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The Ryan White Story (TV) ライアン・ホワイト・ストーリー

アメリカ映画 (1989)

血友病患者に対する非加熱血液製剤の注射により引き起こされたHIV感染の悲劇、日本では川田龍平氏が有名だが、氏が輸入製剤の使用を開始したのは1976年、HIV感染の告知は1986年だった。実話を映画化したこの作品の主人公ライアン・ホワイトは1971年に血液製剤の注射を始め、1984年に告知された。日本よりわずか2年早いだけの告知だが、アメリカで始めての事態にインディアナ州ココモの町は大騒ぎとなり、ライアンの教育を受ける権利が侵害され、長期の裁判が起こされる。その過程を克明に追ったこの作品が、TVだけで放映され、その後DVD化もされず、無論日本でも放映されていないことは残念なことである。

映画は、ライアンの症状が悪化し、病院に手術を伴う検査入院をし、結果としてエイズによるカリニ肺炎であると告げられる。当時はまだエイズは同性愛者のかかる謎の病気とされ、余命僅かという診断に本人も家族も絶望する。しかし、それ以上に衝撃だったのは、症状が回復して元気になっても、学校が受け入れを拒否したことだった。ライアンの母は1985年に訴訟を起こし、それに対し住民側も署名を集めて対抗する(教師50名も反対投票した)。未知のエイズに対する過剰なまでの恐怖心が起こした拒否反応と、弁護士がいくら工夫しても打ち破れない法律の壁は、見ていてはがゆいばかりか不愉快になる。最終的には、1987年にシセロの町に引っ越して、地元の高校に暖かく迎えられたところで映画は終わる。この先は、映画とは無関係の事後談だが、翌1988年、ライアン・ホワイトは、レーガン大統領のエイズ委員会で証言後にABC、CNNに出演、ニューオリンズの全米教育協会の年次大会で8400人の教師に対し講演、この映画の撮影にも参加した。1989年にはマイケル・ジャクソンの牧場に2度招待されたが、1990年に死亡する。ライアンの葬儀には1500人が参列。州始まって以来の最大規模のもの葬儀だった。ブッシュ大統領夫人も列席、エルトン・ジョンが「Skyline Pigeon」を歌った(三大ネットワークが生中継)。州都にある大教会からシセロまで1時間の距離を250台の車が伴走し、沿道には半旗が掲げられた。議会は、「ライアン・ホワイト包括的エイズ支援緊急法」を制定。1993年のクリントン大統領の就任祝賀会で、マイケル・ジャクソンがライアンに捧げた「Gone too Soon」を歌ったことでも知られる。

ライアン役のルーカス・ハース(Lukas Haas)は、のリストで10項目もあがっていて最多。特に可愛いというわけではないが、1980年代に活躍した子役で、多様な役をこなした。この映画はビデオをデジタル化したDVD-Rしか販売されていないため、画像はボケている。


あらすじ

映画の実質的スタートは、ライアンの足が腫れたため、母が血液製剤の注射を打つ場面から。足が腫れたのは血友病で内出血したためで、いつもの治療のはずだった。
   

ところが、体が異常にだるく体温が40度に達したため病院へ。実は重い肺炎だった。病院は原因を調べるため、肺の一部を摘出して検査が行った。クレイマン医師に呼ばれた母が聞いた診断はエイズ。動揺した母が余命を尋ねると、謎の病気なので分からないという答え。見舞いに行った病室で、肺にチューブが挿入された息子の姿を見て、母は思わず息をのむ。
   

その10日後の1984年12月26日、教会の牧師同席のもとで、医師がライアンに説明する。「カリニ肺炎が見つかった」「非常に稀な肺炎で…」「それに罹るのは…」「免疫機能が、破壊された人だけなんだ」「その人達は…」「つまり…」と言いよどんでいるのを見て、母が「あなたは、エイズなの」と決然と知らせる。大きく目を見開くライアン。
   

翌年の2月になってライアンは退院する。しかし、3月に地元紙がライアンがエイズだと報道してしまう。欲しかった犬をもらったライアンが、明日から学校に戻りたいと母に言うと、母は、学校が「戻って欲しくない」と考えていることを話す。立ち尽くすライアン。「ひどいよ!」「自転車にも乗れる」「新聞配達だってやってる」「何でもできるのに、学校に行けないの?」「学校に行けなかったら、何も学べない!」「僕、どうしたらいいの ?!」。悲痛な叫びだ。
   

5月、母とライアンはヴォーン弁護士の事務所を訪ねた。「大抵の子は、学校に来るなと言われたら、大喜びだ」「ほんとに、学校に行きたい?」という問いかけに、「学校、好きです」「他に、望みはありません」と決然と答えるライアンに、ヴォーン弁護士は無償で弁護を引き受ける。裁判所の前で大勢の報道陣に取り囲まれる一行。
   

