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Zerkalo 

ソビエト映画 (1975)

ピカノは20世紀を代表する画家なのかもしれないし、タルコフスキーはソ連を代表する監督の一人なのかもしれない。インターネットで「鏡 タルコフスキー」と入力すると、如何にも知ったような解説がゴロゴロと出てくる。しかし、彼らは、本当にこの映画を観て感激したのだろうか? それともタルコフスキーという名前の神々しさにひれ伏して、あるいは、「如何にも分かったように褒め称える批評家」の言葉を鵜呑みにして、酔いしれた気になっているだけなのか? 私は、セザンヌは好きだがピカノは大嫌いだ。プロコフィエフは好きだが、プーランクやサティは大嫌いだ。オースティンやディケンズは好きだが、ドストエフスキーやジェイムズ・ジョイスは大嫌いだ。そして、ロード・オブ・ザ・リング3部作は好きだが、タルコフスキーは大嫌いだ。その存在すら認めたくない。はっきり自信をもって言おう。『Zerkalo(鏡)』は、タルコフスキーの自己満足以外の何物でもない。彼を否定すると叩かれるのが怖いので祭り上げられているだけだ。私は、この作品を全面否定する。それにもかかわらず、なぜ取り上げたか。それは、1970年代の少年映画が数多くないのと、イグナート・ダニエルツァフ(Ignat Daniltsev)を紹介したかったから。また、恐らく誰も試みたことのない方法で、分析もしてみたかったから。

『鏡』についての分析は、3通りある。①全体を包括的に捉え、評論家の売り文句を並べただけのもの、②映画を少なくとも数回は観て、個々のエピソードの意味を求めようとするもの(ほとんどは途中で放棄している)、③個々の非常に細かなシーン1つ1つの背後にある(かもしれない監督の意図)を想像を膨らませ、自己解釈的に分析したもの。③で一番詳しかったのは、「新よみとき草紙」というサイトの、タルコフスキー「鏡」の『解読』1~20までのシリーズで、ダンテの「神曲」やキリスト教に立脚し、映画の中に見られると「主張」する数々の対比を羅列しながら、映画は一部の隙もない論理で構築されていると説く。私は、何れにも与しない。私がいつも頼りにするのは原作だが、この場合は、タルコススキー自らが、雑誌『Киносценарии』の1994年のNo.6号に掲載した『鏡』の初期の脚本が手がかりとなる(http://lib.ru/CINEMA/kinowed/zerkalo.txt)。この脚本を見てびっくりしたのは、映画と完全に一致したシーンも多いのだが、45節のうち、(a)映画化にあたり削除された部分があまりに多いこと、(b)映画の冒頭部分をはじめ、追加された部分も多いこと、(c)映画と同じシーンでも順番がかなり違っていることであった。映画全体の分析をするつもりなど全くないので、今回使用することにした写真(9割は子役のイグナート・ダニエルツァフの登場シーン)を時間軸で並べてみると 〔写真番号、シーン名、該当シーンの時間、時制、写真に映っている人間〕、

