母さんは、君が全部取りに来るって言ってたわよ。だから、待ってたのに…」。そして、箱の中にあった、厚さ数センチの手紙の束をアメリーゴに渡す(2枚目の写真、矢印)。「実は食べ物の入った小包もあったんだけど、取りに来なかったから、困っている人たちにあげたわ。腐ってしまったら、もったいないものね」。ここで、マンダレーナはアメリーゴの様子がおかしいのに気付く。「どうしたの?」「お母さんから何も聞いてないの?」(3枚目の写真)。心配したマンダレーナは、「ちょっと待ってて。会議が終わったら、一緒に素晴らしい返信を書きましょう。郵便局でトラブルがあったけど、結局は全部受け取ったっていうことで。それでいい?」と提案する。しかし、アメリーゴは、手紙の束を持ったまま、何も言わずに走って部屋を出て行く。原作の32章には、「僕は、階段を駆け上がり、“クリスクオロ” と書かれたドアをノックする」から始まる類似した状況が書かれている。中に入ったアメリーゴをマンダレーナはイスに座らせ、封筒の束を持って戻って来る。『君が来るの、3ヶ月も待ってたのよ。そんなに忙しかったの?』。「『僕を待ってたの? 何のため?』。僕は困惑して尋ねる」。『せめて、返事くらい送らないと。この人たち、半年も君の面倒を見てくれたのよ。息子のように接した上に、こうして手紙まで送り続けてくれている。お母さんは、君が手紙を取りに来るって言ったのに、クリスマスも過ぎ、もう公現祭なのに、放置されたままじゃないの』。「彼女は、僕に手紙の束を渡す。デルナやローザ、アルシードや北の兄からのだ。突然、彼らの声、彼らの顔、彼らの匂いが僕の頭の中で爆発する。僕は、イスから飛び上がり、すべての手紙が床の上に散らばる」。『食べ物の小包も幾つか送られてきたけど、誰も来なかったので、困っている人に配ったわ。無駄にしたくなかったから』。「何も言えない。僕は床に座り込み、デルナの名前と住所が、小さくて整然とした筆跡で書かれた封筒を1つ手に取る。あまりに上手なので、僕は封筒を両手でしっかり、封筒の端が少し破れてしまうほど強く握りしめる。僕は立ち上がると、手紙をポケットに入れる。マンダレーナは僕のところに来て、手を伸ばして髪を撫でようとするが、僕は頭をそらす。僕は、11月の朝に汽車に乗ったのと同じ子じゃないんだ」。「『お母さんは、何も話さなかったの?』とマンダレーナは言い、何があったか気付く」。「あと1秒でもここにいたら泣いてしまう。でも、今は泣いている場合じゃないと思う」。「『分かった、心配しないで』とマンダレーナは言う。『何とかしましょう。さあ、紙とペンを持って、一緒に答えを探そうじゃない』」。「僕は、『母ちゃんはひどい』 とだけ言い、家から走り出る。他の手紙は残したまま」。

家に戻ったアメリーゴは、母が帰ってくるのをじっと待っている。そして、母がドアを開けて入って来ると、母を睨む(1枚目の写真)。母は、最初、アメリーゴがいることに気付かないが、靴を脱いで振り返った時、自分を睨みつけているアメリーゴに気付く(2枚目の写真)。「そこで何してるの?」「具合が悪いの?」。「僕のバイオリン、どこ?」「どこにあるか知りたい!」。「貧しい者の物じゃない」。「あれは僕の物だ! どこにある?!」(3枚目の写真)。「質屋よ。そのお金で食べ物を買って、お前に新しい靴を買い、少しは取っておいた。何が起きるか分からないからね」。原作の33章。「僕のバイオリン、どこ?』と、僕はベッドから動かずに言う。彼女は、すぐには返事しない。しばらくして、『来なさい、風邪ひくわよ』と言う。『僕のバイオリン、どこにあるか知りたい』。僕は声を震わせて言う。『バイオリンは食べることができない。バイオリンは食卓に食べ物がある人のためのものよ』。『あれは僕のバイオリンだ! どこにある?!』 僕は今度は叫んだ。『あるべき場所よ』。彼女は、僕が怒鳴ったのに、静かに言う。彼女はテーブルから立ち上がると、ベッドに寝ている僕の横に座る」。「『バイオリンのお金で食べ物と、お前に新しい靴を買うことができた。お前の足は雑草みたい早く伸びるからね。万が一のため、少し残しておいた。神のおぼしめしだよ』」。

