カナダ映画 (1997)
アメリカの先住民族の一つチェロキー族に対する土地収奪と、それに続く強制移住という恥ずべき歴史を踏まえて書かれた原作の、かなり忠実な映画化。原作の日本語訳本の題名が、なぜか、『リトル・トリー』だけなので、題名だけ見ると、内容がピンと来ないが〔そもそも、“tree” をトリーと訳すること自体、さらなる誤解を招く〕、原題の直訳は、『リトル・ツリーの教育』。リトル・ツリー(小さな木)という名前のインディアンの血を引く少年を、一人前のインディアンにするための正しい教育を、祖父母と、霊能力を持つウィロー・ジョンの3人で行うというのが原作の内容。その原作の中で、アトランダムにちりばめられているエピソードを、上手に一本のきれいな筋にまとめ上げ、原作で弱かったエンディングを、オナイダ族出身の名優グラハム・グリーンで強力に締めくくっている。また、原作ではインディアンの文化・思想が 素人にもよく分かるように紹介されているが、映画でも、同じような言い回しを簡略化して、すっきりと映像化している。こうした映画は、非常に珍しく、とても参考になった。
両親が死んで、リトル・トリーは祖父母に引き取られる。祖父はスコットランド移民の子孫。祖母はチェロキー族。しかし、祖父は息子(リトル・トリーの亡くなった父)を得た時、息子をインディアンとして育てた。だから、息子がアメリカ人の女性と結婚して設けた息子にも、インディアンの名を付けた。小さな木(リトル・トリー)だ。祖父母の、リトル・トリーに対する教育は、①動物界における生き残りの論理、②白人の強欲への批判、③故事「涙の道」の伝授、④モカシン・ブーツの素足感、⑤インディアンを無視する政治家、⑥失敗によって学ばせる、⑦独自の “秘密の場所” を持つこと、⑧ガラガラ蛇への対処法、⑨インディアンにとって肉体と “霊” は同じように大切で、肉体が死んでも霊同士は覚えている、⑩夜 “犬の星” を見ることで 意志の疎通ができる、の9項目〔密造酒の作り方は数に入れない〕。映画は、1935年が舞台で、その当時のアメリカのインディアン対策の目的は「同化」(先住民族の文化・言語の抹殺)だった。だから、インディアン専用の学校に強制入学させられたリトル・トリーは、アメリカ式の名前を与えられ、校内での英語以外の会話は一切禁じられる。この映画は、そうした過去への批判を、原作以上に強く描いている。こうした流れは、1972年の「インディアンン教育法」で取り入れられた二言語教育・二文化教育プログラムにより、ようやく方向が変わり始め、1990年の「先住アメリカ人言語法」により、言語と文化の維持に政府が責任を負うことになった。しかし、結局、その後どうなったか? あるサイトには、「72.1%のネイティブ・アメリカン〔先住民族〕は家庭で英語のみを使用」と書かれていた。少し古いが2017年における貧困率は、白人8%、アジア系9%、ヒスパニック16%、黒人20%に対し、ネイティブ・アメリカン22%と最悪だった。健康状態も、最悪。なお、『リトル・ツリー』の原作本の出版は1976年。1972年の「インディアンン教育法」を受けての執筆だったかもしれないが〔作者は1979年に死亡〕、当初はあまり高く評価されなかった。評価が変わるのは、1990年の「先住アメリカ人言語法」の成立後。1991年には第1回全米書店業協会のブックオブザイヤー(ABBY)を受賞した。
リトル・トゥリー役は、ジョゼフ・アシュトン(Joseph Ashton)。1986.11.18生まれのアメリカ人。1994年からTVに出演し、映画はこれが3本目で 初主演。他に、『Slappy and the Stinkers』(1998)で準主役、『Where the Red Fern Grows』(2003)で主役を演じ、2004年に映画界から去った。この映画の演技で、ヤング・アーティスト賞(長編映画の主役(10歳以下))を獲得している。
あらすじ
映画の冒頭、現代から見れば荒(すさ)んだ作業場の建物と、作業員の住居が映り(1枚目の写真)、大人になったリトル・トリー〔映画の中での発音は「リトル・トゥリー」〕の声で独白が入る。「それは、1935年、テネシー州のジェリコ鉱山で、母ちゃんが死んだ日から始まった。父ちゃんが戦死してから1年も経っていなかった。結局、8歳の時、祖母ちゃんと祖父ちゃんと暮らすことになった。ある時、祖母ちゃんは、俺にこう言った。『何か “いいもの” を見つけた時、お前が最初にすべきことは、それを 誰でもいいから出会った人と分かち合うこと。そうすれば、“いいもの” は 際限なく広がっていき、それは正しいことよ』。だから、俺は、2人の話をしようと思う。祖母ちゃんと祖父ちゃんが、マーサ伯母さんから俺を如何に引き離し、2人の住んでいる山に連れて行ったかを。そこは、2人が俺の父ちゃんを育てた所で、今では、“秘密の場所” だったと、俺は知っている」。その間、粗末な建物の壁の影で悲しげに佇むリトル・トリーが映される。彼の、マーサ伯母との暮らしは、不幸そのものだったに違いない〔マーサの夫は、恐らく、先住民族の血を引くリトル・トリーに辛く当たった〕。そして、そこに、背の高い祖父と、チェロキー族の祖母がやって来る。2人を見て寄って行こうとしたリトル・トリーに向かって、伯母の怒声が飛ぶ、「そこで お止まり!」(2枚目の写真、矢印は中間に立つリトル・トリー、左の2人が祖父母、右の4人中腕を伸ばしているのが伯母)。それでも、リトル・トリーが近寄ろうとすると、「ダメと言ったのよ!」と怒鳴る。しかし、リトル・トリーは祖父にぴったりとひっつく(3枚目の写真)。伯母は、「あたしが生きている限り、山奥に住む白いインジャン〔アメリカ先住民族を指す差別語〕なんかと行かせませんよ」とリトル・トリーに言い、リトル・トリーの祖父に向かっては、「サリーはあたしの妹で、彼女は、この子をあたしたちに与えたの!」「ウェールズ〔祖父の名〕、あんたは、ここに勝手にやって来て〔You can't just waltz in here〕、その子を人里離れた場所に連れて行くことなんかできない!」と批判する。ウェールズは、「マーサ、彼をそっとしておくんじゃ」と言うと、祖母がリトル・トリーの手を引いて連れて行く。伯母は、「そんなの間違ってる!」と叫ぶが、リトル・トリーを離反させた自分の罪に対する反省は一切ない。映画では、リトル・トリーは8歳だが、原作では5歳。リトル・トリーが住んでいたのは、ジェリコ鉱山ではなく、山の中の丸太小屋。マーサ伯母なる人物も存在しない。映画では、ウェールズは白人だが、原作では白人とチェロキーのハーフ。だから、映画では、リトル・トリーの父はチェロキーのハーフで、母のサリーは白人なので、リトル・トリーはチェロキーのクォーター。原作では、リトル・トリーの父は白人のクォーター、母は不明。2人はチェロキーのやり方で結婚したので法律上リトル・トリーは私生児。
3人は、小さな集落でバスを降りる(1枚目の写真、右の矢印は去っていくバス、左の矢印はリトル・トリー)。空の感じは、どう見ても夕方。ところが、3人が森に入って行く直前では、くっきり影が見える日中(2枚目の写真)〔編集ミス〕。ここから3人は森の中をずっと登って行き、そのうち完全に日が暮れる。祖母は、祖父に、「ウェールズ、あの子くたくたよ」と注意する。その言葉を受けて、祖父はリトル・トリーを抱き上げて運ぶ。そして、そのまま木の小屋まで連れて行く(3枚目の写真)。原作では、祖父が歩く速度を下げ、最後までリトル・トリーに歩かせる。原作の小屋は、丸太小屋。複数の部屋がある大きな小屋というのは同じ。