①a  「オープニング」(0:00:08~0:04:05)  現在  イグナート
①b  「母と見知らぬ男」(0:05:48~0:14:08)  遠い過去  マリア
②a  「作家と元妻1」(0:34:35~0:37:38)  現在  ナタリア
②b  「作家と元妻1」(0:34:35~0:37:38)  現在  イグナート
③a  「ダ・ヴィンチ」(0:42:35~0:44:13)  過去  アリョーシャ
③b  「母のバッグ」(0:44:13~0:46:28)  現在  ナタリア、イグナート
④abcd  「プーシキンの手紙」(0:46:28~0:51:01)  現在  イグナート
⑤ab  「父からの電話」(0:51:01~0:51:57)  現在  イグナート
⑥a  「初恋の人」(0:51:57~0:52:40)  過去  アリョーシャ
⑥b  「初恋の人」(0:58:44~0:58:56)  過去  初恋の人
⑦ab  「軍事教練」(0:52:40~0:58:44)  過去  アサフィヴ、アリョーシャ
⑦c  「頭にとまる鳥」(1:04:08~1:04:40)  過去  アサフィヴ
⑧a  「父の帰還」(1:06:09~1:08:24)  過去  アリョーシャ
⑧b  「父の帰還」(1:06:09~1:08:24)  過去  アリョーシャ、アクレサンドル
⑨ab  「作家と元妻2」(1:08:24~1:15:55)  現在  イグナート
⑩a  「村の家へ」(1:20:26~1:23:23)  過去  アリョーシャ、マリア
⑩b  「村の家へ」(1:20:26~1:23:23)  過去  アリョーシャ
⑪abc  「鏡のシーン」(1:23:23~1:26:31)  過去  アリョーシャ
⑫a  「帰宅」(1:33:42~1:34:42)  過去  アリョーシャ、マリア
⑫b  「ラスト」(1:42:17~1:45:57)  遠い過去  老いたマリア、アリョーシャ(5歳)

となる。映画の主人公であるアレクセイ自身は映画に顔を見せない。映画は、アレクセイの母マリアと妻ナタリアを1人2役で演じたマルガリータ・テレホワと、アレクセイの子供時代(愛称アリョーシャ)と、アレクセイとナタリアとの間の子イグナートを1人2役で演じたイグナート・ダニエルツァフの2人で回っている。上記の表で、「初恋の人」はアリョーシャの慕った年上の女性、アサフィヴは軍事教練の時の少年兵、アクレサンドルはアリョーシャの父である。さて、この順番は、初期の脚本ではどうなっていたのか〔数字は節番号〕?

①a 〔なし〕、①b 〔8〕、②ab 〔16〕、③a 〔なし〕、③b 〔21〕、④abcd 〔21〕、⑤ab 〔21〕、⑥ab 〔なし〕、⑦ab 〔24〕、⑦c 〔26〕、⑧a 〔なし〕、⑧b 〔29〕、⑨a 〔44〕、⑨b 〔45〕、⑩ab 〔18〕、⑪abc 〔19〕、⑫a 〔20〕、⑫b 〔46

の関係にある。冒頭のTVでの催眠術のシーンは、後からの添付ということは想像がつくし、その後は、⑧まではシナリオの順番になっている。⑨で急に飛ぶのは、 30番台の内容は映画に使用されなかったり、バラバラなイメージとして分散使用されていりため。そうなると「村の家へ」から「鏡のシーン」へと続く重要な場面(⑩~⑫a)が、1820と、最初はもっとずっと前に置かれていたことに驚かされる。評の1つに「鏡に映った自己の姿・深奥を観照する中に、『神の赦し 彼らの営みを見守る神、が顕現している』という、時空の秩序を越えた情景のなかでクライマックスを迎える」と書かれたものがあるが、シナリオのこの部分には、「Я остался один, сел на стул против зеркала и с удовольствием увидел в нем свое отражение. Наверное, я просто отвык от зеркал. Оно казалось мне предметом совершенно ненужным и поэтому драгоценным.」(私は1人残され、イスに座ったが、正面に鏡があり、そこに映った自分自身を見て楽しんだ。私は、それまで鏡など見たことがなかった。それは完全に不要なものでしかなかったが、今や貴重な存在となった)、「Мое отражение не имело с ним ничего общего. Оно выглядело вопиюще оскорбительным в резной черной раме. Я встал со стула и повернулся к зеркалу спиной.」(鏡に写った顔は、結局ただそれだけのことだった。彫刻を施した枠の中に納まった姿にいらいらし、私は席を立って、鏡に背を向けた)とあるだけだ〔特に、後半は否定的〕。 もう1つの重要なシーン「プーシキンの手紙」について、『解読』では見知らぬ老婆を「ロシア皇帝」に見立てているが、シナリオでは「Незнакомка」(見知らぬ女)としか書かれていない。映画の中の鳥、特に、ラストでアリョーシャ(5歳)が叫ぶ場面。『解読』は、「少年は大きな声で、鳥のように鳴く。そう主人公は鳥になったのである」と評し、鳥は「聖霊」であると解釈する。しかし、シナリオの最後は、「И в этот момент мне вдруг стало спокойно, и я отчетливо понял, что МАТЬ бессмертна.」(そして、その瞬間、私の心は和み、母は永遠に不滅だと悟った)となっていて、母に対する赦しの言葉ではあるが、鳥とは何の関係もない。『鏡』を評して、黒澤明が「脈絡が無いのが思い出なのだから、この映画は考えずに鑑賞すればよいのである」と言ったとされるが、言い得て妙だと思う。

