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The_Painted_Bird 異端の鳥

チェコ映画 (2019)

1933年にポーランドで生まれたジャージ・コジンスキー(Jerzy Kosinski)が1965年に刊行した英文の小説を元に、チェコ人の監督ヴァーツラフ・マルホール(Václav Marhoul)がチェコ語を主体として映画化したもの。映画は、2時間49分と異例の長編で、その割に、台詞は皆無に近く、しかも白黒と変わった構成になっている。受賞数24、ノミネート数も24、Rotten Tomatoesの評価81%、IMDbの評価7.3と何れもかなり優れた作品になっている。しかし、先に書いたように、ほとんど台詞がない変わった構成なので、映画の中で 「一体なぜ?」「一体何が?」と不思議に思う箇所が多過ぎて、映画の理解を妨げている。そこで、今回の紹介にあたっては、映画原作を常に対比し、①映画の特定の場面に、映画では語られていないどんな意味があるのか? ②映画原作はどのように同じで、どのように違うのか? の2点に着目してあらすじを書くことにした。映画のどこが原作のどこに当たるかを迅速に探すため、1972年に日本語訳で刊行された本を図書館で借り、ただし、あらすじに表示した訳は、ネット上で無料で入手できる原作のpdfファイル(チェコの首都プラハにあるカレル大学〔日本の東大に相当〕が公開している)を利用させていただいた(chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/ht tps://dl1.cuni.cz/pluginfile.php/842117/mod_resource/content/1/ThePainte dBird-JerzyKosinski.pdf)。訳を進めるにつれ、20世紀中葉のヨーロッパ東部に、まるで中世のように閉鎖的で無学で動物のように残酷かつ猥褻な人々がいたことに驚いた〔ポーランド人が書いた英語なので、非常に訳し易く、公開するまでの時間は、信じられないほど早かった〕

映画は、あらすじの冒頭に付けた「カラフルな表」の左の欄の太字を見れば、①マルタ、②オルガ、③粉屋、④レックとルドミラ、⑤ハンス、⑥司祭とガルボス、⑦ラビーナ、⑧ミトカ、⑨ニコデムとヨーシュカの9つの独立したパートから構成されていることが分かる。映画が正確に西暦何年から始まるのかは分からないが、第二次大戦が始まってすぐなのか、数年してからの何れか。そして、映画が終わるのは、第二次大戦でドイツが降伏する5月よりは前。東ヨーロッパの中北部のどこかに住んでいた “長男ヨーシュカの両親” が、戦争中、息子が危険に遭わないようにと、田舎に住む伯母に預けたところから映画は始まる。しかし、伯母のマルタはすぐに死んでしまい、ヨーシュカは困難に直面する。それは、彼が、伯母のマルタの家の辺りに住んでいる土着の農民たちと、ヨーシュカの肌や髪や目の色、そして話し方までが全く違い、それが、ヨーシュカをジプシーやユダヤ人と誤解させたからだ。当時、その地域はナチスドイツの支配下にあり、ジプシーやユダヤ人は収容所送りになることが決まっていたため、ヨーシュカは危険な目に遭うごとに居場所を変えざるを得なくなる。それが、①→②→③→④→⑤→⑥→⑦と続く。⑧でドイツ軍が劣勢に立たされ、ソ連の赤軍が入ってくると、ヨーシュカは保護され、⑨で孤児院に送られ、最後は父と再会する。映画の観客は、②で18世紀のアメリカ・インディアンのような呪い師、③で妻と作男に残虐の限りを尽くす男、④で淫乱な愛人を持ったまじめな男の不幸な死、⑤でヨーシュカを救った優しい老ドイツ兵、⑥でヨーシュカを肉体的・性的に苛め抜く悪人、⑦でヨーシュカをオナニーの玩具にする女、⑧でヨーシュカを仲間と認めた赤軍の狙撃兵、⑨で父と再会したヨーシュカの悩みを観ることになる。一方、原作は20章まであり、2ヶ所で内容が映画と大きく相前後し、映画に登場しない章も数ヶ所あり、該当していても内容がかなり違う部分も相当あるが、全体的に見れば、ほぼ映画と同じように逃避行が展開する。一番大きな違いは、映画では、状況の背後に何があるのか一切説明されないが、原作を読めば、なぜそんな事態が起きているのかちゃんと書いてあること。恐らく、2020年10月に日本で劇場公開された時、映画を観ただけで内容をちゃんと理解できた人は少なかったろうと思う。

主役のヨーシュカを演じるのは、チェコ人のペトル・コトラール(Petr Kotlár)。映画出演はこの1作のみ。詳しいことは何も分からない。

あらすじ

この映画は、大きく9つのパートに分かれていて、それぞれが独立したエピソードになっている。登場人物が非常に多くて分かりにくいため、すべての写真の当該人物の上または横に、それが誰かを記号で表示した。主役のJoskaだけは黄色、それ以外は、男性:空色、女性:ピンク色、動物:緑色で統一した。また、名前のある役は大文字1字で、職名等しかない場合は複数の小文字で表示した(映画のエンドクレジットに記された配役表に準じている)。記号とフルスペル、その翻訳との関連を下の表に示す。あらすじの中でも、それぞれのパートで再記述する。
The Painted Bird   
パート名 記号 フルスペル 翻訳
 すべて  J  Joska  ヨーシュカ
 マルタ  M  Marta  伯母マルタ
 〃  squirrel  りす
 オルガ  O  Olga  賢者オルガ
 粉屋  la  labourer  作男
 〃  mi  miller  粉屋
 〃  miw  miller’s wife  粉屋の妻
 レックとルドミラ  L  Lekh  鳥飼レック
 〃  L  Ludmila  馬鹿のルドミラ
 ハンス  ho  horse owner  馬の持ち主
 〃  rpc  red partisan commander  赤軍パルチザンの部隊長
 〃  ss  ss  SS将校
 〃  H  Hans  兵士ハンス
 〃  jwb  jewish woman with baby  赤子を抱いたユダヤの女
 〃  jm  jewish man  ユダヤの男
 司祭とガルボス  pr  priest  司祭
 〃  ss  ss  SS将校
 〃  G  Garbos  農民ガルボス
 〃  dog  オオカミ猟犬
 ラビーナ  L  Labina  ラビーナ
 〃  goat  山羊
 ミトカ  G  Gavrila  政治将校ガブリラ
 〃  M  Mitka  狙撃教官ミトカ
 ニコデムとヨーシュカ  st  stallholder  露店商
 〃  N  Nikodem  父ニコデム

映画の冒頭、頭をすっぽりと毛糸のキャップで覆った少年がリスを抱いて林の中を必死に走っている(1枚目の写真)。黄色の「 J 」は、少年の名Joska(ヨーシュカ: 映画の中ではエンドクレジットの配役表にしか出てこないので、正確な発音は不明)の略。リスは、英語で「 squirrel 」と表示してある。走るシーンが30秒ほど続くと、背後から、2人の少年が襲いかかり、1人がリスを奪うと、1人がヨーシュカを押え込んで手を出せないようにする。リスを奪った少年は、上から何らかの液体を振りかけ、火を点けると、リスは火だるまになって苦しむ(2枚目の写真)。悪鬼のような2人が立ち去った後、ヨーシュカは悲しみに耽る(3枚目の写真)。映画では、なぜか、この直後、「マルタ」と表示されるが、リスの場面も内容的にはマルタのパートだし、原作では、第1章はここから始まっているので、冒頭の表ではここも「マルタ」に入れてある。映画では、この前後に何の説明もないので、原作の該当部分を引用しておこう。「1939年の秋、第二次世界大戦が始まって最初の数週間、東ヨーロッパの大都市にいた6歳の少年は、他の何千人もの子供達と同様、両親によって遠く離れた田舎の仮住まいに送られた。東方に旅をしに来た1人の男が、多額の支払いを受けて、その子の一時的な里親探しに同意した」。その背景には、「この子の父親は戦争が始まる前に反ナチ活動を行っていたため、ドイツでの強制労働や強制収容所への投獄を避けるため、自らも身を隠す必要があった」と書かれている。しかし、「戦争と占領の混乱の中、両親は息子を村に預けた男と連絡が取れなくなった」という不幸な状況に加え、息子が預けられた地域は、「少年が生まれた場所とは民族学的に異なっていた。地元の農民は周辺とは隔絶し、近親交配を行い、色白で金髪、青もしくは灰色の目をしていた。それに対し、少年の肌はオリーブ色で、黒っぽい茶髪、黒い目だった。彼は知識階級の言葉を話すので、東部の農民にはほとんど理解できなかった」という悪条件が重なる。結果として、「(彼の言葉が理解できない農民は)彼のことを、ジプシー、もしくは、はぐれたユダヤと思ってしまう」事態が多発する。そして、農民は、「本来、ゲットーか絶滅収容所にいるべきジプシーやユダヤを匿えば、個人や地域社会は、ドイツ軍の手によって最も厳しい処罰を受けることになっていた」という、大きな危険と直面する。これが、ヨーシュカが常に危険な目に遭った根本的な理由。そして、さらに困ったことに、農民は 過酷な環境が故に 極めて暴力的かつ残忍だった〔冒頭のリスのシーンがその端緒〕

伯母は、リスの焼死体を見て、「あなたが悪いのよ。1人でここから出て行っちゃいけないの」と、優しく叱る。「はい、伯母ちゃん」。そして、ヨーシュカの汚れた靴を見て、「きれいに洗うのよ。汚い靴なんか履いていると人間には見えない」と教える。ヨーシュカは、靴を洗ってから、リスの死骸を納屋の近くの木の下に埋める(1枚目の写真)。原作では、マルタは全くの赤の他人。原作第1章には、アンナについてこう書かれている〔冒頭の状況説明以外は、すべてヨーシュカの第一人称で書かれている〕。「彼女は、節くれ立った杖にもたれて足を引きずって歩き回り、僕にはさっぱり分からない言葉でいつも一人でブツブツ言っている。彼女の小さなしなびた顔は網目のようなしわで覆われ、肌は焼きすぎたリンゴのような赤茶色だった〔①原作の設定では、村人の多くは老人のハズで、それなら、マルタ同様 「色白」ではない。なぜ 「オリーブ色」のヨーシュカが目立つのだろう? ②映画の設定も奇妙。そもそも、都会人のヨーシュカの家族の伯母が、なぜ原始的な田舎に住んでいるのだろう? 伯母と解釈した理由は、ヨーシュカが “Auntie” と呼んだからだが、原作と違ってヨーシュカに優しいので、赤の他人とは思えない点も加味して伯母だと判断した〕原作には、こんなことも書かれている。「最初、僕は彼女が怖くて、僕に近づくと目を閉じた。そんな時、僕が感じたものは、彼女の体の嫌な臭いだけだった。彼女は、いつも服を着たまま眠った。彼女によれば、それこそが、新鮮な空気によって部屋の中に運ばれてくる数多くの病気の危険性に対する最善の防御策だった。健康を保証するためには、体を洗うのはクリスマスとイースターの年2回まで、それも、服を脱がずにほんの少しにすべきだと、彼女は主張した」。これから判断すると、その日の夜に、マルタ( M )がヨーシュカを全裸にしてゴシゴシ擦って洗ったのは(2枚目の写真)、映画だけの全く違った設定と言える。ヨーシュカは「服を着たまま」ではなく、パジャマに着替えてベッドに横になると、恐らく唯一都会から持って来た玩具を動かして、都会の暮らしを懐かしむ(3枚目の写真)原作にはないシーン。玩具はすべて置いてきた〕