「アメリ、あたしたちは、非常に厳しい状況にあるの。目を覚ましなさい、これが現実なのよ。お前は、いつも、心ここにあらずね。そんなじゃ病気になってしまう。お前のためにやったのよ」。「嘘つき!」(1枚目の写真)と言うと。アメリーゴは持って来た手紙の束を母に投げつける(2枚目の写真)。母は、アメリーゴの頬を思い切り強く引っ叩く(3枚目の写真)。原作の33章。「『自分をつねって、夢から覚めないといけないね、アメリ。これが現実なのよ。お前は一日中、夢遊病みたいにうろついている。心ここにあらずといった感じに。もう十分。病気になりたの?』」。「彼女は、僕を抱き締めて言う。『お前のためにやったのよ」。「嘘つき…』。僕が、言葉を終える暇もなく、彼女の平手打ちが頬に当たる。あまりに強く、舌が歯の間に挟まり、鋭い痛みにそれ以上何も言えなかった」。

その晩、母が眠ったのを確認すると、アメリーゴはベッドから出て服を着る(1枚目の写真)。そして、靴を持って外に出て行き、ドアの横で靴を履く。履き終わると、誰もいなくなった裏通りを走り去る。ここで朝の駅に場面が変わる。発車間近の北行きの汽車がホームに停まっている。原作の34章の冒頭は、「僕は家から飛び出して通りを走り抜け、人混みに飲み込まれないよう路地裏を通る」という文から始まる。そして、35章の冒頭は、「駅には本物の汽車が停まっている。僕が最初に乗ったのと同じだが、子供たちは乗っていない」という文から始まる。映画に戻り、1人でいるアメリーゴを見た集札係が、「おい、1人でどこに行く?」と質問する。アメリーゴは、「この汽車、すぐに発車するの?」と訊く。「そうだ。でも、お母さんはどこにいる?」。アメリーゴは、目に入った最初の子連れの女性を指し、「あそこにいるよ」と言い、走って行って女性と、他の男性の間に割り込む(2枚目の写真、矢印)。小さな女の子を連れた女性がコンパートメントの片側に座ると、アメリーゴは、その向かい側の窓際に座る。8歳の子が1人で長距離列車に乗っているので、女性は、「あなた1人なの? どこに行くの?」と訊く。アメリーゴは、「モデナにいる叔母のところです」と言い、デルナから来た封筒を見せ、「ここに行って、叔母と一緒に住まなければならないと書いてあるんです」と説明する。「お母さんは?」。「亡くなりました」(3枚目の写真)。その言葉に、女性は同情する。汽車が動き出すと、アメリーゴは立ち上がり、窓越しにベスビオ火山が映る(4枚目の写真)〔実際には、駅の線路の角度から、ベスビオ火山は見えないし、12km離れているのでこれほど大きくは見えない〕原作の35章には、「集札係がプラットホームにやって来る。僕は汽車が発車するかどうか尋ねる。彼は、『もちろん、発車する。見栄えのためにここに停まってると思うのかい?』と言う。そして、こんな時間映画では朝だが、原作では夜〕、僕がここで何をしてるかと質問する。僕は、母と父と兄のルツィオと一緒にボローニャに行かなければならない、それはボローニャに住む叔母を訪ねるためで、僕の両親はこの列車でいいか確かめるために僕を寄こしたんだと話す」。『気をつけろよ。夜は悪い奴らがいる。お母さんの所まで連れて行ってやろう』。「僕は、プラットホームの端にいる女性を見つけたので、『あそこにいるよ』と言って、女性の方に走って行くふりをする。振り返ると、集札係は反対方向に歩いていく」。「僕は見知らぬ女性の近くに立ち、列車の扉が開くのを待つ。一緒に列車に乗り込むと、女性は席を探し始める。僕は、どこに座ったらいいか分からない。さっきの集札係か、別の集札係が僕を見つけ、降ろすんじゃないかと思うと怖い。女性には2人の子供、男の子と女の子がいて、男の子は、すぐに母親の腕の中で眠ってしまう。僕は、同じコンパートメントの向かい側に座り、窓に顔を押し付ける」。「女性は、『1人だけでどこに行くの?』と訊く。『家出でもしたの?』」。『母ちゃんが、亡くなったんです』。そう言うと、「ポケットからデルナから来た手紙を取り出して見せる」。女性は、映画よりも親切にアメリーゴの面倒を見てくれる。そして、原作は、ここで第3部を終える。つまり、モデナに着いてからの8歳のアメリーゴについては、何も書かれていない。