なお、この映画は、カラーの部分と白黒の部分が混在している。いろいろ考えたが、それに意味付けするのは不可能だと悟った。例えば、①現実はカラー、虚実や夢は白黒と仮定しても、②楽しい思い出や夢はカラー、嫌な思い出や夢は白黒と仮定しても、何れかのシーンで仮定は破綻する。一番重要な対比は、「作家と元妻1」(カラー)と、「作家と元妻2」(白黒)の関係だ。登場人物は、何れも、父アレクセイ(声だけ)と、母ナタリアと、1人息子のイグナートの3人だけ。しかし、前者では3人の関係はそれほど悪くないのに、時間軸では少し後になる後者では険悪なムードが漂う。シナリオでは、「作家と元妻2」は、ラスト2に置かれている。それは、ナタリアがアレクセイに向かって言う 「お母さんが、あなたのために人生を犠牲にしたことへの罪悪感と… それは、どうしようもないことなの。お母さんは、あなたにもう一度子供に戻って欲しいだけ。そうすれば、面倒を見たり守ったりできるから」という言葉に続き、 ラストでの「老いた母に、子供に戻ったアリョーシャが付き添うシーン」〔母への贖罪〕へと結びつけたかったからであろう。一方、映画では、「作家と元妻2」の終わりからラストまで30分近くある。ラストに一番近いのが有名な「鏡のシーン」。シナリオでは重視されていなかった「鏡のシーン」は、自らの生き様と母との関係を追体験させる場に昇格し、ラストにつなげたのであろう。ただし、「鏡のシーン」に関する先の引用では「彼は母を許している」としてるが、シナリオの意図からして全くの逆で、「彼は母に許しを請うた」のである。とまあ、判ったような、判らないような分析をしてみたが、結果的に判ったことは、『鏡』は、映画を観ても、脚本を読んでも、意味がつかみにくく、確たる正解が見えてこないことだ。だから、最初に戻って、私は、「タルコフスキーは大嫌い」なのだ。

イグナート・ダニエルツァフは、出演時恐らく12歳。出番の数は多いように見えるが、一瞬だけのこともあり、長いシーンでも動きはほとんどなく、台詞もきわめて少ない。整った顔立ちだが、鼻の下のほくろが目立つ。1人2役なのに、どちらの役の時もほくろが付いている。そんなことはあり得ないので、出番の少ない方の役で、ほくろを目立たせないように出来なかったものか?