ある日、「1人でここから出て行っちゃいけないの」と言われていたにも関わらず、野原を流れる小川のそばに行ったヨーシュカは、持ってきた紙に、父と母と自分の絵を描き、そこに、「PŘIJEĎTE SI PRO MĚ〔僕を連れ帰って〕」と書き入れると(1枚目の写真)、それを木で作った小さな舟の帆替わりにして、小川に流す(2枚目の写真、矢印)。別の日かもしれないが、夕方になり、伯母がジャガイモ半切れと、何かの小さな肉が2個入ったスープを夕飯に作り、食べるよう勧める(3枚目の写真)〔この2つのシーンは原作にはない。食事に関しては、マルタの作るパンがおいしいという記述しかない〕

恐らく翌朝、伯母が洗濯物を干していると、「汚い靴なんか履いていると人間には見えない」と言われたヨーシュカは、自分の靴をきれいに磨いている(1枚目の写真、矢印)。そして、夕方になると、ピアノの前に座ったヨーシュカが 「エリーゼのために」を間違えながら弾いているのを、伯母が涙を浮かべて聴いている(2枚目の写真)。ヨーシュカがパジャマに着替えていると、伯母がイスに座り、床に置いたお湯の入った洗面器に足を入れ、洗っている音が聞こえる。別の日、伯母は、木の切り株の上に飼っている鶏を置き、斧を振り上げて首を落とす。その日の夜も、伯母は洗面器に足を洗っている。パジャマに着替えたヨーシュカは、父( N )、母、祖父母の4人が写った写真を、懐かしそうに指で触ってみる(3枚目の写真)原作では、マルタの小さくて貧しい家には、ピアノのような贅沢品はない〕。ただ、洗面器については、2つ前の節の最後に引用した「彼女は主張した」の少し後に、「彼女は、週に1、2度、湯に足を浸した」と書かれている映画は、この部分を生かしたのであろうが(ただし、洗面器ではなくバケツ)、その前に、ヨーシュカの全身を洗っているので、原作のマルタと映画の伯母がごっちゃになっていて、奇妙な感じがする。それでも敢えて洗面器を登場させたのは、次のシーンに必要だったからかもしれない〕

翌朝、ヨーシュカが目を覚ましてベッドから起き上がり、ドアのガラスから伯母の部屋を覗いてみると、彼女は、まだ足を洗面器に入れたままイスに座っている。そこで、邪魔しては悪いと思ったヨーシュカは、ベッドに戻って横になる。真昼になっても一向に食事のお呼びがかからないので、お腹の空いたヨーシュカは、指で遊んで時間を潰す(1枚目の写真)。次のシーンでは、辺りはもう暗くなっている。ヨーシュカは暖かい服を着ると、ランプに火を点け、伯母の部屋に入って行く。彼女は、相変わらず、同じ格好で足を洗面器に入れたままイスに座っている(2枚目の写真)。ヨーシュカは、伯母の真横まで行き、体に触ってみても反応がない。そこで、顔を近づけると死んでいることが分かり、びっくりした拍子にランプを落とし、壊れたランプから油が流れ出て伯母の服に火が点く。ヨーシュカは、どうすることもできないので、そのまま部屋を出て行くと、火の勢いは次第に強くなる(3枚目の写真)。そして、真夜中までには、伯母の木の家は全焼する。なお、原作によれば、冒頭近くに 「少年の養母は、彼が着いてから2ヶ月以内に死亡した」と言う記述がある。

住む場所がなくなったヨーシュカは、近くの村まで行ってみる。村の入口には、原作ほど朽ち果ててはいないが、マリア像の絵を中央に掛けた十字架が立っている(1枚目の写真)。まるで中世のような〔電線がないので、電気もない〕貧相な村で、最初は誰もいないように見えたが、次のシーンでは凶暴な犬が吠えかかり、怖い顔をした男女がヨーシュカを取り囲み、中には、シャベルを振り上げたり、Y字型や股金鋤のような鉄の棒を突き出す男女も結構たくさんいる。ヨーシュカは、「家に帰りたい!」と何度も叫ぶ。しかし、その次のシーンはもっとひどい。地面に横たえられ、上から麻布を被せられたヨーシュカは、1人の男によって、鞭のようなもので何度も何度も叩かれる(2枚目の写真、矢印)。あまりに痛いので、ヨーシュカの顔が苦痛に歪む(3枚目の写真)。おまけに、周りからは、「こいつ、牛に魔法をかけた…」「水に毒を入れた…」「悪霊を呼ぶガキだ」などという声まで聞こえる。残虐なだけでなく、なんと無知蒙昧な村人達なのだろう。最後は、袋に入れられるが、それを見た村人達からは、「殺しちまえ」「溺れさせろ」「あいつら〔悪魔〕は溺れん。焼いた方がいい」「悪魔の落とし子め」という罵り声が投げ掛けられる。原作では、ここからが第2章。状況はもっと悲惨だ。「石が投げ付けられた。僕の頭には、乾いた牛の糞、かびたジャガイモ、リンゴの芯、土くれ、小石が浴びせられた」「背の高い赤毛の農民は、僕を押し倒し、木靴で蹴った」。袋詰めにされて連れて行かれた先の農家では、「農民が僕を鞭で打ち続ける間、僕はリスのように飛び跳ねた。別の男が、僕のふくらはぎを叩き始め、僕はますます高く飛び上がった」「次の数日間、農場主はミミズ腫れだらけの僕の脚を鞭打ち、カエルのように飛び跳ねさせた。僕はほとんど裸で、底に足用に穴が2つ開いた袋を履いているだけだった。僕が跳ねると袋は何度も落ちてしまい、ちっぽけなちんぽを隠そうとする僕を見て、女たちはクスクス笑った〔ここまでくれば、単なる野蛮人〕

ヨーシュカが連れて行かれた先の納屋にはオルガという女性がいて、ヨーシュカの顔に触って、「黒い悪魔の目ね。この子は、悪魔と絆を結んでる。死を呼び寄せることもできる」と言った後で、無理矢理口を開けさせ、中央の上の歯2本が欠けているのを見て、「この子は、吸血鬼だわ」と断言し(1枚目の写真)、「買ってあげる」と告げる。ヨーシュカは、縛られたまま、オルガに連れられて村を去って行く(2枚目の写真)。映画は、ここからが第2部の「オルガ」になっているが、あらすじでは、原作に倣い、前節から「オルガ」として扱っている。次の日の早朝、オルガの一部屋しかない家で、早く目が覚めたヨーシュカは、まだぐっすり眠っているオルガの方を、これから自分はどうなるんだろうと思いながら、じっと見ている(3枚目の写真)。原作では、ある日、「賢者オルガ」と呼ばれる老婆が農場にやって来る。顔をじっと見るのは同じだが、小便の色や、お腹にある盲腸の手術の跡を見た上で、別に悪魔とも吸血鬼とも言わず〔オルガがヨーシュカをこう呼ぶのは、原作ではもっと後〕、ヨーシュカの首映画では腰〕の周りを縛って自分の小屋に連れて行く。映画には出て来ないが、小屋の中は 「山積みになった枯れ草、落ち葉、低木、小さな奇妙な形をした色の石、カエル、モグラ、そして蠢くトカゲやミミズの入った壺で一杯だった」と書かれている。オルガは、病気を治す賢者として知られていたので、オルガはそれらを粉末にして薬として利用していた。

次のシーンでは、オルガを乗せた小さなボートを、頭を丸坊主にされたヨーシュカが漕いでいくのを遠方から捉えた映像が印象的だ(1枚目の写真)。この映画では、このようなカメラワークが特徴になっている。この地域については、原作第1章で、「土地は痩せ、気候は過酷だった。魚のいなくなった多くの川が頻繁に氾濫し、牧草地や野原を広大な湿原や湿原に変えた」と紹介され、他の章でも何度も湿原や湿原という言葉が使われている。この地域の人々はこの後もヨーシュカにひどい蛮行を加えるので、原作でも映画でも、どこの国かを記述するのを避けている。しかし、確かに、北中部の東ヨーロッパには、こうした沼沢地がかなり存在し、場所は書かないが、一例として グーグル・ストリートビューの写真を2枚目に示す。映画では、オルガが病人に対して “呪術師のような治療” を行う場面は2つある。最初の農家では、剥き出しにした女性の腹部の上を、小さな生きた蛇を持ったヨーシュカがあちこち動かす(3枚目の写真、矢印)。黄色の「 J 」はユーシュカ、ピンクの「 O 」はオルガ。次の農家では、ロウソクを載せた筒のようなものを、ヨーシュカが老いた男性の片方の耳に差し込む(4枚目の写真、矢印)。原作では、オルガはより多くの病人に対処する。映画に出てきた病状不明の女性の場合、「オルガは僕に、女の人の温かく湿ったお腹を揉み、絶え間なく見つめ続けるよう命じた」とあり、蛇は使わない。また、耳の痛い男に対しては、「オルガは、両方の耳をカラウエイ〔浄化のハーブ〕油で洗い、ラッパの形に巻き、熱いロウに浸した亜麻布の切れ端を両耳に挿入し、外側から亜麻布に火を点けた」とあり、これもかなり違っている。

ここでは、最初に原作を引用しよう。「待ちに待った暖かい季節がようやくやって来ると、それはペストをもたらした。感染した人々は、くぎ付けにされたミミズのように のたうち回り、身の毛のよだつ悪寒に震え、意識を取り戻すことなく死んだ〔滞在期間が冬→春だと分かる〕。体じゅうに青い斑点ができた老人のところに呼ばれたオルガは、それが何を意味するか知ると、近寄ろうとしたヨーシュカを手で押し留める(1枚目の写真、矢印)。事態は悪化し、多くの村人が死んでいき、布で包まれた死体は、次々と火で焼かれていく(2枚目の写真、矢印)。「ある晩、僕の顔が燃えるように熱くなり始め、激しい動悸で震えが止まらなくなった」。映画では経緯の説明がなく、体中に汗をかいたヨーシュカに、オルガが木のスプーンで何かを飲ませている(3枚目の写真)。

原作では、オルガは薬など与えない。「オルガは、一瞬僕の目を見、冷たい手で僕の額に触れた。彼女は、即座に、何も言わずに、人里離れた野原に僕を引きずって行った。そこで、彼女は深い穴を掘り、僕の服を脱がせ、中に飛び込むよう命じた」と書かれている。映画では、小さな荷車に乗せて運んで行くと(1枚目の写真)、鍬(くわ)で穴を掘り、裸にしたヨーシュカを荷車から穴まで引きずって行くと、一旦地面に横たえ(2枚目の写真)、そして、まず足を穴に入れ、上体を起こして穴に滑り込ませる。「僕が、高熱と悪寒で震えながら底に立っていると、オルガは僕の首のところまで、掘った土を穴に戻して埋めた。そして、僕の首の周りの土を踏みつけ、表面が滑らかになるまで鋤(すき)で叩いた。そして、泥炭で、煙を上げる炎を3つ作った」。映画では、視覚上バランスが悪いからか、泥炭の焚き火は4つになっている(3枚目の写真)。