翌朝の日の出前。祖父は、疲れてぐっすり眠っているリトル・トリーを軽く揺り起こす。それを見た祖母は、「あんた、初めての朝から、その子 起こさないわよね?」と心配する(1枚目の写真)。祖父は、「こいつが、自分で決めたらいい」と答えると、リトル・トリーに向かって 「お前、聞こえとるか? わしたちは これからトウモロコシ畑に行く。一緒に来て、手伝いたいかもしれんと思ったんじゃ。お前が決めろ」と声をかける。2人が用意して小屋から出発しようとすると、扉が開く音がして、リトル・トリーが出てくる(2枚目の写真)。すると、夜、彼が着いた時には眠っていた犬の一群が走ってきてリトル・トリーに飛びついて挨拶する。その中でブルー・ボーイという犬が、一番リトル・トリーに愛情を示す(3枚目の写真)。原作では、夜、寝る前に祖父は、「男は、朝になったら自分の意志で起きるもんじゃ」と諭し、リトル・トリーは、祖父母より早く、小屋から外に出て待っている。ブルー・ボーイはリトル・トリーの一番の友となるが、この時点では登場しない。
祖父は、畑に行く前に、見晴らしの良い場所に立って夜明けを迎える。すると、一羽の鷹が空を舞い、その直後5羽のウズラがバタバタと飛び立つ。鷹は1羽のウズラを襲う(2枚目の写真)。それを見たリトル・トリーは、可哀想という顔になるが、祖母は、「悲しむんじゃないよ、リトル・トリー。こういうものなの。鷹は遅い鳥を捕まえた。だから、あの遅い鳥は 遅い雛を産めない。鷹は鳥を助けてるの。分かる?」。リトル・トリーの教育は始まったばかり。あまりよく分かったとは思えない(3枚目の写真)。祖父は、「これは、“教え” なんじゃ。動物は、それを知っとる。白人だけが取り分以上のものを取る。彼らは、いくら多くても、取れると言い張るんじゃ。そして、旗を掲げて自分の物だと言い張る。それを巡って戦争が起こり、お前の父さんのように、男たちが死ぬんじゃ」と、後を続ける。原作では、最初の言葉も祖父。内容は、もっと長いが、基本的には変わらない。
トウモロコシ畑に入った祖父は、「お前は、こう思っていないか? 『ちょっと待って、お祖父ちゃんだって白人だよね』と。それは本当じゃ。わしは、白人として生まれた。間違いなくな。だが、お前のお祖母ちゃんと結婚してから、チェロキーの目を通して世の中を見るようになり、とうとう、“教え” を悟ることができたんじゃ。リトル・トリー、お前もきっとそうなる。“教え” は変えられないと 学ぶことじゃろう」(1枚目の写真)。リトル・トリーは、「母ちゃんは白人だった」と言う(2枚目の写真)。「わしの奥さんのように、素晴らしい女性じゃった」。祖母も、「そうよ。彼女は、お前さんの父さんも喜ばせたの。お父さんが話してくれた」と、白人批判を受けて悲しむリトル・トリーを励ます。その夜、祖母は、リトル・トリーの皿にだけ、貴重な砂糖を少し加える。そして、リトル・トリーが毎日学校に通えないので、代わりに辞書の単語を1つずつ覚えるよう提案する(3枚目の写真)。その最初の単語は、「Aardvark(ツチブタ)」〔シロアリを食べるアフリカ産の哺乳動物〕。よりによって、生涯使うことが絶対にない単語だ。原作では、祖父のウェールズは白人とチェロキーのハーフなので、こうした会話はない。ただ、リトル・トリーが1日1個の単語を順番に覚えさせられたことは、原作にも間接的に書かれている。
ある朝、祖父は、犬を残したまま、リトル・トリーだけを連れて森に入って行く。祖父は、途中で、「次の誕生日で幾つになる?」と訊く。「3月22日に9つ」。「やっぱりな。なら、そろそろ仕事を始めてもいい頃だ」(1枚目の写真)。祖父は、シダで覆われた穴の中に入って行く。リトル・トリーは、中に入る前に 立ち止って中を見てみる(2枚目の写真)。シダの穴をくぐった先は、ウイスキーの密造所だった(3枚目の写真)〔禁酒法の時代は終わっているので、免許を持たない違法製造〕。リトル・トリーの年齢以外は、原作と同じ。祖父の左側のくねくねした物は、螺旋状の “ミミズ管”。祖父のすぐ左側の銅の容器に注いだ “ビール” を火で加熱し、それが蒸気となって “ミミズ管” の中を取って黄色の矢印の方向に進み、もう1つのドラム缶の中に入る。一方、冷たい水が空色の矢印のように樋を通ってドラム缶に入り、蒸気を冷やして濃縮されたアルコールの液体に変える、という構造。
祖父は、「これが わしの仕事、ウイスキー造りじゃ。スコットランドの祖先から200年にわたって受け継がれてきた。次は、お前に継がせる。もちろん、もっと大きくならないと無理だがな」と言うと、銅の容器の下の薪に、マッチで火を点ける。そして、“ミミズ管” の付いた蓋を外すと、ヒシャクをリトル・トリーに渡し、横の木の樽の入っていた “ビール” をスクって銅の容器に入れさせる(1枚目の写真、矢印)。「これは、純粋なトウモロコシじゃ。一部の奴らは、早くトロトロ状態にするため、炭酸カリウムや苛性アルカリ溶液を入れ、鉄網やトラックのラジエーターで濾過するので、あらゆる毒が入って死ぬことさえある」。祖父は、さらに、「別の奴らは、ウイスキーは古いほどいいと言う」とも語る。そのあとで、祖父は、リトル・トリーに追加の薪を集めさせに行かせる。彼は、途中で正真正銘のインディアンに出会う。「お前は、リトル・トリーか?」と訊かれたリトル・トリーは 頷く。次のシーンでは、足音がして祖父が振り向くと2人が並んでいる(2枚目の写真、リトル・トリーが集めた薪は、インディアンが持っている)。祖父はインディアンと、インディアン同士らしく抱き合う。そして、「リトル・トリー、これがウィロー・ジョンじゃ」と紹介する。「彼には、魔力がある」。しばらく経ち、祖父は、出来上がったばかりの “ニューポット” の入ったガラスビンを2人に見せる(3枚目の写真、矢印)。リトル・トリーが、「味見しないの?」と訊くと、祖父は、「これが、シングル、ほとんど100度じゃ。2ガロン〔7.6ℓ〕しか取れん。これに水を加えて、もう一度同じことをくり返すと、売り物のウイスキーになるんじゃ」と教える。祖父は、その貴重なニューポットを僅かに口に入れ、思わず顔をしかめる。ウィロー・ジョンも僅かに飲み込むと 「ちょっと悪い」と言う。原作では、一致する場面と、全く違う場面がある。まず、樽の中のものはトウモロコシ・ビール。祖父はそれを「ビール」と呼んでいたが、正確にはビールとは別物(ホップが入っていない)。さらに、祖父が使用したのはインディアン・コーン。「ウイスキーになると赤に変わる」と書いてある。3枚目の写真では透明の液体なので全く違う。悪い密造屋が危険な物を入れる一節は原作とほほ同じ。ウイスキーの熟成については、「樽の中で長年寝かせれば木の匂いと色が移るだけ」と手厳しい。これは、原酒のスッキリさと、熟成酒のまろやかさの違いを祖父が理解できていないから。原作との一番大きな違いはウィロー・ジョン。彼は、こんな場所には登場しない。そもそも彼の年齢は80歳以上で、この映画のウィロー・ジョンとは役割が異なっている(原作では一番早く老衰で死ぬが、映画では、祖父母が亡くなった後でリトル・トリーを育てる)。
小屋まで一緒に戻ったウィロー・ジョンは、暖炉の横のロッキング・チェアに横になってくつろぐと、祖母に、「彼に、我々の歴史を話したか?」と訊く。「まだよ」。「知っているべきだ」。「辛い話よ」。「だがな、過去を知らなければ、未来は開けない」。そう言うと、期待して待っているリトル・トリーに対し(1枚目の写真)、ウィロー・ジョンは語り始める(2枚目の写真)。話の内容は、「Trail of Tears(涙の道)」と呼ばれるチェロキー族に振りかかった悲劇だ。南部軍管区司令官上がりの愚かな大統領アンドリュー・ジャクソンが強行したインディアン強制移住政策により13,000 人のチェロキーが最大3000キロに及ぶ行進を強いられ、旅の途中で4,000 名が非業の死を遂げたと言われている。この行進は、チェロキー族の言葉で「nvnadaulatsvyi(我々が泣いた道)」として知られるようになった。これに関しては、非常にたくさんのYouTube映像が見られるが、ここではPBS LearningMediaによるYouTubeに翻訳を加えたものを (→ 涙の道)で観られるようにしておいた。ウィロー・ジョンは、この点に関し、「nvnadaulatsvyi」とは逆のことを言う。「白人どもは、これを『涙の道』と呼ぶ。だが、チェロキーは泣かない。ただ歩き続けた」〔どちらが正しいのだろう?〕。話は、“行かなかった人々” に移る。その人たちは、兵士の目を盗んで行進から逃げ、故郷の山奥に潜んでいた。そのうちに、ジャクソン大統領の政策は忘れ去られ、逃げてきたインディアンも社会に溶け込んで暮らすようになった、というもの。「それが、お前だ、リトル・トリー。俺たちだ。だから、ここに住んでいる」。ウィロー・ジョンが帰った後で、リトル・トリーは、自分のベッドの上にナイフがプレゼントとして置かれているのを見つける。祖母は、「ウィロー・ジョンは、お前さんを気に入ったのね」と言う(3枚目の写真)。「僕にくれたの?」。「そのようね」。「でも、ありがとうも言えなかった」。「お前さんが、それに相応しいと思ったから、与えたのよ」。原作では、行進の悲惨さについて詳しく述べている。ポイントは、政府軍は幌馬車を用意したが、誰も乗ろうとせず歩いたという点。だから、「Trail of Tears」の画像で一番よく出て来るRobert Lindneux が1942年に描いた絵は、インディアン強制移住政策を 正当化しようとした完全な嘘、捏造ということになる。