あらすじ

イグナートがTVのボタンを押す。今と違って、なかなか画像が出てこない(1枚目の写真)。TVで放送されていたのは、言葉をなかなか口に出せない障害のある青年を、女医が一種の催眠療法を使って治す場面。ここで重要なのは、こういった治療法が可能かどうかという点ではなく、「障害によって巧く表現できない意志」が、精神の解放によって可能となったという状況である。これは、映画全体の到達点、すなわち、「障害によって巧く再現できない記憶や情景」が、主人公が追体験する様々な事象により、明白な事実として再認識できるという状態を模式的に表している。オリジナルの脚本にはなかったもので、恐らくは、映画の意図を分かり易くするために付け加えられたものであろう。このあらすじは、イグナート・ダニエルツァフ(アリョーシャ役、イグナート役)の主演場面に限定して紹介するが、全体のストーリーに関連する登場事物の重要な場面5ヶ所では例外を設ける。その最初が、冒頭のTVが終わり、クレジットタイトルが出た後で、最初に表示される「母と見知らぬ男」の8分余にわたるシーンに登場するマリア〔アレクセイ(愛称アリョーシャ)の母、アレクセイの父アクレサンドルの妻〕が結婚して6年後の姿。アリョーシャは5歳になっている。アクレサンドルは戦争で出征中。マリアは、田舎にあるアクレサンドルの父の家に2人の子供(アリョーシャとその妹)と一緒に3人で暮らしている。ある日、そこに見知らぬ男がふらりと立ち寄る。初めは、道を訊いただけなのに、妙に慣れなれしい態度を見せる男。適当にあしらっていたマリアだったが、邪険さはない。男が去った後、遠くに行くまで後を見続けている(2枚目の写真)。その後に流れる長い詩の最初の1行は「我々は、出会いの一瞬一瞬を、天啓のように祝った」〔男の声なので、「我々」と訳した〕。マリアと見知らぬ男の間に流れた時間の空気をうまく表しているような気もする。マリアはアリョーシャが12歳になり、アクレサンドルが戦争から戻ると間もなく離婚するが、それを暗示しているようにも見える。また、映画の後の方で、アレクセイとその妻ナタリアとの間で交わされる会話の中で持ち出される再婚話とも関連があるようにも見える〔マリアとナタリアの類似性〕。
  
  

1枚目の写真は、マリアとナタリアの1人2役を見てもらうため。先のマリアと比べると、ナタリアは別人のように見える。この場面は、シナリオの16節、映画では印刷工場でのマリアの「校正ミス思い込み騒ぎ」の後に来る。アラバット通りの大きくて手入れされていないナタリアのアパートの廊下の真ん中にある鏡の前で、アレクセイとナタリアの会話が始まる。この時点では、2人はもう離婚している。アレクセイ:「忘れた? 僕はいつも言ってきた、君が母に似てるって」。ナタリア:「だから 別れたのかも。イグナートがどんどんあなたに似てくるようで怖いわ」。「そうかい? でも、なぜ怖いんだ?」。「いいこと、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ、私たち一度も人間らしく話したことないじゃない」。因みに、アレクセイ・アレクサンドロヴィチは、有名なロシア大公(1850-1908)と同じ名前。日本語字幕では外されている。「子供時代のこと、母のことを思い出すと、なぜか、母は君の顔をしてる。理由は分かってる。2人とも悲しげだからだ。君も母もだ」。「悲しげって?」〔日本語字幕はжалкоを哀れと訳しているが、面と向かってそんなことを言うだろうか?〕。ここで、2人の息子イグナートが開いたドアのところでワイングラスを持っている姿が映る。「イグナート、ふざけるんじゃない。グラスを置くんだ」。その後、さらに会話は続く。「あなたは、誰とでも、普通の生活を送れない」。「そうだろうな」。「気を悪くしないで。あなたは、自分がいれば他人も幸せになるはずだ、と信じ込んでるだけなの」。「女手で育てられたせいかもしれないな。とにかく、イグナートを僕のようにしたくなかったら、すぐ結婚することだ」。「誰と?」。「知るはずないだろ。イグナートを僕に寄こしたっていい」。「なぜ、あなたはお母さんと仲直りしないの? 咎めるのなんかやめて」。「僕が? 咎める? 何を? 母が、僕を幸せにできると思い込んでいたからか?」……「ところでお願いが。今、アパートを改装してるでしょ。イグナートがあなたの所で1週間暮らしたいって。どうかしら?」。「いいとも、喜んで。楽しみだな」(2枚目の写真)。後半の2回目の会話との違いを比較して欲しい。
  
  