翌朝になると、ヨーシュカに気付いたカラスが何羽も寄ってくる(1枚目の写真)。文字通り、手も足も出ないので、ヨーシュカは 脅して追い払おうと 大声で叫ぶ。カラスは、一旦はびっくりして飛び去るが、実害がないと分かると、すぐに戻ってくる。そして、ヨーシュカの頭の周りに密集して集まると、頭をくちばしで突(つつ)き始める(2枚目の写真)。この部分は、原作を忠実に映画化しているが、あまりにもリアルでCGには見えないので、子役の安全を確保しながら、どうやって撮影したのだろう? 最悪の事態になる前、オルガが現われてカラスを追い払う(3枚目の写真)。映画は、ここで終わっているが、原作ではオルガはすぐにヨーシュカを掘り起こす。そして、ヨーシュカは数日後に病気から回復する。その後、何週間かが過ぎ、オルガはヨーシュカを川の土手に連れて行く。そこでは、農民達が大きなナマズを掴まえていた。映画は、途中の経過は省き、何の説明もなく ここから始まる。オルガが 網で手を切った男の手当てをしている間に、近くで釣竿を川に入れていたヨーシュカのそばに1人の農民が寄って来る。大きな声で脅されたヨーシュカは、びっくりして川に落ちる。ヨーシュカは泳げなかったかもしれないが、幸い、大きな木の枝が流れてきたので、それに捉まる。

ヨーシュカは、そのままどんどん流されて行き(1枚目の写真)、ここから原作第4章が始まる原作第3章はただの経過説明〕。ヨーシュカは、乗っていた木の枝が、川に突き出た大きな木製の水車の横の木杭に引っかかり、そこで疲れて眠っている。次のシーン(映画第3部の「粉屋」はここから)では、それに気付いた粉屋で働く作男( la )が、ヨーシュカを担いで粉屋の家に運んで行く(2枚目の写真、矢印は水車)。作男が、家の中に入って行き、粉屋とその妻の前で、床にヨーシュカを降ろすと、厳しい顔をした粉屋( mi )が、「そいつは、不幸をもたらすだけだ」と、冷たく言う(3枚目の写真)。原作にはこうした状況は一切なく、冒頭の文章は、「僕は今、村人たちが  “焼きもち” というあだ名で呼んでいる粉屋の家に住んでいる」から始まる。

原作のこの章は短く、必要なこと以外何も書かれていないが、映画では、ヨーシュカが、水車小屋の中で、粉を挽いて粉だらけになった木の床を掃いたり、粉を入れた袋を必死で引っ張る姿が短く映る(1枚目の写真)。このシーンのメインは、粉屋の妻と作男が、時々目線を交わす仲であることを示すと同時に、粉屋もそれに気付いていることを示す箇所。夕方になり、水車小屋での作業が終わり、ヨーシュカが粉屋の家のかまどに薪をくべていると、粉屋の妻が帽子と服を大事そうに持ってきて、「あたしたちの息子は死んじまった」と言うと、死んだ息子の服を床に置き、帽子だけ手に持つ。ヨーシュカが立ち上がると、妻( miw )は帽子を差し出し、「合うか試して」と言い、受け取ったヨーシュカが被ってみる(2枚目の写真)〔この帽子は、映画の最後までヨーシュカが折に触れて被るので、ある意味重要なシーンだが、原作にはない〕。3枚目の写真は、作男との不倫な関係を咎められた妻が、粉屋によりベルトで乱打されるシーン(矢印はベルト)。これが、原作の唯一のテーマで、「僕は、粉屋と奥さんの寝室の上の屋根裏で寝た。夜、僕は、怒鳴り声で目が覚めた。粉屋は、奥さんが作男と いちゃついたり、原っぱや水車小屋でみだらに裸をさらしていると疑っていた。奥さんはそれを否定せず、ただ黙っていた。カッとなった粉屋は、部屋のロウソクに火を点け、ブーツを履くと、奥さんを殴った。僕は、床(ゆか)板の裂け目に張り付き、粉屋が、裸の奥さんを馬用の鞭で叩くのを見ていた。奥さんはベッドから引っ張り出した羽毛布団を被って縮こまっていたが、粉屋はそれを引き剥がし、床に放り投げ、脚を広げて奥さんの上に立つと、ぽっちゃりした体を鞭で叩き続けた。叩くごとに、赤い血で腫れ上がった線が、柔らかな肌に現れた。粉屋は残酷だった。腕を大きく振り上げると、鞭の革紐を、奥さんのお尻やももに向けて弧を描いて飛ばし、胸や首に切り傷を負わせ、肩や肌を痛めつけた。奥さんは衰弱し、子犬のようにすすり泣いた」と書かれている。

翌日、もしくは別の日、粉屋はいつも通り何もせず、3人だけが働き続ける(1枚目の写真)。そして、その日の夕食の時間になり、パジャマに着替えたヨーシュカが、夕食のテーブルに3人用の金属の皿を並べる。粉屋が中央に座り、右横に作男が座り、妻が料理の鉢を粉屋の前に置く(2枚目の写真)。映画では、ヨーシュカがどこにいるのか分からないが、原作には、「僕は、かまどの横にしゃがんで 僕の分を食べた」とある。粉屋の家には、雌猫が飼われていたが、最近発情したため、その夜、粉屋が雄猫を借りてきていた。食事が進み、2匹の猫が交尾を始めると、それをじっと見ていた粉屋がいきなり立ち上がってテーブルを持ち上げてひっくり返す。そして、作男の腕をつかむと、「クソ野郎! 豚野郎! わしの妻とやりたいんだな?」と言うと、持っていたスプーンで作男の目玉をえぐり出す(3枚目の写真、矢印)。ヨーシュカは、猫に食べられないように、床に落ちた2つの目玉を拾う。何とも呆れるほど残虐なシーンだが、原作では、粉屋は目玉を長靴で踏み潰す。

こんな家にいることが怖くなったヨーシュカは、夜、2人が寝静まった頃、奥さんにもらった帽子と服を身につけると、床に落ちていたパンを布袋に入れる(1枚目の写真)。そして、土砂降りの夜にもかかわらず逃げ出し、近くの大きな木の下で雨宿りをする。朝になり、雨が止み、陽が射すと歩き始めるが、すぐに、目玉を抜き取られ、血を流して倒れている作男と出会う(2枚目の写真)。作男は、死なずに生きていたので、ヨーシュカは、昨夜拾っておいた目玉を、作男の両手に1個ずつ置く(3枚目の写真、矢印)原作には、このシーンはない〕。これで、最も残酷な章が幕を閉じる。

ここからが、原作第5章映画第4部の「レックとルドミラ」。鳥小屋の入口に現れたヨーシュカに向かって(1枚目の写真)、レック( L )は、「お前、ジプシーか?」と訊き、ヨーシュカは首を横に振る。レックは、ユダヤでないかどうか知るために、「自分自身で十字を切れるか?」と訊き、ヨーシュカは 右手を頭→胸→左肩→右肩と動かす。これで、見知らぬ変わった少年が、ジプシーでもユダヤでもないと分かったレックは、外に出て行くと何度もヨーシュカを持ち上げてみて〔軽いことを確かめた〕、これならできると踏むと、さっそく背の高い木の所に連れて行き、レックには登れない高さまでヨーシュカを上がらせ、そこに、小鳥を捕まえるための罠を仕掛けさせる(2枚目の写真、矢印は餌)。この点に関して、原作にも、「レックはこれまで一人で働いてきた。彼が僕を置いてくれたのは、僕がとても小さく、やせていて、軽かったから。レックには行けない場所にでも、罠を仕掛けることができたからだ」と書いてある。レックは鳥小屋で食べていたヨーシュカを呼び、それまで1人で飲んでいたウォッカをコップに注ぐと、なぜかヨーシュカの前に置く(3枚目の写真、矢印)。ヨーシュカが飲もうとしないと、結局自分で飲む。この3つ目のシーンは、何のために挿入したのか理解できない。原作ではこの頃のレックは酒浸りの怠け者ではなく、熱心な鳥の専門家で、映画のレックには違和感がある。

レックのもう一つの嗜好は、村人に  “馬鹿のルドミラ“ ( L )と呼ばれている女性が大好きだったこと。原作には、「毎日、お昼になると、レックと僕は、ルドミラに会えることを期待して空き地まで歩いていった。僕たちがそこに着くと、レックはフクロウの鳴き声で呼びかけた」と書かれている。映画でも、ほぼ同じことが行われる(1枚目の写真)。「僕は空き地の端、シダの葉に隠れて2人を見ていた」。そして、2人は愛し合う(2枚目の写真)。しかし、ルドミラは、“馬鹿” と呼ばれるだけあって、普通の女性ではなかった。「“馬鹿のルドミラ” は変わった女性で、僕は彼女がだんだん怖くなった。彼女の髪は、一度も切られたことがないように見え、肩から流れるように下がり、大きな胸はお腹近くまで垂れ下がっていた。夏になると、彼女は乳房と赤い陰毛の茂みの見える 色あせた袋だけを着て歩き回った。村の男たちや少年たちは、ルドミラがその気になった時に、彼女とやったおふざけについて話題にした。村の女たちはルドミラに罠をかけようとしたが、誰も捕まえることはできなかった」。映画では、その「おふざけ」を、ルドミラと青年のセックスという形であからさまに表現している(3枚目の写真)

映画原作も、ここでレックの本業の鳥の話が入る。しかも、その主役は、題名と同じ「the painted bird」。日本語訳の題名「異端の鳥」ではなく、「塗られた鳥」だ。映画は白黒なのでどんな色かは分からないが、レックがハケ(右の矢印)で ヨーシュカに持たせた鳥(左の矢印)にペンキ(?)を塗っている(1枚目の写真)。そして、同じ種類の鳥が集団でぐるぐる回って飛んでくると、レックは手で握っていた 「塗られた鳥」 を空に向かって放つ。鳥は集団に向かって飛んで行くが、しばらくすると、他の鳥達から集中して攻撃を浴び(2枚目の写真)、最後には、死んでヨーシュカの近くに落ちてくる(3枚目の写真、矢印)。この場面がなぜ映画の題名になったのか、それは、”色の違った鳥が、同じ種類の鳥でも、色が違うというだけで、執拗に攻撃される” という点が、”肌や髪や目の色の違ったヨーシュカが、同じ人間にも関わらず、農民達から疑惑の目で見られ、何度も迫害に遭う” ことを象徴しているからだ。そういう意味で重要なシーンなので、原作にどのように記述されているか見てみよう。「十分な数の鳥が僕らの頭上に集まると、レックは囚人〔「塗られた鳥」〕を放つよう合図した。塗られた鳥は、雲を背景に虹の点となって、幸せそうに自由に舞い上がり、待っている茶色の群れに飛び込んだ。一瞬、鳥達は混乱した。塗られた鳥は群れの端から端まで旋回しながら、自分が群れの同類だと納得させようとしたが無駄に終わった。鳥達は、その鮮やかな色に惑わされ、仲間だとは納得せず、塗られた鳥の周りを飛び回った。塗られた鳥は、熱心に群れに入ろうとしたが、逆に、どんどん遠くへ追いやられた。やがて、一羽また一羽と、鳥たちが急降下して激しい攻撃を行い、多色の幻影は空で居場所を失い、地面に落下した。僕たちが塗られた鳥を見つけた時、それはいつも死んでいた」。この文章の中には、「鳥達は混乱した」「塗られた鳥は…自分が群れの同類だと納得させようとした」「鳥達は…色に惑わされ、仲間だとは納得せず」「激しい攻撃を行い」「(塗られた鳥は)居場所を失い」という文言がある。これはまさに、”ヨーシュカと農民達” そのものだ。この記述からしばらく後に、もう一度 ”塗られた鳥” が 原作にだけ登場する。それは、全く別のシチュエーションだ。実は上記の挿話の少し前から、“馬鹿のルドミラ” がレックの前から姿を消していた。不在の期間が長くなると、「レックは不機嫌になり、むっつりし、一羽ずつ鳥を籠から取り出し、さらに派手な色に塗ると、同類に殺させようと空に放った」「塗るための鳥がなくなると、レックは上着の中からウォッカの瓶を出しながら、野原を徘徊し始めた」。こちらの方は、上記のような “象徴” とは違い、鳥好きだったレックが、ルドミラの気まぐれな失踪によって、生き甲斐を失ってしまったことを語っている。

