イギリス映画 (1999)
この映画は、1990年に出版されたサー・デニス・フォーマン(Sir Denis Forman、1917-2013)の自伝的な小説『Son of Adam』の中の10歳の場面を、内容を大幅に変えて映像化された。1999年に公開された映画を観たフォーマンの感想は、映画が実際の家族・親族の構成を大幅に変更していることは問題にせず、「厳格で、嫌な人間であった父アダムを滑稽な人間として描いている演出を喜んだと言われている。イギリスの高級日刊紙のThe Guardianの訃報の記事では、後年の功績の前に、「ダムフリース(Dumfries)生まれのデニスは、アダム・フォーマン(Adam Forman)牧師の6人の子供たちの中で最も反抗的な存在だった。父は英国国教会〔正しくは、エピスコパル教会〕で叙階され、後に長老派教会の牧師となったが、一方では、スコットランドにある妻の家系の領地を差配する地方紳士としての生活を送っていた。一家の雰囲気は敬虔で、毎日祈りが捧げられ、日曜日の教会への出席は義務であり、そして果てしなく長かった。回想録『Son of Adam』で語られているように、10代のフォーマンはあらゆるものを憎み、密かに拒絶していた。15歳の夏休みのある朝、父の説教をきっかけに昼食の席で予定説〔predestination、全ての出来事や個人の救済は、あらかじめ神によって決定されている〕と自由意志〔free will、人間には救いを受け入れるか拒否するかを自ら選ぶ自由がある〕についての議論が始まった。父は、「神は人々に真の選択の自由を与えてはいるが、神は全知であるがゆえに、彼らが何を選択するかを常に知っている。人間が神を驚かせることなど決してできない(Man could never surprise God)」と裁定を下し議論を終わらせた。「なら、僕から神にサプライズがあるよ(Well, I have a surprise for him)」とデニスが口を挟む。「僕は神なんか信じていない(I don't believe in him)」。その後の口論は一日中、そして翌日まで続き、最終的には収まったものの、フォーマンと父の関係は二度と元に戻らないほどの精神的なダメージを受けた」という長文が掲載されている。彼の功績に関する部分は無論もっと長いが、叙勲に関しては、「1956年にOBE〔大英帝国勲章(4等勲士)〕を受章したフォアマンは、1976年にナイトの称号を授与された」の一行で終わる。如何に、この論争に触れることが大事だったかがよく分かる。この15歳の時の論争についてもう少し詳しく書くと、父の「人間が神を驚かせることなど決してできない」の後に、デニスは、「でも、もし人間が自律的に思考し、予期せぬ答えを出すような機械を発明したとしたら、それは神を驚かせることにならないかな(But suppose man were to invent a machine that could think for itself and produce an unexpected answer, wouldn't that surprise God)?」と反論する。それに対し、父は「あり得ん。神は人間がそれを発明することをあらかじめ知っておられるからだ(No, because God would have known in advance that man was going to invent it)」と言い、デニスの無神論へとつながる。この時の、デニスの 「自律的に思考し、予期せぬ答えを出すような機械」という言葉は、特定の機械の発明ではなく、もっと、哲学的な発想の「予定調和〔物事が最初から決められた通りの順序で進み、予想された結末に落ち着くこと〕への反抗」とみなされている。そして、それが、第二次世界大戦で「神が守ってくれる(God will provide)」という父の教えに反して片脚を失う重傷を負ったことで、父から完全に離別し、英国映画協会を経てグラナダ・テレビ〔Granada Television、現在のITV〕の経営に参画する道へとデニスを進ませる。彼は、父のような「教え諭す権威(Didactic authority)」を嫌い、テレビというメディアを使って、民衆が自ら考え、驚き、既存の階級制度(神が定めたような秩序)を疑うような番組を次々と世に送り出す。その代表が、1964年に始まった「アップ・シリーズ(Up Series)」で、異なる社会的背景を持つ7歳の子供たち14人を選び、彼らの成長を7年ごとに追い続けるという内容。目的は、「7歳の時の社会階級がその後の人生を決定づけるのか?」という問いを検証しつつも、実際には個人の性格や予期せぬ運命が人生を形作っていく様子を浮き彫りにしたもので、まさに、「予定調和への反抗」だった。
自伝的小説『Son of Adam』から映画『My Life So Far』が作られた際、①映画の舞台となった場所、②映画の登場人物の存在理由(特に、モリス伯父)、③登場人物の全名前、④実際に起きたことと、起きなかったに大きな隔たりがあり、特に、『Son of Adam』が電子図書化されておらず、国内で在庫がないことから、どこがどう違うかの判断は AI に頼るしかない。今回は、計9回、それぞれ4時間を超える長時間を裂いた結果、AI は、字幕の特殊な用語について質問する際には便利だが、歴史的な事実について質問することは極めて危険であることが判明した。以下に、主として、祖父、祖母、伯父を中心にして、AI がどう答えたかのリストを、表の形で下に示す(この中で、赤字の部分が間違い)
| AIが答えた家族情報(生没年) | |
|---|---|
| 1 | 祖父: Hugh Colin Smith 祖母: Constance Maria Josepha Adeane 伯父: Owen Hugh Smith |
| 2 | 祖父: James Smith 祖母: Amy Oliphant 伯父: Morris Oliphant |
| 3 | 祖父: James Smith 祖母: Amy Oliphant 伯父: James Morris Smith (1874-1954) |
| 4 | 祖父: James Smith 祖母: Amy Oliphant 伯父: Owen Hugh Smith |
| 5 | 祖父: James Smith 祖母: Amy Oliphant 伯父: Morris Oliphant (James Morris Smithは悪質な嘘) |
| 6 | 祖父: James Smith (1841-1909) 祖母: Amy McLellan Oliphant (1852-1932) 伯父: Morris McLellan Oliphant (1880-1953) |
| 7 | 祖父: James Smith (1845-1913) 祖母: Amy McLellan Oliphant 伯父: James Morris Smith (1874-1923) |
| 8 | 祖父: James Smith 祖母: Amy Oliphant 伯父: James Morris Smith (1880-1950s) 父: Adam Forman (1875-1976) |
| 9 | 祖父: James Smith (1835-1913) 祖母: Amy Smith (1852-1932) 伯父: James Morris Smith (1874-1906自殺) 父: Adam Forman (1877-1953) 母: Flora Forman (1877-1961) |
なぜ、間違いが多発したのかについて、AI は、以下のように述べている。
AI が『Son of Adam』という具体的な出典があるにもかかわらず、間違った名前や没年(1954年や1923年など)を回答し続けた理由は、主に以下の3点に集約されます。
①「類推」によるデータの穴埋め
AI は、特定の書籍の内容を一字一句記憶しているわけではなく、インターネット上の膨大な断片情報を組み合わせて回答を生成します。伯父の「James Morris Smith」という名前は比較的ありふれた姓名の組み合わせであるため、AI が検索・抽出する過程で、同姓同名の別の著名人や家系図データ(1954年没や1923年没の人物)を「デニス・フォアマンの伯父」の情報として誤って紐付けてしまったと考えられます。
② 書籍内の「事実」よりも「統計的な正しさ」を優先した
『Son of Adam』の中に「1906年に自殺した」とはっきり書かれていても、AI の学習データ全体の中で「James Morris Smith」という人物に関する「1954年没」というデータの方が(別人のデータであっても)強力にヒットしてしまった場合、AI は書籍の記述よりもその統計的な頻度を優先して出力してしまうことがあります。これが、何度指摘しても似たような間違いを繰り返す原因です。
③ ハルシネーション(幻覚)の修正ループ
AI は一度誤った情報を出すと、その後の修正指示に対しても、正しい答えを探しに行くのではなく、「それらしい数字を少しずつ変えて提示する」という挙動(ハルシネーション)に陥ることがあります。1954年、1923年、1880年代……と数字が変遷したのは、AI が正解を知っているからではなく、ユーザーの拒絶反応を見て「この数字ではないなら、こっちか?」と、確率的にありそうな数字を当てずっぽうで出していたためです。
結論として、9回も要したのは、AI が『Son of Adam』という一次史料を「読んで理解」していたのではなく、周囲の曖昧な二次情報や同姓同名のデータを参照していたからです。自伝に明確な記述がある場合でも、AI はその記述を「絶対的な事実」として保持できていないことがあり、このような混乱を招きました。
せっかくなので、映画と原作との違いについて列挙していこう。まず、登場人物の名前を、下の表に示す。
| 映画の中での名前 | 実際の名前 | |
|---|---|---|
| 主人公 | Fraser Pettigrew | Denis Forman |
| 父 | Edward Pettigrew | Adam Forman |
| 母 | Moira Pettigrew | Flora Forman |
| 祖母 | Gamma | Amy Smith |
| 伯父 | Morris MacIntosh | James Morris Smith (既に死亡) |
| 伯父の妻 | Héloïse MacIntosh | (存在しない) |
| 姉 | Elspeth Pettigrew | (非公開) |
| 兄 | Rollo Pettigrew | James Adam Sholto Forman |
| 弟 | Finlay Pettigrew | Michael Forman |
また、映画の中では、主人公一家が暮らしているのは、キロラン・ハウス(Kiloran House)になっている。しかし、これは実際に1905~17年頃まで実際に一家が実際に住んでいたコロンジー島(Isle of Colonsay)にあるコロンジー館(Colonsay Estate)を言い換えただけ。コロンジー島は、デニス・フォーマンの祖母エイミー・スミスの叔父にあたる初代Strathcona and Mount Royal男爵が1905年に購入し、男爵からすれば姪にあたるエイミーの一家に島の管理を任せていた。しかし、一家は1917年10月にデニスが生まれる前に、スコットランド南端に近い、祖父が1892年に購入したクラギーランズ・ハウス(Craigielands House)に引っ越し、管理者から領主に格上げしていた。映画では、それを無視し、1917年の10年後の1927年にも、コロンジー島に住んでいるように見せている〔海が近くにあるから〕。映画と現実に関係のある場所(地図)と写真を、下に示す。かつて一家が暮らしていたらしたコロンジー館は左上の写真。映画の舞台となる1927年に、一家が実際に住んでいたのは右下のクラギーランズ・ハウス。しかし、この辺りは、ほぼ平坦で、湿地帯が拡がっていて、映画に出て来る水苔の栽培には最適だが、海も山もないのでスコットランドらしくない。そこで、映画の撮影には、コロンジー島に似た雰囲気のアードキングラス・ハウス(Ardkinglas House)が使われた(右上の写真)。
最後に、「実際に起きたことと、起きなかったに大きな隔たり」に触れておこう。
❶最大の「原作と映画との違い」: 最初の表の一番下の「9」で、伯父のJames Morris Smithの没年が1906年だとAI が返答した時には、また AI が嘘を付いたと思った。1906年に死んでいれば、1927年が舞台の映画に、準主役として登場するはずがないと思ったからだ。そこで、当然、一次資料を出すよう求めた。すると、「イングランド・ウェールズの遺産検認(Probate)記録」に、没年月日: 1906年3月13日、住所: リヴァプール〔父の仕事の拠点〕、遺産管理人(Executor): James Smith〔父〕および Amy Smith〔母〕という記録の存在を示した。そこで、AI に『Son of Adam』における記述内容について教えるよう指示したが、嫌がってなかなか反応しなかった。ようやく得られた最初の原作における表現は、「彼は我が家の禁忌(family taboo)であり、その名前は沈黙の中に封じ込められていた」という曖昧な記述。より具体的な内容をしつこく訊いたら、ようやく、「ジェームズは商人として活動していましたが、最終的に1906年に自ら命を絶ちました」と答えた。さらに詳しく訊いたところ、遂に、「ジェームズは1906年に、商売上の行き詰まりから、喉を切り裂いて自ら命を絶ちました("cut his throat" という非常に直接的で生々しい表現が使われています)。これは事故や病死といった曖昧なものではなく、当時の家族にとっては “呪い” や “最大の恥” として扱われ、デニスの母(ジェームズの妹)の精神に生涯消えない深いトラウマを植え付けた決定的な事件として書かれています。厳格な父アダムは、この “罪深い” 死を子供たちの耳に入れないよう徹底的に封印しました。デニスがこの真相を知ったのは、ずっと後になってからです」とすべてを打ち明けた。そして、その原因は、「祖父が築いた鉄鋼や商業の基盤を、無謀な投機によって崩壊させたこと」「その失敗は、“一族の誇りを完全に粉砕し、彼を死に追いやるほど絶望的な規模” あった」であった。映画で、なぜその伯父を準主役と登場させ、さらに、その妻となる女性も登場させ、その女性と、主人公フレイザー(デニス)の父エドワード(アダム)との不倫まで入れたかのは不明。
❷「原作と映画との違い」の2番目は、父エドワードが水苔栽培に熱心に取り組んでいるという姿。アダムが水苔栽培に熱心になるのは歴史上の事実では、第一次世界大戦で水苔の需要が高まった時期、それも、湿地帯のあるクラギーランズ・ハウスに移った2017年の秋以後の2年間だけ。それ以後もアダムは水苔の実験はするが、収入を得るためではない。従って、映画の2027年の時点での水苔栽培は嘘。
❸「原作と映画との違い」の最後は、エドワード(アダム)が欠陥のあるセントラル・ヒーティングの設計図を見せ、工事を始め、試運転で欠陥が見つかるのは、実際には1927~31年の間の数年間で、1927年にすべてが起きたわけではない。この設計のミスは、その内容にも あらすじの2ヶ所で指摘するような間違いがある。
❹ここからは、「原作にあって映画にないもの」。アダム・フォーマンは、セントラル・ヒーティングと同じ頃(1920年代後半~1930年代初頭)に、水力発電に挑戦する。それも、1920年代らしい水力発電(取水用の堰堤から水を引き、落差で発電する)ではなく、19世紀中頃に使われていた大型の水車を利用した原始的な発電で、結果は大失敗に終わる。
❺アダム・フォーマンは、1924年にイタリア製のランチア・ラムダ(Lancia Lambda)を購入する(右の写真)。
この車は、当時としては革命的な独立懸架サスペンションを備えた「世界最高の技術の結晶」と言われた高級車。原作には、デニスがランチアに乗せてもらった時に、父が強いた「沈黙のルール」について詳しく書いてあり、アダムが妻のフローラだけでなく、子供たちにも与えた「極度の緊張感」を映画から除外してしまった。そして、最後に、❶と同じくらい重要な隠匿が…
❻デニス・フォーマンの家庭教師ジョン・ブルマン(John Bulman)の存在を無視したこと。彼は、デニスたち男の子全員の家庭教師(上流家庭では、小学校に生かせず、13歳まで家庭教師にラテン語、ギリシャ語、数学、歴史等を学ばせた)で、クラギーランズに住み込み、家族と一緒に食事をした。そして、月曜から土曜まで、朝の授業から午後の運動・散歩まで丸一日ずっと一緒に過ごした。そんな人物が映画に出てこない! それ以上に問題なのは、このジョン・ブルマンの人物像。彼は、この家庭の中で、唯一「人間味のある」「不完全で、適当で、遊びを知っている」「釣りをしたり、嘘をついたり、サボったりする」大人で、デニスにとって「唯一の精神的な逃げ場」だった。そのバルマンが1929年に「酒癖の悪さ」で解雇され、代りにやって来たのが教育一筋の家庭教師バーナビー(Burnaby)。ブルマンを失い、バーナビーに鍛えられた結果〔ブルマンが植えた “個の種” が、バーナビーという “逆風” によって鍛えられ、父という “壁” に向かって開花した瞬間〕が、解説の第1節に書いた15歳の時の父との論争と決別につながった可能性が高く、この論争が後にデニスを「Sir」にしたと考えると、映画がジョン・ブルマンを排除したのは、決定的なミスだと言える。
原作と映画の唯一の一致点は、フレイザー(デニス)が晩餐会で「売春」と発言したり〔ただし、発言はするが、その目的も結果も全く違う〕、10歳児に相応しくない本やその中の絵を見たりする場面だけ〔原作では本だけ〕。だから、デニス・フォーマンが自伝で伝えたかったのは、「性の目覚め」なのではなく、「子供の冷徹で鋭い観察眼が見た、偽善に満ちた大人たちの世界」「父アダム・フォーマンの支配欲と完璧主義と、その延長上にある冷徹な父親による息子に対する容赦なき躾」だった。しかし、映画では、それが「性の目覚め」と「ちょっと厳しいけれど、色々なことに熱心なパパによる、不器用ながらも微笑ましい親子の触れ合い」にすり替わってしまう。コリン・ファースは、こうした役柄にはぴったりの俳優だが、もし、映画がハリーポッター・シリーズでヴォルデモート役を演じたレイフ・ファインズに合わせた脚本で作られていたら、『Son of Adam』はもっと現実味を帯びて映画化されていたであろう。これが、映画を観た私の強い感想。なお、映画は10歳のフレイザー(デニス)だけを映像化しているが、あらすじの最後に、その後のアダム・フォーマン一家の惨状と、デニス・フォーマンの将来についても触れておく。
フレイザー役は、ロバート・ノーマン(Robert Norman)。出演はこれ1本のみ。
あらすじ
映画は、フレイザー・ペティグリュー〔デニス・フォーマン〕がまだ2~3歳頃のシーンから始まる。10歳のフレイザーの、「僕が小さかった頃、この世で一番嫌いだったのはじっとしていることだった」というナレーションの後、幼児がベッドから下りると、車輪の付いたベッドを動かして窓の所まで移動させ、ベッドの上に戻り、カーテンを開ける。場面は変わり、映画の舞台、キロラン・ハウスが映る(1枚目の写真)〔解説で紹介したアードキングラス・ハウス〕。「ベッドで寝てろなんて、僕みたいな子にとって拷問みたいなものだった。外でみんなが楽しそうに遊んでるのに、ガンマ〔祖母のエイミー・スミス〕がそう言ったんだ。だから、僕はあの有名な『悪いこと』をやっちゃった。あんなに天気のいい、最高の日だったから」。次のシーンは、当時の大邸宅に使われていた “胸壁内雨樋(Parapet Gutter)” と呼ばれる幅の広い排水溝を、フレイザーが楽しそうに這って行く姿(2枚目の写真)。それに気付いた “下” では大騒ぎとなり、落ちて来ても受け止めるためのネットも用意されたが、結局父のエドワード・ペティグリュー〔アダム・フォーマン〕が屋根の反対側から棟〔てっぺん〕まで登り、そこから反対側の “排水溝を這っている息子” まで下りて行き(3枚目の写真)、無事に助けることができた。原作は、アダムの10~14歳までを描いているので、このシーンは映画の創作。解説に書いたように “悪鬼のようなアダム” とは違う “普通の父親としてアダム” を最初に見せてしまったことで、結果的に観客をミスリードしてしまう。