映画は、この後、ソ連が介入したスペイン内戦、成層圏気球USSR-1の記録映画などが5分間入り、いきなりダ・ヴィンチの画集を延々とめくる画面に切り替わる。めくっていたのはアリョーシャ(1枚目の写真)。つまり過去の話だ。シナリオではダ・ヴィンチは2回、しかも物語に無関係に出て来るだけなので、なぜこのシーンがあるのかは不明。しかも、この直後に、如何にも連続したシーンのようにナタリアが現れ、「イグナート」と呼びかける。アリョーシャとイグナートは、顔ではなく、服装でようやく区別できる程度なので、この場面転換はきわめて判りにくい。母は、アパートから急いで出かけたがっている。そして、急ぐあまり、うっかり廊下でハンドバッグを落としてしまい、中味が床に散乱する。「何てこと、いつもこうね、急いでる時に限って… 拾ってよ、時間がないの」。散らばったコインを拾い始めるイグナート。かなり拾って、次のを取ろうとした瞬間、手を引っ込める。「電気が…」(2枚目の写真)。「何?」。「電気がビリッと」。「電気?」。「前に一度あった。コインに触った時に。ここじゃないけど」。「よく聞いて、変なこと言わずに拾うの。いい?」。ずい分、そっけなくて、自分勝手な母親だ。
  
  

母が出て行くのをじっと見つめているイグナート(1枚目の写真)。母は、「大人しくここにいなさい。もし、マリア・ニコラエヴナ〔祖母〕が来たら、どこにも行かせちゃだめよ」と言ってドアを閉める。イグナートが振り返ると、誰もいないはずの部屋で、陶器の触れる「カチャ」っという音が聞こえる。何とそこには、2人の婦人がいた。1人は40歳くらいの女性でテーブルに向かって座り、老女の召使が紅茶を用意している。女性は、イグナートに「入って。いらっしゃい」と声をかける。そして、「本棚の3段目の一番端にあるノートを取ってちょうだい」と頼む。指定通りの場所にあったものを手に取ると、「ありがとう。では、リボンを挟んだページを読んでもらえる」。イグナートはおとなしく読み始める(2枚目の写真)。内容は、プーシキンが、1836年、死の前年に、ピョートル・チャーダーエフ〔哲学者〕に宛てた手紙。手紙は、「私は、名誉にかけて誓います。如何なることがあろうとも、神が与え給うた祖先の歴史と異なるような状況や変化が、わが祖国に起きることは望んではいません」という文章で終わる。ロシア正教への絶対的信頼を語った内容で、「宗教は毒酒である」と言葉を残したレーニンに始まるソ連の共産主義化を全面否定するような内容の手紙だ。読み終わって 次に何をしたらいいか、女性の顔を窺うイグナート(3枚目の写真)。シナリオには「ドアベル」と書いてあるが、映画では、女性がカップを置く音以外何もしないのに、女性は「出てちょうだい」と来客を告げる。イグナートがドアを開けると、そこにいたのは祖母。シナリオにも、はっきりマリア・ニコラエヴナと書いてあるし、顔も祖母そのものだ。しかし、祖母は、「間違えたようね」と言って去ってしまう。疑問①。なぜ、「間違えた」と言ったのか? 疑問②。なぜ、イグナートは知らない振りをしたのか? もちろん、その前に、そもそも、この「いないはずの謎の女性」は誰か、という大きな疑問もある。ここで1つ示唆に富む「偶然の一致」がある。前に書いたように、イグナートの「父のアレクセイ・アレクサンドロヴィチは有名なロシア大公(1850-1908)と同じ名前だが、祖母のマリア・ニコラエヴナはニコライ2世皇女(1899-1918)と同じ名前なのだ。これでは、あまりに偶然が重なり過ぎている。しかも、ある配役表には、謎の女性を「アレクセイ・アレクサンドロヴィチの第2夫人」と書いたものもある。こうした名前の使用は、プーシキンを引用してソ連の体制批判を行ったことを含め、何かを暗示しているのかも知れない〔断定はしたくない〕。さて、祖母がドアを閉め、イグナートが部屋に戻ると(4枚目の写真)、そこには誰もいない。とまどうイグナート。テーブルの上には、ティーカップが残していった円形の水蒸気の後だけが残っている。
  