この事件のあと、”馬鹿のルドミラ” は戻ってきたが、村の女たちに捕まり、信じられないような暴行を加えられる。大勢の女たちに取り囲まれ、地面に押し倒されたルドミラは、股を開かれ、膣口から空のビール瓶を繰り返して力任せに押し込まれ、最後には、悪女が、足を振り上げてビール瓶を蹴り込む(1枚目の写真、矢印はその後の脚の動き)。映画にはないが、原作では、そのあと、「中でガラスが割れるくぐもった音が聞こえた。すると、女たち全員がルドミラを蹴り始め、血が女たちの長靴とふくらはぎに飛び散った。最後の女が蹴るのを止めた時、ルドミラは死んでいた」と書かれている。レックはルドミラの死体を家に持ち帰り(2枚目の写真)、生き甲斐を失ったため、首を吊って自殺する(3枚目の写真、矢印はロープ)原作では、自殺しない〕

映画では、ここで、「ハンス」(第5部)と表示される。一方、原作第6章では大工が登場する。映画には出てこない人物だが、第6章の後半ある「ヨーシュカによる復讐」は、映画第6部の「司祭とガルボス」の後半にそのまま使われている。また、原作第7章では鍛冶屋が登場する。これも映画には出てこない人物だが、第7章の後半は、映画第5部の「ハンス」の後半に使われている。そして、原作第8章の前半の一部が、「ハンス」の前半に一部使われている〔この辺りから、原作映画の乖離が始まる〕。レックの家から逃げ出したヨーシュカは、森の中で壊れた荷車と、右脚を折った馬に遭遇する(1枚目の写真)原作第8章の冒頭〕。馬を可哀想に思ったヨーシュカは、苦しむ馬をなぐさめながら、「疲れ果て、泥まみれになって、僕は馬と一緒に村に着いた」(2枚目の写真)。集まった村人の中で、小太りの男原作によれば、「2日前に一目散に逃げていった馬の持ち主 ho 」〕が寄ってきて、「どこで見つけた?」と訊く。次のシーンでは、その男は、骨折した馬の首をロープで縛ると、ロープの反対側を、2頭の馬が牽く横棒に縛り付ける。男が何をするか分かったヨーシュカが、「ダメだよ」と言って男の脚にしがみつくが、男は脚を振ってヨーシュカを蹴り飛ばすと、「失せろ! 邪魔するな!」と怒鳴る。そして、2頭の馬に鞭を呉(く)れると、馬は勢いよく走り出し、骨折した馬は、倒れて首を絞められ、死んだまま引きずられて行く(3枚目の写真、矢印は死んだ馬)原作では、ヨーシュカは馬の命乞いをしようと思ったが、止める。そして、馬の持ち主はこんなに乱暴な男ではなく、馬の骨は薬として貴重だったため、ヨーシュカに感謝し、作男として雇う〕

映画では、馬を殺したすぐ後、10頭以上の馬に乗った一団が現われる〔何者かは不明だが、原作第7章では赤軍パルチザン〕。次のシーンは、赤軍パルチザンの一行と村人たちの交歓会。ヨーシュカはウォッカを注いで回る役目を命じられる。赤軍パルチザンの部隊長( rpc )は、ヨーシュカに目を留める(1枚目の写真)。そして、ヨーシュカに浴びるほど酒を飲ませた結果(2枚目の写真)、ヨーシュカは、翌朝には、部隊長のブーツの頭を乗せて眠っている(3枚目の写真)。しかし、原作第7章では、赤軍パルチザンに対する交歓会などない。一方、原作第8章では、ヨーシュカを作男として雇った主人の話が出てくる。「僕の主人は広く尊敬されていて、地元の結婚式や祝賀会によく招待された」。その時、ヨーシュカも連れて行かれ、都会特有の早口で子音の多い言葉を披露したり、昔聞いた物語を話すよう命じられ、「それをする前、僕は農民に無理矢理ウォッカを一気飲みさせられた」。この余興が終わった後も、「僕は、次から次へとテーブルに呼ばれ、乾杯を強要された。僕が断ると、彼らは僕の喉にウォッカを流し込んだ。夕方になる頃には、僕はいつも酔っていて、何が起きているか分からなくなっていた」と書かれ、この部分が、そのまま映画の赤軍パルチザンの場面に流用されたことが分かる。

翌朝、赤軍パルチザンの部隊長( rpc )は、馬の持ち主( ho )と話を付け、ヨーシュカを馬に牽かせた荷台に乗せる(1枚目の写真)。原作第7章の最後の方で、パルチザンが鍛冶屋を殺し、鍛冶屋の妻も半殺しにした後、屋根裏に隠れていたヨーシュカを見つける。馬鹿なパルチザンは、勝手にヨーシュカをジプシーだと思い込む。そして、ヨーシュカをドイツ軍に渡せば、この村が助かると、これも勝手に思い込み、ヨーシュカの手と足を縛った上で、村の農民を呼び、荷車でドイツ軍の部隊に渡すよう命じる。映画では、これを部隊長と馬の持ち主に変更した。ヨーシュカが連れて行かれたのは、映画では小さな基地、原作では鉄道の駅。そこに着くと、荷車がドイツ兵に取り囲まれるのは、映画原作も同じ(2枚目の写真)。小屋から若いSS将校( ss )が出てくると、馬の持ち主は、「あなたたちのために、森の中で見つけたユダヤ人を連れて来ました」と、部隊長がドイツ語で適当に書いた紙を読み上げる(3枚目の写真)。それを聞いた将校は、「志願兵が要る」と呼びかける。原作では、「将校は、眼鏡をかけた年配の兵士の方を向くと、命令を出して立ち去った」と書かれていて、志願兵ではない。

老いた兵士ハンス( H )が、肩にライフルを掛け、手にシャベルを持って、手だけ縛ったヨーシュカを先に、線路の上を歩かせていく(1枚目の写真、)。ヨーシュカは、荷車に縛って乗せられた時から裸足だったので、枕木の上を選んで歩く〔砕石の上は痛いので〕原作第7章には、「僕は裸足で、枕木は太陽で熱くなっていて、足の裏を焦がした〔枕木って、そんなに熱くなるものだろうか?〕、「何度かレールの上を歩こうとしてみたが、足を縛ったロープのせいでバランスが取れなかった〔枕木より、鉄のレールの方が熱いのでは?〕〔足のどこを縛っても、そんな状態で歩くことなどできないと思うが?〕と書いてあるが、ここは映画の方が正しい。線路はそのうちに行き止まりになり、ヨーシュカは、“ここで撃たれて埋められるんだ” と覚悟して 兵士を振り向く。しかし、兵士はナイフを取り出して、ヨーシュカの手を縛ったロープを切る。そして、パイプをくわえるとレールの上に座り込み、ヨーシュカも同じように座る。兵士はしばらく煙草を吸うと、パイプを手に持ち、ヨーシュカをじっと見る(2枚目の写真)。そして、首を振って、“行け” と示唆する。ヨーシュカが迷っていると、兵士はもう一度 “行け” と示唆するが、ヨーシュカは動かない。そこで、兵士は立ち上がると、ライフルに装填し、体全体で “行け” と促す。相手がライフルを装填したので、ヨーシュカはこのままではどうせ殺されると思い、遠くの森に向かって野原を走って行く。すると、3分の2以上来たところで、兵士がライフルを撃つ。驚いたヨーシュカは、自分が死んでいないことを認識した上で振り返ると、兵士は、ライフルを横に向けて持ち、銃口は右上の空を向いている。それを見たヨーシュカは、兵士が本気で逃がしてくれると確信し、森の中に走り込む。観ていて、ここだけは清々しいシーン。

老兵士ハンスの短い登場場面は終わったが、映画第6部の「司祭とガルボス」はもっと先で、しばらく「ハンス」が続く。原作では第9章。ヨーシュカは体の大きな “家畜を飼う農夫” の厩舎で寝て働くことになる。親切な農夫は、ドイツ軍が来ると、ヨーシュカを 「納屋の下の 巧妙に偽装された地下室」に隠す。映画には、そのようなシーンはないが、こうした安定した生活の中で、外では何が起きているかを原作に沿って映像化している。これが、その最初の記述。「新しい種類の列車が走るようになった。生きている人々が、施錠された家畜用貨車に詰め込まれていたのだ。駅で働いている人が村にもたらした知らせでは、こうした列車は、捕らえられ死刑を宣告されたユダヤやジプシーを運ぶもので、各貨車には200人の人々が、場所を取らないよう腕を上げ、トウモロコシのように隙間なく入れられていると噂されている」。映画では、そうした列車の貨車の1両で、木の板が中から蹴られて外に飛んで行き、空いた隙間から、ユダヤ人たちが、①荷物を放り投げ、②次いで自分も飛び降りる、という動作を繰り返し、何人もが脱出する。それに気付いた最後尾の車両のドイツ兵が、機関銃で撃ち殺していくシーンや(1枚目の写真)、村人たちが射殺されたユダヤ人を身ぐるみ剥いで、荷物と一緒に盗んでいくシーン(2枚目の写真)、そして、レールの上を走ってきた車から降りたドイツ兵が、生き残っている者がいないかどうか調べ、赤ちゃんを抱いた女性( jwb )を発見し(3枚目の写真)、射殺するシーンが紹介される。原作では、特に2番目について、「日中、線路沿いにうろついていた農民たちは、これらの死体を見つけると、すぐに服や靴を盗んだ。洗礼を受けていない穢れた血で汚れないよう、農民たちは犠牲者の服の裏地を剥ぎ取り、貴重品を探した。何もかも剥ぎ取られた死体は、レールの間に放置され、1日1往復していたドイツ軍の警備用自動車によって発見された」と書かれている。

原作とは違い、映画のヨーシュカには、体の大きな “家畜を飼う農夫” のような親切な主人はおらず、老兵ハンスに逃がしてもらってから森の中に隠れて住んでいるらしいという設定。だから。彼もレールの上を歩き(1枚目の写真)、放置されたカバンの中からパンを見つけて食べたり(2枚目の写真)、死んだ子供の靴(3枚目の写真、矢印)を拝借し、それまで裸足だったので、自分で履くことにしたりする。