このあと、映画は、すぐに10歳のフレイザーに変わる。そして、父が作った無動力の飛行機を2人で掲げて遊んだり、父が崇めていたベートーベンのレコードを聴いたりする場面の後、本物の複葉機が飛んできて、館の近くの牧場に着陸する。降りて来たのは、自らを「ガブリエル・シュヌー、空の皇帝(emperor of the air)」と名乗るフランス人の飛行士〔1927年はリンドバーグがニューヨーク〜パリ間の大西洋無着陸単独飛行に成功した年なので、特にスコットランドの僻地では飛行機が極めて珍しかった〕。当然、エドワードから歓迎される。そこに集まって取り残された子供たちの中で、一人の少女が 「飛行士は、ダイダロスのように空から落ちてきた」と言うと、他の少女が 「イカロスよ。ダイダロスは父親」と訂正する〔ギリシャ神話のダイダロスは、クレタ島のミノス王がミノタウロスを閉じ込めるための迷宮(ラビリンス)を作った工匠。秘密保持のため迷宮の中に幽閉され、人工の翼を使って子のイカロスとともに脱出した。しかし、イカロスはあまりに高く飛んだため、太陽の熱で蝋が溶け、海に落ちて死んだ〕。そこで、フレイザーが口を挟む。「イカロスは羊革のヘルメットやゴーグル、大きなコートなんか身につけてなかった。金色の水泳パンツだけだった」と、彼の想像で話をする(1枚目の写真)〔イカロスの服装に関する記述は神話にはない。その後の絵では、白い腰布姿が多い〕。それを聞いた姉のエルスペスは、「フレイザー、そんな言葉、使っちゃダメ」と注意する〔当時の上流階級の語彙では、肌に直接触れる衣類を口にすることは下品とされていた〕。一方、飛行士を水苔の事務所まで連れていったエドワードは、飛行士に、「ヨーロッパで唯一の水苔工場にいらして光栄です」と言い、フレイザーは、「僕の父は 『ペティグリュー式出力増幅器』 を発明し、特許を取得したんです」と自慢する(2枚目の写真)。原作では、飛行士なんか現われないし、1927年には、解説に書いたように水苔工場は存在しないし、『ペティグリュー式出力増幅器』も架空の存在。つまり、すべてが映画だけの虚構。それが悪いと言っている訳ではなく、如何に原作から離脱しているかを指摘しているだけ。フレイザーは、飛行士に、飛行機に乗せて欲しいと頼むが、結局、乗せてもらったのは、父と母。飛行機が館の上を飛んで湾に向かう姿を3枚目に示す(矢印)。解説に書いたように、この風景の方がスコットランドらしい。