  
  
  

ここで、電話がかかってくる。イグナートが受話器を取る。電話は父からだった。「イグナートか? 調子はどうだ? 順調か?」(1枚目の写真)。そして、「マリア・ニコラエヴナは、来てないか?」。「ええっと、まだ。間違えた人は来たけど」。母が出て行ったシーンと、この電話のシーンが現実だとすると、プーシキンの手紙を読ませた謎の女性などは元から存在せず、祖母が「間違えた」と言って帰ったのも、なかったことになる。だから、イグナートは、父に「祖母は来なかった」と明言したのだろう。父:「何かしてたんだろうが、あまり散らかすなよ。誰か呼ぶとか… 友達はいるんだろ?」。「学校の? あんまりね…」。「私はお前くらいの歳で恋に目覚めてたぞ」(2枚目の写真)「戦争中だ。赤毛で、いつも唇が切れてた。砲弾でけがをした教官も 彼女に気があったみたいだ。聞いてるのか?」。
  
  

ここで、場面は父の初恋の思い出へと流れるようにつながる。12歳のアリョーシャ比べれば、ずっと年上の女性だが、アリョーシャは彼女の姿をずっと目で追っている(1枚目の写真)。恋と言っても、きっと一度も話しかけたことのない憧れのようなものだったのだろう。女性の下唇が切れているのは(2枚目の写真)、寒さによる乾燥、ひどい食生活、戦争によるストレスなどのせいに違いない。
  
  

この後、アリョーシャも参加した軍事教練のシーンが6分間続く。ただし、ここでの主役はアリョーシャではなく、アサフィヴ。結構重要な役なのだが、映画のクレジットにも出て来ない。シナリオに書いてあるので(19ヶ所もある/イグナートの36ヶ所の半分)、やっと名前が分かった程度だ。一番印象的なのが、「回れ右」のシーン(1枚目の写真、矢印はイグナート)。教官の号令で他の教練生が180度回れ向きをして反対を向くのに、アサフィヴだけが、足を軸に360度回転して元の向きに戻る。「回れ右(Кругом)、と言ったんだ!」。「僕、回りました」。「基本教練は受けたのか? 合格したのか?」。アサフィヴは、それには答えず、「“Кругом”というロシア語は“回転”を意味します。だから、僕はその通りにしました」。これは屁理屈ではないらしい。あるサイトには、「ロシアでは、号令は“Кругом”で、単に“回れ”の意味」と書いてあった。因みに、軍隊用語としての「回れ右」は、英語では“Right about-face”、フランス語では“Demi-tour droite”。そこには、「右」と「向きを変える」という単語が入っている。次のシーンで、教官は教練生に数発ずつ銃弾を配布する。そして、一番年長の ボーっとした生徒に、「TOZ-8ライフル(22口径の単発ライフル)の主要なパーツを言ってみろ」と質問する。生徒は「銃床…」、「銃口…」と、ぼそぼそと答える。「銃口なのは お前だ」。この意味は不明。原語は「Сам ты дуло」。WEBサイト「CoolJugator: The Smart Declinator in Russian nouns」には、“дуло”の正しい英訳例が13個載っていて、そのうちの1つに、「It's you who's a muzzle.」が正しい訳だと書いてある。日本語字幕の「銃口が部分か?」は誤訳。その教官の言葉を受けて、イグナートが「じゃあ、銃口って 何なんです?」と訊く(2枚目の写真)。訓練のシーンで最も印象的なのは、教練生が冗談で模擬手榴弾のピンを抜いて放ったのを見て、教官が身を挺して生徒たちを守ろうとした場面。ただ、少年兵の教練の場に本物の手榴弾が置いてあったはずはないと思うのだが… このシーンの後、1943年11月、クリミアのシヴァシュ干潟(別名、腐海)を泥まみれになって兵器を運ぶ兵士達の姿が3分以上続き、アサフィヴが雪の丘を登る。その後、空爆や原爆実験の映像がさらに1分弱流れ、3度目のアサフィヴのシーン。丘の上に辿り着いたアサフィヴが立っていると、1羽の小鳥が飛んできて、帽子の上にとまる(3枚目の写真)。シナリオには、鳥は「生と死のシンボル」とだけ書かれている
  