映画は、先の続き。ヨーシュカは、近くの麦畑まで死んだ子供の靴を持って行き、麦の中に隠れるようにして、靴を履き、靴紐をしっかりと結ぶ。そして、実った小麦の穂を取ると、手で表皮を擦り取ってから口に入れる。その時、何匹もの犬が吠えるのが聞こえ、ヨーシュカは麦の中を這って逃げる。できるだけ急いで這っていると、その先に、“ユダヤの星” を上着に縫い付けた太った男( jm )がケガをして倒れている〔犬は、この男を追っていた〕。この男と一緒にいたことで、ヨーシュカが気配に振り向いた途端(1枚目の写真)、ドイツ兵によってライフル銃の銃床で殴られて気絶する。そして、「司祭とガルボス」と表示される。場面は田舎から都会に変わる。司令部の前に停まった1台のトラックの荷台から、両手を縛られたヨーシュカと “ユダヤの星” の男が引きずり下ろされる。その2人の周りに、市民が寄ってくる(2枚目の写真)。その先頭にいた帽子を被った男が、後ろにいた老人の杖をひったくると、2人を 「この豚野郎!」と叫んで叩き始める。すると、人混みを掻き分けて1人の年取った司祭( pr )がやって来ると、その暴行を止めさせる(3枚目の写真、矢印は杖)。一方、原作第10章では、ヨーシュカは親切な農夫に言われて、村から逃げ出し、麦畑に隠れる。しかし、畑を取り囲んだドイツ兵に見つかり、村まで連行され、1軒の家に放り込まれると、そこに映画と同じケガをしたユダヤ人が横たわっている〔場所は違うが状況は似ている〕。2人はトラックではなく荷馬車に乗せられて町に連れて行かれる。1人の男が杖ではなく、引き抜いたツタで2人を叩き始めると、そこに司祭がやってきて、杖を振り回して群集を追い払う〔こちらの司祭の方が荒っぽい〕

ドイツ兵は、2人に触ろうとした司祭を荒っぽく押し倒すと、2人のロープを掴んで階段を引きずり上げる。最終的に2人が引きずられていった先は、司令部の建物の裏。そこで、兵士は2人の両手を縛っていたロープを外す。そこにゆっくりと入って来たのが、親衛隊の大尉( ss 〔襟章から判断〕。大尉は、拳銃を手にしてケガをした男に向かう。男は、大尉に向かって 「豚野郎」と言って唾を吐きかけ、即座に射殺される(1枚目の写真)。大尉は、次にヨーシュカの方を向く。ヨーシュカは、大尉の所まで這って行くと、服の袖で唾を吐きかけられたブーツを必死になって磨く(2枚目の写真、矢印は握った袖)。大尉は、それが気に入ったのか、部下に 「放り出せ」と命じる。司令部の扉が開き、言葉通り、ヨーシュカは放り出され、待っていた司祭が 階段から落ちるのを受け止める(3枚目の写真)。一方、原作第10章の最後… 男は、大尉に 「豚野郎」と言うが、唾は吐かない。射殺されるのは同じ。大きく違うのは対ヨーシュカ。将校はヨーシュカをじっと見ると、命令を下し、去って行く。ブーツを磨くことはしない。ヨーシュカは放り出されず、自分で歩いて扉を通り、司祭の腕の中に飛び込む。

司祭は、森の中にある自分の教会にヨーシュカを連れて行く。司祭は、ミサの時、ヨーシュカを2人いる侍者の1人にする。ミサが終わり、2人の侍者が献金の籠を持っているが、村人は誰一人としてヨーシュカの籠にお金を入れない(1枚目の写真)。その間、司祭は咳き続ける〔末期の結核〕。司祭が、自分の部屋で咳いていると、そこにガルボスが入ってくる。説明は何もないが、その後、司祭はヨーシュカを馬車に乗せてガルボスの家に連れて行く(2枚目の写真)のは、ガルボスがそう望んだからであろう。馬車が家の前に着くと、ガルボスが飼っている犬が吠えかかるが、ガルボスがドアから飛び出て来て犬を静かにさせ、司祭をうやまうようにドアから中に入れ、それを見たヨーシュカも家に入って行く。次のシーンは、テーブルに座った3人(3枚目の写真)。司祭( pr )は、「どんどん悪くなる」〔咳のこと〕と言い、ガルボス( G )は 「それはお気の毒に」と心配する。「親切な申し出に感謝している。主はあなたの優しさに報いてくださるだろう」。部屋の中のシーンはここで終わり、外に出た司祭は、ヨーシュカに十字架のネックレスを掛けながら、「ここが気に入るだろう」と言う。原作第11章の冒頭は、次の文で始まる。「司祭は、借りた馬車〔無蓋の二輪〕で僕を連れ去った。彼は、近くの村で、戦争が終わるまで僕の面倒を見てくれる人を捜すと言った」。さらに、そのすぐ後に、「司祭は、馬車を走らせ、村の外れにある一軒だけ孤立した家の前で停めた。彼が中に入って行ってから時間はどんどん過ぎて行き、僕は何か起きたのではないかと心配になった」。「司祭は、背が低くてずんぐりした農民と一緒に出てきた」。「農民は明らかに怒っていた。僕を指差して、一目見れば洗礼を受けていないジプジー野郎だと分かると叫んだ」。「司祭は、我慢の限度を超えると、突然男の腕を掴み 耳元で何か囁いた」。原作では、映画と違い、ガルボスはヨーシュカの受け入れに極めて否定的だった。映画で、なぜ正反対の態度を取ったのかは、次の節で判明する。

ガルボスは、ヨーシュカに食事をさせながら(1枚目の写真)、「お前は、家に戻る途中なのか? で、家はどこにある?」と訊く。ヨーシュカは想像すらつかないので、肩をすくめる。ガルボスは、優しく、「食べろ。体力が必要になる」と言う。そして、場面は変わり、ヨーシュカの部屋の閉まったドアが映り、中からヨーシュカの泣き声が聞こえてくる。すると、ドアが開き、上半身裸のガルボスが、股引を上げながら出て来る。ベッドでは、上半身しか見えないが、裸のヨーシュカが横になり、泣き続けている(2枚目の写真)。この原作が出版された1965年当時は、小児性愛は一般的でなかったので、そうした設定は入っていない。2019年に映画化された時に、ガルボスの個性に、極度の残虐性に加えて小児性愛が付加された。夜、初めての体験に辱められたヨーシュカは、翌日、ガルボスの酒造り(?)の手伝いをさせられていて、折角できた酒を大量にこぼしてしまい、激しい鞭打ちの刑を受ける(3枚目の写真、矢印は鞭)。そして、夜になると、また寝室から泣き声が聞こえてくる。原作第11章では、残忍性だけが際立つ。 「ガルボスは一言も発せず、いつも予想もできない時に、理由もないのに僕を殴った。彼は僕の背後から忍び寄り、鞭で僕の脚を叩いた」。ガルボスは、映画でも同じだが、ジュダスという凶暴な犬を飼っていた。「ガルボスは、いつもジュダスを僕にけしかけた。ジュダスは、次第に、僕が彼の最悪の敵だと信じるようになったことは間違いない」。ヨーシュカは、ガルボスの家で、これまでで最悪の虐待を受けることになる。

ある日、ヨーシュカが薪を集めに山に入って行くと、そこには見捨てられたトーチカがあった(1枚目の写真)。ヨーシュカがその周囲を歩いていると、落ち葉の中に落ちていた 飛び出しナイフを見つけて、刃を出してみる(2枚目の写真、矢印)。そのあとで、トーチカの屋上に上り、端に丸い穴があったので、近寄って覗いでみると、中には数百匹ものネズミが蠢いていた(3枚目の写真)。以前、“「原作第6章では大工が登場する。映画には出てこない人物だが、章の後半ある「ヨーシュカによる復讐」は、映画第6部の「司祭とガルボス」の後半にそのまま採用されている」” と書いた。それがこのトーチカ。そこには、発見に至る経緯が次のように書かれている。「僕が森の中を歩いていると、ずっと放置され、雑草が生い茂った道の中に1個の玉石〔舗装用の石〕を見つけた。その道の終わりには、分厚い鉄筋コンクリートの壁でできた 見捨てられた軍用掩蔽(えんぺい)壕が聳えていた」「僕は廃墟の上段から屋上に登った。少し先に開口部があった。そこの上に身を乗り出すと、腐敗して、湿気のある悪臭がして、中からはくぐもったキーキーいう音が聞こえた」。ヨーシュカが金属の板を見つけて光を当てると、「開口部から数フィート下で、黒く渦巻くネズミの海が、波のように押し寄せては引いて行くのが見えた」。

どのくらい時間が経ったのか分からないが、司祭が、ガルボスの家を訪れる。そして、「あの少年に、教会に(侍者として)来て欲しい。それに、あんたも長いこと告解に来ておらんしな」と言って帰る。ガルボスは、ヨーシュカが教会で自分の悪癖を司祭にしゃべるのを恐れ、事前に厳しい脅しをかける。ヨーシュカの両手をしばって天井から吊り下げ(1枚目の写真)、しかも、その下にジュダス( dog )を連れてきたのだ。吊り下げた高さは、ジュダスがジャンプすれば、足に噛みつける低さ。だから、ヨーシュカはいつも、噛みつかれないように、脚を曲げている必要があり、これは非常に辛い試練だ(2枚目の写真)。しばらく、あと少しで噛みつかれるという恐怖を味合わせた後で、ガルボスはジュダスを下がらせると、「何も言うな。言ったら殺す」と脅す。映画では、ジュダスの上に吊り下げられるのは、この1回だけ。しかし、原作第11章は、こんな生易しいものではない。「ガルボスは毎日僕を吊るした。時には朝、時には夕方に」「いつも同じだった。僕にまだ力が残っている間、犬は静かに床に横たわり、眠ったフリをしたり、ノミを捕まえたりしていた。僕の腕と足の痛みがひどくなると、犬は僕の体の中で何が起こっているかを感じて警戒し始め、次に汗が吹き出してピンと張った筋肉の上を滝となって流れてポタポタ床に落ちるようになると、僕がうっかり脚を伸ばそうものなら、犬は間髪を入れずに飛びついた」「吊られた後、回復するのに時間がかかった。筋肉は、糸車の糸〔常にピンと張っている〕のように伸びきってしまい、元通りに収縮するのを拒んだ。動くのも困難だった。ひまわりの花の重量を支えようとする 硬くてか弱い茎のように感じた」。あるミサの日、終った後で、司祭はガルボスに、「その子に毎晩聖書を読んであげなさい」と言った後で、「そして、あんた自身にも」と付け加える。ヨーシュカが、司祭に何か話したと思ったガルボスは、家に戻ると、さっそくヨーシュカを後ろ手に縛り、床に放り出す。その時、ヨーシュカが持っていたナイフが床に落ちたので、ガルボスは、「どこで手に入れたんだ?」と詰問する(3枚目の写真)〔このシーンは原作にはない〕