翌日、リトル・トリーがナイフを腰に下げて現れると、祖母が手作りのモカシン・ブーツを水に浸して絞っている(1枚目の写真、矢印)。そして、「大きな靴とは これでさようならよ」と言う。さっそくリトル・トリーが履いていた靴を脱ぐと、祖母は鹿の皮で作った柔らかで湿ったブーツを持ってきて、リトル・トリーの足に被せるように履かせる。「まだ、湿ってない?」。「濡れたまま履いて、歩きながら乾かすの。足にぴったり合うようになるわ」(2枚目の写真)。そこに、祖父がやってくると、入植地〔バスを降りた場所〕まで下るのは遠くて、荷物は重いので、その靴はちょうどいいと、タイミングの良さを褒めた上で、リトル・トリーに 「何個のビンを運べると思う?」と訊く。「全部で何個あるの?」。「13個。2個は薬用に残しておく。すると、何個になる?」。リトル・トリーは、“13-2=11” をしばらく考え、「11個」と答える。ブーツを履き終わったリトル・トリーは、部屋の中を行ったり来たりし始める。祖父は、「お前の袋に2個入れるってのは、どうじゃ?」と訊く。「3個」。「できるのか? 3個運ぶことになるんだぞ?」。「3個」。渡された袋は、ビンの大きさから想像していたよりずっと重いので、肩に掛けた瞬間、体が掛けた方に傾く。それでも、リトル・トリーは、「どうってことないよ」と強がってみせる。場面は変わり、林の斜面を2人が8個と3個の袋を背負って下ってくる。「モカシンはどんな具合じゃ?」。「素足で地面を歩いてるみたい!」。祖父の方が早いので、途中、座ってリトル・トリーが来るのを待っている(3枚目の写真)。彼が到着すると、祖父は立ち上がって、リトル・トリーの袋を地面に置き、彼の体を持ち上げて、それまで座っていた石の上に立たせる。すると、木々の間から、密造酒を売りに行く酒場が見える。「あれが、ジェンキンズの店じゃ。店の前にピクルス〔キュウリの漬物〕の樽はあるか?」。「ううん、男の人が座ってるだけ」。「ならいい、来ていいという合図じゃ」。原作では、まず、冒頭2章の先頭に、モカシン・ブーツについての記述がある。インディアンの平底の柔らかな革靴で、1足仕上げるのに1週間かかったと書かれている。濡れたまま履いて歩きながら乾かすと足にぴったり合うというのも映画と同じ。祖父のウイスキーについては、彼は月に1回11ガロンのウイスキーを造り、9ガロン〔34.2ℓ〕をジェンキンズの店で売っていた。映画でリトル・トリーは3個を運ぶが、34.2ℓの3/11の量は 9.3ℓ≒9.3㎏。確かに、8歳の子供にはかなりの負担だ。因みに、ウイスキーの値段は1ガロン=2ドル。9ガロンなので、月収18ドルとなる。inflation calculatorによれば、1935年の18ドルの購買力は、現在の378ドル〔5万円弱〕。「そのお金で必要なものは全部買えたし、僅かながら貯金さえできた」とある。最後に、店が “安全” だという合図は全く同じ。
祖父は、リトル・トリーを連れて店に入って行く(1枚目の写真、矢印)。陽気な店主が、「よお、ウェールズ、その小さな子は誰だ?」と訊く。「孫のリトル・トリーじゃ」。店にいた客が、一斉に、「やあ、リトル・トリー」と声をかける。客の中にはバイオリンを持った30代前半の男(パイン・ビリー)もいて、リトル・トリーに持たせてくれる。店主は、祖父が持って来たビンを1つ開けると、味見をし、エレガント〔上品な、すっきりした〕と言って褒める。そして、リトル・ツリーを呼び、外の薪置き場に行き、木くずを集めてきてくれないかと頼む。リトル・トリーはさっそく木クズを袋に入れ始めるが、近くに放置された錆びた廃車に乗って遊んでいた少女が、「足に履いてるの、何?」と尋ねる。「モカシン」。少女に構わず木くずを集め続けるリトル・トリーの横まできた少女は、「触っていい?」と訊く。リトル・トリーは、片足を投げ出す。少女は、靴に触り、「柔らかい」と言う(2枚目の写真、矢印)。「うん」。「あんた、インジャンなんだ」〔裸足で、ボロ布の服を着た最貧の白人の少女が、平気で差別用語を使う〕。「今、仕事中だ」。それにもかかわらず、少女は、しつこく店の中の様子を訊き、「中に人形ある?」とか 「あたいのために見つけてくんない」とか、うるさい。最後には、「父ちゃん、分け前もらったら、すぐ買ってやると言った」と、父親の嘘を真に受けて自慢する。「分け前って?」。「タバコの葉を摘んだ分け前じゃない、バカね」。「タバコの葉なんか摘んだことない」。「インジャンは怠け者で、働かないもんね」。頭に来たリトル・トリーは、「今、働いてるだろ」と反論する。「あんたのこと、言ったんじゃないわ」。そして、自分の手を出し、リトル・トリーの手と色を比べ、「どっちが好き?」と訊く。いい加減、嫌になったリトル・トリーは、「君は、汚い」と、土埃と垢で汚れた少女に現実を突き付ける。店に戻ったリトル・トリーは、祖父から、お駄賃として50セント〔10.5ドル≒1300円〕もらう(3枚目の写真、矢印)。原作のジェンキンズは、白い髭は伸び放題とあるので、映画の髭なしとは違う。しかし、店のストーブ用に薪置き場から木の切れ端を袋に一杯取ってくるよう頼むのは同じ。一番大きな違いは、裸足の少女(父親は小作農)。原作では、1回登場するだけ。この場面には同じ台詞が1ヶ所だけある。「インディアンって怠け者でちっとも働かないって噂だもの」という言葉。少女は、映画では、このあと3回も登場する。
次のエピソードは、教会のその1。日曜の早朝、祖父は背広にネクタイ、祖母は赤いドレスを着込み、長時間歩いて教会まで出向く(1枚目の写真、矢印はリトル・トリー)。教会に入ると、一家はウィロー・ジョンと一緒に、一番後ろの席に座る(2枚目の写真、左の赤い服は祖母、その左端がリトル・トリー)。その日は、なぜか、教会が、テネシー州選出の下院議員の演説集会の場に化してしまう。そして、妻同伴で乗り付けた議員は、車から降りると、並んでいる人と順に握手して行く。ウィロー・ジョンも手を差し出すが、議員は無視して通り過ぎ、一家の右隣の人と挨拶(3枚目の写真、矢印はウィロー・ジョンの握手してもらえなかった手)〔祖母は手を出していないし、祖父は後ろに引っ込んでいる〕。握手が終わると、台の上に立った議員は、自分が、地元民のためにどう頑張ったかを話し始める。原作では、議員の集会があるのはジェンキンズの店の前。議員が積極的に握手するのは同じ。祖父とは握手しない。その理由は、「一目でインディアンと分かるから(原作の祖父はハーフ)」。ただし、人種差別ではなく、インディアンは投票に行かないので、握手しても無駄だから。