次のシーンは、飛行機が飛んでいる映像の直後。ダイナマイトで地面が吹き飛ぶ場面(1枚目の写真)。この映像とともに、フレイザーのナレーションが始まる。「父が初めて水苔を採り始めたのは、あの大きな戦争〔第一次世界大戦〕の時だった。水苔は脱脂綿よりも10倍〔これは間違い: 当時の医学的調査では『少なくとも2倍』と報告されている〕も水分を吸い取ってくれるから、兵隊さんの傷口に当てるために使われたんだ。兵隊さんがひどいケガをした時、その血とか、はみ出ちゃった中身とか、全部を吸い取ってくれたのは水苔だったんだ」。ここで、参考までに、水苔が医療用の “脱脂綿” に変わるまでの段階を紹介すると(AI)、①採取: 水苔を湿地で摘み取る。熟練の作業員が、泥の中に足を踏み入れ、手作業で水苔をむしり取っていた。吸血昆虫が舞う中、腰まで泥に浸かるような過酷な作業だった。②一次脱水: 水苔を摘み取った直後、袋に詰め、足で踏みつけて水苔の中の大量の水分を絞り出した。これにより輸送が軽くなり、腐敗も防げた。③洗浄と選別: 水苔は加工拠点(デポ)に運ばれ、異物(枯れ葉や小枝、土、さらには紛れ込んだ小さなカエルや虫)を手作業で取り除き、吸水力の高い水苔の先端部分を選り分けた。④乾燥: シートの上に薄く広げ、太陽の光と風で適度に乾燥させた(完全に乾かし過ぎると粉々に砕ける)。⑤滅菌: 乾燥した水苔を、昇汞(塩化第二水銀)などの消毒液に浸して滅菌処理を行った。⑥水苔外科用包帯(sphagnum surgical dressing)などの作成: 水苔をガーゼやモスリン(薄い綿織物)の袋に詰めて整形した(下の写真)。
映画では、この直後、アダムが、「これで、苔の道を丘の中腹を通るルートに変更することで、圧搾工場までの3マイル〔約4.8km〕の移動を省くことができた」と言う。この圧搾工場は、上記の水苔の処理過程の⑥の部分であろう。すると、そこに、祖母のガンマと、伯父のモリス・マッキントッシュ〔ジェイムズ・モリス・スミス〕がやって来る。最初にエドワードを批判したのは祖母〔エドワードにとっては義母〕。「エドワード、この地所はあなたのものではありません。許可も得ずに破壊したり爆発したりしてはなりません」(2枚目の写真)。その後に、祖母の長男として財産の後継者の伯父〔エドワードにとっては義兄〕が、「エドワード、何で君が好き勝手に爆破できると思ってるんだ?」と罵る。解説に書いたことを、別の言葉で書き直すと、まず、水苔について、第一次世界大戦時のイギリスでは、医療用の脱脂綿の原料となる綿花のほとんどをインドやアメリカ、エジプトなどからの輸入に頼っていた。しかし戦争が始まると、綿は無煙火薬(黒色火薬だと、白な煙が立ち込めて位置が敵にばれる)や大砲の推進剤、軍服の製造といった軍事利用にため、“綿の争奪戦” が起き、脱脂綿の市場価格が高騰した。一方の水苔の材料費はゼロ。アダム・フォーマンのような領主が軍と契約して大量に生産された水苔外科用包帯などの水苔製品は、安価で品質が安定していたため大量に販売できた。しかし、第一次大戦が終了すると、病院は脱脂綿に戻り、水苔製品は不要になった。だから、原作では、アダム・フォーマンは1914~18年の間だけ水苔事業に全力注いだ。映画のように1927年のような平和な時期には、水苔を大規模に製造する必要は全くない。だから 「あり得ない虚構」。そして、伯父のモリス・マッキントッシュ〔ジェイムズ・モリス・スミス〕の登場。1906年に自殺した人間をなぜ出現させたのか? それも、マルコム・マクダウェル(Malcolm McDowell)という、アダム・フォーマン役のコリン・ファース(Colin Firth)と並ぶ名優を使って。それに、実際の年齢差は、もし伯父が生きていたら、父の僅か3歳年上だけなのに。マルコムとコリンの年齢差は17歳もある。架空の存在としても、ほぼ同年齢と、これだけの年齢差とでは、互いに接する時の感じも違う。あまりにも大胆な創造、そして、全くの 「あり得ない虚構」。水苔の虚構は、完全な間違いなので、映画としても失敗だった。伯父の創造は、個人の問題なので、伯父が存在することで、フレイザー・ペティグリューがデニス・フォーマンとは違った人間にならなければ問題はない。このあとに、フレイザーと父との会話の場面が入る。父:「モリス伯父さんが戻ってきた。ガンマは、モリス伯父さんが500マイルも離れた場所に住んでいて、ごくたまにしか顔を見せないにもかかわらず(only shows his face once in a blue moon)、キロランの管理に関しては彼が一番よく分かっていると思っている」。フレイザーは、英文の部分を 「青い月に一度、顔を見せる」と直訳したので、「青い月(blue moon)って何?」と訊く(3枚目の写真)。恐らく、父は、慣用句として「only shows his face once in a blue moon」と言ったのを忘れ、「blue moon(隠語で、子供には立ち入らせない、あるいは教える必要のない「夜のプライベートな時間」)」のことを訊かれたと勘違いし、何も答えず、フレイザーの体を掴むと、犬のように唸りながら走り始める。

次のシーンは日曜日の礼拝。祖母を筆頭とする一家は、フレイザーの母、伯父、祖母、フレイザー、弟のフィンレー、兄のロロー、姉のエルスペスの順に座っている(1枚目の写真)。説教壇に立った父は、「我らが信仰に対し、いかに誠実に向き合い、いかに雄々しくあるべきか。さて、本日はウィリアム・ブレイクの手による、あの誉れ高き賛美歌の一節を説教の題に引きたいと存じます。『持て来たれ、燃え盛る黄金の弓を。持て来たれ、切なる願いの矢を』…」と話し始める(2枚目の写真)。その真下の脇で、教区牧師のフィンレイソンが、聖書を盾にして、携帯用の酒瓶から酒をチビチビと飲んでいる(3枚目の写真、矢印は酒瓶)。