三度目の1994年。ベンヴェヌーティはベッドの下を探り、驚いたことに、アルシードにもらったバイオリンのケースがあったので、取り出してベッドの上に置く。そして、蓋を開けると、バイオリンが入っている(1枚目の写真)。中には1枚の紙が入っていて、「一番上に大きく、Monte di Pietà Mapoli」と書かれている(2枚目の写真)。“Monte di Pietà” は中世末期イタリア発祥の慈善目的の公営質屋。そして、質屋から買い戻した日付は、1947年12月4日。映画では、恐らく1946年の2月頃に汽車に乗り、半年後の8月頃にナポリに戻り、3ヶ月後の11月頃に逃げ出したので、母は、その1年後にバイオリンを取り戻したことになる。何とも半端な時期で、動機が良く分からない原作なら1946年の12月の初め頃に汽車に乗り、1947年の9月の初め頃にナポリに帰り、3ヶ月後の12月の初めに逃げ出すので、逃げ出してすぐに反省して質屋から買い戻したことになるのだが〕。それを見たベンヴェヌーティは泣き始めるが、その理由も分からない。二度目の1994年の際、原作の第4部の38章の冒頭を紹介したが、その続きを読んでも、ベンヴェヌーティがベッドの下を探したとは書いてない。なぜ、調べなかったかも不明だが、映画では、なぜ調べたのだろう。それは、恐らく、ベンヴェヌーティに泣かせるため、“母のアントニエッタが悪い人間ではなかった” と観客に訴え、映画の結末にミスリードするための小細工としか思えない。

映画のラストは、家から二輪車付きの自転車で出て来たデルナ(1枚目の写真)と、駅で降りてから延々と歩いてきたアメリーゴ(2枚目の写真)が、お互いの存在に気付き、2人とも走り始め(3枚目の写真)、途中で抱き合って喜ぶ(4枚目の写真)。この感動的な場面の背後に、監督の許されざる “意図的にミスリードさせる” ためのアントニエッタの声が流れる。「お前が逃げ出した時、あの女(デルナ)があたしを訪ねてきた。あたしは、もしあんた(デルナ)が彼(アメリーゴ)を手元におきたいのなら、そうすればいいと言った。そうじゃないなら、すぐに戻せとも。あたしはお前が戻るのを待ってた。お前を迎えに行くこともできたけど、あたしはしなかった。時には、お前を手離す人が、お前を引き留める人より、お前をより愛していることがあるんだ」。背景には、アントニエッタとアメリーゴが抱き合う不愉快な映像が流れる。バイオリンを奪い去り、アメリーゴをタダ働きさせて靴屋の奉公人にさせようとした女、北からの手紙をすべて封じて、関係を絶とうとした女が、こんなことを言っても信じられるわけがない。デルナとアメリーゴの抱擁で終えておけば最高に良かったものを。

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