演説がつまらなくなったリトル・トリーは、近くの木に繋がれていた子牛を見つけて撫でている。先日の少女も一緒だ。そこに、男が現われ、「俺の子牛好きか?」と2人に声を掛ける。「家に連れて帰りたいか?」。少女が、「うん」と答える。「金、あるか?」。「ううん」。「そりゃ、残念だな」。リトル・トリーは、「僕、持ってるよ」と言う。「幾らだ?」。「50セント」。「この子牛は、その100倍の価値があるんだ」。「僕、買うつもりなんかないよ」。「俺もクリスチャンだ。何となくだが、子牛の価値がどうであろうと、俺はお前さんがこの子を持ってるべきだと思うんだ。いいから持ってきな」と言い、50セントと引き換えに子牛を渡す(1枚目の写真、矢印はコイン)。お礼を言う間もなく、男はさっと消える。少女は、子牛がすごく気に入り、リトル・トリーが 「この子に会いに来たっていいよ」と言うと、喜ぶ。演説が終わると、リトル・トリーは祖父に子牛を見せて、50セントで売ってくれたと説明する。そんな値段で売るハズはないので、祖父と祖母は、リトル・トリーが詐欺に遭ったと気付く。だから、それ以上、何も尋ねない。リトル・トリーは、山道をなかなか登ろうとしない子牛を必死になって引っ張って行く。途中で倒木が通り道を邪魔している所があり、祖父とリトル・トリーは幹の上に座って休憩を取る。リトル・トリーは、「カトリックの人、誰か知ってる?」と尋ねる。それに対する祖父の返事は、カトリックとは無関係で、さっきの議員に対する批判だった。「まあ聞け、リトル・トリー、もしお前がナイフで政治家の心臓を切り裂き いちんち中探しても、一粒の真実も見つからんじゃろう。あのくそったれは、ウイスキー税とかトウモロコシの値とか その他大事なことを、口にしたことは一度もない」と話す。リトル・トリーが、「僕は、政治家とかくそったれどもには反対だよ」と言うと、祖父は、「くそったれ〔son of bitch〕」という言葉を祖母の前で決して口にしないよう言いかけたところで、子牛が崩れるように倒れて死亡する(2枚目の写真、矢印)。祖父はナイフで子牛の腹を裂き、「肝臓の病気じゃ。食べることもできん」と言う。祖母は、「犬たちのエサにはなるわ」と言う。リトル・トリーは、自分が騙されたことに気付いてがっかりする。その夜、夕食の時、祖母はコインを貯めたビンの中から10セント取り出すと、「子牛の皮に」と言って、リトル・トリーに渡す。祖父は、「お前の好きにさせる以外に、お前に学ばせる方法はない。もし、わしが、お前が子牛を買うのを止めてたら、お前はいつまでも欲しがったじゃろう。もし、わしがあれを買えと言っておったら、死んだことでわしを責めたじゃろう。お前は、自分で学ぶしかないんじゃ」(3枚目の写真)。この場面、少女は絡む点を除き、すべての台詞を含め、ほとんど原作と同じ。
ある朝、リトル・トリーと祖父が小屋の前にいると、祖父が、「お前、“秘密の場所” は見つけたか?」と訊く。「秘密の場所? 知らないよ。どんな風に見えるの?」。「お前だけの場所じゃ。時々、そこに行きたいなと感じるようになる。チェロキーは、みんな秘密の場所を持っとる」、「そうなの?」(1枚目の写真)。「ああ」。「今朝は、もう働くのは止めて、雪が来る前に、秘密の場所を探しに行ったらどうじゃ?」。リトル・トリーは、愛犬ブルー・ボーイを連れて秘密の場所を探しに行く。リトル・トリーは、森の中を彷徨い歩き、草の小山を見つけ、そこの手前の木に架かった大きな蜘蛛の巣に見とれる。でも、それは気に入らなかったようで、ふと下を向くと、渓流にいる1匹のカエルがじっとリトル・トリーを見ている。リトル・トリーは、さっそくカエルを捕まえ 悦に入る(2枚目の写真)。そして、カエルのいた渓流の淵を見上げると、小さな滝が見える(3枚目の写真)。リトル・トリーは、渓流のこの部分こそ自分の秘密の場所だと考える。原作とは、かなり違っている。秘密の場所について話すのは、祖父でなく祖母。しかも、その話の前から、リトル・トリーは秘密の場所を見つけている。そして、その場所は、渓流の淵でなく、映画の中で彼が最初に見た “草の小山”。原作と、同じ点は、「チェロキーは、みんな秘密の場所を持っている」という言葉だけ。
リトル・トリーが、自分の秘密の場所を見つけて喜んでいると、急にブルー・ボーイが低く唸り始める。リトル・トリーが振り返って森を見ると、ネクタイをした男性3人が歩いて行くのが見える。彼らの胸には、一様に役人らしい金色のバッジが付いている。これはヤバいと思ったリトル・トリーは、仕事場にいる祖父の元に走って行き、「密造酒取締官!」と伝える。「ちくしょう。どのくらい?」。「数人」。祖父は、完成したウイスキーの入ったビンを袋に入れると、リトル・トリーに背負わせ、「ここは わしが片付ける。小屋で会おう」「やれるな?」と訊く(1枚目の写真)。「はい」。リトル・トリーは、重い袋を持ち、ブルー・ボーイを連れてシダの穴から走り出る。ところが、運悪く、3人の密造酒取締官と鉢合わせしてしまう。「インジャンだ」。「ただのガキだ」。「ああ、インジャンのガキだ」。一番はしこそうな取締官No.1が、「ちょい待て。おい、お前 サリーの息子じゃないか?」と訊く(2枚目の写真)。彼は、同僚に、「サリーは、インジャンと結婚した」と教える。「まさか」。「クソが!」。取締官No.1:「袋の中は何だ?」。「見せるんだ」。「奴らひどいことしやがる」。「ガキにウイスキーを運ばせてるんだ」。取締官No.1:「それを渡せ。逃げ場はないぞ」。ブルー・ボーイが唸る。取締官No.1が一歩踏み出すと、リトル・トリーは斜面を上がって逃げる。3人は追おうとするが、それを阻止したのはブルー・ボーイで脚や腕に噛みついて、後を追わせない(3枚目の写真、上の矢印はリトル・トリー、下の矢印は脚に噛みついたブルー・ボーイの頭)。ブルー・ボーイが一歩も先に進ませなかったので、リトル・トリーは何とか逃げることができ、大きな岩の下の窪みに溜まった大量の落ち葉を掘って袋を隠し、次いで自分の体を葉っぱで覆い尽くす(4枚目の写真、矢印は覆い尽される直前にチラと見えた “目” の部分)。それから半日が経ち、辺りが薄暗くなった頃、ブルー・ボーイがやって来る。リトル・トリーは、落ち葉の中から姿を現し、犬を抱く。すると、祖母が呼ぶ声が聞こえる。ランプを手にした祖母が、祖父と一緒にブルー・ボーイの後を追って来たのだ。「ここだよ、祖母ちゃん」。祖母は、「大丈夫かい?」と言って、リトル・トリーの顔を抱く(5枚目の写真)。リトル・トリーは、祖父に、「1個も割らなかったよ」と言い、祖父から 「わしでも、これ以上巧くはできなんじゃろう」と褒められる。「お前は、ここらの山一番のウイスキー造りになるじゃろうて」。原作でも、このエピソードは重要なパートを占めている。捜査官は4~5人。それをブルー・ボーイが見事に止め、その間にリトル・トリーが走りに走る。疲れ切って枯葉の上に身を投げ出すが、中に隠れるわけではない。夜になり、リトル・トリーは自分で小屋に歩いて向かう。
次の日曜日。教会の前で、祖父は、ジェンキンズとパイン・ビリーに、密造酒取締官との遭遇について話す。ジェンキンズとパイン・ビリーは、リトル・トリーが見つかったのは偶然で、特にリトル・トリーだと認識したわけではないと宥めるが、祖父は、取締官がリトル・トリーの母の名を呼んだことを挙げ、危機感を訴える(1枚目の写真)。その時、例の少女が、放置された超小型の馬車の中からリトル・トリーに向かって手を振る。リトル・トリーは、さっそく、秘密の場所で捕まえたカエルを少女に見せる(2枚目の写真、矢印)。「これは、ウィロー・ジョンへの贈り物なんだ」。そして、ナイフを見せ、「これ、くれたから」と説明する。そのあと、少女は子牛について話し始める。よほど気に入ったのか、“茶色の目” という名前まで提案する。そして、「会いに行っていいの?」と訊く。返答に困ったリトル・トリーは(3枚目の写真)、「死んだ」と打ち明ける。「今、何て?」。「あっという間に死んじゃった。あいつ、僕をダマしたんだ。クリスチャンだなんて言ったから…」。祖母がリトル・トリーを呼ぶ。出て行こうとするリトル・トリーに、少女は、「ごめん。あんたをダマすなんて許せない」と謝る。原作には、この両方とも存在しない。リトル・トリーの母サリーは映画だけの存在だし、子牛の買い取り場面に少女はいなかったから。