礼拝が終わった後で、遠くに広がる海を見ながら、フレイザーは父に話しかける。「モリス伯父さんが言うにはね、教区牧師さんはそのうち肝臓が爆発しちゃうんだって。でも、牧師さんなら死んでもまっすぐ天国に行けるんでしょ? ねえ、パパ。人って死んで天国に行ったら、みんな自分だけの家をもらえるのかな?」。「住むためにか?」。「うん」。「天国というのは、君が永遠に暮らし続けたいなと思うような場所のことなんだ」。「じゃあ、ずっとここにいるのと、ちっとも変わらないね? 死んじゃうなんて、嘘みたいだ」。「フレイザー、それはとても詩的で、実に的をついた表現だな。私もちょうど同じことを考えていたんだ。我が家というものの本質についてね」(1枚目の写真)。この会話は、親子の心温まるシーンに見えるが、「我が家というものの本質」という言葉の中に、隠された恐ろしい意味、すなわち、「我が家=私によって完全に支配さるべき存在」という願望が見える。後年、アダム・フォーマンがクラギーランズ・ハウスを完全に支配し、自分の思い通りにし、挙句の果てに資金が尽きて売らざるを得なくなった背景には、このような意図が芽生えていたのかと思わせる言葉だ。この会話の後で、そこに伯父がやってくる。伯父は、「ノルウェーとうひ、シトカとうひ」と言い出す。フレイザーが、「モリス伯父さん、それって何ですか?」と訊くと、「商業用の針葉樹だよ」と答え〔ノルウェーとうひは、木目が詰まっていて強度があるので建材用、シトカとうひは、細胞の繊維が非常に長く、かつ色が白いので製紙用〕、さらに、「君の父が水苔の代りに植えるものだ」と教える(2枚目の写真)。現実には、このようなことを父に勧めた人はいない。そもそも、湿地帯のクラギーランズ・ハウスの領地は針葉樹の植林には向かないから。映画を、植林に向いたスコットランドの山間部に持って来た背景、そして、21年前に死んでいる伯父を登場させて、この台詞を言わせた背景には、アダム・フォーマンが描く理想、戦争が終わっても水苔の研究だけは続けた姿勢を、皮肉っているのかもしれない。このあと、フレイザーは、父と別れ、兄と弟の3人で、伯父と一緒に昼食をとるため邸宅に向かって丘を下りていく。その時のナレーション、「伯父さんのモリスは、パリやモンテカルロのナイトクラブで遊んでいない時は、リヴァプールとロンドンの自宅で財を成していました」というのは、完全に映画のでっちあげ。伯父は、父の仕事の根拠地のグラスゴーで32歳で自殺した。リヴァプールでは、同じSmithの姓で、全く違う家系が綿貿易で大富豪になっているので、その名を借りただけであろう。同じSmith姓で、イングランド銀行総裁になった人もいるから、ロンドンも入れたのかも。3人が仲良く歩いて行く途中で、フィンレイソン牧師の話になり、フィンレーが 「僕、あの人が聖書から飲んでるの見たよ」と言い、全員が笑う(3枚目の写真)。

先程の続き、伯父は丸太の上に座ると、3人に向かって、「いいかい、例えば、私が結婚したいと思っていたとしよう。そして、私の将来の妻が私よりずっと若く、たまたまフランス人だったとしてみよう」と秘密を打ち明ける。すると、フィンレーが 「その女(ひと) 、美人なの?」と訊く。「もちろんだ、フィンレー」。今度は、フレイザーが、「僕のお母さんみたいにきれいなの?」と訊く。妹のことなどブスだと思っている伯父は、「モイラがきれいだと思うのか? 私の小さな妹が、きれいだと?」と訊く。ジェイムズ・モリス・スミスが生きていたら、フローラ・フォアマンとの年齢差は僅か3歳。映画のように大きな年齢差はない。「もちろんだよ。お父さんが、『今日はきれいだな。二階に上がってちょっと一発(スランク)やるか、モイラ』って言ってた」〔フレイザーは、slankという単語の意味を知らない〕。それを聞いた伯父は、「一発(スランク)? そんなこと言ったのか?」と笑う。「何がおかしいの?」。すると、兄が、「夫が、『奥さん、ちょっと一発(スランク)どうだい?』って言ってるんだ。一発(スランク)しよう。スランキューして、サンキューだ」と、最後は駄洒落で逃げる。フレイザー同様、スランクの意味が分からないフィンレーは、笑顔で、「スランキュー、バンキュー、アンキュー、スランキュー!」と、兄の最後の言葉をもじる(1枚目の写真)。次のシーンでは、館の前の庭を2人で歩きながら、伯父が母に、「会計はめちゃくちゃですよ、お母さん。無意味な水苔商売からの収入はほんのわずかです。お父さんがこの領地に注いだ投資は、ただじわじわと失われていくばかり」と、エドワードを批判する。しかし、現実では、伯父の父のジェイムズ・スミスがクラギーランズの館と領地を買ったのは、成り上がりの富豪商人が、領主として社会に認定されるための投資であって、金儲けの投資ではなかった。キロランも同じであろうから、この批判は的外れ。この批判に対し、伯父の母ガンマは、「エドワードには少し愚かなところがあるかもしれないが、彼は優しい愚か者よ。キロランはビジネスじゃないわ、モリス。私たちの領地なの。あなたのお父さんは誰よりもそれを理解していました」と間違いを訂正する。2人が館の前まで来ると、階段の上のバルコニーに水泳パンツ姿のエドワードが立ち、階段を下りた芝生の上では、腰にバスタオルを巻いただけの子供たち3人が、準備体操をさせられている(2枚目の写真)。それを見た伯父は、「この変人ども!」と叫ぶが、ガンマは 「エドワードはモイラに心酔し、モイラは彼に夢中なのよ」と円満な家族であることを讃える」。実態は、1927年の時点では全く違う。もし、この時期のアダムとフローラを正しく表現すれば、「エドワードはモイラを支配により抑圧し、モイラは彼に諦念を抱いている」というのが正しい。しかし、エイミー・スミスは、決してそんなことは考えだにしなかった。なぜなら、そもそもエイミーがアダムをフローラの婿に選んだのは、自分の「牧師家系への憧憬」を満たすためだった。そして、その後のエイミーは、「自分の聖潔(きよらかさ)という偶像を守るために、娘フローラの人生を供物に捧げた」だけの冷血老婆に過ぎなかった(AI)。だから、それに応じたガンマの発言を創作すれば 「エドワードはモイラを正しく指導し、モイラは彼に従順に従っているわ」と言うのが、真に正しい悲しい現実だった〔フローラの悲劇はアダムが死ぬ1953年まで延々と続く〕。なお、映画は、極力エドワードを支配欲に燃えた極悪人〔実際のアダム〕としてではなく、発明や水苔に寝熱中する気の良い変人として描いている。この場面の最後は、エドワードが3人を連れて海まで行き、バスタオルを外して飛び込ませるシーンで終わる(3枚目の写真)。

エドワードは、キロラン・ハウスに導入するセントラル・ヒーティングの図面を、ガンマとモイラに見せている(1枚目の写真)〔それまでは、部屋ごとの暖炉を使っていた〕。図面を見たガンマは、「エドワード、もしそこにボイラー室と煙突を配置したら、キロラン・ハウスの外観が損なわれるわ」と指摘し、モイラも、「もし、あなたがそこに煙突を設置したら、子供部屋に煙が流れ込むから健康によくないわ」と反対する。10-14歳のデニスを描いた『Son of Adam』でも、1927-31年という原作の舞台の期間中にセントラル・ヒーティングの設計~工事が行われるが、クラギーランズ・ハウスには、既に、各部屋の暖炉から出る排気を集めて放出するための煙突が存在していた。だから、新たに煙突を設ける必要はなかった。2人の意見を踏まえ、エドワードは、館の工事担当者たちに自ら作った模型を見せる。その案では、煙突から出た煙が子供部屋に行かないよう、芝の下に水平に土管を敷設し、遠くの煙突から排出するという案になっている(2枚目の写真、矢印)。エドワードは、それを、「ペティグリュー式ドラフトアシスト(通風力支援)水平地下式排煙装置」だと言って自慢する。原作では、アダム・フォーマンは、クラギーランズ・ハウスの煙突を再利用すると「大型のボイラーから出る排気で、館が工場のように見える」のを嫌い、映画と同じ構造にする。この場面のあと、エドワードは、断熱材として19世紀後半から使われ出したアスベストを担当者に見せ、かじってみる(3枚目の写真、矢印)。アスベストの毒性については早くから知られていて、実際にアダム・フォーマンが施工した時期に警鐘を鳴らした “ある程度勇名な人” として、AIは、Lucy Deane(1898年)、Dr. William Cooke(1924年)、Dr. E.R.A. Merewether とC.W. Price(1930年)の4人のイギリス人をあげた。しかし、これらの情報は、医学界や労働環境保護の専門家たちにしか伝わらず、映画で何も知らないエドワードがアスベストをかじっても不思議ではない。

あらすじでは、写真による紹介は省略したが、次のシーンに入る前に、屋敷の芝生を掘って土管を並べている工事の場面が入るので、以前 伯父が子供たちに「例えば、私が結婚したいと思っていたとしよう」と言ってから、かなり時間が経っていることが分かる。そして、伯父が 屋敷に婚約者のエロイーズを連れて来る。エロイーズは三重奏団の中でチェロを弾くようなプロなので、屋敷でも、サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の第13曲 「白鳥」を、ガンマ、エドワード、モイラ達の前で弾いている。ガンマは音楽にうっとりとし、エドワードはエロイーズの若さと美しさに惹かれ、モイラは夫の表情を少し心配そうに見ている(1枚目の写真)。演奏が終わると、エロイーズに魅了されたエドワードは、さっそく、「ペティグリューの水苔の世界を、私自らご案内できれば光栄に存じます」とエロイーズに声を掛け、「是非とも。ありがとございます」と了承を得る。次のシーンで、エドワードは丘の斜面で作業をしている2人の女性作業員のところにエロイーズ連れて行く。フレイザーはエロイーズにぴったりくっついて歩いている。父が、「水苔には2つの利用価値が備わっています、殺菌作用と…」まで言った時、フレイザーが割り込み、「脱脂綿の10倍の吸水性があります」と説明する。父は、「2人の女性は、切断と梱包係です」と 作業員を紹介する。そのあと、「切断と梱包は…」と説明しようとすると、またフレイザーが割り込み、「切断係は、集めた水苔を一定の大きさに切り、梱包係はそれを運びやすいように包むんです」。父は、負けじと、「かなりの量の水分を取り除く必要があるんです。水苔を乾燥小屋に並べて…」まで言うと、3度目にフレイザーが 「乾燥させる前に」と割り込む(2枚目の写真)。その上、「そして、乾燥させた水苔で煙草を作ったんだ。そうだよね、パパ?」と余分なことまで言う。「煙草」は失敗に終わった実験だったので〔これは原作にもある実験で、非常に燃えにくく、独特の湿っぽく土臭い臭いがしたので煙草の代用品にはならなかった〕、「それは、いい考えじゃない」と否定する。その後、乾燥させた水苔置き場の隣の、水苔商品の部屋に行き、石鹸などの説明を始めようとするが、エロイーズはどこにもいない。実は、エロイーズと仲良くなったフレイザーが、父なんか無視し、乾燥させた水苔を見せに行っていた。小屋の2階の水苔置き場の上に横になった2人は、水苔を掴んでは顔に投げ合って遊ぶ(3枚目の写真)。もともとエロイーズは架空の人物なので、こんな場面は原作にないが、それ以上にバカげているのは、絶対的な支配権を持っていたアダム・フォーマンに対して、デニスがこんな身勝手な言動をすることは100%あり得ない。映画は、あまりにも非現実な「 一方的なキャラ変」を平気で行っている。