ヨーシュカは、ガルボスをトーチカまで連れて行く(1枚目の写真)。そして、ナイフを拾ったのは、トーチカの周辺だったのに、ヨーシュカはガルボスを屋上に連れて行き、開口部を指差す。ガルボスが開口部と屋上の端の間に立って中を覗いていると〔外は明るく中は暗いのでネズミは見えない〕、ヨーシュカは急に後ろを向いて走り始める(3枚目の写真)。2人はロープで結ばれていたので、当然、引っ張られたガルボスは開口部に落ちる。穴は数フィートの深さで、ロープはもっと長いので、ヨーシュカは引き戻されるが、中に落ちはしない。穴の中からは、ガルボスの悲鳴が聞こえてくる。原作第6章では、ヨーシュカが残酷な大工に殺されそうになった時、パルチザンが戦利品をトーチカに隠していると嘘を付き、大工を屋上に連れて行き、同じように開口部に落として殺す〔全く別の場面を、映画に会わせて上手に利用している〕

教会に行きヨーシュカが祈っていると、前の司祭は結核で死に、新しい司祭がやってきて、「君の話は聞いている」と言う。そして、ヨーシュカに親切だった司祭の葬儀が教会で行われ、ヨーシュカも侍者として加わる(1枚目の写真)。原作第11章の終盤では、①ガルボスは死んではいない、②司祭は病気になったので(結核ではない)新しい司祭がやってきた、③ミサの日、侍者の少年が病気になったので代役を務めるよう指示される、というように状況はかなり違っている。この先、映画でも原作でも、ミサの最中、もう1人の侍者が、しきりにヨーシュカに合図する。それは、ミサ典書を祭壇の一方の側からもう一方の側に移すのが、もう1人の臨時の侍者であるヨーシュカの役目だったから。「ミサ典書は、何世紀にもわたって聖人や学識者たちが神の栄光のために集めた神聖な祈りの詰まった聖典で、先端に真鍮の玉を付いた脚のある重い木の盆の上に置かれていた。それに手を置く前から、僕には それを持ち上げて祭壇の反対側まで運ぶのに十分な力のないことが分かっていた。たとえ木の盆がなくても、本自体が重過ぎたのだ」。映画では、こうした説明を映像化できなかったので、ヨーシュカがミサ典書を乗せた台ごと後ろ向きに運んでいる際に、段を踏み外して後ろ向きに倒れ、ミサ典書が台から落ちて床に無残に転がる場面に替えてある。この不敬な行為に激怒した村人は、ヨーシュカの両手両脚を掴んで教会から出て行き、教会の外に掘られた屋外便所の糞溜めの中に投げ込む(2枚目の写真)。ヨーシュカの全身が糞尿の中に深く入って行く(3枚目の写真)。村人が去った後で、ヨーシュカは石積みを這い上がって糞溜めから出ると(4枚目の写真)、口や喉の中に入った糞尿を咳いて吐き出す。そのあと、近くの小川で服を洗っているシーンが短く入り、ガルボスがいなくなった家の暖炉で、洗った服を乾かす。第11章の最後の文章は、映画よりも遥かに厳しい。「日の光が消え、僕は呼吸できなくなった。僕はドロドロの糞尿の中で本能的に腕と脚をバタバタさせてのたうち回り、底に触れると、可能な限り早く跳ね返った。ぶくぶくしたうねりが僕を表面に持ち上げた。僕は口を開け、僅かの空気を吸い込んだが、また中に吸い込まれ、今度は自分の力で体を底から押し上げた。糞溜めは12フィート〔3.6m〕四方だった。僕は、もう一度、底から、今度は端に向かって飛び上った。うねりが僕を引きずり込みそうになった瞬間、僕は糞溜めの端に生えている長くて太いつる状の植物を掴み、糞尿でよく見えない目を通してかろうじて見えた石垣に体を寄せた」「糞溜めから這い上がると、すぐ激しい嘔吐に襲われた。嘔吐による痙攣が長い間続いたので、僕の力はなくなり、どうしようもないほど疲れ果てた」。そして最後の重要な文章。「突然、僕の声に何かが起きたことに気づいた。僕は叫ぼうとしたが、開いた口の中で舌が力なく動くだけで、声が出なかった〔これ以後、ヨーシュカは話せなくなる〕

ラビーナ」と表示される(第7部)。季節は真冬。ヨーシュカはどこかの納屋に潜入しては、床下に隠してあるジャガイモを盗み、誰もいなくなった小屋で何とか暖炉に火を点け、それを煮ると、外に出て雪の中で食べる(1枚目の写真)。生きて行くのも大変だ。次のシーンでは、ヨーシュカは広大な雪原〔湖に張った氷の上に積もった雪〕の上を、僅かばかりの荷物を牽いて歩いて行く(2枚目の写真)。氷が薄くて雪が積もっていない場所に来た時、経験のないヨーシュカはそのまま歩いて行き、氷が割れて湖に落ちてしまう。幸い、氷の薄いのはそこだけだったので、無事氷に這い上がり、怖いので、そのまま這って行くと、100mほど先の湖岸に一軒の家があり、中に明かりが点いているのが見える(3枚目の写真、矢印)。これに近いような真冬の表現は、原作第13章にある。。

ここから先も、映画原作ではかなり違っている。原作でも第14章ではラビーナが主役なのだが、それは映画のラビーナではない。映画のラビーナは、原作第12章のエウカがモデルになっている。それなら、なぜ「エウカ」とせず「ラビーナ」としたのか? その理由は、全く分からない。ヨーシュカは、湖畔の小さな家の中に、着いた時のままの姿でテーブルに座っている(1枚目の写真)。同じ部屋の端の木箱を並べたベッドの上には死の直前の老人が横たわっていて、1人の若い女性ラビーナが、お粥を食べさせている。室内の天井には、湖で獲った魚が燻製にされてたくさん吊るしてある。ラビーナは、ヨーシュカに 「あんた幸運よね。どっから来たの?」と訊くが、ヨーシュカは黙っている。「口がきけないの?」。その言葉で、ヨーシュカはラビーナの方を見る。ラビーナ( L )は、「ここにいていいわ。そうしたいなら」と言う(2枚目の写真)。そのあと、ラビーナは、伸び放題になったヨーシュカの髪を、ハサミで切る。次のシーンでは、横になったヨーシュカの奥で、ラビーナがオナニーで絶頂に達している(3枚目の写真)〔声だけ〕原作第12章では、季節は冬ではなく、森で見つかったヨーシュカは村長の所に連れて行かれ、マカーという農民に預けられる。マカーの農場には、たくさんのウサギが飼育され、他に5頭の山羊がいた。そして、彼には、20歳の息子と、19歳の娘エウカがいた。一人暮らしに近い映画のラビーナとは状況がかなり違っている。

次のシーンでは、湖の氷はなくなり、周辺の森にも雪は全くない〔数ヶ月経過した? 映画の流れから見ると、恐らく数日であろう。それならなぜ氷や雪が消えたのか? それは、映画の撮影が終わった後、冬になって、雪のシーンだけ追加撮影したので、かけ離れた風景になってしまったから〕。家の近くにヨーシュカが掘った浅い穴に、死んだ老人が埋められる。それから、どのくらいの時間が経過したかは分からないが、家の中でラビーナは、トウモロコシの実を捩じるように取っては、下の器に入れている〔捩じられるトウモロコシは、意図的にペニスを連想させる〕。そして、ラビーナの目がヨーシュカを見る。「ドアを閉めて」。ドアを開けて外を見ていたヨーシュカがドアを閉めると、ラビーナの唇がアップで写される。「ここに来て」。ヨーシュカが、トウモロコシの器を股の間に置いたラビーナの前まで行くと、ラビーナは器を横のテーブルの上に置き、体を前にずらすと、腕を伸ばしてヨーシュカを跪かせ、「脚にキスして」と言う(1枚目の写真)。そして、右脚をヨーシュカの方に伸ばす。ヨーシュカは下肢にキスをする。ラビーナは、ヨーシュカの肩を両手で掴んで近くに寄せる(2枚目の写真)。我慢できなくなったラビーナは、体を前に倒すと、ヨーシュカの背中に長い髪を垂らし、背中を強くさすり始める(3枚目の写真)。抽象的なシーンでよく分からないが、原作第12章には、より煽情的であからさまに書かれている。「時々、彼女は僕に脚の近くに座ってキスするよう頼んだ。僕はいつも彼女の細いふくらはぎに抱き着くと、くるぶしからすごくゆっくりとキスし始める… まず軽く唇で触れ、それから引き締まった筋肉に沿って優しく手で撫で、滑らかな膝の裏から白い太ももへとキスを続ける。そのあとは、スカートを徐々に持ち上げ、キスしたり、柔らかい肉を軽く噛んだりする。僕が 暖かい恥丘〔外陰部のすぐ上にある柔らかい脂肪の部分〕に達すると、エウカの体が断続的に震え始める。彼女は僕の髪に乱暴に指を這わせ、首を愛撫し、耳をつまみ、喘ぎ声はますます速くなる… エウカは、最後に 僕の顔を彼女のあそこに強く押し付けると、一瞬の恍惚の後、消耗しきってイスに倒れ込む〔何度も書くが、原作のエウカ=映画のラビーナ〕

別の日、ヨーシュカが、湖畔で獲った魚をさばいていると、そこにラビーナがやって来て、好色そうな目でじっとヨーシュカを見つめる。次のシーンでは、2人が林の中で手をつなぎ、横になって眠っている(1枚目の写真)。原作第12章には、こんな表現もある。「僕たちが一緒に横になると、エウカは彼女の体を僕の体にぴったり押しつけ、最初はここ、次はここにと、キスしたり、 しゃぶったりするよう頼む… 僕は、彼女に言われたことにはすべて従い、それが辛いことでも、意味のないことでも、何でもやった」。そして、納屋の中、裸になったラビーナが、裸のヨーシュカの上に跨ると、如何にもセックスでもするように体を動かし始める。しかし、そのうちにラビーナが怒り出し、ヨーシュカを何度も叩く(2枚目の写真、矢印は手の動き)〔勃起しなかったから怒った?〕。夜になり、ヨーシュカはラビーナに許してもらおうと、ラビーナの体にすり寄るが、相手にされない。ある日、ヨーシュカが、手押し車を押して納屋に入って行くと、ヨーシュカが山羊の乳を搾っている。ラビーナの後ろに回ったヨーシュカが、両手でラビーナの目を塞ぐと、ラビーナは邪険に手を払い除ける(3枚目の写真)。ヨーシュカは、もう相手にされなくなってしまった。第12章では、様相は全く違う。深夜でも、「エウカはまどろんでいる間でも動き、彼女の手は無意識に僕を求め、僕の方に伸びてくる途中で麦の茎〔細いペニス〕を曲げた。僕は彼女の上に這い上がり、脚の間で僕なりに頑張った〔クンニ〕」とか、もっと過激な部分では、「エウカは僕を一人前の男にしようと試みた。夜になると、彼女は僕のところにやって来て、僕のあそこ〔ペニスと陰嚢〕をくすぐり、痛いのに(尿道に)細いわらを押し込んだり、握ったり、舐めたりした。 僕はこれまで知らなかった感覚、僕には制御できないことが起こり始めたことに気付いて驚いた。 それは、まだ突発的で、時には早く、時にはゆっくりで、予測不可能だったが、もうこの感覚を止めることはできないと分かっていた」などと、ヨーシュカも、以前の彼ではなくなってしまう。