祖母と祖父は、ウィロー・ジョンとインディアン式の抱擁の挨拶をする。リトル・トリーがウィロー・ジョンに抱擁した時、彼は、こっそりカエルをウィロー・ジョンの上着のポケットに入れる(1枚目の写真、矢印の方向)。ミサが始まると、若くて過激な牧師は、「告白の日!」と何度も宣告する。「神に罪を告白する者は、立ちなさい!」と大声で叫ぶ。一人の中年の女性が立ち上がり、「私は罪人です」と言う。「話しちまえ」と声が上がる。「私は犯しました…」。A:「話せ!」。B:「言いなさいよ」。女性:「姦淫…」。どよめきが起きる。C:「神を讃えよ」。D:「アーメン」。女性:「…ジュニア・ローガンと」。その言葉で、右横に座っていたジュニア・ローガンが、帽子で顔を隠して逃げ出して行く(2枚目の写真)。女性:「それから…」。名前を言われる前に、もう1人の男が立ち去る。E:「言っちまえ」。F:「告白だ!」。女性:「それに…」。G:「言いなさいよ!」。女性:「それは…」。3人目の名前を挙げる前に、カエルが鳴く。びっくりしたのは、会衆だけでなく、ウィロー・ジョンも同じで、思わずポケットを押さえ、カエルを入れたであろうリトル・トリーと顔を合わせる(3枚目の写真、2つの矢印)。それから、思わぬことが起きる。ウィロー・ジョンが、何故か、大声で笑い出したのだ。原作では、2つの別の場面に分かれている。前半の告白では、「スミスさんと何度かベッドを共にしました」と具体的に述べる(名前も違う)。そのあと、後ろの席の2人の男も逃げ出す。後半の部分は、もっと前の週に教会で起きた出来事。リトル・トリーがウィロー・ジョンのポケットに入れたカエルが鳴く。そして、80歳を超えた老ウィロー・ジョンが、全身で笑い始める。そこまでは、年齢以外はほぼ同じだが、大きく違うのは、ウィロー・ジョンの目から涙がこぼれ落ち、笑った後で泣き出す。それについて、大人になったリトル・トリーは、「胸に溜まっているものを期せずして吐き出すことのできた唯一の方法」と、推測している。映画では、ただ笑っているだけなので、なぜだか全く分からない不可解なシーンになってしまった。
ある朝、祖父は、リトル・トリーに薪割りを教えようとする。しかし、背の高い祖父用の重い斧を高く掲げることは、リトル・トリーはとてもできない。祖父は、斧の柄を短く持つよう指導するが、斧そのものが重いことに変わりはない〔5㎏はある〕。そこで、何とか斜めに持ち上げるが、材木を横から叩いただけに終わる。斧は重量があるから、材木の頭に当れば簡単に割れてくれると言って、もう一度真上から叩かせる。しかし、斧は材木の横を素通りして、リトル・トリーのブーツを直撃。ただし、当たったのは幸い刃ではなく、斧の鉄の塊。それでも、5㎏のものがぶつかれば痛い(1枚目の写真)。リトル・トリーは、痛さで顔を歪める。それを見た祖母は、祖父の無茶な方針に腹を立て、小屋の中に入ってしまう。祖父は、反省し、リトル・トリーがもっと楽しくできることを教えようと、渓流に連れて行く。そして、岩陰に潜む魚を素手で獲ってみせる(2枚目の写真、矢印)。祖父は、リトル・トリーがもう1匹捕まえれば、2匹で夕食1回分になると言って、彼を鼓舞する。リトル・トリーは、岸に近い大きな石の下を覗く。すると、変な音がしたので、振り返って後ろを見る(3枚目の写真)。そこにいたのはガラガラ蛇。リトル・トリーは恐怖で凍り付き、何もできずにガラガラ蛇をじっと見つめる。そこに、祖父の声が聞こえる。「動くなよ。振り向くな。瞬きしてもいかん」。そう言いつつ、祖父は、蛇の頭の直下をつかむが、手を噛まれてしまう。祖父は、ガラガラ蛇を投げ飛ばし(4枚目の写真、矢印)、噛まれたところをナイフで切り、毒を吸い出しては吐き出す。毒が体に入った祖父は、その場に力なく座り込む。前半の斧は、原作ではもっとずっと後の話。後半の部分は、原作とほぼ同じ。一つだけ違うのは、祖父が、蛇を絞め殺したこと。
リトル・トリーは、すぐに祖母を呼びに行く。「どうしたんだい?」。「祖父ちゃん、死んじゃう。ガラガラ蛇」。祖母は、祖父の周りに寒さ除けの簡単なシェルターを作り、焚き火で暖める。そして、ウズラを見つけると、スカートを脱ぎ、それを被せて生け捕りにし、ナイフで裂いたものを噛まれた手に押し付ける。夜になり、リトル・トリーは 焚き火を絶やさないために枯れ枝を集めてくる(1枚目の写真、矢印)。祖母は、「お祖父ちゃんは動かせないから、夜中暖め続けてあげないと」と言う。リトル・トリーは、上に羽織っていたものを脱ごうとするが、そんな小さなものでは何ともならないので、体で暖めるよう指示する。リトル・トリーは、焚き火と反対側の祖父の下半身に体をぴったりと寄せる。意味不明のうわごとを口にする祖父を見たリトル・トリーは、「祖父ちゃん、死なないよね?」と問いかける。そのあとの祖母は、インディアンにとって肉体と同様に重要な「霊」について語る。「霊を大きくする唯一の途は使うこと。物事を理解するのに使うの。理解しようと努めるほど、理解は、より大きく力強くなり、すべてを理解できるようになる。お祖父ちゃんは、そのような理解に近づいているに違いない。だから、もし、肉体が死んでも、お祖父ちゃんは私たちを覚えてるわ。あんたには、それを知っておいて欲しい。霊同士、私たちはずっと一緒なの。大事なことよ」(2枚目の写真)。翌朝、リトル・トリーが目を覚ますと、元気になった祖父が笑顔を見せる(3枚目の写真)。それを見たリトル・トリーも、笑顔で応える(4枚目の写真)。ウズラを殺したのは、その血で毒を中和させるため。映画では、それが全く分からない。後半の “霊” の話は、原作でも非常に重要だが(ただし、ガラガラ蛇の場面よりずっと前)、映画は、原作の一部を取り出しただけで、肝心の点(「体が死ぬ時には、体の中の心も一緒に死んでしまう。でも霊の心は生き続ける」)に触れていないので、非常に分かりづらい。
3人が、苦しかった夜を乗り切り、小屋に戻って来ると、入口の木の階段に2人の役人が座って待っている。3人より先に犬達が吠えながらやって来たので、2人は驚いて立ち上がる(1枚目の写真)。2人はテネシー州の福祉局から来た役人だった。だから、問題は、酒の密造ではなく、リトル・トリー本人だった。小屋に入った2人のうち、女性の方が、まず、背景を説明する。「マーサ・マカラーズ夫人から苦情が出されました。彼女は、あなたが孫を学校に行かせていないと主張しています。それは、州および連邦法に反する行為です。さらに、あなたが孫に違法な行為をさせたとも」。この説明に続き、上司の男性が、「要するに、あなたは、あなたの孫にとって不適切な保護者であり、あなたの孫は、道徳および教育的養育により適した環境に移されるべきであると、主張しています」と述べる。祖母が、「この子は、彼女の所に行くのですか?」と訊くと、女性の方が、「いいえ、彼は、チェロキーとして登録されています。ですから、インディアンになります。そうした場合、ノッチド・ギャップ・インディアン学校に送られ、そこで18歳になるまで寄宿することになります」と言う。最後に、男性が、「法廷への上訴期限は30日です」と付け加え、逃げるように退散する。祖父達3人は、ジェンキンズの店の前で時々開かれている、弁護士相談の列に並び、順番が来ると、役人から渡された書類を渡す(3枚目の写真)。弁護士は、祖父が、密造で収監歴のあることと、インディアンと同じように山に住んでいることから、争っても勝ち目ないと告げる。原作では、訴状を出したのは数人の人間(恐らく、地元の何人か)。養育者として相応しくない理由は、もっと意地悪(老後を安楽に過ごしたいため、リトル・トリーを利用している)。そして、最大の違いは、リトル・トリーが行かされるのはインディアン学校ではなく孤児院であるという点。