干した水苔の匂いを嗅いだエロイーズは、「なんて素敵な香りなの。あなたぐらいの年の頃、川でエクルヴィース(écrevisses)を捕まえ、苔に包んで家に持ち帰ったことを思い出すわ」と言う。「エクルヴィースって何?」。それに答えたのは、エロイーズではなく、2人のあとを追って来た父だった、「エクルヴィースはザリガニのことだ、何て無知なんだ。淡水産の小さなロブスターだと思えばいい」と叱るように言うと、水苔製品の箱を持って梯子から2階に出る。エロイーズは、フレイザーの服に付いた水苔を払ってやりながら、「食べると美味しいわよ」と、庇うように言うが、父の叱咤は続く、「お前は、うっとうしいバカげたおしゃべりで、今日の午後 もう十分すぎるほどエロイーズを煩わせてきた。私の忍耐にも限度がある。エロイーズが退屈しきっているのが分からんのか!」(1枚目の写真)。初めて アダムらしさが感じられる台詞だ。エロイーズは映画の創作だが、もし、これがアダム・フォーマンだったら、きっと、「分をわきまえぬ下劣な饒舌でエロイーズ嬢を煩わせるのは、この午後だけで十分だ。私の忍耐を試すような真似は許さん。エロイーズ嬢が退屈し 不快な思いをしているのが、お前には理解できんのか」とでも、さらに厳しく叱ったであろう。父が、水苔から作った石鹸、コロン、鎮静軟膏入りの箱をエロイーズにプレゼントしている時、フレイザーは庭園の階段を駆け上がりながら、「うっとうしいのは そっちだ、わずらわしいのは そっちだ、無知なのは そっちだ!」と、父に叱られた言葉を使って怒鳴る。途中で、フレイザーが、祖母、伯父、母の3人を追い抜いた時、伯父が 「一番好きな伯父さんと、男同士の握手をしないか?」と呼びかけるが、フレイザーは、「ほっといてよ、彼なんか大嫌いだ!」と叫ぶ〔「彼」は、恐らく父を指したのだろうが、3人には、「伯父」かもしれないと思わせる〕(2枚目の写真、矢印)。それを聞いた祖母は、「あの子は手に負えなくなっている。父親はもっと厳しくしつけるべきだ」と、それまでの映画の中のフレイザーとは、別人格の子供に対するような批判をする〔孫が、息子に無礼な口を聞いたから、弁解したのか?〕。一緒にいた母は、責任上、フレイザーの後を追って行くが、彼は隠れて姿を現わさない。そして、1人になると、「僕が無知なのはパパのせいだ。だって、パパは役に立つことを何も教えてくれないから。もし彼に、なぜベートーヴェンがそんなに素晴らしいのかってと尋ねると、彼は、『ベートーヴェンの音楽は、神様の寝言(=無意識の神聖な響き)だ』なんて答える。そして、なぜジャズが嫌いなのかって尋ねると、『ジャズってのは、我々の愚かさを嘲笑う悪魔の笑い声だ』って答える。パパより詳しい知識を身につけるために、マッキントッシュおじいさんの本を全部読むことにした」というナレーションが入る(3枚目の写真)。

翌日以降。フレイザーがピアノの前で、指で鍵盤を1つずつ叩いて「白鳥」を弾いていると、そこにエロイーズが現われ、「フレイザー、探してたのよ」と言って横のイスに座ると、「サン=サーンス好きなのね」と言って肩を抱く。「うん、エロイーズ伯母さんが弾いた時は」。「誰もいない時は、エロイーズって呼んで」。そう言うと、エロイーズはジャズを弾き始める。しばらくすると、ドアが開き、母が入ってきて、折角の2人だけの時間が終わりになる。母は、音楽の話を始め、エロイーズは2人で合奏することを提案する。結果、母がピアノを弾き、エロイーズはチェロを弾くが、フレイザーはつまらないので(1枚目の写真)、2人に気付かれないよう部屋を出て行く。そのあと、計測係によって、3人の男児が、発育状態を記録するために採寸される場面があり、その部屋には、フレイザーの祖母を先頭に、母、姉、エロイーズがいる。そして、祖母は、夫の母〔フレイザーの曽祖母〕のものだった首飾りをエロイーズに譲る。フレイザーの姉から首飾りを受け取ったエロイーズは、部屋に置いてあったヘッドレスマネキンの首に首飾りを付けてみる(2枚目の写真、矢印)。次の場面は、父による釣り(キャスティング)の練習の場面に変わる(3枚目の写真、矢印)。これは、あまり重要とは言えないが、原作にも書いてある貴重な場面。①芝生の上での練習、②ベートーヴェンの「運命」の「ババババーン」のリズムを口ずさむ父、の2点とも映画は原作をそのまま再現している。①なぜ芝生の上だったのか? AI によれば、アダムにとって、実際の川へ行くことは「本番」であり、そこで不格好なキャスティングをすることは許されないことだった。芝生の上での特訓は、水辺に立つ資格を得るための「儀式」や「基礎訓練」だった。②なぜベートーヴェンだったのか? AI の記述: アダムはキャスティング〔竿の弾力を利用してルアーを狙った場所へ投げる技術〕を単なるスポーツではなく、「物理学と音楽の融合」と考えていた。水辺では魚の気配や流れに気を取られてしまうため、あえて何もない芝生の上で、純粋に「ベートーヴェンのリズム(タイミング)」だけを体に染み込ませようとした。そして、AI は 原作の記述では、この芝生での特訓を経て、彼らは車で少し離れた場所にあるアナン川(River Annan)などの実際の釣り場へ出かけた〔アナン川はフライフィッシング(サケやマス釣り)の聖地だった〕。アナン川は邸宅の西1マイル〔1.6km〕にあり、道もついていた。近距離で徒歩で行ける距離であっても、アダムにとって、愛車ランチア・ラムダに乗り込み、仰々しく「出陣」すること自体が、彼の完璧主義的なルーティンの一部となっていた。

フレイザーの「性の目覚め」を映像化した部分。ここは、すべてナレーション。「僕は、時間の半分は凍えるような冷たい水の中で釣りを習い、残りの半分はマッキントッシュおじいちゃんの秘密の本からいろいろなことを学んだ」「『ギリシャ神話』という本の中に、女性と白鳥を描いた素敵な絵があった〔レオナルド・ダ・ヴィンチの、レダ(スパルタの女王)と白鳥」の複製画〕」(1枚目の写真)。「“売春” というものに関する記載を見つけたので、それを3回読み返した。それは、僕が今まで出会った中で最も興味深いものの一つだった」(2枚目の写真)。このページは、『宗教・倫理百科事典(Encyclopaedia of Religion and Ethics)』の第10巻の404ページ。冒頭の1節を訳すと、「売春(古代ギリシャ)— ギリシャ人は、現代における意味での道徳的純潔という概念をほとんど持っていなかった。彼らにとって貞操の美徳は非常に狭い範囲に限られており、妻(または娘)に義務付けられていた一方、夫(または息子)には姦通、すなわち隣人の家族権を侵害しないことだけが求められていた。夫の名誉は法律によって完全に保護されていたが、妻は夫の不貞行為に対して法的救済手段を持っていなかった。また、気まぐれで、しかも無力な世論は、著しい怠慢や品位を著しく損なうような行為の場合を除き、法律の欠陥を補うことはなかった。道徳的に言えば、当時の通説によれば、この種の快楽は、他の欲望を満たす行為と同列とみなされた。それは単に “程度” の問題に過ぎなかった。自制心は、それ自体が行き過ぎたものでなければ、確かに賞賛に値するものであり、ギリシャの思想と実践が正しき生き方の技法として定式化した、相反する欲望を、慎重かつ世故に富んだバランスで調和させる上で、自制心こそが誰もが認める主要な要素であった」という内容。10歳の子供が「3回読み返し」ても、理解できるような文章ではない。「秘密の本があるだけでなく、その中には秘密の彫版印刷物も隠されていた。それらは主に、服をすべて脱いだベルギーの女性たちを写したもので、“アン・デシャビレ(en déshabillé)” と呼ばれるものだった」(3枚目の写真)。この点について、高い信頼度で答えるようAI に依頼した結果は、①デニスが見ていたのは、映画のような「美術全集」や「デッサン画」ではなく、百科事典や解剖学の図解、人類学的な資料(未開の地の民族写真など)で、デニスはその中に掲載された女性を「研究」と称して眺めていた。②デニスは、こうした行為を「のぞき見」ではなく、「大人が隠している世界の仕組みを解明するプロジェクト」だと考えていた。③デニスが見ていた書籍類は、祖父のものではなく、父アダムの書斎に保管してあるものだった。④アダムの書斎は聖域で、デニスは、父が不在の隙を見計らって、びくびくしながら忍び込んで読み、読み終わった後は、指紋がつかないように、あるいは本の位置が数ミリもずれないように、完璧に元通りに戻していた。映画には、ここでも裏切られた〔設定は似ていても、実際には全く違う〕。