湖畔で、魚を捕獲する罠を丹精込めて作ったヨーシュカは、出来栄えを見せて褒めてもらおうと、ラビーナのいる納屋に入って行く。すると、ラビーナは、山羊の下に入って行き、“あんたは役立たず。山羊の方がマシよ” とでも言うように、山羊と獣姦する真似をして(1枚目の写真)、ヨーシュカを罵倒する。頭にきたヨーシュカは、森に行き 木を切り倒し、その横で泣き崩れる。あとは復讐あるのみで、夜になっても家に戻らずに見張っていて、明かりが消えると納屋に行き、山羊( goat )を1頭連れ出して森に行き、ロープで吊るす(2枚目の写真、矢印はロープ)。そして、トーチカで拾ったナイフで山羊の首を切断する。ヨーシュカは、切断した首を持って家まで戻ると、戸口の横のガラス窓にから、山羊の首を投げ込む(3枚目の写真、矢印の方向)〔当然、ガラスはすべて割れる〕原作第12章では、エウナの父マカーが、ヨーシュカに病気の兎を殺すよう命じる。しかし、ヨーシュカは叩いて殺し、吊るして皮を剥ごうとすると、死んでいなかった兎が暴れ始め大混乱が起きる。マカーが斧で兎を殺した時には、大事な兎の毛は血だらけで使い物にならず、食用にできる肉も残っていなかった。激怒したマカーはヨーシュカの腹を蹴り、ヨーシュカは数週間動けなくなる。その間に、寂しくなったエウナは、山羊と獣姦を始める。この一家が悪魔の巣だと思ったヨーシュカは、マカーの母を棒で殴って逃げ出す。原作第13章は、その後の逃避行について短く書かれ、第14章の「ラビーナ」へとつながる。こちらのラビーナと、映画のラビーナが似ている点は、2人とも、一人住まいという点と、セックスが好きな点。しかし、後者の相手はヨーシュカではなく、家にやってくる何人もの農民。

映画では、ここからが、第8部の「ミトカ」。原作第15~17章が合体した内容になっている。最初に映るのは、急いで撤退するドイツ軍。第15章の冒頭からすぐのところに、「ある朝、僕は橋の上で異常な動きがあることに気づいた。ヘルメットを被った兵士たちが橋の上に群がり、大砲や機関銃を廃棄し、ドイツ国旗を引き下ろし、大型トラックが橋の反対側から西に進むにつれ、耳障りなドイツの歌が聞こえなくなった」と書かれている。ヨーシュカが、森の中から村の様子を見ていると、村人は家財を荷馬車に乗せて、村を出て行こうとしている。すると、百名ほどの騎兵隊が村に向かってやってくる(1枚目の写真、矢印)。映画では何の説明もないが、原作によれば、これはカルムイク騎兵隊(KKK)〔ほぼカルムイク人(現在も、カルムイク共和国という仏教国がロシア連邦内に存在している)だけで構成されたナチス・ドイツとの同盟軍〕。それと知った村人は逃げ始める。しかし、馬に乗った兵士達は、ライフル銃、機関銃、手榴弾、サーベルを使って村人に襲いかかり、逃げ遅れた村人は次々と殺されていく(2・3枚目の写真)。原作第15章は、その残酷さを詳しく書いている。

すると、今度は、その騎兵隊に向かって赤軍の戦車の砲弾が降り注ぐ(1枚目の写真)。2枚目の写真は、赤軍の戦車と歩兵達。カルムイク騎兵隊に勝利した赤軍は、捕まえた騎兵を木の枝から逆さ吊りにする(3枚目の写真)。原作第15章の最後の方に、「昼頃、赤軍の兵士が、捕らえたカルムイク騎兵全員の足を 川沿いの樫の木に吊るしたことが、襲われた村にも伝わった」「騎兵達は、しなびた、大きくなり過ぎた松ぼっくりのように ぶら下がっていた。両手を後ろで縛られ、一人ずつ違う木に、足首から逆さ吊りにされて」と書かれていて、映画はそれを忠実に再現している。

赤軍の将校のガブリラ( G 〔階級不明〕が、ヨーシュカを見つけて声をかける。「ここの住民じゃないな?」。しかし、ヨーシュカは身動き一つしない。しばらくして、「両親はどこにいる?」と訊くと、今度は、ガブリラの顔を見上げる。「じゃあ、孤児か?」。ヨーシュカは何も言わない。ヨーシュカは、ガブリラに連れられて、野営地に連れていかれる。そして、司令官に事情を話して、しばらく置いておく許可を得る〔台詞がないので想像〕。ガブリラがヨーシュカの寝るべきテントの中で用意をしていると、そこに、そのテントを使っている狙撃兵のミトカが入って来る。ガブリラは、ヨーシュカを前にして、ミトカ( M )に、「戦争孤児だ。彼は、当分、ここで暮らすことになる」と話す(2枚目の写真)。この2人について、映画では相変わらず何の説明もないが、原作第16章の冒頭に、「ほとんどいつも、2人の男が僕の世話をしてくれた。一人はガブリラ、砲兵隊の政治将校で、ナチス侵攻の最初の日に家族全員を失ったと言われている。もう一人はミトカ、“カッコウのミトカ” と呼ばれている狙撃師範で、すご腕の狙撃兵だ」と紹介されている。ガブリラはヨーシュカのために軍服を用意してくれ、ヨーシュカは誇らしげにそれを着る(3枚目の写真)〔この軍服は、ヨーシュカにとって宝物になる〕

ある日の夜、死亡、あるいは、ケガを負った兵士が基地に運び込まれる。司令官は、「命令は十分明確ではなかったのか?! 野営地から一歩も外に出るなと命じたはずだ! 地元民とは接触するなと! 特に女とはな!」と叱咤する(1枚目の写真)。原作第17章には、「4人の兵士が斧で殺され、他の兵士も重傷を負った」と書かれている。司令官による叱咤はない。その夜、テントの中で、ヨーシュカが眠っている隣のベッドで、ミトカは密かに狙撃用のライフルの用意をする(2枚目の写真)。そして、真夜中にテントを出て行く。映像は、明るくなりかけた頃、森の中を歩いて行くミトカに変わる。まだ霧が出ているので、ミトカは木にもたれて座り込む。しばらくして、かすかな音がしたので横を見ると、眠っていたハズのヨーシュカが、姿を現わす(3枚目の写真)。自分を出し抜いた鮮やかさに、ミトカは感心する。この部分は、原作とかなり違っている。原作第17章では、事件の後に、「敵対する地元住民とのいかなる接触も禁じ、赤軍との関係をさらに悪化させるいかなる行動も禁じる、という新たな命令」が出される。原作でも、ミトカは狙撃銃を持って出かけるが、それは命令違反の行動。さらに、上記の数行後に 「数日が経った」と書かれているので、事件の夜に出かけた映画とは全く違う。原作が、こんなに遅くしたのは、禁止令が出ているため、すぐ行動すればバレる危険性が高いから。さらに、もっと大きくて残念な違いは、「ミトカは夜明け前に僕を起こした」という文。これでは、ヨーシュカの賢さが消えてしまう。映画の方が断然良い。

霧が晴れると、ミトカはヨーシュカを連れて村が遠くに見える大木の太い枝の上に登る。もして、持ってきたパンを半分に切り、何かを塗ってヨーシュカに渡す。ミトカは、村人が家から現れるようになるのをじっと待ち続ける。そして、遂に現われると、狙撃用の望遠鏡の⏉字線の位置を風向きによって微調整し(1枚目の写真、矢印)、ヨーシュカには双眼鏡を渡す(2枚目の写真)。最初に現れてターゲットになったのは、小便をしに家から出て来た中年の男。胸に1発くらって即死。その音を聞いて、5~6人が家から出て来たので、先ほど撃ち殺した男の近くに来た別の男を2発で2名殺す。ミトカの望遠鏡には、もう1人が壁にかくれてこちらを窺っているのが見える〔時々、顔だけ出す〕。そして、その男が、飛び出したところで射殺(3枚目の写真)。兵士が4人斧で殺され、ミトカは4人射殺したので、これで仇は取ったことになり、撃つのを止める。そして、ヨーシュカを見上げると、「覚えておけ。目には目を、歯には歯をだ」と言う。ここで、原作と違うのは1点だけ。ミトカは、殺害行為を見せまいと、ヨーシュカの双眼鏡は撃つ前に取り上げられる。

赤軍は野営地を撤収することになり、結果としてヨーシュカを置いておけなくなる。そこで、別れの時が来る。最初に将校のガブリラが、「共産主義者のように振る舞え」と別れの言葉をかけ、彼が去ると、それまで後ろに控えていたミトカが布で包んだ物を渡し、あとで開けるよう指示する。そして、ヨーシュカを乗せたジープが駅原作では、鉄道で孤児院のある町に行く〕に向けて出発する。ヨーシュカは、すぐに布を開けると、中には拳銃と弾倉が入っていた(1枚目の写真、矢印)。原作では、ヨーシュカは 第18章の冒頭で、多くの兵士から言葉とプレゼントをもらうが、内容は全く違う。重要な点は、①ガブリラは、終戦後3ヶ月しても引き取り手が現われなかったら、彼がヨーシュカを養子にすると言ったこと〔ガブリラは妻子を失っている〕、②部隊の兵士達から、この時初めて軍服〔仕立屋が特別に作った〕をもらったこと、③拳銃をくれたのはミトカではなく、兵士達で、それも木製の玩具だった、の3点。映画では、この直後、第9部 ニコデムとヨーシュカ」の表示が出る。そして、ヨーシュカは、3人の委員のいる部屋に、軍服姿で堂々と入って行き、直立不動で敬礼する。真ん中に座った委員長は 「名前?」と、厳しく訊くが、ヨーシュカは何も言わない〔ヨーシュカが、意図的に黙っているのか、原作のように、声を失ったのか、観ていて判断がつかない〕。中央の委員は、さらに 「出生地? 日付?」と訊くが、それに対しても無回答(2枚目の写真)〔沈黙の理由が分からないので、観ていて異様な感じを受ける〕。ヨーシュカは、その後、医師の検診を受け、最後に、脱がされた軍服を抱えると、孤児院の服を着て、大部屋のベッドの1つに座る(3枚目の写真)。原作第18章では、ヨーシュカはいきなり孤児院に連れて行かれる。そのあと、恐らく1ヶ月ほど後に、医者の検診を受け、それから、「ある種の社会委員会」の面接がある。そこの委員はもっと優しく、両親について質問するが、ヨーシュカは石板を使って「僕の両親は死んだ。爆撃で殺された」と嘘の返事をする〔ガブリラの養子になりたかった〕