  
  

戦争が終わり、アリョーシャの父が帰還する。その時アリョーシャは、林の中でダ・ビンチの画集を見ていた(1枚目の写真)。家から大きな声で「マリーナ!」と叫ぶ父の声。その声を聞いて、林の中にいた兄と妹は家まで駆けつける。疑問①、マリーナとは誰か? クレジットにはない。妹の名かもしれない(タルコフスキーの妹の名もマリーナ)〔父は、既に妻マリアには会っている〕。疑問②。父はこの名を2度呼ぶが、まず、息子の名前を呼ぶのではないか? 映像として映るのも、アリョーシャが父にすがって泣く姿だけなのだから。この点、シナリオでも、何の断りもない。訳の分からないことが多すぎる。
  
  

父とアリョーシャのシーンの途中から、バッハのヨハネ受難曲(BWV.245)の第2部の第34曲「レチタティーヴォ」が流れ、ダ・ヴィンチが描いたフィレンツェ貴族ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像画が映される。歌詞は、国井健宏氏の訳によれば、「♪そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり岩が裂け墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」というもの。肖像画が消えると同時に画面はモノクロになり、ナタリアの顔が映る。場所は、シナリオによれば、アレクセイの部屋。部屋にいるのは、アレクセイとナタリアとイグナート。3人の2回目の会話だが、こちらの方が時間軸では後になる。ナタリア:「あの子 寂しがってるわよ」。「ここで、一緒に住まわせたらどうだ?」。「本気なの?」。「前に そうしたがってるって、言ったじゃないか」。「今頃 何を言い出すの」。「好き勝手な都合で口にしたと思ってるのか? 本人に聞いてみればいい。決めさせるんだ。君も、その方が 受け入れ易いだろ?」。そして、父は、直接イグナートに尋ねる。「私と一緒に暮らした方がいいんじゃないか? ここに留まって、一緒に住むんだ。学校は変わるがな。前に そんなこと言わなかったか?」。「そんなこと言った? いつ? まさか、言わないよ」(1枚目の写真)。ずい分すげない返事だ。その後の、アレクセイとナタリアの長い会話の中で一番重要なものは、元夫のアレクセイと老いた母マリアの写真を見た後で、ナタリアが投げかけた言葉だ〔冒頭の解説でも引用した〕。「お母さんに 何を期待してたの? どんな関係? 子供時代と同じような関係? それは不可能よ。あなたは子供じゃないし、お母さんも昔と同じじゃない。お母さんが、あなたのために人生を犠牲にしたことへの罪悪感と… それは、どうしようもないことなの。お母さんは、あなたにもう一度子供に戻って欲しいだけ。そうすれば、面倒を見たり守ったりできるから」。イグナートは部屋から出て行き、中庭のような所で焚き火を始める。それを見た父は、「見てみろ、僕らの劣等生が何かを燃やしてるぞ」(2枚目の写真)。「成績のことで皮肉を言うのはやめなさいよ」。父は、この後も、息子の悪口を並べる。一緒に住むことを拒否された腹いせか。焚き火の話題は、会話の最後にもう一度現れる。ナタリア:「ねえ、思い出せないの。茂の火の中に現れたのって誰だった?」。「知らないな、覚えてない。イグナートじゃあない」。「あの子、士官学校に入れるべきかしら?」。「そうだ、モーゼだ。預言者モーゼは燃える茂みの火の中に天使を見て、民を導き海を渡らせたんだ」。「何故、私には何も起きなかったの?」。その後、場面はカラーに戻り、アレクセイが自分の夢について、独白のように語る。「僕は、いつも同じ夢を見る。40年前に生まれた、あの ほろ苦い祖父の家に、僕を 無理矢理戻そうとするかのように」。しかし、その夢はアレクセイにとって嫌なものではなく、「『不可能なことなど何もない未来がある』と分かり、幸せな気分になれる子供時代」への憧れでもある。
  