自分の未来に絶望したリトル・トリーは、ブルー・ボーイと一緒に秘密の場所に行き、悲しみに耽る(1枚目の写真)。そして、出発の当日、リトル・トリーは、モカシン・ブーツとナイフを部屋に残し、3人揃ってベランダに出る。祖母は、「私、行かない」と言い出し、階段にしゃがみ込むと、「犬の星〔シリウス〕、聞いたことある?」と リトル・トリーに訊く(2枚目の写真)。「夕闇(ゆうやみ)に見える一番明るい星よ。分かる?」。リトル・トリーは大きく頷く。「お前さんは、どこにいようと、夕闇の中で犬の星を見上げるの。私とお祖父ちゃんとウィロー・ジョンも、見上げるわ。お前さんが私たちに話すことは、ちゃんと聞いてるからね」。リトル・トリーは祖父と2人で小屋を離れるが、途中、森の中でウィロー・ジョンが待っていて、そこからは、3人で手をつないで山を下りて行く。そして、ジェンキンズの店のすぐ近くまで来ると、祖父は、2人を残して先に店に歩いて行く。ウィロー・ジョンは、「お前は、途を学んできた。それを手放すなよ」と言う。「もちろん。持ってる」。「いい子だ」。そう言うと、ウィロー・ジョンは、リトル・トリーの頭を軽く撫でる(3枚目の「写真)。映画との大きな違いは、原作では、出発の前夜、祖父はリトル・トリーの頭を散髪する。祖母は、映画同様、小屋に残る。犬の星の話をするのは同じだが、「お前さんが私たちに話すことは、ちゃんと聞いてるからね」とは言わず、「私たち、いつだってお前さんのことを思ってるよ」と言うだけ。ウィロー・ジョンは老人なので、途中まで迎えには来ない。だから、最後の言葉もない。
リトル・トリーが店まで行くと、少女が、最初の時と同じ廃車に乗っている。少女は、手作りの人形の代用品で遊んでいる。「僕、出てくんだ」。「あたいもよ」。リトル・トリーは、祖母が少女用にと作ってくれたモカシン・ブーツを渡す。少女は、大喜びで履いてみる(1枚目の写真)。そして、車から降りると、少し歩いてみてすごく気に入り、リトル・トリーにキスすると、近くにいた父親のところに走って行き、「リトル・トリーがくれたの。見て」と見せびらかす。ただの貧しい小作農に過ぎない父は、娘に、「そこを動くな」と命じると、ズボンのベルトを外し、お尻を何度も叩く。そして、ブーツを脱がせると、そのままリトル・トリーのところまで行き、ブーツをリトル・トリーの胸に押し付ける(2枚目の写真、矢印はモカシン。父親のボロボロの服がよく分かる)。そして、「俺たちは、誰からも施しは受けん。特にインジャンからはな」と、吐き捨てるように言う(3枚目の写真、矢印はベルト)。原作では、先に書いたように少女の出番は1回きりなので、ずっと前に、これとよく似た場面がある。原作の父親はもっと残酷で、ベルトではなく、柿の木の枝を折り取り、足、背中と枝が折れるまで罰が続く。そして、リトル・トリーに向かって怒鳴る最後の侮辱的な言葉は、「異教徒の野蛮人」。
リトル・トリーが店に入って行くと、祖父が、「靴は合ったか?」と訊く(1枚目の写真)。リトル・トリーは、「これまでにもらった最高の贈り物だって」と、後半の悲劇を省いて話す。「それを聞いて、お祖母ちゃん喜ぶぞ」。そこに、店の扉が開き、先日の役人(女性)が入って来る。そして、リトル・トリーの首に名札をかける(2枚目の写真)。パイン・ビリーが、別れの曲をバイオリンで弾き始める。すると、バスが店の前に停まる。祖父は、背丈を合わせるために 床に跪いてリトル・トリーを抱き締める。リトル・トリーは、「戻ってくるよ。絶対」と囁く(3枚目の写真)。原作との違いは、2人が抱き合うのが店の中ではなく、バスのドアの脇。最後の言葉は、「すぐ帰ってくるからね」。
バスは、インディアン学校の前で停まる。リトル・トリーがバスから降り、バスが動き始めると、学校の門の前で待っている女性教師の姿が見える(1枚目の写真)。教師は、「英語、話す?」と、ゆっくり1語ずつ発音する。「はい、先生」。「結構。ゲートが見える?」。「はい、先生」。「このゲートの中では、インディアン語は話さない。分かった?」。「はい、先生」。「ついてきなさい」。リトル・トリーは、ゲートの中に入ると、「僕、インディアンの言葉はほとんど話せません」から始まって、自分のことをたくさん話すが、その間、教師は何の反応も示さず、ただ黙々と歩くだけ(2枚目の写真)〔この教師は、自分がワンランク上の白人で、“仕方なく、劣等人種の面倒を見てやっている” だとしか思っていない高慢ちきな人種差別主義者〕。リトル・トリーは、髪の側頭部と後頭部を電気バリカンで短く刈り込まれる〔恐らく、シラミを恐れての人種差別的措置〕。その後、着ているものを全部脱がされ、シャワーの真下で、柄の付いたタワシを使って徹底的に “汚れ落とし” される(3枚目の写真)〔これも、“インディアンは汚い” という発想に基づく人種差別的措置〕。シャワーが済むと、支給されたシャツを着た上から、黄色の殺菌剤を噴霧器で全身にかけられる(4枚目の写真、矢印)。最後は、ここに来るまでに着ていたものすべてが、“汚物” のように、ゴミ箱に捨てられる(5枚目の写真、矢印)。これらを見ただけで、インディアン学校とは、強制収容所のようなところだと見当がつく。原作では、孤児院というだけで固有名詞はない。鉄のゲートは同じだが、英語を話すかとは聞かれない。というのは、ここはアメリカ人向けの孤児院で、インディアンの少年を受け入れるのはこれが初めてという設定だから。従って、屈辱的な “断髪・洗浄・消毒” の場面はない。映画のノッチド・ギャップ・インディアン学校は、架空の存在。ただ、アメリカには、インディアン学校そのものは存在し、「1860年代以降、数十万人のアメリカ先住民の子供達が家庭や家族から離されて学校に強制入学させられた。1978年に『Indian Child Welfare Act(インディアン児童福祉法)』が成立すると、ようやく、両親は、“自分達の子供のこうした学校への配置” を拒否する法的権利を獲得した」という記述を、「Looking back at the controversial Phoenix Indian School(物議をかもすフェニックス・インディアン学校を振り返って)」という資料(https://www.kgun9.com/)の中で見つけた。アメリカは、「涙の道」にしろ、このインディアン学校にしろ、先住民に対し、ひどい扱いをしてきた国だ。オバマ大統領は、2010年に「Apology to Native Peoples of the United States(合衆国の先住民への謝罪)」を公式に認めたが、賠償には一切応じていない。
“清潔” になったリトル・トリーを、さっきの教師が校長室に連れて行く。途中で口にする注意は、“校長から直接質問されない限り、自分からは何も言うな” という厳しいもの。ここでも、学校とは呼べない専横さがよく分かる。校長室に押し込まれたリトル・トリーは、自分からは何も言えないが、相手も机に向かって何か書いているので、校長の前のイスに座る(1枚目の写真)。そして、脚を揺らすと、すぐに注意される。そして、資料を見ながら 「君は英語を話すと聞いたが」と言う。それが、“直接の質問” なのか判断できなかったリトル・トリーが黙っていると、校長が彼の顔をじっと見る。そこで、「そ、それって、直接の質問ですか?」と訊く。「何だと?」。これは疑問形だったので、リトル・トリーは、「というのは、もしそうなら、僕は、あなたに 『はい、先生』と言えたので」と返事する。それを聞いた校長は、ようやく理解し、「君は、リトル・トリーと呼ばれている」と言うが、疑問形ではなかったので、またリトル・トリーは何も言おうとしない(2枚目の写真)。「知能テストを受けたことは?」。「いいえ、先生」。「ところで、リトル・トリーはインディアンの名前だ。アメリカ人は、物に因んだ名前など付けない。ここは、アメリカの学校だ。だから、君は、アメリカ式の名前を与えられる。それは、ジョシュアだ」(3枚目の写真)「分かったかね、ジョシュア?」。「いいえ、先生」。原作でも、事前の注意事項は同じ。こちらは孤児院なので、厳しいのはよく分かる。映画と違うのは、院長の話の内容。①ここにはインディアンは一人もいない。②リトル・トリーの両親は正式に結婚していないので、私生児になる(チェロキーのやり方で結婚したと反論しても、問題外視される)。③雑用班として働かされる、④アメリカ式の名前は付けられない。