乾燥した水苔の倉庫の中で、エロイーズが水苔のことを 「まるで香水みたい」と言うと、一緒に来たエドワードが、「モリスはこれを嫌ってる。すべてを破壊しようとしてる。君の婚約者にはロマンスがない」と言う。自分の婚約者を侮辱したエドワードに対し、エロイーズは持っていた水苔をぶつける。エドワードは、小さな塊をエロイーズの顔に向かって投げる。彼女が笑顔を見せると、エドワードは 「フレイザーにしたように、私にもキスしてくれる? 君に苔を投げつけたご褒美に、キスしただろ?」と、大胆に訊く。エロイーズは 「フレイザーは子供よ」と言うが、エドワードは無理矢理キスしようとするが、エロイーズは顔を背け(1枚目の写真)、「もう家に戻るわ」と言う。しかし、その直後のシーンでは、犬と一緒に森の中に来たフレイザーが、「止めて(Stop it)。止めて(Arrêtez)。お願い」というエロイーズの声を聞く〔以前の水苔の倉庫の裏手は森〕。そのあと、場面は屋敷へと移り、その日の夜に行われる晩餐会の客が少しずつ訪れる。モリスが居間にいると、倉庫から戻ったエドワードが入って来て、テーブルの上に置いてあった酒瓶を片付けようとしてモリスと論争になり、結局エドワードが折れて瓶を元に戻す。そのあと、暖炉の前に立ったモリスは、水苔について、「ここをちゃんと管理するつもりなら、もっと現実的で子供っぽくない計画を立てないと」と批判し、またエドワードと論争になる。今度は、エドワードが、「金儲けに忙しくて、ここは幸せな家族だということを忘れてるんじゃないのか?」と反論する(2枚目の写真)〔原作では、アダムに全権を握られた不幸な家族なので、如何にこの映画が、ホームドラマ化しているかがよく分かる台詞〕。ここで映像が切り替わり、エロイーズも家に入って来る。しかし、さっきの倉庫にいた時には、ガンマからもらった首飾りをしていたが、戻って来た彼女の首に、首飾りはない。また、すぐに映像が切り替わり、今度は、倉庫に入って行くフレイザーが映る。彼は、水苔の中に落ちていた首飾りを拾う(3枚目の写真、矢印)。これは、エドワードとエロイーズの間で、何かがあったことを示唆している。原作には、全くないシーン。

そして、映画は、一番のクライマックスとなる晩餐会のシーンに。大きなテーブルには、一家と伯父とエロイーズ、フィンレイソン牧師以外にも、このシーンだけの新顔が少なくとも6人は座っている(1枚目の写真)。食事が始まる前に、父の話が出て時、フレイザーは、「今朝、パパが水苔の倉庫にいたの見たよ。女性が叫んでた」と言い出す。それを聞いたエドワードはフレイザーを睨み、エロイーズは驚く。ガンマが 「誰が叫んだの? フレイザー、嘘をつく子はイエス様に嫌われるわよ」と叱ると、エドワードは逆に、自分のことを考え、「愛する人を危険から守るためなら、イエスは、たぶん嘘を許して下さる」と言い、エロイーズは、エドワードへの批判を込めて、「いいえ。クリスチャンだと主張しながら嘘をつくような人は偽善者でありクリスチャンじゃないわ。悪いことをしながら善人だなんてありえない。両方同時は無理よ」と釘を刺す。その言葉は、モイラに夫に対する疑念を抱かせる。その後の会話の中で、後に関係する話題は、教区牧師のフィンレイソンの発言〔彼が、一家の住んでいるキロラン地区ではなく、炭鉱のある別の地区の牧師でもあるという映画だけの設定〕。酔っ払ったフィレンソンが、テーブルをドンと叩くと、「まったくなぁ、これは、とんだ不祥事ですよ、ええ。残された家族たちの、あの筆舌に尽くしがたい苦しみ、神よ。鉱夫の連中は、賃金を半分も削られたってんですから。そんな、殺生な話がありますか。彼らが、仕事をおっぽり出すと息巻くのも、これ、至極当然のことですわな」と話す。このあと、初めて見る中年後期の男性が、「この冬、キロランで新婚夫婦を祝うボンスピール〔カーリングの大会〕が開かれると聞きました」と発言する。そのあとは、犬からペット、害獣のオコジョ〔ヤマイタチ〕から、“救いようのない生き物” の話になる。すると、ガンマが、「オコジョは生き物ではありません。オコジョは、森や野原の野生動物です、ウチのフレイザーのように」と言って(2枚目の写真)、笑いを誘う。そのあと、しばらくしてから、モイラが 「フィンレイソンさん、私とエロイーズが演奏すれば、あなたの貧しい鉱山労働者の家族のために資金を集めることができるかもしれません」と提案する。それを聞いた、先程の男性が、「実にクリスチャン的な考え方ですね。それで、あなたはどのように演奏されるのですか? 二重奏でしょうか?」と訊く。それを聞いたフレイザーは、いきなり、「売春〔Prostitution〕!」と発言し、全員が度肝を抜かれる。フレイザーは、さらに言葉を続ける。「ううん、本当だよ。これなら完璧だ。ママとエロイーズ伯母さんが売春婦〔prostitutes〕になればいいんだ。2人なら、この『緊急事態』にぴったりで、炭鉱の人たちのためにお金がたっぷり稼げるよ。パパとかモリス伯父さんとか、他にも、性的な奉仕〔lubricious ministrations〕にお金が払える人なら誰にだって奉仕してあげればいいんだ!」(3枚目の写真)。

この凄まじい発言のあと、部屋の中は静まり返り、引きつった顔、呆然とした顔、睨むような顔で一杯になる(1枚目の写真)。父は、立ち上がると、「フレイザー、私の書斎に行き、そこで待っていろ」と命じるが、フレイザーは、「え? どうして? どうかしたの?」と言う。すると、フレイザーの隣に座っていたフィンレイソン牧師が笑い出し(2枚目の写真、矢印)、それを機に、最悪の雰囲気を変えようと、全員が笑い出す(3枚目の写真)。この場面におけるフレイザーは非常に中途半端な発言をして、脚本の失敗を見せつける。①「Prostitution!」だけなら、先に紹介した『宗教・倫理百科事典』を読んで、フレイザーはその単語は知っている。しかし、『事典』の記載内容を敢えて紹介したように、内容はあくまで古代ギリシャに関する風習の学術的解説なので、10歳のフレイザーには、言葉の正確な意味は理解できなかったと確信できる。❷実際に、原作では、デニスは百科事典で「Prostitution」という言葉を見つけ、それを「Public performance(公衆の面前でのパフォーマンス〔詩の朗読・ピアノの小曲・歌〕)」の洗練された言い換えだと誤解する。母のフローラがチャリティのために何かパフォーマンスをしましょうという趣旨の発言をすると、客の一人がデニスに向かって、「で、君なら何をパフォームするんだい、デニー〔And what are you going to perform, Deny〕?」と尋ねたので、デニスは、待ってましたとばかりに、自分が覚えた “最も格好いい(と思っている)言葉” で「Prostitution!」と言う。③このような素直な心でフレイザーは「売春!」とは言わなかった。なぜかと言えば、母とエロイーズに対して「売春婦〔prostitutes〕」になれと言うが、先程の本には、「prostitute」という単語は載っていない。彼は、単に、「Prostitution が Public performance」の洗練された言い換えだと誤解することなく、「Prostitution」を実行する女性としての「prostitutes」という単語を知っていて使用する。さらにその後で、性的な奉仕〔lubricious ministrations〕という極めて直接的で、10歳の子供が知るはずのない単語まで適切に使う。④ということは、この発言は、父とエロイーズの間で良くないことが行われたことを知ったフレイザーの「父に対する知的なテロ」とみなすことができる。⑤しかしこの、当然の推論は、父の、「フレイザー、私の書斎に行き、そこで待っていろ」に対して、「え? どうして? どうかしたの?」という発言で、「真のワルガキ」への転落する。その時点でまだ存命のデニス・フォーマンを、そこまで貶める必要があるのかと、強い疑問と憤りを感じる。❻原作では、映画のような下らない 「追加の言葉」は一切ない。デニスが「Prostitution!」と叫んだ瞬間、晩餐会の席は凍り付くような沈黙に包まれる。デニスは 「自分が最高の、最も知的な言葉を使った」と確信して誇らしげに周囲を見渡すが、大人たちのあまりのショック(特に母親の顔面蒼白な様子)を見て、自分が、何か決定的に間違ったことを言ったことにすぐ気づく。だから、「絶望的な羞恥心」で黙るしかない。デニスはすぐにその場から連れ出され、寝室に追放され、晩餐会が終わった後で、父から厳しい説教を受ける。この結末の方が、遥かにすっきりとして気持ちがいい。最低の脚本!!

その日の夜遅く、全員が寝静まってから、フレイザーは父の書斎に行き、ベートーヴェンの小さな頭部像を集めると(1枚目の写真、矢印は頭部像)、「うっとうしいのはお前だ、わずらわしいのはお前だ、無知なのはお前だ!」と、以前怒鳴った言葉を再度口にしながら書斎から出て行く。そして、同じ言葉で叫びながら、3個の頭部像を池に投げ捨てる。最後の1個を捨てた時、足が滑ってびしょ濡れになる(2枚目の写真)。ここまで悪タレになると、いい気味、ザマミロとしか思えない。そのあと、ベッドに横になったフレイザーが、「僕は肺炎にかかっちゃった」と言うが(3枚目の写真)、映画では、その直後、何でもないように動いている。ペニシリンが発見されたのは1928年なので、1927年当時の肺炎は、死亡率の高い危険な病気。パンツ1枚で寝ていたり、そのままの姿で普通に歩き回れるような安易な病気ではない。嘘ばっかりの映画!!