  

映画のラスト近くで13分にわたって続く過去の戦時中の疎開シーン。食べるものに困ったマリアは、アリョーシャを伴い、雨の中、近くの農家を訪れる(1枚目の写真)。写真ではよく見えないが、アリョーシャは裸足だ。それだけ経済的に困っていることを示している〔しかし、父の帰還のシーンでは靴は履いていた〕。ノックで現れた女性に母は疎開のことを話すが、なかなか中には入れてもらえない(2枚目の写真)。母が、「実は、お願いがあって、女同士の秘密の話で来たのです」といわくありげに話すと、女性の方も、疎開者から何か巻き上げられるかと期待して、やっと中に入れてくれる。ただし、洗ったばかりの床を泥足で汚されると困るので、アリョーシャは足を布で拭わされる。そして、母は、「ここで待ってなさい。すぐに終わるから」と言って、女性と2人だけで別室に入って行く。
  
  

薄暗い部屋に1人取り残されたアリョーシャは、イスに座って待っている(1枚目の写真)。そのうち、左側の丸太の壁に掛けられた鏡に気付く。鏡の中に映る自分の顔をじっと見つめるアリョーシャ(2枚目の写真)。シナリオでは、冒頭の解説に原文を引用したように「鏡に映った自分自身を見て楽しんだ。私は、それまで鏡など見たことがなかった。それは完全に不要なものでしかなかったが、今や貴重な存在となった」と、自分の顔をじっと見つめ続ける。カメラは執拗に鏡に写るアリョーシャの姿を捉え、次に、鏡を見るアリョーシャの姿に切り替わる(3枚目の写真)。シナリオでは、「鏡に写った顔は、結局ただそれだけのことだった。彫刻を施した枠の中に納まった姿にいらいらし、私は席を立って、鏡に背を向けた」とだけ書かれ、このシーンは全く重視されていない。しかし、映画では、この無言のシーンが1分以上も続く。そうなれば、そこに何らかの意図があると思わざるをえない。問題は、このシーンが①アリョーシャの過去に実際にあったことなのか、②30年後のアレクセイが夢の中で見たか、過去を振り返る中で想像したものなのか、という点だろう。シナリオは恐らく①のシチュエーションだが、映画では②のシチュエーションであることは間違いない。だから、この場面が終わり、母と一緒にこの家から出て行った後、ラストシーンでの母への回想、そして、贖罪へと直結する。この「鏡のシーン」は、現在のアレクセイが、過去の自分と母の関係をじっくりと見直し、再認識するきっかけをつくったもの、と解釈することができる。
  
  
  

母が女性に「物々交換」しようと差し出したのは、トルコ石のイヤリング。女性はそれが気に入り、食事を食べさせようとしたり、鶏を持たせようとするが〔母に首を切らせようとする〕、母は結局断る。映画では、首を切ったように勘違いしやすいが、シナリオには、「気が変わったわ。安すぎるもの」と言い訳をして、逃げるように立ち去ったとある。確かに、家を出てから2人で川沿いに歩くシーン(1枚目の写真)でも、母は手に何も持っていない。因みに、この写真だと、アリョーシャが裸足なのが良く分かる。アリョーシャの登場シーンはこれが最後となる。その後の映画のほとんどは、より過去のシーン、アリョーシャが5歳だった時の非現実の夢に終始している。なぜ夢かというと、アリョーシャと一緒にいるのは、当時の若きマリアではなく、「現在」の年老いたマリア・ニコラエヴナだからだ。5歳のアリョーシャがマリア・ニコラエヴナと仲良く一緒に過すということは、これまで、遺恨を感じ意図的に会うのを避けてきた自分の態度を恥じ、母に許しを請う姿を象徴的に示しているのであろう(2枚目の写真)。
  
  

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