リトル・トリーは、12のベッドが並ぶ大部屋の一番端に連れて行かれ、寝間着を渡され、着たらすぐベッドに入るよう指示される(1枚目の写真、矢印)。全員が眠ってしまうと、リトル・トリーは窓辺に座り 犬の星をじっと見つめる(2枚目の写真)。そして、「祖母ちゃん、祖父ちゃん、僕は大丈夫。あいつら、服を取り上げ、髪を切り、アメリカ人の名前を付けたけど、僕はまだリトル・トリーだよ。決して手放すもんか」と、小声で語りかける(3枚目の写真)。原作でもベッドは部屋の隅だが、他とは離れて置かれた折り畳み式(目的は隔離?)。窓があるのは、ベッドから数歩の所なので、ベッドに座って犬の星を見ることはできない。語りかけた言葉は、服、髪、名前のすべてが映画独自のものなので、原作にはない。
翌朝、男がベルを持って入ってきて、それを振りながら、「全員起床!」と呼びかける。あとに続いて入って来た “昨日の冷淡な女性教師” が、リトル・トリーの隣のベッドで寝たままの生徒の前に立つと、「目が覚めてるのは分かってるわ、ウィルバーン。起きないと折檻よ」と警告する。しかし、ウィルバーンは体の向きを変えただけで、眠っているフリを続ける。そこで、最初の男がやってきて、ウィルバーンの頭を殴る(1枚目の写真、矢印は男の手)。リトル・トリーは、ウィルバーンのベッドの前に変わった靴〔曲がった足を矯正するための金具の付いた靴〕が置いてあるのに気付く。朝食に向かう生徒の列の最後尾に付いたリトル・トリー。前を歩くウィルバーンは一歩一歩傾きながら歩く。全員がテーブルに着席すると、ベルが振られ、生徒達が一斉に食べ始める。メニューは、スープ(あるいは、オートミール)と食パン2枚と、クリーム状のバターらしき物、それに牛乳だけ。リトル・トリーの隣に座っているウィルバーンは、パンにバターを少量塗ると、残ったバターを手でつかみ、それをテーブルの裏に張り付け、「夕食の時にはないんだ」と教える(2枚目の写真)。それを聞いたリトル・トリーは、バターをつかむと(3枚目の写真、矢印)、同じようにテーブルの裏に張り付ける。原作では、ウィルバーンは11歳。足が悪いのは同じ。折檻と食事の場面はない。
食事が済むと、生徒達の一部は芝に落ちた枯葉集めをさせられ(1枚目の写真)、リトル・トリーは廊下を拭かされる(2枚目の写真)。こうした行為は、普通なら用務員がすべきことで、生徒がすることではない。インディアン学校の特殊性を示すための映像か? 労働奉仕が終わると、授業があり、それが終わると、生徒達が一斉に校庭に飛び出してきて遊び始める。しかし、足の悪いウィルバーンだけは、石のベンチに座っている。リトル・トリーは、他の子と遊ぶのは止めて、ウィルバーンの隣に座る。ウィルバーンは、「君、ジョシュアだよな」と声をかける。「デブが付けたんだ」(3枚目の写真)。「本当は何だ?」。「リトル・トリー」。「なら、僕は、そう呼ぼう」。「デカ尻〔女性教師〕が、ヒステリー発作だ」。原作では、孤児院なので 仕事は割り振られている。そして、孤児院に併設された小学校に通うというシステム。リトル・トリーとウィルバーンが並んでベンチに座るのは同じ。
問題が起きたのは、生物の授業中。女性教師が、黒板に置いた2頭の鹿の映った写真(1枚目の写真)を指し、「どういう動物ですか?」と訊く。生徒達は「鹿です」と答える。「よくできました。鹿は何をしていますか?」。その時、リトル・トリーが発言する。「交尾してます。雄鹿がジャンプしてるから。木でも分かるよ。ちょうど一年の…」〔もしこれが本当に交尾だとしても、「交尾の前の愛情の交換」と言うのが正しく、交尾そのものでない。交尾の時期は9~11月が多いとされるが、映っている草から時期は判別しにくい(“木” も映っていない)。それに、リトル・トリーが山小屋にいたのは 初秋までだった。だからリトル・トリーが鹿の交尾を見たとは思えない〕。ここまで発言した時、教師の木の鞭がリトル・トリーの右手を打つ。次は、背中に2発(2枚目の写真、矢印は鞭)。そして、“ヒステリー発作” を起こした “デカ尻” は、リトル・トリーの襟をつかむと教室から連れ出す。報告を受けた校長は、リトル・トリーを最上階の隔離部屋に連れて行く(3枚目の写真)。そして、「ジョシュア、お前は自分が何をしたか知っとるか?」と訊く。「いいえ、先生」。「それなら、それについて考える時間はたっぷりあるな」。原作では、写真自体が異なり、「うしろの鹿は前を行く鹿の背に跳び上がり」と説明されているので、明らかに交尾。だから、リトル・トリーはそれをそのまま指摘しただけ。女性教師がリトル・トリーを叩くことはなかったが、「なんて汚らわしい! このチビの私生児めが!」と怒鳴り、院長室に連れて行く。院長は、リトル・トリーのシャツを脱がせ、長い鞭が折れるまで叩き続け、折れた後も、新しい鞭で虐待を続ける。「背中から血が吹き出していた。ズボンの下に下着をはいていなかったから、ほとんどは足を伝って直に靴の中に流れ落ちた。そのため足はベトベトだ」と書かれている。刑罰は、非常識と言える残酷さだったが、その後は、「今後1週間、夕食は抜きだ」だけで、隔離部屋行きはなし。
リトル・トリーは、シーツの敷いてないベッドの上で、寒さに震えて悶々と夜を過ごす。朝になった時、リトル・トリーは部屋の隅で眠っていた(1枚目の写真、矢印は尿瓶)。目が覚めると、ベッドの下に “青く光る球” が見える。リトル・トリーは、手を伸ばして そのビー玉をつかむと、玉を通して周りを見てみる。すべてが青く見えるので、面白くて笑顔になる(2枚目の写真)〔彼は、これまでビー玉を見たことがない〕。その時、ドアが開き、1人の年上の生徒が、トレイに朝食と空の “おまる” を載せて入ってくる(3枚目の写真、右の矢印は新しい “おまる”、左の矢印はリトル・トリーが使った “おまる”)。リトル・トリーは、「ここを出られるまで、どのくらいいなくちゃいけないの?」「僕が、悪いことしたって、反省してる。校長と女の先生にそう言ってくれない」と声をかけるが、生徒は、黙々と作業を終えると、何も言わずに出て行く。原作には、隔離部屋の場面はない。
それから、何日かして、リトル・トリーは、棚の上に上がって天窓から犬の星を見る(1枚目の写真)。「祖父ちゃん、祖母ちゃん、ウィロー・ジョン、もうどのくらい経ったか分からないけど、校長がこのちっちゃな部屋に僕を連れて来て、閉じ込めたんだ。そして、僕がどんな悪いことをしたか分かるまで、ここにいろと言った。でも、僕には、分からないんだ。祖父ちゃん、僕には、もう どうしようもなくなっちゃった。家に帰りたいよ」(2枚目の写真)。それからさらに時は流れ… ある日、“デカ尻” がドアを開け、「ジョシュア」と呼びかける。「出ていいわ。今日は感謝祭〔1935年11月28日〕よ」。教師を見上げるジョシュアの顔は、一度も洗ってないので汚れ、耳の横の髪が伸びているので、半月ほど閉じ込められていたのかもしれない。原作には、隔離部屋の場面はない。
感謝祭の夜の行事は、町の若者達による “白人とインディアン” が仲良く暮らす劇。それを、生徒全員が講堂に集まって観る(1枚目の写真)。劇が終わると生徒達は、校舎の外の芝生に並び、鉄のフェンスの外の若者達に、さようならの手を振るよう、“デカ尻” が命じる。リトル・トリーは、彼らの車の間に、祖父が立って見ているのに気付く(2・3枚目の写真、矢印は祖父)。原作では、クリスマス・イブで、リトル・トリーは壊れた箱をもらう。順序は異なるが、その、恐らく数週間前、「僕は、門の外に祖父の姿を見たように思った」という一文がある。後で、それはウィロー・ジョンだったことが分かる。