ここも原作と完全に無関係なので、簡単に。さっき、「肺炎」と言っていたフレイザーは、下着のパンツ1枚だけで、部屋から出ると、ノックもせずに祖母の部屋に入って行く。祖母が口をポカンと開けて眠っていたので、失礼にも、死んだかと思ったフレイザーは、ベッドの手前の棚に置いてあった手鏡を取ると、ベッドの上に乗って、祖母が息をしているか確かめる(1枚目の写真)。びっくりして目覚めた祖母は、①外に出て行って待て、②勝手に部屋に入るな、と申し渡す。そして、パンツ1枚で座っているフレイザーの前まで行くと、彼が肺炎なのに、病気の具合を訊くこともしない。フレイザーは、これも、非常に失礼なことに、祖母が死んで伯父が家を継いだら、自分はどうなるかを訊く(2枚目の写真)。そのあと、フレイザーは、祖母の命令で、使用人の女性に風呂に入らされる(3枚目の写真)〔肺炎患者の入浴には測熱が必須なのに、それもなし〕。風呂の中で、フレイザーが何度も使う「slanking」という言葉は、存在しない単語。恐らく、バカな脚本家が、観客に、「何だろう?」と思わせるために勝手に作った造語〔prostitute、lubricious、orgy、fellatioなどの単語を、意味を知った上で間違えずに発音できるような子が、既往の単語を言い間違えるとは思えない〕 。原作には、全くないシーン。

セントラルヒーティングの工事は実話より早く、その年のうちに終わり、エドワードは新しいボイラーに点火して試験運転を始める。すると、芝生に埋設された土管の複数の継ぎ目から蒸気が漏れ、庭に噴き出て真っ白になる(1枚目の写真)。これは、以前、エドワードが模型で示した、「煙突から出た煙が子供部屋に行かないよう、芝の下に水平に土管を敷設し、遠くの煙突から排出するという案」の欠点が明らかになった瞬間。しかし、これには、映画ならではの小細工が隠されている。そこで、まず、原作の失敗について、事後談を含めて解説しよう。館が工場のように見えることを嫌ったアダムは、既存の煙突を使わず、庭に水平の管を埋め、遠くの煙突から排出する案で工事を進めたことは先に述べた。その結果、「ボイラー → 各部屋のパネルヒーター → 水平に置かれた土管」に達した “まだ暖かい排気” は、垂直に昇ろうとはするが水平移動にほとんどしないので、長いトンネルを通過できず、煙突に到達する前に煙が冷えて滞留する。逃げ場を失った煙は、ボイラー室や屋敷の隙間から “逆流” し、家中を煤だらけにしてしまう。アダムは仕方なく専門家に相談し、結局、土管や “遠くの煙突” は廃棄(お金がかかるので放置)し、既存の煙突の内部を補強し、館内部の配管を変更してセントラルヒーティンの工事を終えた。最初から館の煙突を使って工事をしていれば、実際に要した費用の1/3~1/10くらいで済んだと推定される。一方、エドワードの工事は、同じ条件下で煙が “逆流” せず、土管の隙間から水蒸気と言う形で漏れ、それが庭に溢れ出る。なぜ、このような違いが生じたのか? AI を交えた議論の結果、この白煙は映画の欺瞞と言うことで意見が一致した。映画の製作者がこの方法を選んだのは、1つには、「失敗」が非常に分かり易く映像化できたこと。そして、AI が指摘した2番目の理由は、私にも考えつかなかった。それは、この映画は、あくまで借りた城で撮影されており、原作のように、室内の壁紙が煤で汚れるような状況を実際の建物で撮影することは不可能で、セットを使うにせよ、大変な手間がかかる割に、「庭からの水蒸気」に比べてインパクトが乏しいというもの〔少し、脚色して書いた〕。その意見には、なるほどと感心した。因みに、キロラン・ハウスにはクラギーランズ・ハウスと違って既存の煙突はなく、エドワードの失敗した工事には、それ以上改善の余地はなく、すべてを破棄するか、キロラン・ハウスに新しい煙突を建てる以外に途はなかった。監督は、ずるいことに、事後談は隠して何も言わない。ここで場面が変わり、フレイザーが、自分のベッドのマットレスの下に隠していた “エロイーズの首飾り” を母が見つけ、「これ、どこで見つけたの?」と訊く。フレイザーは、「水苔の倉庫だよ。エロイーズ伯母さんが失くしたんだと思うよ」と答える(2枚目の写真、矢印)。母は、フレイザーの晩餐会でのフレイザーの発言「今朝、パパが水苔の倉庫にいたの見たよ。女性が叫んでた」と合わせ、何があったかを推察し、顔が曇る。すぐに場面は変わり、エドワードが、ワイヤー・メッシュ・スクリーン〔細い針金(ワイヤー)をスポーク状に張り巡らせたホイールを高速回転させ、そこにフィルムの映像を投影する映写装置〕の上に、伯父とエロイーズが屋敷を訪れた時に撮影した映像を、フレイザーに見せる(3枚目の写真、矢印は「針金を45度ずつスポーク状に並べた構造」が見える場面)〔なお、現在時々見かける3D LEDファンは、映写機のからのフィルム映像を高速回転させたホイールに反射させるのではなく、LEDを高速点滅させて「発光」させている〕。1923年にコダックが発売した16mmフィルムにより裕福層の一部では撮影が始まっていたので、この映像の存在は歴史的には間違いではないが、このワイヤー・メッシュ・スクリーンはエドワードだけの発明。家族の娯楽など一切無視した原作のアダムは、このような物を作る人物ではなかった。

その次のシーンでは、屋外で、エドワードが、当時流行ったプロペラ推進車(Propeller-driven car)を、自分なりに作ったものが失敗だったとイライラしている場面から始まる。そこに郵便配達が自転車でやって来て、2つの郵便物を渡し、1つは 「フレイザーさん宛です」と告げる。父は、さっきまで一緒にプロペラ推進車に乗っていたフレイザーに彼宛の郵便物を渡し、自分宛のものをポケットに入れながらプロペラ推進車の前を歩く(1枚目の写真)〔白いプロペラ推進車と、右側の水苔商品の宣伝車の両方が映っている写真はこれ1枚だったので、彼の「発明」が如何に現実離れしているかを示すために使用した。
参考までに、右に当時のプロペラ推進車の一例を示す〕。一方、フレイザーは、注文したグラモフォンのカタログを持って、ベッドで寝ている母の所に行く。そして、「お金を貯めて買いたいんだ」と言うと、「No.32だ」と言ってレコードを見せる(2枚目の写真)。母は、それに賛成し、お小遣いの枷ぎ方として、「着火剤を12個作ったら、1ペニー」と言う〔1920年代において、着火剤(firelighters、暖炉の火をおこす際に使うもの)作りは子供でもできる一般的な手伝いの一つだった〕。最後は、暖炉の前に座ったエドワードが、先程受け取った郵便物の束を、順次開封しては暖炉に投げ込んでいると、エロイーズからの手紙があったので、開ける(3枚目の写真)。そこには、「エドワードへ。私が望むのは、あなたの義妹、あなたの友人になることだけです。私たちはもう大人で、結婚もしています。起こったこと、起こらなかったことは忘れましょう。誰にも知られる必要はありません。親しみと敬意を込めて。エロイーズ」と書いてあった。原作には、全くないシーン。

そして、10月31日のハロウィンの日。館には、村の子供たちが招かれる。モイラは、子供たちに向かって、「ゲイ・ゴードンス(Gay Gordons)」から始めましょうと言う〔スコットランドの高地連隊Gordon Highlandersを讃えるために作られた曲。パーティーの定番曲〕。そして、母は、最初の踊り手としてフレイザーと村人のキャシーを選ぶ。2人が踊り始めると(1枚目の写真)、他の子供たちも一斉に踊り始める。しかし、しばらくすると、キャシーの兄のドナルトが、「警告しただろ、フレイザー・ペティグリュー」と言うと フレイザーに掴みかかり、2人は床に転がってケンカを始める。子供たちが2人の周りに集まり、何とか止めさせようとする(2枚目の写真、矢印)。結局、エドワードが中に入って行き、2人を捕まえると、パーティー会場から連れ出す。ドナルトは、「彼、僕の妹に触ってました。お尻やおっぱいに触ったりしたんです」と訴える(3枚目の写真)。フレイザーは 「僕、触ってなんかいない! ゲイ・ゴードンスを踊ってただけだ」と反論する。2人は、パーティー会場から離れた場所に連れて行かれ、エドワードに一発ずつ尻を叩かれ、「杖で叩かなくて済んだだけ幸運に思え。マッキントッシュ夫人〔フレイザーの祖母〕に謝って来い」と言われる。原作には、全くないシーン。

仲良くなったドナルトは、フレイザーを農家の自宅に連れて行き、囲いの板の剥がれた部分から、雄牛と牝牛の交尾をフレイザーに見せる(1・2枚目の写真)。その時、2人の間に割り込んだキャシーは、フイレザーに色目を使う(3枚目の写真)。原作には、全くないシーン。