ヴォーン弁護士の方針は、ライアンを医療上の障がい児と認定させるもの。そうすれば州政府には適切な教育を行う義務が生じる。しかし、反対住民側の弁護士は障がい児の認定は行政手続きに従うべきだとする引き伸ばし作戦を展開。判事は判断を延期。その間にも、住民による「ライアンを登校させないため」の強引な署名運動が続けられる。やっと出た判決は、行政手続きに従えというもの。絶望したライアンに対し、母は「血友病に産んでしまった」と謝る。それに対し、ライアンは、「命をくれたじゃない」となぐさめる。感動的なシーンだ。
   

行政手続きが進まない中、ウェスタン中学は電話授業を始める。自宅に置いた電話機を使い、教室のスピーカーを通じて授業に参加させるという、いい加減なものだった。
   

地元のラジオ番組に意地悪な投稿があったり、自動車が故障しても誰も助けてくれなかったり、ガールフレンドと引き離されたりという可哀想なエピソードの後で、ライアンの容態が急変する。便器に激しく吐きながら、「訊いていい?」「僕、死ぬの?」。緊急入院した病院で、体にチューブを入れられた少年と出会う。この少年は、ライアン・ホワイト本人が演じている(写真、左)。
   

法廷での論戦シーンの後、最終的にライアンは障がい児と認定された。しかし、喜びも束の間、直後のTVで、州の法律により、伝染病から守るためライアン・ホワイトは学校から隔離されたと報じられる。絶望して「もう、耐えられないわ!」と自暴自棄になる母。。そして、階段に腰掛けたライアンに「もう、やめましょ」と語りかける。しかし、弁護士から「やめたいか?」と訊かれたライアンは、学校に戻らないといけない、ときっぱり答える。それを聞いて、弁護士は「私は、ジーン(母親)の代理人じゃない、ライアンの代理人だ」と宣言する。
   

その後の裁判で、一度は敗訴するものの(1986年2月21日)、最終的に晴れて勝訴する(4月10日)。ライアンはようやく登校を許されるが規則が山ほどあった。昔からの友達に向かってライアンが説明する、「カフェテリアじゃ紙の皿とプラスチックのフォーク、スプーンを使う。食べ終わったら、廃棄できるように。水飲み場は使わない」。そして、「のどが乾いたら?」の質問に、紙コップを出して見せる。
   

しかし、家の窓に銃弾が打ち込まれるなどのぶっそうな状況に、母は別の町に引っ越すことを決断。1987年8月31日、ライアンはシセロの町のハミルトン・ハイツ高校に向かった。学校の玄関で校長から「よく来てくれた」と歓迎され、生徒達の代表からも「ようこそ、ライアン」「よく来たな」と言われ喜ぶライアンの顔でエンド・クレジットとなる。
   

参考までに、1993年のクリントン大統領の就任祝賀会で、マイケル・ジャクソンがライアンに捧げた「Gone too Soon」を歌うYouTubeからの画像を下に示す。
   

最後に、マイケル・ジャクソンがライアン・ホワイトに捧げた詩が、あまりに美しく意外なの紹介しておこう(詩として訳したので、原文通りではない)。

  ライアン・ホワイト、君は正義の象徴
  あるいは無垢の少年、それとも愛の使者か
  君はどこに旅立ち、今どこにいるのか?

  ライアン・ホワイト、僕はもう、太陽のような君には会えない
  共にはしゃぐことも、もうできない

  僕は、君ライアン・ホワイトを失い、君の笑顔も失った
  同時に、無垢さや明るさも
  僕は、君の光輪を失い、そして光輝も失った

  ライアン・ホワイト、君は反駁の象徴
  逆説の少年、あるいは、虚構の少年か?

  君の、破壊された生涯を想う時
  君の苦闘を、そして、奮闘を想う時

  ご婦人方が、月明かりの下で踊り
  豪華な遊弋でのシャンパン・パーティーの最中でも
  僕は、君の疲れきった姿を忘れない、幽霊のような姿を
  そして、君の疼く痛みを感じ、無残な傷を感じる

  ライアン・ホワイト、君は苦悶と苦痛の象徴
  理性なき社会による
  狂気のような、無知蒙昧な恐怖を味わい
  漠然とした不安のもたらす
  偽りの恭順に辱められた

  僕は、君、ライアン・ホワイトを失った
  君は、僕たちに、「如何に立ち上がり、戦うか」を示してくれた
  雨の中で、突然、雲が裂けたような歓喜、そして、希望の煌めき
  それは、すべての少女と少年にとって等しきもの

  君に対する、苦悩に満ちた 惜別の深みにあって
  新たな将来への光明が 見えてきた


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