リトル・トリーは、学校でできた唯一の友達ウィルバーンに、宝物の青いビー玉をプレゼントすると(1枚目の写真、矢印)、ウィルバーンがビー玉を通して景色を見ている間に姿を消す。そして、生徒全員が校舎内に入らされた後、姿を現してゲートに向かって走って行く。そして、祖父との嬉しい再会(2枚目の写真)。祖父は、「ウィロー・ジョンからお前のことを聞いた。だから、来たんだ。家に帰りたいか?」と訊く。リトル・トリーの返事は無論OK。祖父はゲートを開けようとするが鍵が掛かっているので開かない。そこで、ナイフを取り出し、鍵穴に突っ込んで鍵を壊す。そして、ゲートを開けると、入口の地面に 思い切り強くナイフを突き刺す(3枚目の写真)。「連れ戻しに来ない?」。「来るがいい」。原作では、ウィロー・ジョンが院長を何度も脅したことから、院長はリトル・トリーを預かるのを断ることにし、祖父がリトル・トリーを引き取りに現れる。映画での、「ウィロー・ジョンからお前のことを聞いた」という台詞は、原作のこの部分を意識して付けたのかもしれないが、彼はインディアン学校のシーンに一度も出て来ないので、かえって違和感がある。
ジェンキンズの店の前でバスを降り、小屋に向かって山を登っていく途中で、リトル・トリーは足に合わないアメリカ式の靴を抜いて裸足になる(1枚目の写真)。そして、「山道が感じられなかったんだ」と笑顔で言う(2枚目の写真)。それを聞いた祖父も、履いていた靴を抜いて裸足になると、「いい気味だ!」と叫んで 投げ捨てる(3枚目の写真、矢印は素足)。リトル・トリーも、「いい気味だ!」と叫んで 靴を投げ捨てる。原作と全く同じ。
小屋に着いたリトル・トリーは、祖母と抱き合って再会を喜ぶ(1枚目の写真)。自分の部屋に行くと、大事に置いておいたナイフを腰に付け(2枚目の写真、矢印)、ブルー・ボーイを連れて秘密の場所に向かう(3枚目の写真)。そのあとの、最初の日曜日。リトル・トリーは、ウィロー・ジョンに抱きついて、「ありがとう、ウィロー・ジョン」と言うが、前に書いたように、ウィロー・ジョンが具体的に何をしたのか分からないので、違和感は否めない。そして、冒頭以来、初めての独白が入る。「俺は、この瞬間のことを覚えている。俺たち4人がもう一度揃った。俺は、家に戻ったのだ」。原作では、「ありがとう、ウィロー・ジョン」の部分だけが同じ。
森の中のシーンに戻ると、再び、短い独白。「俺は、これが長くは続かないことを知っていた。残された時間は短いだろう。しかし。誰もそれを言い出さなかった」。さらに、「祖父ちゃんの足取りがのろくなったので、俺がもっとたくさんウイスキーのビンを運んだ。そのことを話題にはしなかった」(1枚目の写真)。リトル・トリーは、祖母が見ている前で、『トム・ソーヤの冒険』の “ペンキ塗り” の部分をすらすらと読み上げている。「祖母ちゃんは、学習を急がせた。祖母ちゃんが助けてくれて、夜には本を読んだ」(2枚目の写真)「役人たちは、俺を学校に戻そうとやって来たが、その度に、祖父ちゃんは 見つからないよう、俺たちを高い場所に連れて行った」(3枚目の写真)。原作では、孤児院をクリスマスに出た後、翌年の夏にリトル・トリーは7歳になる。そして、秋、ウィロー・ジョンが老衰で死亡する(映画との決定的な違い)。そして、「祖父と祖母と僕は、その後、2年間一緒に暮らした」という一文が入るので、リトル・トリーは9歳になっている。祖父の足取りがのろい、云々は、そのあとの出来事だ。祖母の学習についての記述はない。逆に、映画では、初めの方に出てきた薪割りの場面が、ごく簡単に記されている。
「祖父ちゃんが滑り落ちたのは、高い場所からだった」(1枚目の写真、矢印の方向に落下)「彼は、俺たちに、『なあに、すぐ治るさ』と言い続けたが、転落で何か大変なことが起きていて、治ることはなかった」。そして、ある日。祖母が祖父に付き添い、映画では説明は何もないが、バイオリンを持ったパイン・ビリーが疲れて寝ている(2枚目の写真)。そこに、突然、ウィロー・ジョンが現われる。祖父は、ベッドとウィロー・ジョンの間のイスの横に座り込んでいるリトル・トリーに、「帽子を持って来てくれんか?」と頼む。リトル・トリーが すぐ帽子を持って行くと、しばらく懐かしそうに見た後で、頭に被る。そして、リトル・トリーの手を取り、リトル・トリーに向かってほほ笑む(3枚目の写真)。「悪くなかった〔It's been good.〕。次は… もっと いいじゃろう〔It'll be better.〕」。リトル・トリーが、意味を測りかねていると、「また、会おうな〔Be seeing ya.〕」。その言葉を最後に、祖父の手がリトル・トリーの手から落ちて行く。臨終だ。リトル・トリーが、その手を見つめる(4枚目の写真)。そして、死んだと分かると、小屋を飛び出して行く。原作は、既に死んだウィロー・ジョン以外は、ほぼ同じ。
ウィロー・ジョンとパイン・ビリーが棺を作る。パイン・ビリーは、釘を打つ時、何度も手を打って悲鳴を上げる。そして、完成した棺に祖父の遺体を入れ、それを4人で担ぎ、リトル・トリーと手をつないだ祖母が先導し、スコップを持った2人が棺の後を付いて行く(1枚目の写真)。「俺は、祖母ちゃんが、祖父ちゃんをどこに連れて行くか知っていた。そこは、高台にある祖父ちゃんの秘密の場所だった」。埋葬の後、全員が帽子を取って、祖父とお別れをする(2枚目の写真)。「その日から間もなくして、祖母ちゃんは俺を脇に連れて行き、彼女と祖父ちゃんが如何に理解し合っているか、もう一度話してくれた。俺は悲しむべきじゃないとも。なぜなら、2人が死ねば、2人はまた一緒にいられる、そう2人の霊は知っているからだと」(3・4枚目の写真)「それが、祖母ちゃんが俺に話した 最後の言葉になった。祖母ちゃんは、その夜 死んだ」。原作では、棺を作るのはジェンキンズの息子とパイン・ビリー。後者が下手なのは同じ。埋葬の場所も同じ。祖母についてだが、原作には はっきりとは書かれていないが、祖父の死は秋の終わり、雪の降る前らしい。祖父の死後、映画では、リトル・トリーが学校から戻った後にあった “本の朗読” の場面が語られる。そして、春を迎える直前に祖母は死ぬ。だから、「その日から間もなくして」よりは、長く生きたことになる。
朝になり、リトル・トリーは、ベランダに座って涙を流す(1・2枚目の写真)。「俺が見つけたメモにはこう書いてあった。『リトル・トリー。悪くなかったわ。次は、もっと良くなるでしょう。覚えておいて、もし私たちが必要になったら、いつでも犬の星を見るのよ。私たちはそこにいるから』」。リトル・トリーは、山の斜面を登って行く。そして、高台に立つと犬の星を見上げる(3枚目の写真)。「俺は、祖母ちゃんと祖父ちゃんに尋ねた。『僕、同じくらい理解し合えるかな? 2人と一緒になれるかな?』。そして、『寂しいよ。いつも、取り残されて』とも言った」。原作でのメモには、「お前さんが来る日を、私たちは待ってるわ」とも書かれている。逆に、リトル・トリーの後半の独白に該当する部分はない。映画には祖母の埋葬シーンはないが、「翌朝、棺を作った。山の頂まで運び上げ、祖父ちゃんのかたわらに埋めた」とある。誰が手伝ったのかは書いてない。
翌朝、リトル・トリーが、これから1人でどうしようかと心配していると(1枚目の写真)、目の前にウィロー・ジョンが立っている。「俺が知らなかったのは、ウィロー・ジョンも犬の星を見ていて、祖母ちゃんや祖父ちゃんと話したってこと」。2人は、かつてないほど、しっかりと抱き合う(2枚目の写真)。「ウィロー・ジョンは、2人が、俺の教育を終える前に去ってしまい済まなく思っていて、もし 彼と一緒に来るなら、インディアンとして知るべきことのすべてを教える と言ってくれた」。リトル・トリーは、万感の思いで小屋と別れを告げ、犬達と一緒にウィロー・ジョンに付いて行く(3枚目の写真)。「俺とブルー・ボーイは、チェロキーと一緒に石油を掘り、ナバホと一緒に柵を調べ、白人の戦争に巻き込まれた。だが、どこにいようと、俺は、夕闇が迫れば 犬の星を見て、祖母ちゃん、祖父ちゃん、ウィロー・ジョンにこう言う。『待っててくれよ。まだ道を学んでいるんだ。でも、いつかあんた達に追いつくだろう。そしたら、また4人一緒になれる。霊はちゃんと知っている』」。原作では、ウィロー・ジョンはいないので、農場で働かせてもらいながら西へと向かう。そして、ブルー・ボーイを埋葬したところで終わる。何となく、後味が悪い。映画の方が、夢があっていい。