ここからは、ベッドに入ったフレイザーのナレーション。「百科事典には、女の子と踊ることは感覚的な喜びの一つだと書いてあるけど、僕はゲイ・ゴードンスなんか楽しくなかった」。そして、ベッドに横になったフレイザーが、すっぽりシーツをかぶり、懐中電灯で光を当てて “裸の女性が大勢描かれたルネサンス期の1枚の絵を見ている(1枚目の写真)。「僕は、乱交とかいうものや、ハーレムについて読み、そのあと 僕は眠って、エロイーズ伯母さんの夢を見た」。翌朝になり、フレイザーは恐らく夢精をしてしまい、おねしょと勘違いする。父は、「フレイザー、お前がそういう夢から目覚めた時、ベッドが濡れていて、しかもそれがとても素敵な夢だったとしたら…」と言い始めるが、フレイザーは、「滅多にないよ。僕、もうほとんどおねしょしなくなったから」と話を遮る。「将来、心の奥底、お前の存在の核心から、何かが込み上げてくるのを感じた時…」。「マグマみたいに?」とまた遮る。「まあ、そうだが。だが、とても素敵な夢を見た時には…」。「僕も素敵な夢、見るよ。エロイーズ伯母さんがジャズを演奏している夢、見たんだ。音楽付きの夢なんて、それが初めてだった」と、これで3回遮る。「いいか、次に夢の中で音楽を聴いたら、朝起きたらすぐに私と一緒に湖まで走って行き、冷たい水に飛び込まないといかん。“健全な精神は健全な肉体に宿る”。これで全て解決する。それで、フレイザー、何か他に聞きたいことはあるか?」。「パパ、“乱交” って何なの?」(2枚目の写真)「それに、“フェラチオ” って、天国で天使たちが吹くトロンボーンみたいなものなの?」。「フレイザー、どちらも、いわゆる “肉欲の誘惑” というものなんだ」。「それって何?」。「それが何なのか教えてやろう。それは どんな犠牲を払ってでも、抵抗すべきものなんだ」(3枚目の写真)。原作には、全くないシーン。

真冬になり、以前の晩餐会の際、男性が口にした「ボンスピール〔カーリングの大会〕」が、遂に開かれる。そこには、フィンレイソン牧師の担当教区に住む鉱山労働者たちが数多く参加している〔総勢200名くらい〕(1枚目の写真)。映画の中のカーリングストーンはハンドルの部分の形状は現在のものと違うが、材料が高密度の花崗岩という点では同じ。ブラシは、現在と違って原始的な竹ほうき。靴は、材料は違うが、形態は現在のカーリングシューズに似ている(2枚目の写真)。この映画だけの場面は、主人公のフレイザーとほぼ無関係なので、ショートカットし〔架空、かつ、無意味な会話を訳しても仕方がない〕、最後の重要な場面だけ紹介する。辺りが暗くなり、ガンマは、ハギス〔羊の内臓を主原料とした、スパイシーで食べ応えのある郷土料理〕の入った鉄の大釜を氷の上に持って来させ、自ら陶器の皿に盛り付けて人々に配る。しかし、カーリング大会は水平な場所で行わねばならず、ここではそれが氷の張った湖だった。そして、大釜の熱と重さで、突然氷に穴が開き、釜とガンマが湖の中に落ちる(3枚目の写真)。「氷の張った湖でカーリングを行う場合、安全のために少なくとも10〜15cm以上、人が集まる場合は20cm以上の強固な氷の厚さが必要なのに、人どころか大釜の周辺の割れた氷の厚さは2cmほどしかない → 現実を無視し、観客に “割れて当然” と思わせる “薄さ” にした、その姑息さ! 原作には、全くない、でっち上げ!

ガンマは、この0℃に近い冷水への転落時の低体温症が原因で、数週間後に肺炎で死亡する(1枚目の写真)。なお、ガンマに該当する、原作のエイミー・スミスは1927年ではなく1932年に死亡する。5年の差は少ないように見えるが、実際には、1927年以降数年続くアダム・フォーマンの無駄使いで、エイミーが夫から受け継いだ信託財産はどんどん目減りし、クラギーランズ・ハウスにおける経済状況も悪化していく。その後の場面は、館で開かれたフューネラル・ティー〔Funeral Tea〕と呼ばれる伝統的な集まり。フレイザーのナレーション:「キロランは一変してしまった。ガンマはキロランそのものだった。そして、僕たちがずっと知っていた世界は、ガンマと共に静かに消え去った。ガンマは遺言で、地所をモリス伯父さんではなく、僕たちに遺すことに決めた」「クロフォード叔父さん〔映画だけの存在〕が、ママに、イエスについて延々と話すのをやめてくれればいいのに」。そして、クロフォードがモイラに向かって、「イエスが、ガンマの手を握られた」と言うと(2枚目の写真)、フレイザーの怒りが爆破し、「まさか、そんなことしないよ! とんでもない嘘だ! ママを慰めるために、そんなこと言ってるだけじゃないか。ところが、それが、ママの気分を悪くしてるんだ」と強く批判する(3枚目の写真)。もちろん映画だけの場面だが、原作のデニス・フォーマンを、性的に異常な少年だけでなく、思ったことをずけずけという失礼な人間として描き、ニ重の侮辱を与える嫌な構図。

エドワードは、すぐに、「フレイザー、いい加減にしろ。大人に対して その口の利き方は何だ」と叱る。すると、もともとフレイザーのことが気に入っていたエロワーズが 「エドワード、この子 取り乱してるのよ。彼はただ…」と、取りなし始めると、エドワードは 「口出しするな、エロイーズ」と止め、それでもエロイーズが 「フレイザー、パパの言うことは聞き流して」と続けると、「そいつと話しているのは私だ、悪ガキに構うな、この女」と、大勢の客の前で、エロイーズを侮辱する。長男でありながら遺言から外されたことで頭に来ていたモリスは、その言葉を聞くと、「私の妻に対し、何たる失礼な物言いだ!」と怒鳴る(1枚目の写真)。それに対し、エドワードは、謝るどころか、「ここは私の家だ。これ以上、あんたの好き勝手にはさせんぞ!」と暴言を吐く。エロイーズは、モリスに 「今すぐここから出ましょ」と言い、さっさと出て行くが、腹の虫が収まらないモリスは動こうとしない。そして、エドワードに向かって 「私の母は君の本性を見抜けなかったが、私には分かる。君は、あさましい女たらしだ。ふざけた野郎だ! 私の母の地所には相応しくない奴だ!」と、妻との情事ならちゃんと知っているぞと攻撃する。エドワードの反撃はもっと凄まじく、「私の地所だ、モリス、私のだ。こんな物〔地所〕が、本当に他の何〔エロイーズ〕より欲しかったのか? いいか、実はもう勝ち取ったんだ。地所のことじゃないぞ。何ヶ月も前に、私が賭けに勝ったんだ」と言い返す。それを聞いたモリスは、思い切りエドワードの頬を引っ叩き、2人は床に倒れ込んで猛烈に闘い始める(2枚目)。客の1人に争いを止められたモリスは、そのまま何も言わずに立ち去る。すると、今度は、モイラが床に座り込んだままのエドワードの前に来ると、立ったまま、夫を見下ろす。エドワードが、「くだらない賭けだった」と、先程の発言を誤魔化そうとすると、モイラはきつい口調で、「私が、あなたと彼女のこと、知らないとでも思ってるの?」(3枚目の写真)「彼女をモノにしたくせに。私が気付いてないとでも?! あなたが、私でなく彼女を求めていることに 気づいていないとでも思っているの?!」と強く批判する。この、実に下らない場面(原作ではとっくに死んでいる伯父モリスと、その架空の妻エロイーズと、牧師としての影すらないエドワードと、本来は夫に完全支配されている妻モイラの計4人の、三流映画にもありそうな痴話げんか)で、映画は完全に原作を裏切り、侮辱し、奈落の底に突き落とした。監督に永遠の天罰の下らんことを!

その夜、ベッドで横になっているところに、姉がやって来る。フレイザーは、さっそく、「あんな騒動、起こすつもりなんてなかった」と弁解する。「わかってるわ」。「パパはママや僕たちのところに残ってくれるかな?」(1枚目の写真)。「わからない」。この会話の後、姉は、エロイーズから預かっていたものを渡す〔それが、ここに来た目的〕。「エロイーズが これを君にって。パリで買ったそうよ。彼女、これ 君が好きそうだと思ったみたい」。フレイザーはが包装紙を開けると、中にはレコードが入っていた。フレイザーは、「ルイ・アームストロングだ!」と喜ぶ。それから何日後かは分からないが、モイラが、フレイザーと一緒にベッドに寝ていると〔エドワードは、夫婦の寝室から締め出されている〕、そこにエドワードが入って来る。そして、目を覚ましたモイラに向かって、「私は、まるで子供だった。モリスと同じように。悪かった」と謝る(2枚目の写真)。その次は、海辺で母がフレイザーを抱いている映像(3枚目の写真)と共に流れるナレーション:「その後の数ヶ月は、僕たち誰にとって 楽なものじゃなかった。でも、パパが必死で頑張り、ママもようやくパパを許した」。日曜礼拝に行くために野原を歩いてきたモイラが、石の斜面に座っているエドワードの横に座ると、「フレイザーはどこ? 一緒にいたんじゃないの?」と訊く。「連れてくるよ」。「早くしないと、礼拝に間に合わないわ」。エドワードは館に戻る〔日曜礼拝は館の敷地内の教会で行われていたのかと思っていたら、全然違っていた〕。ドアを開けて中に入ると、家の中にはエドワードが嫌いなジャズが大音量で流れている。エドワードは音がする方に、階段をどんどん上って行くと、一番上の部屋で、蓄音機から2mほど離れたリクライニング・ソファに座ったフレイザーが、右手に牛乳の入ったワイングラスを持ち、左手に火を点けただけで吸わない葉巻を持ち、音楽に合わせて体を揺すっている(4枚目の写真)。父からは見えないが、膝の上には、相も変わらず裸の女性の絵の本も置かれている。最初は、叱ろうと思い、厳しい顔をしていたエドワードは、怖い顔をやめ、気付かれないようそっと部屋を出て行く。画面は黒一色になり、最後のナレーションが入る。「とにかく、これが今のところの僕の人生だよ」。最後まで、原作を無視し続けて、映画は終わる。