翌日、孤児院の狭い内庭では、たくさんの子供達が遊んでいる。ヨーシュカは、孤児院の服に、粉屋の妻からもらった帽子を被って内庭の角に立ち、超然とそれを見ている。そして、夜になると、塀を乗り越えて夜の町に出て行くが(1枚目の写真)、何もせず、ただ自由を味わっていただけ。しかし、翌朝、ヨーシュカは激しい罰を受ける。木の横棒に両手を伸ばして横になり、何度も鞭で尻を叩かれる(2枚目の写真、矢印)。 原作では全く違っている。第18章では、ヨーシュカは孤児院の服なんか着ようとしない。「校長〔女性〕は僕に、軍服をあきらめ、国際赤十字社から配布された普通の服を着るよう求めた。僕は、軍服を脱がせようとした看護婦の頭を殴りそうになった。しばらくすると、長い間洗っていなかった軍服が臭い始めたが、それでも僕は1日なりとも手放すことを拒んだ。この不服従に腹を立てた校長は看護婦2人に力ずくで軍服を奪おうとさせた。僕は孤児院から抜け出すと、通りで歩いていた4人のソ連兵に寄って行き、両手で、僕が唖(おし)だと示した。僕は、彼らがよこした紙に、僕は前線にいたソ連の将校の息子で、孤児院で父を待っていると書いた。そしてさらに、慎重に言葉を選び、校長が地主の娘で赤軍を憎んでいて、僕が軍服を着ているから、看護婦たちと一緒になって毎日僕を殴るんだと書いた。期待した通り、僕のメモは若い兵士たちを怒らせた。彼らは僕に続いて孤児院に入り、そのうちの一人が、絨毯の敷かれた校長室で、植木鉢を次々と割っている間に、他の兵士たちは看護婦たちを追いかけ、ひっぱたいたり、お尻をつねったりした。それ以後、全員が僕に関わるのを止めた」。映画では、むち打ち場面のあと、いきなり、レールの間に横たわったヨーシュカの上を列車が何両も通り過ぎる(3枚目の写真)。夜、孤児院から抜け出しただけで、ひどい懲罰を受けたばかりで、なぜこんなことをするのかと思ってしまう。この謎は、原作に求めるしかない。第18章では、映画には登場しない “無口” と言うあだ名の年上の少年が重要な役割を果たす。彼はヨーシュカの親友となり、あらゆることをして自由に遊ぶ。その中の1つに、この列車のシーンもある。

孤児院のある町は、戦争中に爆撃を受け、多くの建物が被災していて、住民は、近郊の農民が運んで来て露店で販売している物を買って生活している。ある日、ヨーシュカはそうした露店の並んでいる場所に行き、そのうちの一つで、昔大事にしていた小さな木馬の玩具を見つけ、手に取って見る。すると、それを見た店主( st )が、いきなり、「貴様、盗む気か?!」と怒鳴り、木馬を取り上げる。ヨーシュカが何も言わないので、ロシア語が通じないせいだと思った店主は、「分からんのか、このユダヤのクソガキめ!」と言うと、ヨーシュカの胸ぐらを掴む。そして、「どうなんだ?!」と脅すように言うと(1枚目の写真)、買い物に来た町の人達に向かって、「こいつらは、有刺鉄線の向こう側に入れときゃいいんだ!」と叫ぶと、思い切り顔を叩く。ヨーシュカは、ひどく鼻血を出して倒れる(2枚目の写真)。ヨーシュカは、孤児院に戻ると、隠しておいた銃を取り出し、露店街に行くと、憎っくき店主が店じまいをして、安っぽい荷車を押して行くあとを付けて行く。そして、彼が薄暗い建物の中に入って行ったのを見届けると、入口に立って店主に銃を向け、射殺する(3枚目の写真)。このシーンも原作とは全く違っている。原作第18章の終わりの方で、ヨーシュカは、「近隣の村の農民が週に一度、農産物や手作りの工作を持ち寄る地元の市場」を訪れる。「僕は、乳製品を乗せた高いテーブルにつまずいてひっくり返してしまった。ミルクとクリームの入ったバケツやバターミルクの壺がそこら中にこぼれた。逃げようとしたけど、怒りで顔を紫色にした背の高い農民が 僕の顔を思い切り殴り、僕は 口から血と一緒に3本の歯を吐き出して倒れた。男は僕の首を兎みたいに掴むと、男のシャツが僕の血で赤くなるまで殴り続けた。そのあと男は、集まってきた見物人を押しのけ、僕を空のザワークラウトの樽に突っ込み、ゴミの山の中に蹴り入れた〔この原作に出て来る農民は、どうしてこんなに残酷な “奴ら” ばかりなのだろう?〕。それに対する復讐も全く違う〔そもそも、ヨーシュカは本物の銃をもらっていない〕。「2週間後の夜明け、僕は “無口” に起こされた」「その日は市場の日で、農民たちの多くがこの朝一番の列車に乗って町に向かっていた。客車は満員だった」「列車が踏切に近づくと同時に、機関車が脇に逸れ、目に見えない力に引っ張られたように激しくねじれた。機関車の後の2両は、その後に続いたが、残りの車両はしばらくガタガタと進み、それから元気一杯の馬が、他の馬の背中に這い上がろうとするように、折り重なって土手から落ちていった」。これは、踏切近くにあった線路の分岐器を、未完成の支線に入るよう “無口” が切り替えたことで起きた人為的な事故。1週間後の市場の日に、2人は、残酷な農民が死んでいなくなったと期待して市場に行くが〔死者の数は数十人?〕、男はいつもの場所にいたので2人は絶望する。

ある日、ヨーシュカは校長室に連れて行かれる。そこでしばらく待っていると、ドアの外に2人の男の影が見え、長い会話が続く。ようやく話が終わると、ドアが開き、1人の髭男が入って来る。男は、イスに座っているヨーシュカの顔をじっと見る。そして、近くまで寄って来て、膝をついて目線を合わせると、涙を流してヨーシュカの顔に触り(1枚目の写真)、抱きしめる。この男は ヨーシュカの父ニコデム( N )なのだが、ヨーシュカの顔は冷たいままで、喜びは欠片(かけら)もない。これは、原作第19章の冒頭と似たシーン。ただし、原作では、ヨーシュカに会いに来たのは、父親だけなく母親も。「彼らはどこか見覚えがあるようで、軍服の胸ポケットの “赤い星” の下で心臓がドキドキする音が聞こえるようだった。僕は、敢えて無関心を装いながら、2人の顔をじっと見つめた。驚くほど、そっくりだった… この2人は僕のホントの両親かもしれない。僕はどうしたらいいのだろう? 両親だと認めるべきか? 認めないフリをすべきか?」。原作のこの時点がいつなのかは分からないが、しばらくすると1945年5月になるので、1939年の秋に6歳だったヨーシュカは11歳にはなっている。5年も前のことなので、記憶は定かでなく、迷うのは当然かもしれない。一方、映画の方は、ずっと同じ子役が演じているので、5年の歳月の差は感じられない。だから、一目で父だと分かったハズなのに なぜ知らないフリをするのか理解に苦しんでしまう。父ニコデムは、ヨーシュカを連れて孤児院から出ると、一晩だけ借りた(?)狭い部屋に連れて行き、昔、ヨーシュカが大好きだった料理を作り、ロウソク1本の明かりしかないテーブルの上で向き合って食べようとする(2枚目の写真)。ヨーシュカは、この町に来てから、誰に対しても一言も口をきいていないが、ここでも沈黙を通す。ニコデムが、料理を一口食べ、「明日、ここを発つ。家に帰ったら、ちゃんとした服を買ってあげるよ。どうかな?」と笑顔も混じえて言うが、ヨーシュカは全くの無反応。「お母さんが待ってるぞ」。無反応。ここで、ニコデムは、過去の経緯を話す。「いいか… あそこなら安全だと思ったんだ… 私たちには… 他に選択肢がなかった…」。それを聞いたヨーシュカは、それまで口をつけもしなかった料理の皿を、手で叩き飛ばすと(3枚目の写真、矢印の方向に飛ぶ)、立ち上がって部屋から出て行こうとする。それに対し、ニコデムは、「待て!!」と叫ぶ。そして、立ち止ったヨーシュカに、「少なくとも、自分の名前は覚えてるか?」と訊く。この質問にも答えず、ヨーシュカは部屋から出て行く。そして、廃墟になった建物の窓ガラスを叩き割ったあと、行き先を失った難民が大勢暮らしている廃墟の中で一夜を過ごす。この部分も、映画原作とはかなり違っている。原作第19章では、両親は、自分達がずっと暮らしてきたアパートにヨーシュカを連れて行く。「アパートでは驚きが僕を待っていた。両親には 他の子供、4歳の男の子がいた。両親は、その子が、両親と姉を殺された孤児だと説明した」。そして、ヨーシュカは、どう対応したか? 「小さな子は厄介者だった。僕が赤軍の勝利を報じる新聞を読んでいると、いつだって、遊んでくれと せがむ。そして、僕のズボンを掴んだり、本をひっくり返したりする。ある日、あまりにもイライラさせられたので、僕はその子の腕をつかんでぎゅっと握った。何かが折れて、子供は狂ったように泣き叫んだ〔腕の骨が折れた〕」。ヨーシュカは粗暴な農民どもに虐められ、ある意味 鍛えられ、粗暴な少年になってしまっていた。第19章には、映画にはないもう一つのエピソードが書かれている。簡単に紹介すると、両親から映画を観に行くようお金を渡されたヨーシュカは、チケット売り場で並んで数時間待つ。ようやく、ヨーシュカの番になった時、銅貨を1枚失くしてしまっていてチケットが買えない。チケット売りは、親切に、足りない分を持って来たら すぐチケット切符を受け取ることができるようにしてくれた。しかし、ヨーシュカが戻ってくると、混雑した売り場の整理係は、ヨーシュカをチケット売り場に近づかせなかった。怒ったヨーシュカは、復讐策を練り、意地悪な整理係の頭の上に、3階から煉瓦を2個落とす。これは、映画で、露店商を拳銃で殺したのと似ている。

場面は、いきなりバスの中。バスの中には、ニコデムとヨーシュカが同じ座席に座っている(1枚目の写真)。2人は相変わらず口をきかない。そのうち、ニコデムは眠ってしまうが、剥き出しになった父の腕を見たヨーシュカは、そこに、父が強制収容所に入れられていたことを示す囚人番号の烙印が押されているのを見る(2枚目の写真)。それを見たヨーシュカは、自分をさんざんな目に遭わせた父を許すことにして、多数の乗客の息で曇った窓ガラスに、「JOSKA」と、自分の名前を書く(3枚目の写真)。これは、前夜、父が、「少なくとも、自分の名前は覚えてるか?」と訊いたことに対する答えだ。原作の終わり方はもっと複雑。最後の第20章の冒頭、ヨーシュカの健康状態を診た医師は、「山の空気を吸い、運動を一杯する」 ことを勧める。そこで、「父は、国の西部の丘陵地帯で仕事に就き、僕たちは町を去った。初雪が降った時、僕は山に行かされた。年取ったスキーの教師が僕の世話をしてくれることになった。僕は彼の山小屋で一緒に住むことになり、両親は週1回 僕に会いに来た」。そして、ヨーシュカが、一人で彷徨っていた間に学んだことを、次のような悲しい言葉で表現している。「僕たち一人一人は自立した人格で、ガブリラ、ミトカ、“無口” なんかはすべて使い捨てなんだと気づくのが早いほど、いいことなんだ。僕みたいに唖でも何の問題もない、だって、誰もがみんな お互いを理解なんかしていないから。お互いに反撥したり、好きになったり、抱き合ったり、踏みにじったりするけど、結局 自分のことしか考えていないんだ」。原作の最後は、ヨーシュカがケガで入院している時、電話がかかってくる。偶然、看護婦が出て行った後なので、ヨーシュカが受話器を取ると、誰かがペラペラとまくし立てる。それを聞いたヨーシュカは、急に自分も話してみたくなり、遂に、喉から音が出るところで終わる映画で、ヨーシュカが自分の名前を書いたところで終わるのと、何となく似ていなくもないが、映画の方がすっきりしている〕

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